3<不穏と、Uターン>
華ちゃんが顔を上げた。
頭の低い位置で作られた彼女の2つ結びが、小さく揺れる。
「杉崎先輩、東先輩……」
華ちゃんは私たちに気付くと、とても悲しそうな顔をした。
一方その隣の禄朗はというと、ハッとして七緒には一礼したものの、私には目もくれず、不機嫌そうな顔でその場に立っていた。
「華ちゃん、おはよう。……大丈夫?」
言いながら私は華ちゃんの側まで近寄り、軽く肩に触れた。なんだかこうしないと彼女が今にも崩れ落ちてしまいそうな気がしたのだ。
「……先輩……。私……」
華ちゃんの瞳にみるみるうちに涙が浮かぶ。
それを見た禄朗が最高に気に食わなさそうに眉間にしわを寄せた。
「華、お前、いちいちメソメソしてんじゃねぇよ」
「だって、禄ちゃん……」
「こんなボサボサくそ女なんかと話してても時間の無駄だっつーの。ただでさえ朝からくだらねー話さんざん聞かされたんだからよ」
もちろんこの言葉にカチンときてしまった私。なんだこの野郎、と禄朗を睨みつける。
文句あんのかよ、と禄朗も私を睨み返す。
しばし火花を散らした後、
「くだらねー。お前に付き合ってるほど暇じゃねぇし」
舌打ちをひとつ、禄朗は着崩した制服のズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、自分の教室の方へと歩いていった。
「禄ちゃん……!」
華ちゃんは困惑しきった顔で禄朗と私たちを交互に見た。
そして涙で潤んだ瞳のまま、申し訳なさそうに頭を下げ、
「すみません、先輩方……。心配しないでください」
禄朗の後を追うように去っていった。
「どうしたんだろ、あの2人……」
残された私と七緒は顔を見合わせた。
「なんか、あんまり話したくなさそうだったね」
「そうだな」
「でも放っとけないし……私、追っかけて聞いてこようかな」
私の言葉に、七緒はちょっと渋い表情で首をひねった。
「こういうのって難しいからな。心配で無理に聞き出すのが優しさかっていえば微妙な気もするし」
「うーん……」
でも、やっぱり心配だ。あの2人の身に、少なくとも楽しくはない何かが起こったことは確かなのだ。私が話を聞いてわずかでも助けられるものなら助けてあげたい。たとえ最初は相手にその気がなくとも、こっちから手を差し伸べて頼りやすくなることもあると思う。
だけど七緒の性格は私も知っている。
彼は、へこんでいる私の悩みを聞き出したりするときはいつも「言いたくなかったら言わなくてもいいけど」と前置きをするような人間なのだ。
だから今回のことも、きっと本人たちが話したくなるときを待つのだろう。それが彼の優しさなのだと、私は今までの付き合いで十分すぎるほどわかっている。
──そして同じように、七緒も私の性格についてはよくご存じのようで。
「……心都、またおせっかいおばさんになりすぎないようにな」
「……わかってるよ」
真面目な顔で、しっかり注意喚起された。
その日は始業式とホームルームのみで学校は終了となった。
部活もないしお腹も空いたし、そのまま家へ直行してクーラーきんきんのリビングで冷やし中華でも食べたかったけど、そんな気持ちはぐっとこらえ、図書室へと向かった。
夏休みの宿題である読書感想文で使った本の返却をしなければならなかったのだ。
3階の突き当りにある図書室までたどり着くと、その入り口付近で見慣れた後姿が佇んでいた。
「……華ちゃん?」
そっと呼びかけると、華ちゃんは強張った顔で振り向いた。
「杉崎先輩……!」
「今日はよく会うねぇ」
えへ、という感じで私が首を傾げてみると、ようやく華ちゃんも少し笑ってくれた。
「そうですね。本の返却ですか?」
「うん。華ちゃんは?」
「私は、ちょっと勉強していこうかと思ったんですけど……なんか気が乗らなくて、やっぱり止めて帰ろうかなって迷ってたところです」
「そうなんだ。じゃあ、良かったら一緒に帰らない?」
華ちゃんは優しく目を細めて頷いてくれた。
わずかに彼女本来の柔らかい表情が戻ってきた気がして、ホッとする。朝見たときはそれこそ今にも泣き崩れてしまうんじゃないかって思うくらいに悲しげな顔をしていたのだ。
私は急いで本の返却を済ませ、華ちゃんとともに校舎を後にした。
並んで歩きながら話すのは、お互いの夏休みのことだ。華ちゃんは私と七緒の仲のことを聞きたがった。2人きりで夏祭りに行けたことを報告すると、彼女はとても喜んでくれた。
そんな他愛もない話をしながらも、時おり華ちゃんの表情を盗み見る。
朝よりは回復したようだけど、やっぱりどこか元気がない。
会話が途切れたところで、私は意を決して口を開いた。
七緒、さっそく忠告聞けなくてごめん。
やっぱり私、かなりのおせっかいおばさんみたい。
「あのさ……華ちゃん、今朝はどうしたの? なんかすごく泣きそうだったけど……何かあった?」
私の問いに、しばらく困った顔で俯いていた華ちゃん。やがてその瞳に、またもや涙がたまり始める。
あぁ! やばい。もしかして私、泣かせちゃった……?
