11<呪いと、人質>
「本屋さんで東先輩とばったり会ったんです。で、ここまで一緒に帰ってきたら、杉崎先輩の大声が聞こえてきて、気になって見に来てみたんです。私の家に来てくださった後、ここで遊んでたんですね」
私のきょとん顔に、華ちゃんは優しい笑顔で答えてくれた。
だけど残念ながらそれは、私が今知りたいこととは少し違う。
「そ、そうじゃなくて、華ちゃん……」
「はい?」
「人質になってたんじゃないの?」
今度は華ちゃんが驚きの表情を浮かべる番だった。
「え……? ひ、人質って……私が? 誰のですか?」
「ライオン丸の……」
「らいおんまる?」
対峙する形のまま硬直している禄朗とライオン丸に、華ちゃんが視線を移す。するとライオン丸は、華ちゃんを見て「あれ」と声を上げた。
「なんだ、誰かと思ったら吉澤じゃねーか」
「あ……丸山くん? 髪が金髪になってるから気が付かなかったよ」
「久しぶりだもんな、小学校の卒業式以来か」
「そうだねぇ。ふふ」
華ちゃんが柔らかく笑った。
「禄ちゃんと丸山くん、今でも仲良しなんだね」
なんだなんだ、この和やかな会話は。
軽いパニックを起こしかけたけど、ぐっと堪えて少し記憶をさかのぼってみる。
以前、禄朗と華ちゃんは幼稚園からの幼馴染みだと聞いた。そして禄朗とライオン丸は小学校時代のクラスメイト──ということは、ライオン丸と華ちゃんだって同級生であったはずなのだ。
だから、2人がこのような顔見知りの会話を交わしていても不思議ではない(そしてライオン丸、本名は丸山っていうのか)。
だけど、まだまだ私の脳内パニックは治まらない。それ以外にも謎はたくさん残っているのだ。
ぽかーんとした表情でそのやり取りを見つめている禄朗。彼のこんな顔が見られるなんて貴重だ。
「華……お前、無事だったのかよ……?」
「え? う、うん。ぴんぴんしてるけど……」
「俺たちと別れてから本屋に行ったのか?」
「そうだよ。禄ちゃんが『すぐ抜かしてやる』なんて発破かけるから、私もやる気出ちゃって。一度家に帰って着替えてから新しい参考書を買いに行ってたの」
無邪気に答える華ちゃんを見て、私は全身の力が抜けていくのを感じた。
それは禄朗も同じらしく、がっくりと膝をつく彼の姿がそこにあった。
──華ちゃんはライオン丸の人質にはなっていなかった。
よく考えれば彼は禄朗への脅迫電話もどきで、人質について「かわいらしい女の子だなー」としか言わなかったもんな。もしそれが面識のある華ちゃんなら、わざわざそんな回りくどい言い方をせず、「吉澤華を預かった」と名前を伝えたはずだ。
この時点で気付けよ禄朗、とちょっとイラッとしかけて、すぐに思い直した。きっとそんな考えに至らないくらいに彼はあのとき華ちゃんの身を案じていたのだろう。
でも──、じゃあ、ライオン丸の言う「お前の大切なものを『お預り』してるからよ」とは何だったのか?
ただの狂言?
それとも誰か別の「かわいらしい女の子」が「お預り」されている──?
「丸山、テメェ……」
地に膝をついて俯いたまま、禄朗が世にも恐ろしい声を出す。
そして一気に体を起こすと、またしてもライオン丸の胸倉を掴んだ。
「騙しやがったな! この俺にハッタリかけるなんていい度胸してんじゃねぇか!」
「はぁ? 何言ってんだよ意味わかんねーよ!」
「ろ、禄ちゃん! どうしたのっ? 喧嘩しないで……!」
華ちゃんが戸惑った様子で2人に駆け寄った。
「何だこれ……どういう騒ぎ?」
若干げんなりとした顔の七緒が、私の隣へやってきて、小声で訊ねる。
「わ、わかんない」
「わかんないってお前、一緒にいたんだろ」
「そうだけど……」
私だってこの状況に全くついていけていないのだ。
「七緒、とめなくていいの? 禄朗が相手の胸倉掴んでガクガク揺すって振り回してるよ。そろそろ殴っちゃうかもよ」
「あいつ、ただ動揺しまくってるだけだろ。全然殴りそうな雰囲気なんかねぇじゃん。だから大丈夫だよ」
そういうものなのですか。殴りそうなムードとか殴らなさそうなムードとか、私には一切わからない。格闘技をやっている者には見える、オーラとか殺気みたいなものがあるのだろうか?
首を傾げる私を、七緒がじっと眺める。
何よ、何か言いたいことでもあるわけ? また喧嘩なら買ってやるけど! と、私が受けて立とうとした瞬間、彼は意地悪な笑いを浮かべながら言った。
「心都、口の端にチョコついてるぞ」
私は慌てふためいて手の甲で自分の口元をゴシゴシこすった──なぁんて反応を想像したのなら、甘い。チョコレートより甘い(あら上手いこと言っちゃったかしら私)。
私は慌てず騒がず冷静に、夏祭りのときのことを思い出していた。
浴衣を着て精一杯おめかしした私に、七緒は「歯に青のりついてる」と嘘をつき、動揺する姿を見て笑っていたのだ。本当に悪趣味な奴。
だから私はフッと笑って、最高にクールに言ってやる。
「馬鹿な子ね。同じ手には二度も引っかからな──」
そして、全てを言い終わらないうちに気付く。七緒は私がリッチショコラまんを食べていたことなんて知らないはずだ。
「っ!」
鞄から鏡を取り出し確認するとそこには、唇の左右にばっちりチョコをつけて髭のようになっている自分の間抜け面があった。かれこれ30分程、私はこの状態で過ごしていたことになる。
誰か教えろよ!
