8<報告と、ひみつ>
我が家の狭い庭には、愛犬クロの小屋、物干し竿、そして小さいながらも一応縁側のようなものがある。家のリビングの雨戸を開け放てばすぐにそこに出られるようになっていて、一気に開放的な雰囲気に変わる。
もう少し庭が広ければ友人知人や仲良し家族、親戚一同を集めてちょくちょくバーベキューでも催したいところだけど、やっぱりいかんせん造りが小規模だし、住宅街であるがゆえに煙の苦情なんかも懸念されるので、ここに住んで15年、そのような素晴らしいイベントは一度も開催されていない。
そんな、普段はあまり存在感を発揮していない縁側に腰掛け、サイダーの缶を片手に持った私。隣には、同じくオレンジジュースの缶を持った七緒がいる。
私たちは互いの缶を軽くぶつけ合った。
「お疲れ様でーす」
「どもども」
労いの言葉に、七緒が軽く会釈。
私はぐびぐびぐび、と勢いよく喉にサイダーを流し込んだ。程よく効いた微炭酸が喉で弾けて、もう「たまらん」感じだ。
「ぷはー。この一杯のために生きてるって感じだよね」
「オヤジか。お前、絶対将来酒飲みになると思う」
「失礼な」
私は成人してお酒のおいしさを知っても、節度を持って嗜めるレディになる予定。だって大酒飲みが周りの人間に与える心労、面倒くささは身をもって体験している。「サンプル」がとても身近にいるからね。
振り返ったリビングには、すっかり酔いつぶれて豪快ないびきをかきながらテーブルに突っ伏す「サンプル」──もとい、お母さんと明美さん。
「まだ昼間だってのに……」
七緒がげんなりとため息をついた。
お母さんが七緒の「部活引退おめでとうの会」をやろうと言い出したのは、今朝、つまり彼の試合から一夜明けてすぐのことだった。どうやら朝のゴミ出しで明美さんとバッタリ会い、世間話を経て、そこで話がまとまったらしい。
「受験生にとって夜は貴重な勉強時間だから、我が家で祝賀会兼ランチね。心都も今日は夏期講習ないでしょ? 12時になったら明美が七ちゃんをうちに連れてくるから、いつまでも部屋着でうろうろしてないで早く着替えちゃってね。何が食べたい? ピザでもとる? それともお寿司? お肉? 3年間頑張った七ちゃんのお祝いだもの、パーッとやりましょうね」
諸々を勝手に取り決めた母親2人にはもはや抗えなかった。つまりあんたら昼間から飲む口実が欲しいだけなんじゃ? と喉まで出かかった言葉も飲み込んだ。
そしてその考えは、おそらく七緒も同じだったと思う。明美さんに首根っこを掴まれ「明らかに寝起きを無理やり引っ張られてきました」風で杉崎家に現れた彼の瞳の中にも、私と同じある種の諦めが滲み出ていたから。
やはり私たちの読みは正しく、母親2人は開始早々けっこうなピッチで缶ビールを開け、自分たちの少女期や私たちの幼少期のアルバムを引っ張りだし、写真をまき散らし、七緒に絡み、私をからかい、昔話に花を咲かせ、最終的には寝てしまった。
もはや今日が何の会なのかというテーマはどこかに吹っ飛んでしまっている。
いつものことなので、私と七緒は「またか」とちょっと呆れて顔を見合わせ、縁側に出た(前述のとおり、リビングは写真が散乱してひっちゃかめっちゃかだ)。さっきまで酔っ払いたちのペースに振り回されっぱなしでお祝いも何もあったもんじゃなかったので、せっかくだから2人で仕切り直そう、となったのだ。
しかし自分で言うのもおかしいけど、酒豪の母親2人には、私と七緒がちゃんと良識ある少年少女に育ったことをもう少し喜んでほしい。
だって、お母さんたちはすっかり寝こけてしまって、辺りにはまだ封の開けられていない缶ビールが転がっていて、私たちは一般的に背伸びしたいお年頃である中学3年生で、常日頃からお酒をおいしそうに飲む大人の姿を知っていて。
こんな状況の中、ちゃんとジュースの缶を手に取った私たちって、そうとう良い子なんじゃないかしら。──いや、それともこれは逆に、酒飲みの母親たちが「お酒って恐いんだゾー」と身をもって私たちに思い知らせてくれていた、教育の賜物?