しかし華ちゃんは、ギリギリのところで涙を流さずに堪えた。
「ごめんなさい、うじうじメソメソしちゃって……禄ちゃんにもよく怒られるのに……」
「ううん、そんなことないよ!」
華ちゃんは目元にたまった滴を指でぬぐうと、沈んだ声でポツリポツリと話してくれた。
「……私と禄ちゃん、1学期のテスト結果のことで、橋本先生に呼び出されたんです。新学期が始まる前に、言っておきたいことがある、って……」
橋本──久しぶりに聞くその名前で、私の脳裏には去年のクリスマスシーズンの出来事が走馬燈のようによぎった。
橋本は、禄朗の1年次の担任だ。30代前半くらいの、銀縁メガネの理科教師。入学当初からだいぶ尖った問題児だった禄朗(今でも普通の生徒とはいえないだろうけど、まぁ、ちょっと丸くなったと思う)を、元々スパルタ気味な教師だった橋本は目の敵にしていた。禄朗もまた橋本を毛嫌いし、この2人は去年1年間で何度も激しいバトルを起こして職員室の先生たちを総動員させてきたのだ。クリスマス前に度を超えた口論になって、ブチ切れた禄朗が学校から行方不明になってしまったこともあった。
つまり禄朗と橋本の関係は最悪中の最悪、犬猿の仲といってもいいくらいのものだった。
そして現在、2年生に進級して同じクラスになった禄朗と華ちゃんの担任も、これまた運の悪いことに橋本らしい。
でも禄朗も今はだいぶ落ち着いてきているし、むやみに暴力をふるったりということもない。だから以前ほどは橋本とのバトルも勃発しないようになった──と思っていたのだけど。
華ちゃんの悲しげな顔を見ると、どうやら今回はかなり穏やかでないことが起こったらしい。
「……橋本先生が、2年生になってからの禄ちゃんの成績がおかしいって言うんです。1年生のときはほぼ最下位の点数ばっかりだったのに、2年生になってからは急にテストの点数が上がって、順位もごぼう抜き状態で……生活態度も授業態度も悪いのに、不良なのに、変だって……」
「えっ」
確かにここ最近、禄朗はテスト順位を大幅に上げていた。夏休み前、期末テストの結果の記された紙を七緒のところに持参してきたときも、確か半分より上に入っていたはず。
でもそれは決しておかしなことなんかじゃなく、華ちゃん指導の元きちんと勉強をした結果だ。
「橋本先生、私と禄ちゃんが幼馴染みで仲良しだって知ってるんです。1年生の頃、私、禄ちゃんが早退とか遅刻とかばかりなのが心配で、何度か橋本先生のところに今日はきちんと禄ちゃんが学校に来てるか聞きにいったことがあるから。それで、2年生になって私と禄ちゃんが同じクラスになって、急な得点アップで、テストのとき私は禄ちゃんの斜め前の席で……だから……」
ここまで言って、華ちゃんは続きを口にするのを躊躇うかのように、俯いた。
無理に最後まで言ってもらわなくても、もうわかる。私は華ちゃんの言葉を引き取った。
「……カンニング容疑をふっかけられたってこと? 2人でしめし合せて、わざと答案見せたのが華ちゃんで、見たのが禄朗で」
こくりと、華ちゃんが頷く。
「うわ、何それ、ひどい!」
体中の血が頭に集中したような感覚になる。
学生歴も9年目になると、幼い頃とは違って、さすがにもう教師が聖人君子ではないこともわかってくる。もちろん良い先生もたくさんいるけど、中にはそうではない人もいる。先生も普通の人間だし、やっぱり間違いや短所もあるし、多少は生徒の好き嫌いもあるのだろう。