ずっと一緒にいた禄朗とか、ライオン丸とか、一言くらい言ってくれてもいいのに!
いくら緊迫したムードだったとはいえ、ひどい、ひどすぎる──呪ってやる!
私は心で絶叫した。
「チョコって! しかも両端って! 気付けよ! 食いしん坊キャラかよ!」
七緒がお腹を抱えてゲラゲラ笑っている。
私はティッシュで口元を拭いながら彼を睨みつけた。
くそっ、お前も呪ってやる。
教えてくれるにしても、もう少し相手に恥をかかせないやり方ってものがあるだろう(例えば、えっと、優しく口を拭いてくれながら『可愛い君。その薄桃色の可憐な唇に天使の贈り物が付いているよ』とかー!……あ、なんか違うな)。
「進藤、そんな生意気な口きいて……いいのかよぉ? お前の大切な女の子がどうなっても」
「だからさっきから言ってるそれは何なんだよ? マジでぶん殴られてぇのか!」
「ろ、禄ちゃん駄目!」
私と七緒が非常に馬鹿馬鹿しいやり取りをしている最中にも、こちらのバトルは進行中だった。
ライオン丸が、胸倉にあった禄朗の手を振り払い、にやりと不敵な笑みを浮かべる。
「ハッタリだとか言ったな、進藤。残念だがちげーよ。テメェは状況をわかってねぇみてぇだな」
「はっきり言えや!」
イライラと怒鳴る禄朗。
対して、ライオン丸は割と落ち着いていた。それは、自分が優位にいるとわかっているからこその態度のようだった。
「お前、あのとき鞄を放り投げただろ。その間にな、ちょっと失礼させてもらったぜ──」
ライオン丸の言う「あのとき」とはきっと、あれだ。華ちゃんがカミソリを取り出して、私と禄朗がそれをとめるために慌てて走り寄ったとき。つまりその鞄が放置されていた数分間に、ライオン丸は「人質」を確保したということになるけど……一体どういうわけだろう?
「大切なものなんだろ? なぁ、進藤。……これがどうなってもいいのかよ!?」
ライオン丸が自らの鞄に右手を突っ込み、そして──勢いよく「何か」を取り出す。
まるで丁々発止の末、ここぞというところで必殺の印籠を掲げる助さんだか角さんみたいに。
隣の七緒が石化した。
おぉ、私の呪いの効果が早速? とは思わなかった。
だって、ライオン丸が取り出したのはもちろん印籠なんかじゃなく一冊のアルバムで、ババンと広げられたその中身は──。
「テメェ、それは……俺の大事な『七緒先輩メモリアル』じゃねーか!」
禄朗が怒りを抑えられていない声で叫ぶ。
ライオン丸が掲げ持つ分厚いアルバムの中には、七緒、七緒、七緒……どこをどう見ても、七緒の写真がいっぱいに貼られていた。
私は数日前の幼馴染みの言葉を思い出した。禄朗と夏休み中に何度か会ったが、彼は特に何をするでもなく写真ばかりとっているのだ、と。
私はそれが禄朗なりの思い出作りなのだとわかっていた。更に、華ちゃんが「禄ちゃんも寂しいんだと思います」と言っていたことも記憶に新しかった。だからそのときその場では、特に負の感情を抱かずに──いや、むしろ意地らしいとすら思って──彼の行動を受け入れた。
だけど今、こうして現物を目の当たりにして、当時とは全く違う思いが沸いてくる。
写真は不意打ちみたいな顔の七緒のアップばかりだし、ライオン丸に対して叫んだ禄朗の「やっと昨日最新バーションを更新したばっかりなのに汚ねぇ手で触んな!」という言葉もどうかと思うし、そもそも彼がこのアルバムを鞄に入れて常日頃から持ち歩いていたという事実も受け入れ難い。
だから私は思わず、ぽろりと、言ってしまう。
「きもっ」
幸い、宝物を巡ってデットヒート中の禄朗には聞こえなかったようだ。
「わかっただろ進藤、俺に逆らったらどうなるか。この写真をズタズタにしたり燃やしたりするのなんて簡単なんだぜ?」
「くっ……テメェっ!」
禄朗がグッと拳を握りしめる。
その拳は小刻みに震え、彼の表情は怒りと苦しみに満ちている。
私はもう心の底からアホらしくて、家に帰りたくなった。
今日の夕飯は何だろう。
昨日はお肉だったから、今日は気分的にお魚がいいな。
うちのお母さんの作る鰤の照り焼きは絶品で、私の大好物だ。きっと私が大人になって自立して、「おふくろの味」っていうのが恋しくなったときに思い出すメニューの中のひとつになるだろう。だけど確か鰤って冬が旬なんだったっけ。だとしたら9月の今は食卓に上がることはなかなか期待できないかなー。
あぁ、なんだかお腹が空いてきた。さっきリッチショコラまんを食べたばかりだけど、甘いものと夕飯はお腹の中で落ち着く場所が全く別なのだ。
ご飯のことを考えてこの無駄な時間をやり過ごそうとした私の目論みは、次の瞬間、あっさり失敗に終わった。