13<痛みと、シンドローム>
禄朗が、プリント1枚片手に私たちの元を訪れたのは、それから2週間後のことだった。
「七緒先輩ーッ! これを見てほしいッス!」
昼休み。相変わらず少しも臆することなく上級生の教室に入ってきた彼は、七緒へ極上の笑顔を向けて言った。その後ろには華ちゃん。
「禄ちゃん、もう少し静かにしなきゃ……」
そう彼をたしなめながらも、その表情はどこか嬉しそうだ。
差し出されたペラ紙を七緒が手に取って眺める。若干のデジャブを感じながら、私もそれを覗き込んだ。
「2年1組進藤禄朗、県内実力テスト学年順位……4位!?」
七緒と私の声が見事にハモッた。
あの忌々しいカンニング疑惑を晴らすため有言実行すると誓った禄朗だけど、本当にこんな超上位成績を収めてしまうなんて! 正直言って予想以上だ。
七緒も目をぱちくりさせながら禄朗の肩を叩く。
「す……すっげぇな禄朗! ごぼう抜きどころじゃねーじゃんか」
「へっへっへ。やっぱり俺ってやれば出来るタイプなんスよねー」
鼻高々、といった感じで禄朗が胸を張った。
だけどその尊大な態度に実力が伴っている今、全く「偉そうで嫌な感じ」には見えない。
──こいつ、もしかしてかなりすごい奴なんじゃ?
「華ちゃんはどうだったの?」
「私は3位で、総合得点は禄ちゃんより10点高かったんですけど……私が間違えた問題を禄ちゃんがいくつか正解してたので、カンニング疑惑は晴れました」
嬉しそうに言う華ちゃんに、禄朗が向き直った。
「お前やっぱり頭いいんだな、さすがだよ。……あーでもすげぇ悔しい。今回は総合点で負けたけど、次はぜってー抜かしてやるからな」
「ふふ。私だって次も頑張るもん」
……なんなんだ、この爽やかに切磋琢磨し合うスーパー優等生カップルみたいな会話は。
私は眩しさに目がくらんでしまう。学年3位と4位がここに……。おふたりさん、揃いも揃ってなんて優秀なことだろう。
だけど衝撃から一歩遅れて、今度はじわじわと嬉しさがこみ上げてきた。
予想以上にすごすぎる結果だったけど、とにもかくにも、2人の疑惑はきれいさっぱり晴れたのだ。
「良かったね、2人とも!」
「はい。先輩方、本当にありがとうございました」
華ちゃんが丁寧に頭を下げる。
今回ほとんど何もしていないに等しい私と七緒は顔を見合わせて、「お互い役立たずだったよねぇ」と目で話すと、苦笑いをした。
ううむ。この子たちに負けないように、受験勉強、頑張らないとな。
「あ、そうそう。七緒先輩。俺、こんな面でも1つ賢くなったんスよ」
と、禄朗が唐突に、自らの制服の胸ポケットから何か取り出した。
ジャーンと自慢げに掲げたそれは、生徒手帳。我が校の生徒手帳は学年ごとに色が違う。1年生は黄色、禄朗たち2年生は赤、そして私たちは青だ。
禄朗の髪の毛と同じ濃い赤色の表紙をめくった1ページ目に挟まれていたのは──七緒の写真、だった。
「やっぱり先輩との思い出の写真を肌身離さず持ちたいっていう気持ちは変わんねェんスけど、この間みたいにアルバムまるまる1冊盗られるなんてことがあったらリスク高すぎじゃないッスか。だから俺、考えて気付いたんス! こうして日替わりで毎日1枚ずつここに入れて写真を持ち歩けばOKなんだって!」
「……」
禄朗の瞳には七緒に対する尊敬、敬慕が痛いくらい真っ直ぐに表れている。だからよけいに七緒も突っぱねづらいし、また妙な重圧も感じるんだろう。
わかる、わかるよ君の気持ち。
遠い目をして押し黙る幼馴染みの肩を、私は励ましの意味を込めてポンと叩いた。
そんな微妙な空気など全く関知しない禄朗は、生徒手帳を大事そうに掲げ持ったまま、得意気に語り続ける。
「これ我ながらナイスアイディアだと思うんスよねー。お守りっつーか、魔除けっつーか。持ってるとパワーが出てくる気がするんスよ。へへっ、七緒先輩が声も出ないほど感動してくれるなんて、自分も写真撮った甲斐がありましたッ!」
「……変態」
思わずポロリと出た本音。私は小さな声で言ったつもりだけど、禄朗の耳にはバッチリ届いたようだった。
禄朗が鬼の形相で私を睨む。
「んだとボサボサくそ女! テメェ今なんつったぁ!?」
「変態に変態って言って何が悪いの? 変態変態変態!」
「はっ。常に変態みたいな顔してるお前にだけは言われたくねぇよ!」
私にはわかる。恐らく禄朗は、私が七緒についてニヤニヤと語るときの「顔」のことを言っているのだ。奴の面白がっているような蔑んでいるような憎らしい笑みを見れば、一目瞭然。
これにはかなりカチンときた。恋する乙女の顔をそんなふうにいうなんて!
