2<新学期と、シンドローム>
2学期初日の朝は、いつも以上に起きるのがつらい。
きっかり7時に鳴り響く目覚まし時計に、長い休みが終わったことを嫌でも実感させられる。もっとも今年は一応受験生ということで、例年よりはダラケた夏休みにならなかったから、まだそのギャップによる苦しみは軽くなりそうだけど。
それでもやっぱり、あぁ新学期が始まっちゃったなぁ、次は冬休みかぁ、だいぶ先だなぁ、というちょっとした憂鬱を感じながら、私は通学路を歩いた。
9月に入ったからといって急に気候が秋らしくなるなどということも当然なく、やっぱり相変わらず暑い。夏服のブラウスが早くも汗ばむ。学校に着いたら制汗スプレー(心うきうきフローラルシャボンの香り!)でシューシューしよう。
ちなみに我が校の正式な女子の夏服は、真っ白な半袖ブラウスに紺の吊りスカート。
この吊りスカートがかなり芋くさくて、女生徒からは大不評だ。不幸中の幸いというべきか吊り紐の部分が取り外し可能なので、私も含め全校ほとんどの女子はそれを一度も使うことなく外して、普通の紺のプリーツスカートとして着用している。
しかし上下関係厳しめの運動部なんかでは、1年生の間は吊り紐を外すことを禁じる、という恐ろしい暗黙のルールがあるらしく、そのままの状態で夏を過ごしている女の子もちらほら見かける。大半がまだ真新しい綺麗な制服、筋肉質の脚、背筋が伸びてキリリとした顔つきをしているいかにもスポーツ少女といった子たちだ。
早く衣替えできるくらい涼しくなれなれ、と私は暑さ嫌いの自分のためにも、そしてダサダサ吊りスカートな夏服に耐える一部の1年生たちのためにも心の中で念じた。
そんなことを考えながら横断歩道を通過すると、少し前をだらだら歩く七緒の後ろ姿が目に入った。
背中からでもボーッとした表情が想像できるほど、なんか弱そうっていうか、溌剌としていない。小走りじゃなくてもすぐに追いついた。
「おはよ、七緒」
ぽん、と肩を叩くと、七緒は顔だけこっちに向けて、
「うおっ」
バランスを崩して転びかけて、近くの電柱につかまった。うわ、だっせぇ。
「そんなにびっくりしなくても」
あれ? この台詞昨日も言ったな私。
「お前が急に声かけるからだろ」
「だって声かける前に、はい今から声かけまーすなんて言わないでしょ」
「そりゃそうだけど……」
うーむ、激しいデジャヴ。変な七緒。
でもどうすんだお前、ここには話を誤魔化すための食器も空き缶もないぞ。
意地悪な目線で七緒を眺めていると、彼はやたらキビキビと歩き出した。
「さ、早く行かないと遅刻するぞ」
「まだチャイムまで15分はあるけど」
「よ、余裕あるに越したことはないだろ」
「何キョドってんの?」
「キョドってねーよ、いつも通りだろ」
彼の歩調に合わせていたら、あっという間に校門まで着いた。
やっぱり七緒、なんか変だ。
ちょっと前から──いや、あの「部活引退おめでとうの会」のときからか。
遠い目でぼんやり呆けだしたかと思えば、急に大袈裟なくらい動揺したり、1人すごく難しい顔をしていたり。明らかに「いつも通りの七緒」とは言いがたい。半月のうち何度かこんなことがあれば、さすがにおかしいなと思う。
ここまで考えて、私はハッとした。
ある可能性が頭に浮かんできたからだ。
もしかして、これって────、
「燃え尽き症候群?」
「は? 何、急に」
下駄箱で上履きに履き替えながら、七緒が怪訝そうな顔を向ける。
「テレビで見たことある。何か熱中してたことが終わっちゃうと、次にどうしたらいいかわからなくなって、抜け殻みたいになって気力がわかないんだって! 怖いよね!」
「いや、だからそれが何?」
「七緒、それじゃない? 燃え尽きちゃった系じゃない? ずーっと頑張ってた部活を引退して、抜け殻になっちゃったんだよ、きっと!」
「え、俺が?」
「そうだよ! だってこないだから明らかに様子おかしいもん。あのさ、なんかあったら相談してね。気晴らしとかも付き合うし! そうだ、なんならみじん切り教えてあげよっか? 私、もやもやしたときよく野菜を無心に切り刻むんだけどこれが結構すっきりするんだよね! 料理にも使えるし一石二鳥! あ、あとひたすら生クリーム泡立てて自分の限界に挑むってのもおすすめだよ!」
「……」
少しの沈黙の後、
「…………はぁ、そりゃどうも」
げんなりしたように呟く七緒。
私は若干のイラつきを覚えた。
心配しているのに、なんだそのちょっと引いたような態度は。
あれか、繊細アピールか? 自分ガラスのハート持ってるんでそういうノリにはついていけませんってか?
そんな心持ちだから純情可憐な乙女と間違えられて男から何度もナンパされるんだよ!
ちなみに私は15年間まっとうな女子として生きてきてナンパなんか一度もされたことないよ! すごいでしょ! 何この差!
廊下を並んで歩きながら、諸々の怒りを込めて彼の顔を睨んでみると、ふとあることに気付いた。
「あれ。七緒、クマできてる」
「あー、ちょっと睡眠不足で……」
「勉強?」
「うん。英単語やり始めたらなんだかんだ3時くらいまで起きちゃっててさ……」
あくびをかみ殺しながら、七緒が言う。
「あんまり根詰めると良くないよ。生活リズムも崩れるし」
ただでさえ燃え尽き症候群で心が弱っているときなのに。
──あれ? でも勉強に力を注げているっていうのは、抜け殻治療には良いことなのかな? そもそもそんな状態を燃え尽き症候群とは言わない?
混乱してきた。
七緒が眠気を払うように、ぐるぐると首を回す。
「そうだな。確かに遅くまでやってると次の日に頭が働かなくて結局効率が──」
と、真面目な顔で言いかけて、七緒が動きを止めた。
表情はそのままで、廊下の先のある一点を見つめている。
不思議に思って彼の視線の先を追うと──職員室の出入り口から、禄朗と華ちゃんが、2人揃って出てきたところだった。
もしも、素行不良で先生にも敵が多い禄朗1人だったら、また呼び出されて説教でもくらったのかなーと思っただろう。
はたまた、頭が良くて優等生の華ちゃん1人だったら、日直当番や委員会の仕事か、もしくは呼び出されてテストの結果を褒められたか何かだったのかなーと思っただろう。
しかしこの2人が一緒に職員室から登場したものだから、一体何があったのか、私には予想もつかない。
禄朗はムスッと不機嫌極まりなさそうで、その隣の華ちゃんは深く深く俯いて、唇を噛みしめていた。
何やら、ただならぬ不穏。
そんなものを感じて、私は思わずごくりと唾を飲み込んだ。