2<逃がした魚と、Dの絶望>
「結局引き受けるの?」
私の問いに、七緒は難しい顔をして首をひねった。
「うううーん……」
彼の手には『月刊 中学柔道』。
すっかり山上のファンになってしまったらしいクマ吉くんの情熱は相当なもので、半ば押し付けるように七緒に雑誌を渡し、「朝のホームルームに遅れる!」とさっさと隣の教室に引っ込んでしまった。
「受け取ったもんはしょうがねぇからな……。正直めんどいけど」
自分の机の上に鞄と雑誌を置きながら、七緒が軽く溜息をついた。
「私、一緒に行こうか?」
いや、まぁ、私がついていくことによって七緒の面倒くささが軽減されたり何か楽しさを提供できるわけでは決してないですけどね。でも私も一応山上とは顔馴染みだし、偶然この場に居合わせた者として、任務を共有することくらいはできるじゃない?
この申し出に、七緒はすぐには返答しなかった。何とは無しにパラパラと『月刊 中学柔道』をめくり、山上のページを眺め始めた。
「いや、いいよ、大丈夫。わざわざ会いに行くつもりないし。今度何かで会ったときにでもついでに頼むから」
「あ、そう」
確かにクマ吉くんも「本当にいつでもいいから! 頼めるときでOKだからな!」って言っていたし。わざわざサインをお願いするためだけに約束を取り付けることもないのだろう。
「しかし山上、まるで大スターだねぇ」
私も雑誌を覗き込む。
いくら強いとはいえ、まだ日本に帰ってきて半年ほどの山上だから、こちらでの試合数はそんなに多くないはずなのに。彼ひとりのために雑誌でこれだけのスペースが割かれるとは驚きだ。本当に、期待の新星なのだろう。
4枚のスナップ写真を眺めた後、下部のインタビューにも目を通す。
──日本の中学柔道界に現れるやいなや、個人でも団体でも優秀な結果を出し今大注目の山上くんですが。ずばり強さの秘訣は?
──『今年の夏の大会で良い結果を残せたのも、僕一人の力じゃありません。支えてくれた家族や部員や友人、顧問の先生などがいてくれたからこそのことです。周りの人が与えてくれるパワーが、試合でも大きな原動力になっています』
──このように自分に期待の目が集まることについてはどう思いますか?
──『有難いことです。応援してくれるかたが増えたのは、とても嬉しいです。まだまだ未熟な僕ですが、これからも周りのかたの期待を裏切らないよう精進していきたいと思います』
あらあら。しっかりしたこと答えているじゃない。これは読者の好感度高いぞ。
同じようにインタビューの文字を目で追っていたらしい隣の七緒が、ふいに、私を見つめニヤリと笑った。
「逃がした魚はでっかいぜ、って奴だな」
「そっ……そんなこと思ってるわけないでしょ!」
私が猛反発しても、七緒は全く動じることなくケラケラと笑っていた。
くそっ。傷付くとか以前に、ムカつく。何なの、この意地悪さ!
確かに、山上って思っていた以上にすごい奴だったんだなーという感心はある。大いに尊敬もしている。だからといって「あーん、あのとき告白を断るんじゃなかったわ。惜しいことした。私のバカバカー」なんてお手軽な気持ちで思うわけがないじゃない。
だって私はもう5年もあんたが好きなんだからな! 私のしつこさをナメるなよ!
