8<宣戦布告と、デラックス>
禄朗は、彼にしてはめずらしい落ち着いた口調で言った。
「華、お前……やっぱり頭いいくせに馬鹿なのかよ」
華ちゃんが小さな肩をますます縮こまらせて、下を向く。
「ご……ごめんね、禄ちゃん……」
可哀想に。きっと怒られると思って怯えているのだろう。
だけど私には、禄朗の言葉の中に華ちゃんを責めるような響きは一切感じられなかった。
そこにあるのは彼女に対する心配と、ちょっとの脱力感。
そしてどことなく優しさが込められているような気するのは……私が華ちゃんの恋を応援しているという贔屓目ポジションにいるせいなのかな。
マンションの敷地内にあるこの公園は、当然、ここの住民専用のスペースだ。きっともう少し早い時間帯ならここに住むファミリーの小さな子供たちで賑わっているのだろうけど、いかんせん今は夕飯時。私たち以外には誰もいない。静かな公園だ。
私はふと、去年のクリスマスイブのことを思い出した。橋本と喧嘩してどこかに行ってしまった禄朗を必死で探して、こことは別の公園で華ちゃんが涙ながらに彼を説得したのだ。
今、2人の立場はそのときと完全に逆だ。
2人の関係はきっとあの頃から少しずつ、けれど確実に変化している。
だけど根本的なところ──お互いがお互いを心配しているという点は全く変わっていない。
「喧嘩だとかカミソリだとかサボリだとか……お前、そんなんじゃねぇだろ。絶対ちげぇよ。お前らしくねぇだろ」
相変わらずの静かな声で、禄朗は言う。
「……そんな馬鹿なことすんじゃねーよ」
「でも私、橋本先生と喧嘩を、」
「あのな華」
ぴしゃりと、禄朗が華ちゃんの言葉を遮る。
少しの、沈黙。禄朗と華ちゃんの視線がぶつかった。
「これは俺の喧嘩なんだよ。お前を巻き込んだのは悪かったと思ってるけどよ、あのクソ橋本へのカタキは俺が自分でとる」
学校での影のあだ名が「デスナイフ」や「13歳のチンピラ」である不良少年がこんなことを言うものだから、私は無粋なのを承知で思わず口を挟んでしまう。
「え……。な……なぐるの?」
「ちげぇよ。俺が七緒先輩との約束やぶるわけねぇだろが」
怖い顔で睨まれた。いやいやあんた数十分前に私に向かって「テメェぶん殴るぞ」って拳固めなかったか?
イラッと反論しかけたけど、さすがに今それを言うのは超絶に空気が読めていない人になってしまう気がするから止めておく。
「それじゃあどうやって……」
華ちゃんが不安気に眉を寄せた。
彼女の気持ちはよくわかる。だって、「これは俺の喧嘩」とか言っておきながら、暴力という選択肢が失われた今、この短気で血気盛んな禄朗がやりそうなことといえば……なんだろう。橋本の宝物をぶっ壊す、とか?