どっちにしろ、お互いグレなくて良かったよな、と私は幼馴染みに心で語りかけた。
「七緒もついに部活引退かー。最後にばっちし勝ったところ見られて良かったよ」
私は残り半分ほどになったサイダーをあおり、言った。
「まぁ、あの次の試合で敗退したけどな」
「でも、地区大会の団体戦であそこまで勝ち進んだの、有坂中の柔道部では新記録でしょ?」
「……うん。まーな」
七緒がまんざらでもなさそうに笑う。最後に悔いのない試合が出来たようで、私も嬉しい。
「心都は? 昨日の模試どうだったんだよ」
「ぼちぼち。悪くはなかった……と思う」
「そっか。良かったじゃん」
「うん。私、七緒に軽い報告があるんだ」
「報告?」
七緒が興味深そうに私を見る。
「昨日の模試受けるのに、志望校を記入しなきゃいけない欄があったのね。今回の結果に基づいて現在の合格率とかが出されるからさ」
「あー……心都、前に、第一志望は北高って言ってたよな」
覚えていてくれたのね。
うふ、と私は微笑んでみせた。
「そうだったんだけどね、ちょっと色々考えて、変えたの。第一志望は有坂高校にした」
「有坂?」
七緒は驚きを隠さず、目を見開いた。
その反応も当然だ。有坂高校は、県内の公立校という点では私が少し前まで志望していた北高校と同様であるものの、偏差値は10ほど高くなる。
つまり「安全圏」だった高校から、「かなり厳しめ」なレベルの高校へ目標をチェンジしたのだ。
「……ずいぶん思い切ったな」
「でしょ。自分でもそう思うもん」
「理由聞いていいか」
幼馴染みは、珍しく少し遠慮がちに訊ねてきた。
私は頷いた。そんなのもちろんだ。こちとらあんたに聞いてもらいたくて喋っているんだから。
「前に七緒にも言ったけど私、ずっと進路が決められなかったんだよね。特にやりたいこととか得意なこととかないし、学校選びの基準もよくわかんなくて。だから単純に、今現在の自分のレベルから考えて一番妥当で安全な北高を第一志望にしてたんだけど」
右手の缶のサイダーを飲んだ。夏の午後の気温にやられて、もうぬるくなり始めている。
「でも、学校で進路希望調査票を提出してからも、ずっと考えてたの。自分の将来なのにこんなテキトーな決め方していいのかなって……。幸か不幸か、すぐ側にやたらキラキラした汗をかいて将来に向かって進んでる人がいたから、特にそう考えさせられる瞬間が多くてさ」
肘で軽く小突いてやると、七緒は「いて」と呟いた。
「前々からそうだけど、ここにきていっそう私もキラキラしたいなって願望が幅を利かせてきたから、悩んだ結果、守りに入って全く理由がない高校に行くより、どんなに些細なことでもいいから自分なりの志望理由がある高校を目指すことにした。たとえ今はレベルが届いてなくても、もう決めた。多分相当無謀だし、両親は応援してくれてるけど塾の先生にも学校の先生にもかなり反対されると思う。でも、もう頑張りたいって思っちゃったから頑張ります!」
後半、矢継ぎ早にまくしたてると、私は「報告終わり」と締めくくった。話しているうちにだんだんと恥ずかしくなってきたのだ。キラキラってなんだろうな、我ながら。
「そっか」
隣の七緒が頷いた。
「頑張れよな。一度決めたんなら、お前は絶対、大丈夫だよ」
「本当に?」
「うん。うまく根拠言えないけど、俺はそう思う。応援してるよ。本当に」
これまで何度も実感しているように、彼の笑顔と言葉には不思議な力がある。
しかも私にとっては何年経っても免疫なんてちっともできない、その度にハッピーで温かな気分になれる、まるで魔法のようなものなのだ。
彼に太鼓判を押してもらえたことで、私は自分の判断をもう迷いなく信じられる。さっきまでの気恥ずかしさもあっという間に消え去り、素直な気持ちで笑うこともできる。
「ありがとう」
やっぱり七緒に話せて良かった。
私はぬるいサイダーの残りを一気に飲み干した。
「ところで、心都の言う有坂高校の『些細な志望理由』って何?」
「……」
「……」
