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4<チャイムと、決心>

「七緒が大変って……どういうこと?」


 田辺は「いいか、落ち着いて聞けよ」と前置きすると、目をぎょろぎょろさせながら話し出した。

「俺、家の近くの停留所からバスでこの夏期講習に通ってんだけどさ! そのバスがうちの学校のグラウンド前を通るんだよ! で、バスの窓から微妙に校内の様子が見えるんだ! グラウンドで部活やってるとことか、体育館前の様子とかが! あ、ちなみに俺たちバスケ部は夏休み入ってすぐに3年全員引退してるからな、この夏は受験生モードなわけだけど!」

 いまいち要領を得ない彼の話に、「お前が落ち着けよ」と言いたくなる。


 私は割と冷静だった。まだ七緒に何があったか判明していないし、田辺は物事を大げさに言う傾向がある奴だってことはよくわかっているから。

「で、さっきここに来る途中、バスでいつもどおり学校の前を通って……そのとき窓から見えたんだよ! 東らしき柔道部員が保健室に運ばれるところ!」

「えっ」

 一瞬、頭が真っ白になる。

「ほら、体育館から保健室行くには、一回グラウンド側に出るだろ。そこが見えたんだよ! 数秒だったけど、東、ガタイの良い奴に肩借りて、ひとりじゃ歩けない風で……多分足か何かを怪我してる感じだったぞ、ありゃ」

 ここにきて、心臓が大きく脈打ち始める。

 七緒が怪我?

「そんな……」

 ひとりじゃ歩けないの?

 ひどい怪我なの?

 どのくらいひどいの……?

 不安と疑問が頭の中をぐるぐると回る。


 授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。

 聞き慣れた学校のものとは音階が微妙に違うそれを聞いていると何だかますます心がざわついて、もう、いても立ってもいられない。


 私は走り出した。

 参考書や辞書、筆記用具が入った重いトートバッグはその場に置いていく。「あっ、杉崎!?」と、後ろから田辺の驚いた声が聞こえる。

 振り返る余裕はなかった。

 さっき塾まで全力疾走したばかりだっていうのに、しんどさは全く感じない。

 それどころか、普段の自分では考えられないようなスピードで足が動く。


 私は心の中で、よくわからない「誰か」に必死に祈っていた。

 ──お願い。どうか大したことありませんように。

 七緒。

 今月は大切な引退試合があるって言っていたのに。

 柔道を頑張る決意を、あんなに目を輝かせて私に話してくれたばかりだったのに。

 その彼が今のタイミングで怪我してしまうなんて、そんな意地悪なこと、ないよね?

 嫌だよ。

 お願いだよ、七緒……。






















 私が保健室の前に辿り着いたのと、七緒がドアを開け室内から出てくるのは、ほぼ同時だった。

「七緒!」

 柔道着姿の彼は突然現れた私を視界にとらえるやいなや、まるで幻でも見たかのようにポカンとした顔になった。

「心都? なんでここに……」

「け、怪我は? 大丈夫っ? 七緒が怪我したって聞いてっ……」

 ぜぇぜぇと息切れしつつ尋ねる。

 七緒はますます不思議そうな表情で、それでもしっかりとした口調で答えた。

「してないけど」

「は……?」

「俺、怪我なんかしてない」

 ケガナンカシテナイ……毛が軟化してない……違う。七緒の言葉を反芻し、全身の力が抜けた。

 ──なんだよ、元気じゃないかこいつ。

 がっくりと膝をついた私に、七緒はかなり慌てたようだった。

「うわ、どうした!」

「……う、うぅ……」

「え、泣いてんの?」

 彼が無事で良かったという安堵と、私なにやってんだろうという虚無感と、全力疾走の疲労と、田辺の奴まじ覚えとけよという怒りが一気にやってきて、涙と鼻水が止まらない。

 七緒がちらりと背後の保健室に目をやった。

「……とりあえず場所変えるか。な、心都」

 うめく私の肩を軽く叩きながら声をかける七緒の姿は、さながら泣き上戸の酔っ払いを上手くなだめる新橋のサラリーマンのようだったとかなんとか(わかんないけど)。





 私たちはグラウンド脇に設置された古いベンチに腰掛けた。

 私はすっかり涙も鼻水も止まり、先程の失態への恥ずかしさに苛まれていた。

「心都、能面みたいな顔になってるぞ」

「……」

「……」

「………いいの? 部活中でしょ?」

「んー、ちょっとなら大丈夫だよ。っていうか、今こんな状態の心都放って戻っても色々気になって集中できないし」

 と、七緒。その横顔はいつも通りで、やっぱりとても「元気」に見える。

「……本当に怪我してないんだよね?」

「うん。怪我した後輩に肩を貸して保健室まで運びはしたけど。まぁ結局そいつも、いざ保健室で見てもらったら畳の繊維が足の小指の爪の間に刺さってただけで、全然大したことなかったんだけどな」

「……はぁ」

 あまりにもお粗末な顛末に、私はあらためて脱力した。

 田辺の奴、肩を貸している七緒と貸されている後輩の立場を間違えるなんて……、これは本当に「あの野郎覚えとけよ」と乱暴な言葉を呟かざるを得ない。


「後輩がさ、練習中、急にぎゃあぎゃあ痛がりだすから何事かと思ったよ。あいつ大げさなんだよなー。今保健室で抜いてもらってるよ」

 あはは、と七緒がのんきに笑う。

 その笑顔を見ていると、怒りも少し(全部とは言えない)和らいで、私は固めていた怒りの拳をほどいた。

 まぁ、とりあえず、何事もなくて良かった。

 だって以前も大切な大会の日に40度の熱を出してしまった彼だ。このタイミングで怪我して引退試合欠場なんて、ここに駆けつける道すがら無事を祈りながらも、正直ちょっと「ありえるかも」と思っていた私なのだった。