しかし数秒後、私は自分の低俗な発想を恥じることになった。
「そんなの、俺が華より上の成績とったらいいんだろ」
「えっ……」
「華が俺に答案見せたって言いがかりつけられてんだから、俺が今度の県のテストで華以上の点数とりゃそのくだらねぇ疑いも晴れんだろ」
禄朗は事も無げに言うけれど、それって相当難しいことだと思う。
ただでさえ普段の学校のテストよりもレベルの高い問題が出る県の実力テストだ。良い点数を取ること自体大変なのに、それに加えて超優等生の華ちゃんを越えるだなんて、並大抵の勉強量じゃ無理なのは明らかだ。
しかし彼は特に気負った様子もなく、どちらかといえば先程より気持ちがスッキリしているようにさえ見える。
「こないだのテストだってごぼう抜き達成したんだからな。ま、俺が本気出せばラクショーだろ」
「禄ちゃん……」
華ちゃんが目をぱちくりさせながら禄朗を見る。
信じられない、という表情だった。
禄朗はそんな華ちゃんの瞳を見据えると、あっけらかんとした調子で言う。
「お前なんかすぐ抜かしてやるからよ。せいぜい差がつかないようテスト勉強と変なスピーチの練習でもしとけや」
たとえば本当にこの方法を使って疑惑を晴らすのなら、禄朗が今まで以上に勉強を頑張ることは大前提として、華ちゃんが普段より手抜きをしてわざと順位を少し落とせば、きっと高い確率で成功させることができる。
だけど華ちゃんも禄朗もそんなこと絶対にしないだろうし、私もそれでは意味がないとよくわかる。
2人は完全なるガチンコ、フェア、真剣勝負で、この戦いに挑むのだ。
──きっとお互いがお互いのために。
「……うん。わかった、禄ちゃん」
こっくり頷くと、華ちゃんは笑った。
ここ数日間見ることのできなかった、温かくて柔らかい、心からの笑顔だった。
「ふ、ふ、ふ」
「……」
「ふふ。あんたも結構いいとこあるじゃん」
華ちゃんの住むマンションからの帰り道、私は肘で禄朗を小突いた。
「何だよテメェ。ニヤニヤしてんじゃねぇよ」
禄朗が先程までとは打って変わって乱暴な口調で答える。
うわー、私に褒められるのが心底嫌そうだ。照れ隠しとか思春期とかツンデレとかそういう類では一切なさそう。
「いやいや怒んないでよ。華ちゃん元気になってよかったじゃん、すごく嬉しそうだったしね」
バッチグー! と私が親指を立てると、禄朗は居心地悪そうに視線を逸らした。
「……ま、今日だけはテメェに感謝してやるよ、ボサボサクソ女。華があの公園にいるのにすぐ気付いたのはお前だしな。あとちょっと遅かったら多分、あいつの眉毛は……」
最後まで言葉を続けずに、禄朗が恐ろしげに目を伏せた。
彼が言わんとすることはよくわかるから、私も背筋が寒くなる。本当に、間一髪止めることができて良かった。華ちゃんの姿をいち早く発見することができたのは、ただ単にマンションの綺麗さに感動して周りをきょろきょろ見渡していたからっていうだけなんだけど、それでもこうして最悪の事態を防ぐことができたのなら結果オーライ。万々歳。何度も言うようだけど、眉毛が完全になくなった華ちゃんなんて見たくないもの。
「えへ、あんたにそんな感謝されると照れちゃうなー」
「人生最初で最後だけどな」
「お礼期待してるね!」
「……」
禄朗はまたしても苦々しい顔で舌打ちすると、ぼそりと言った。
「……しょうがねぇからコンビニの肉まんくらいならおごってやるよ」
「えっマジで?」
禄朗がこんなに素直に感謝の意を示すなんて、奇跡に近い。明日は槍が降るんじゃないだろうか? 私は驚きを隠せず、彼をまじまじと見た。
お礼のことなんてほとんど冗談のつもりで言ったのに。というか正直今日の私は、最初に華ちゃんを発見したこと以外は特に何もしていないような気がするのだけど。ううむ。
0、5秒の思案の後、すぐに結論を出した。これは彼の感謝を素直に受け取っておくのが正しい対応というものだろう。ちょうどお腹も空いてきたところだったのだ。
「やったー!」
私は禄朗の袖を引いて早速近くのコンビニに飛び込むと、魅力的すぎるショーケースを眺めた。
「どうしよう迷う! えっとえっと、じゃあ、肉まんとー、あんまんとー、あとデラックスピザまんとリッチショコラまん!」
「おいクソ女、あんま調子こいてっとマジでぶん殴るぞ」
禄朗がグッと拳を固めた。
おおう。さっきの殊勝な言葉──「俺が七緒先輩との約束やぶるわけねぇだろ」──は、一体どこへ?