「うるさい変態! つんつんバカ頭!」
「あぁ? あんまナメた口きいてっと──」
「『ころす』ってか?」
私の言葉に、禄朗が少し動きを止めた。
よしよし、反撃開始だ。
私は両頬に手を当てると、最高に嫌らしい口調で言う。
「あのときは必死でしたなぁ。ライオン丸の胸ぐら掴んで『ころすぞ』なんつって。本当にやっちゃうかと思うくらいの気迫でしたもん、よっぽど大切なものを守りたかったんでございますなぁプププ」
「っ!」
ちょっと赤くなった禄朗の顔は、いつもの喧嘩上等おらおらモード全開な彼とは違って年相応で、珍しくなんだか可愛かった。
うはは。効いてる効いてる。
私は更に続けた。
「……あれ? でもあのときは、まだ七緒の変態アルバムが絡んでなかったんだよね。ってことはぁ──」
華ちゃんって禄朗にとって相当大切な存在なんだネ──そう言おうとした瞬間、ガッと首元から体が浮き上がるような感覚。その次に、全身がシェイクされるようなクレイジーな衝撃!
「テメェ、これ以上無駄口叩けねぇようにマジでここで息の根止めてやる」
私の胸ぐらを掴んで揺する禄朗は、地獄の底から響いて来るような恐ろしい声で告げた。
「じょ、冗談だよぉ…?」
「クソ女、俺は冗談が通じねぇんだ。特にいけすかねぇ奴の冗談はよ」
前言撤回である。年相応で可愛いなんて嘘。
ぎらぎら鋭く光る禄朗の瞳は言いようのない凄みを帯びて、私はもう「ヒィ」と叫んで白目をむきそうだった。
また始まった……と、七緒がため息をつく。おい、とめるとか体張って守るとかそういうの無しかよ。仮にも大切な幼馴染みが不良に胸ぐらを掴まれてシェイクなう、だってのに(まぁ、きっと七緒は禄朗が本当にぶん殴るなんて微塵も思っていないからなんだろうけど)。
私が恨みがましい目で七緒を見つめながらも禄朗にガクガク振られていると、天の助けが差し伸べられた。
「ろ、禄ちゃん、やめて。杉崎先輩、苦しそうだから……」
オロオロとした華ちゃんが、禄朗の制服のシャツの袖を引く。
天使の介入により、禄朗は舌打ちをひとつしたものの私から手を離してくれた。
あー、脳みそがまだ揺れている。三半規管がエマージェンシーを叫んでいる。
華ちゃんは私が救われたことを確認すると、じっと禄朗を見つめた。
「……何ガン飛ばしてんだコラ」
禄朗、あんたってなんでそういう言い方しかできないわけ?
「禄ちゃん、駄目だよ……?『ころす』なんてそんなひどいこと言っちゃ……」
華ちゃんは、どうして禄朗が私の言葉で激怒したか全く飲み込めていないようだった。だって、もしも私が言おうとした本当の意味がわかっているなら、彼女の性格からしてきっと真っ赤になってアワアワしちゃうこと間違いなし、こんなに律儀に禄朗をたしなめるなんて絶対できないだろう。
華ちゃんは少し微笑みながら更に言った。
「あのね、きっと丸山くんは寂しかったんだと思うな……」
「寂しい? あのクソ野郎がか?」
「そんな汚い言葉使わないで。……丸山くん、小学校の頃にすごく仲良しだった禄ちゃんと距離を感じて、きっと寂しくなっちゃったんだよ。禄ちゃんは中学でお勉強頑張ったり喧嘩をやめたり、たくさん成長してるでしょ? そういうのを知って丸山くんは、なんだか禄ちゃんが禄ちゃんじゃなくなっちゃったみたいに感じて、また昔みたいに仲良くしたいって思ったんじゃないかな。もちろんやり方はちょっと強引で良くなかったかもしれないけど……」
「ちょっとどころじゃねぇけどな」
「きっと悪気があったわけじゃないんだよ。仲良しの子が少しずつ変わっていくのを近くで見るのは、なんだかその子が遠くにいっちゃうような感覚で、すごく寂しいものなんだよ……友情が強ければ強いほど。……だから丸山くんとの誤解、今度きちんと解きに行かなきゃね、禄ちゃん」
華ちゃんは小学校の先生になったほうがいいな。私は心底感心して2人のやりとりを眺めていた。だってさっきまであんなに荒ぶっていた禄朗が今ではすっかり素直に華ちゃんの言葉を聞いている。「……まぁ確かにこのままじゃ胸くそ悪りぃから落ち着いたら話に行くけどよ」なんて言っちゃっている。たいしたもんだ。
そのとき、私の隣でガタンと音がした。
何の勢い余ってか、七緒が机に左腕を強打したようだった。