「……七緒の柔道とか美里の英語に比べれば本当に小さすぎて、くだらなすぎて……絶対笑うよ」
「笑わねーよ」
「……2つあるんだけど。1つ目はね、」
誰が聞いているわけでもないけど、私はなんとなく声をひそめ、七緒の耳元に口を寄せた。
「制服が超可愛いの」
瞬間、七緒が呆気にとられた表情になる。
「…………」
「『うわー思ってた以上にチープな理由だったわー反応しづれぇわー』って顔に書いてあるよ、七緒」
「お、思ってねぇよ。確かに……想像の斜め上だったけど」
──制服の可愛さ。それは私にとって結構重要な要素である。
なぜなら私は今までの学校生活において、文化部所属にも関わらず、きちんと制服で過ごす時間が一般的な女子よりだいぶ少なく、美里にしょっちゅうジャージ登校を咎められていた。昨年末からは心を入れ替え、制服で過ごすこともかなり増えたけど、それも「可愛くなって七緒に告白する!」という大きな目標があってのことだ。
ゆえに、七緒と別々の高校になったとき、その楽チン加減にまたもや魅了されジャージ登校が再発する可能性大、そのままズルズルずぼら生活、女子力低下一直線──と、悲しいかな自分でもうっすら予想がつく。
だからこそ心から可愛いと思える制服を着用できる環境は、きっと私がダークサイドに落ちるのを防いでくれるに違いない。
──っていうかごちゃごちゃ考えちゃったけど、もう単純に、可愛い制服っていいじゃん!
変な紺色のプリーツ少な目スカートに紐リボンの野暮ったい中学制服とは全く違うじゃん!
テンションがんがん上がるじゃん!
乙女だもの! ね!
しばらく宙を見て思案していた七緒は、私の「ジャージ癖」に思い至ったのか、納得したように呟いた。
「……うん。まぁ心都らしいといえばらしいかもな。いいじゃん」
「なーんかバカにされてる気がするなあ」
「してねーよ。…………ふ」
「はい今笑った! 今あんた堪えきれずに笑ったよ! えぇ、いいよ、思う存分バカにしなさいよ! もし合格しても七緒には絶対制服見せてあげないからね! ブレザーにきんきらエンブレムで、ネクタイで、青チェックの細かいプリーツスカートで、私立校みたいなおっしゃれーな制服なんだからね!」
「バカにしてないって。なぁ2つ目は?」
「もう言わない!」
「えー」
七緒が不満そうに唇を尖らせる。けっ、そんな顔しても無駄だ。
私はすぐ目の前にある犬小屋まで近寄り、暑さでぐったり昼寝中のクロの頭をガシガシ撫でて頬擦りまでした。
「最低でちゅねクロたんっ! 性格極悪なんでちゅよ、あの男はっ!」
「おい、クロすげー嫌がってんぞ」
本当は、2つ目の理由だけは最初から彼に教える気がなかった。
だって死ぬほど恥ずかしいから。
私が志望する有坂高校と、七緒が志望する開条高校。
私たちの家から向かうと、一度の乗り換えを経たその次までは電車の路線が一緒なのだ。
もちろん開条高校は隣の隣のそのまた隣の県だから、有坂高校の最寄駅で降りた後も更に乗り換えが2回あって、最後はバスに乗ったりもして、とてもじゃないけど近いなんて言えないけど。
でも私が高校3年間で使う駅が、七緒のところにも繋がっている──そう考えただけで、なんだか勇気がわいてきて、離れ離れの寂しさも少しは和らぐ気がする。途方もなく遠いところにいるわけではないんだよね、と思うことができるのだ。
これって多分制服の件以上に相当恥ずかしい、ともすれば「やばい」理由だと思う。
だから七緒には、何があっても一生教えてあげないことにする。
「くそ、バカにしやがって。絶対合格してやるっちゅーの」
私は七緒に背を向け、クロを相手に汚い言葉使いでブツブツと愚痴をこぼした。
普段は優しく私の小言を受け止めてくれる愛犬も、この夏の暑さには敵わないらしい。うぜーよお前、とでも言いたげな視線をこちらに投げ、のそのそと小屋の中へと戻ってしまった。
もう、いけず!
私は切なくなって、ちょっと鼻をすすってみた。
と、そのとき、後方の七緒が思わぬことを口にした。