……なんて言えるはずはもちろんなく、私は歯を食いしばって幼馴染みを睨みつけた。
「──まぁ、それは冗談として。」
と、笑顔を引っ込めて七緒。
「話変わるけど、心都、昨日の“お呼び出し”はどうだった?」
「うっ……嫌なこと思い出させてくれるね」
ぐらぐらと燃える怒りから一変、私の心は一気に暗く沈み込んだ。
昨日の放課後、私は進路指導担当の教師から特別に呼び出しを受けた。理由はもちろん、突然の進路変更。
狭くて暗くて何やらじめじめした進路指導室(ここから出てくる生徒はみんな目を真っ赤にさせているから通称「うさぎ部屋」)で、たっぷり2時間の説得コースを堪能したのだった。泣きはしなかったけど、その日の夢でもう一度同じ場面を見るくらいには心が追いつめられた。
「やっぱり反対されたよ。無謀だって」
「そっか。……予想してたとはいえ、そうハッキリ言われると結構キツいよな……。俺も、夏休み前の個人面談でそんな感じだったけど」
「……うん」
「……お前、まさか、心折れてんの?」
七緒が少し心配そうに、私をじっと見つめた。どうやら私、そうとう暗い顔をしていたらしい。
慌てて両手を振る。
「まさか! もともとそういうこと言われるってわかってたし、こんなことで絶望してたらキリがないよ。それに、先々週学校で受けた模試も、結構手応えあったし! 無謀じゃないと自分では思ってるもん!」
これは本当だ。別に、七緒に心配かけるのが嫌で無理して強がっているわけではない。
夏休み中の夏期講習通いの成果が出たのか、最近わりと受験勉強が好調なのだ。以前は「超無謀」レベルだった有坂高校も、今はもしかして「もう少し頑張れ」レベルくらいにはなっているのではないだろうか。今日明日あたりに返ってくる予定の模試の結果も、楽しみにすら思える。
何より、私は私を信じられる。──いや、正確に言えば、「七緒が信じてくれた私のことを、私自身も信じられる」。
「だから、大丈夫! 心は折れてませーん」
「そう。なら良かった」
七緒がニッと笑う。
夏休み終盤のあの日──サイダーで乾杯しながら我が家の縁側で誓った、無謀チャレンジャー同士の「負けんなよ」を、七緒は忘れてはいないようだった。
それが嬉しくて、私もつられて微笑んだ。
──が、しかし。
「でぃ、D……」
たった今返却されたばかりの模試の結果を、私は呆然と眺めた。
「うそ……」
教室内は、それぞれが自分の結果に一喜一憂するざわめきに支配されて、私の蚊の鳴くような呟きは誰の耳にも残らず消えた。
手元の紙の左上に示された結果は、何度見てもD判定。その横に機械的にプリントされた『志望校変更の余地あり』の文字。
自分なりに、なかなか手応えを感じたはずの模試だった。さすがにまだA判定とまではいかなくても、Bくらいには達しているかなーなんて期待を描いていたりした。それが、このザマだ。
血の気が引く。手がぶるぶると震える。
「心都、どうしたの。白目になってるわよ」
私の異常な動揺具合に気付いた美里が、声をかけてくれた。
「み、美里……」
「大丈夫?」
私は美里の問いに即答できず、目を泳がせまくってしまう。
ついさっき美里がA判定の模試を伏せるところを偶然見てしまった。そして、斜め前に座る七緒がB判定の紙に目を通すのも(昔から目と耳だけは良いのだ)。
そりゃあ、そうだよね。もう中3の秋だ。いまだにD判定のパッパラパーなんて、きっと私だけってなものだろう。
黙り込む私を、美里がますます心配そうに覗き込む。
とても「いやぁ、実は今回D判定で……」だなんて言えない。
「へ、平気だよ。ちょっとお昼ご飯食べすぎたみたいで……」
「……そうなの? 保健室行く?」
「大丈夫! 今ゆっくりと徐々に消化されつつあるから! ありがとー」
そう答えながらも、頭の中では不安と絶望がかき混ぜられている。
どうしよう。どうしよう。
……どうしよう、だなんて。そんなの決まっている。
このままでは駄目なことがわかったのだから、勉強を今以上に頑張る。それが無理なら志望校を変える。
選択肢は2つ。ぐだぐだと思い悩む問題ではない。へこんで悩むその時間すら勿体ない。
あぁ、だけど、頭ではそうわかっているけど、それでもやっぱり「D」の文字が瞼の裏に焼き付いて、瞬きをするたびチラついて離れない。心が重くなる。
つい数時間前に、七緒との誓いを確かめ合ったばかりなのに。
──私は本当に大丈夫なのだろうか?