「うおぉ、いってぇ……」
「え、ださっ。何してんすかアンタ」
「……」
彼は私の言葉を完全無視し、一直線に華ちゃんに向き直った。腕を負傷したはずなのに、その表情はどこか生き生きと輝いて、なんというか──「目から鱗!」みたいな顔をしている。
「華ちゃん。い、今の……もう1回!」
「え?」
突如興奮状態の七緒に謎のお願いをされ、華ちゃんが小首を傾げる。
「今の言葉、ちょっともう1回言ってみて! 頼む!」
「え、えっと……『丸山くんとの誤解、今度ちゃんと解きに行かなきゃね』? ですか?」
「いや、そのもう1つ前で!」
「……『仲良しの子が少しずつ変わっていくのを近くで見るのは、なんだかその子が遠くにいっちゃうような感覚で、すごく寂しいものなんだよ……友情が強ければ強いほど』?」
「……」
七緒が真顔で黙り込む。まるで、華ちゃんの言葉を自分の中でゆっくりゆっくり消化させるように。
「……七緒どうしたの? 悪いけどちょっとキモいよ? まるでサークルの押しに弱い後輩の女の子に無理矢理お願いして『も、もう! お兄ちゃんのことなんて、別に全然好きとかそういうわけじゃないんだからねっ!』とか言わせてニヤニヤするオタク大学生みたいだよ?」
「なんだよその具体的な情報は」
臨戦体勢に入った七緒が私を睨みかけて、でも「やっぱいいや」とため息をついて、やめた。
「……ありがとう、華ちゃん」
「いえ、私は特に何も……」
不思議そうに目を瞬かせる華ちゃん。
「おい華、お前七緒先輩に感謝されてんだからもっと有難がれよ! 喜べよ!」
「え、えぇ……? わ、わー嬉しいな! ……こんな感じ?」
「棒読み丸出しじゃねーか! ちげーよ、もっとこう笑顔で、弾むような声で……」
禄朗と華ちゃんの微笑ましい(?)やりとりを眺めているうちに自然と自分も笑顔になっていた。
なんだかんだで問題は全部解決したし、2人も楽しそうだし……大団円ってやつかしら。
七緒の謎のキモさは引っかかるけど、まぁいっか。
カンニング疑惑が無事晴れて、本当に良かった。
「……あのさ、心都」
気付いたらすぐ側に七緒がいた。なんだか妙にあらたまったような固い顔をして。
「ん?」
「いや、あの……こないだは悪かったな。俺、勝手にイラついて心都に八つ当たりみたいなことして……。ごめん」
「あー、全然忘れてたからもういいよ。っていうか私も頭突きしてごめんね」
「……うん」
「もう燃え尽き症候群は治った?」
私の質問に、一瞬、七緒はわけがわからなさそうな顔をした。
あれ、なんか的外れなこと聞いちゃったかな。
だけど彼はすぐに数週間前の私との会話を思い出したようだった。
「……あぁ。うん。燃え尽き症候群な。……治ったよ多分」
「そりゃ良かったね」
「おう……良かった」
「うんうん」
* * * *
あと数分で昼休みも終了──という頃だろうか。
別れ際、また今度2人でお菓子作りでもしようねなどと楽しそうに話しているのは、杉崎心都と吉澤華。
そんな2人に聞こえないよう、東七緒はそっと進藤禄朗に話しかけた。
「……なぁ、禄朗。華ちゃんってやっぱり頭いいんだな」
「そうッスね。あいつ何度か学年1位もとってるくらいなんで。でも次は俺も負けないッス! 七緒先輩に勝利の報告できるよう頑張るッス!」
禄朗のあまりのパワーにつられて笑顔になった七緒は、「そうか」と頷く。
「期待してるな。……でも俺が今言ったのは勉強の話じゃなくてさ。なんつーか、思考能力?みたいなさ。……俺がここ最近モヤモヤしてたことが、華ちゃんの言葉で一瞬で解決したんだ」
「そうなんスか?」
「うん」
七緒がチラリと後方を見やる。そこでは心都と華が相変わらずお菓子談議に花を咲かせていた。
先程よりもまた更に一段階トーンを落とした声で、七緒は言う。
「……俺、最近ずっと変だったんだよな。心都に対して、なんか気持ちが上手くコントロールできなかったっつーか、今までとはちょっと違う感覚っつーか……」
禄朗は黙って話を聞いていた。
後輩のその真剣な眼差しから「続けてください」の意を酌んだ七緒は、咳払いひとつ、口を開いた。