「……それで、心都はなんでここに?」

「……いや……別に」

「夏期講習の時間じゃないの?」

「……今から行くよ」

 七緒は私をじっと見つめていたかと思うと、やがて、

「……あぁ、心配してわざわざ走ってきてくれたんだ? 俺が怪我したと思って?」

 にやりと笑った。

 そんな笑い方なのに全くいやらしくはならずに、どことなく上品でラグジュアリーな感じさえ漂っているように見えるのだから、やっぱり彼の魅力はすごいなーと思う(もしくは私は病気だなーと思う)。

 七緒は相変わらずニヤニヤしながら、からかうように言った。

「いやぁ、俺って幸せ者だよなぁー」

「……!」

 私は恥ずかしさに身悶えしながら、心の中で絶叫した。


 ──今日の七緒は、性格が悪い!


「……誰にだって勘違いはあるの! 七緒が大怪我して複雑骨折で内臓破裂で全身やけどで凍傷で記憶喪失で保健室で緊急オペって聞いたから、最期に話そうと思って走ってきたの! しょうがないじゃん!」

「ふーん。まぁ怪我してるっちゃしてるけど」

 そう言いながら七緒は自分の前髪を上げ、額を出してみせた。よく見ると眉間の上、つまりデコの真ん中が少し赤い。

 怪我ともいえないような、些細なものだ。

 私は全てを理解した。

 これは昨日のあの「ドアごっつんこ事件」のときの痕で、彼の態度はそれに対する微妙な報復なのだ。

「性格わっる……」

 苦々しく呟く。


 七緒は少し笑ったあと、ようやく真面目な顔をして言った。

「いや……でも本当、勘違いさせて、心配させて悪かったよ。ごめん」

 今回の勘違いの件に関しては、主に私と田辺のせいであって、七緒は何も悪くない。彼はただ痛がり屋の後輩に肩を貸しただけだ。それなのに謝るこの幼馴染みに、また少し腹が立った。

「でもマジでさ、結構幸せ者だよな俺。……ありがとうな、心都」

「……別に」

 七緒が真面目な顔で言えば言うほど、やっぱり私は可愛く返せない。

「……全身包帯だらけの七緒は見たくないけど、七緒の引退試合は見たいもん」

「あぁ、そう」

「試合、今月のいつになったの?」

「再来週の日曜」

「えっ」

 再来週の日曜────。

 確か昨日説明を受けた、大手塾生の必須イベント、1日がかりの模擬試験の日だ。

「えぇーっ……」

 ずしんと胸に石を落とされたような、重く暗い気分だ。

 日曜日は普段通りの予定なら夏期講習がない。つまり模試さえなければこの曜日は間違いなく毎週暇だったはずなのに。こんなタイミングの悪さってある?

「何かあんの?」

「……塾の模試」

「おぉ、そっちも重大イベントだな。じゃあしょうがないか」

 七緒はさらりと言うけど、私は首を縦に振れない。


 嫌だ。だって、その日は、ずっと応援するのを楽しみにしていた日だ。七緒の姿を目に焼き付けておきたいと思った日だ。

 模試より試合のほうが私にとっては何倍も重大に思える。

「模試、休もうかな……」

 足元を見つめ、ぽつりと呟く。

 その言葉に隣の七緒が驚いた顔になったのが、見ていなくてもわかった。

「はっ? 何言ってんだよ。そんなん駄目だろ」

「だって……」

「あのな、心都の気持ちは嬉しいけど、同じ場所でしか応援できないわけじゃないんだよ」

 私は顔を上げた。

 七緒と目が合う。

「俺も心都の模試応援してるし、心都にも俺の試合応援しててほしいよ。お互い心の中でさ」

 七緒が少し笑った。

「だから目標が違うなら、それぞれの場所で頑張ればいいんだよ。それがお互いの応援にもなるだろ、きっと」

 彼の顔がいつもよりずっと大人に見えたから、私はなんだか胸が詰まった。


 それぞれの場所。

 もちろん七緒は試合会場と試験会場のことを言っているのだろうけど──私にとっては違う。


 私が好きな人のことで悩んで悩んで悩みまくっているとき、答えを教えてくれるのは大抵その「好きな人」張本人なのだ。

 これってきっと、私も七緒に負けず劣らずの「幸せ者」なんじゃないかと思う。



「……わかった」

 私は頷いた。

「わかったよ七緒」

「2回言ったな」

「あなた様のかっちょいーお言葉が胸に響いたんで」

「馬鹿にしてるよな?」

「いやいや、とんでもない」

 腑に落ちなさそうな顔の七緒。まだまだ何か言い返したげだったけど、それでもチラリと校舎の時計に目をやると、腰を上げた。

「……じゃ、そろそろ練習戻る」

「うん。七緒、柔道着似合ってるよ」

「なんだよ急に」

「なんとなく」















 彼の背中を見送りながら、私は決心していた。


 そろそろ、ちゃんとハッキリさせなくちゃいけない──色々なことを。








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