それでもこれは、ひどすぎる。
禄朗と華ちゃんの努力の結果が頭から否定されたのだ。
「許せない! 私、橋本先生に、こっ、抗議してくる!」
あまりの怒りで舌がもつれる。
気が付いたら私は、鼻息荒く学校へUターンしようとしていた。確か今日の午後は職員会議で生徒は職員室立ち入り禁止のはずだけど、今なら窓ガラスに頭から突っ込んで割って室内に舞い降りるくらいのことはできる気持ちだ。
私の右腕を華ちゃんが慌てて掴んだ。
「杉崎先輩、大丈夫です。すみません、怒らせちゃって……」
「でもさ!」
「巻き込みたくないです。ただでさえ先輩方は今受験で大変な時期なのに、私たちのためにそんなことしないでください。私がペラペラ話したのに、勝手言ってすみません……」
涙でゆらゆら揺れる彼女の瞳を見ていると、とてもじゃないけど腕を振りほどいて学校へ走るなんてできない。
「華ちゃん……」
私の興奮状態が治まったことを察知したのだろう、華ちゃんが手の力をゆるめた。
「橋本先生、今回は現行犯じゃないから注意だけだけど次やったらもう容赦しないぞって言うんです。私……自分がカンニングの共犯にされたことよりも……禄ちゃんの頑張りが踏みにじられたことが何百倍も悔しくて。確かに禄ちゃんはあんまり模範的な生徒とは言えないし、去年まで成績も下の下だったけど、2年生になってからは本当に勉強頑張ってて、あの結果だって実力なのに……」
華ちゃんが唇を噛みしめる。先程までのただただ悲しそうな顔とは違い、そこには明確な怒りがにじんでいた。
「でも禄ちゃんは、自分はこんなこと言われ慣れてるから全然気にしてないって言うんです。それより、くだらないことに巻き込んで悪かった、って。禄ちゃんにあんな真剣な顔で謝られたのなんて、生まれて初めてかもしれない……。絶対、絶対、禄ちゃんの方が悔しいはずなのに」
あのクリスマスの一件があったときも禄朗は、自分の傍にいるせいで華ちゃんの評価までもが下がることをとても嫌がっていた。恐れていた──と言っても良い程かもしれない。
だから今回もきっと、自分が疑われたこと以上に、華ちゃんをゴタゴタに巻き込んでしまったことに対する後悔の念を感じているのだろう。
こんなのって悲しすぎる。
せっかく禄朗も、華ちゃんと一緒にいることを前よりは受け入れ始めていたように見えたのに──。
──橋本の奴! バカ教師!
やっぱり私は職員室に殴り込みに行きたい気持ちでいっぱいだった。
だけどそれは華ちゃんが悲しむし、そもそもそんな行為で今回のことが解決できる気もしない。
話を聞いてわずかでも助けられるものなら助けてあげたい……なんて考えていたけど、一体、私に何ができるのだろう?
どうすれば2人を救えるのだろう?
「……」
悶々としすぎて軽く震えてきた私の手を、華ちゃんがそっと握った。
「でも先輩に話したら、嫌な気持ちもちょっとすっきりしました。本当ですよ」
「……華ちゃん」
「ありがとうございます」
そう言う華ちゃんの笑顔は、やっぱりどこかぎこちなくて、少し無理をしているようだった。
朝から何度も瞳を潤ませていたものの、結局彼女は、一滴も涙をこぼさなかった。
その目の奥には、悲しさ以上に、強い強い悔しさが今にも爆発しそうに燃えている──ような気がした。
 