「心都が山上に──あ、山上ってのは西中の柔道部の友達なんだけど──そいつに告白されたこととか、あと他の奴にモテ期とか言われてヘラヘラ笑ってるのとか……そういうの見るたび、なんかすっげーイライラしたり、急にちょっと寂しくなったりしてさ。ほんとダサいよな俺」
七緒は自嘲が溶けた苦笑いを浮かべた。
ここ最近の自分には、我ながら戸惑いっぱなしだった。
イラつきも寂しさも、予想外のタイミングで急にやってきては急に去ってゆく。
自分がここまで感情の操縦が下手だとは思いもしなかった。もちろん、それほど人間ができているはずだと高い自己評価をしていたわけではない。しかし一応、どちらかといえば落ち着いて物事を考えられる方であるはずだったし、少なくともあんな風に唐突に不機嫌になって不遜な態度をとった覚えは今まで一度もない。
それが今回は、自分の感情をコントロールできず、心都に八つ当たりじみたことまでしてしまう。
そしてそんなふうに気持ちを揺さぶられた後は必ずと言っていいほど、見慣れた幼馴染みの横顔がいつもと少し違うように感じられるのだった。
原因がわからないから余計に焦り、もどかしかった。
──しかし、それも今日で終わり。すっきり解決なのだ。
「でも華ちゃんのさっきの言葉で理由がわかったよ。俺は生まれた時から心都と一緒で、あいつの男っ気の無さとか、人の色恋沙汰にばっかりおせっかいおばさんになることとかも当たり前のようにずっと知ってたから。だから最近の出来事で心都が少し変わっちまうような、遠くにいくような気がして、それで勝手にこんな気持ちになってたんだよな。……腐れ縁の絆、友情ゆえに!」
先程までの苦笑いとは違い、晴れやかに笑うことができた。
原因がわかれば大丈夫だ。自分ももう子供ではないのだから、この気持ちとも上手く折り合いをつけることができるだろう。
禄朗は決して七緒につられて笑わなかった。
それどころかますます真剣な顔で、じっとこちらを見つめている。
「七緒先輩、それは……」
心なしか、声までもが固い。
珍しく途中で言葉を切った禄朗は、少し目を伏せて何やら思惑を巡らせた様子の後、
「……それは紛れもなく、友情ッス! バリバリのゴリゴリの友情ッス!」
一気に顔を上げ、力強くそう言った。
エネルギッシュな同意を得られたことで、七緒の気持ちはみるみるうちに明るくなった。
「だよな! いやー、俺も結構ガキっぽいよなぁ。反省だよ。あと華ちゃんに感謝感謝」
「友情に熱い七緒先輩も素晴らしいッス! さすがッス!」
満面の笑みでそう言ったあと、ふいに声色を低く落とした禄朗がボソリと呟く。
「……『ころす』の仕返しだ、ボサボサくそ女」
「え? 何か言ったか」
あまりにも低く小さな声だったため七緒は聞き取れなかったが、「いえ、なんでもないッス!」とまたしても笑顔で告げられた。
「2人でコソコソ、何の話?」
気付くと、すぐ隣まで心都が来ていた。
七緒が答えるより早く、禄朗が勢いよくがなり立てる。
「テメェの悪口だ!」
「はぁ!? なんでいきなり悪口叩かれなきゃいけないわけ? 嘘言わないでよ!」
「マジに決まってんだろ、クソ女。もう大盛り上がりだ。テメェの短所なら100個でも200個でも出てくるからな!」
「キィィィ!」
怒りに身を震わせた心都が、七緒を覗き込む。
「七緒! 本当に!?」
数秒間、視線と視線がぶつかり合う。
その瞬間の妙な気持ちは、七緒には普段全く馴染みのないものだった。
嬉しいとも悲しいともつかない、言いようのない気持ちがみるみるうちに胸を占めていく、初めての感覚。
そして心臓が一度、強く痛んだ。
「……うっ」
思わず、左胸を押さえる。
胸が狭まったような苦しさに顔を歪める。
「七緒! ど、どうしたの大丈夫!?」
「わ、わかんねぇ。俺、具合悪いのかも……」
「まさかまた燃え尽き症候群!? やっぱり完治してなかったんじゃ……」
「いや……な、なんか多分、内科系の……」
「えぇ!?」
* * * *
卒業まであと半年。
胸の小さな痛みと、初めての気持ちの行方は、まだ神のみぞ知る未来だ。
9章はこれにて終了です。ありがとうございました。
そして今月で、この小説の初掲載からもう7年が経つことに気づきました。あまりのテンポの遅さに自分でも驚愕です。
こんなスローな作品ですが、どうか完結までもう少しお付き合いいただけると嬉しいです。
粉ミル子