1<入道雲と、夏の憂鬱>
来年の桜が咲いたら、七緒が遠くへ行ってしまう。
夢にも思わないことだった。
そりゃあ私だって、いつまでも同じ学校、同じ町、ご近所さんでいられると思っていたわけじゃないけど。
「それで、そのあとどうしたの?」
と、電話の向こうから美里の冷静な声が聞こえる。
私は自室のベッドに腰掛け、暗い気持ちのままぼそぼそと答えた。
「……私、『へぇ』って答えて……あとは特に何も」
「えっ、それだけ? それで終わり?」
「そのあと私、足元に蝉の抜け殻が転がってるの見つけたから、『あ、抜け殻』って言って、あとは虫の話とかして、残ってたソースせんべい食べて……その日は終わった」
「最悪……。最っ悪」
ため息を挟み、美里が感想を二度口にした。
私も同じく思う。──そう、最悪なのだ。
5日前──つまり、あの夏祭りの日。進路を告白してくれた七緒に対し、私の反応はあまりにも淡白だった。
咄嗟に返せた言葉は「へぇ」の二文字だけで、あとはその話題を避けるかのように、大した広がりを見せない虫の話ばかり続けてしまったのだ。
「もう……心都ってなんでそうなっちゃうわけ? そこは良い幼馴染みとしては笑顔で『頑張ってね、応援してるよ』! 片思い中の乙女としては潤んだ瞳で『応援したいけど、やっぱり寂しいよ……』。このどっちかでしょ!」
携帯電話のスピーカーを通してでも、美里の眉毛が吊り上っていることがなんとなくわかる。
「……だって、あまりにもびっくりして……」
「ショックで混乱しちゃったのはわかるけど、だからってその反応は駄目よ。七緒くん、せっかく一番に心都に打ち明けてくれたのに」
私は黙って頷いた。もちろん電話越しなので、それが美里に伝わっているとは思えないけれど、そうすることしかできなかった。もうぐぅの音も出ない。
全くもって、この親友の言うとおり。
私は最低だ。
あまりにも急な進路発表に絶句してしまったとはいえ、よりによってチョイスした選択肢が「回避(虫の話)」だなんて。今振り返ると、とてもじゃないけど今年度義務教育を終える人間の行動とは思えない。
七緒の決意を聞いた瞬間、本当に何を言えばいいのか、何を言いたいのかわからなくなってしまった。
自分自身の中で色々な感情が拮抗して、せめぎ合って、美里の言う「応援するよ!」と「寂しい」のどちらの言葉も出なかった。
それは5日経った今も変わらず、私は七緒にどんな言葉をかけるべきか、自分の気持ちの答えが見つからないままだ。
だって、七緒が遠くに行っちゃうなんて──嫌とか嫌じゃないとか以前に、実感がないんだもの。
ベッドに腰掛けたまま、窓の外を眺める。
気づけば夏休み真っ最中。
どんより澱んだ私の心とは裏腹に、午前中の夏の空は見事なお天気だ。
輝く太陽、スカイブルーに入道雲がもくもくと横たわり、まさしく夏晴れって感じ。
「心都……大丈夫?」
美里の気遣わしげな声が聞こえ、我に返る。
「あ、大丈夫。ごめん、ちょっとぼけっとしちゃった」
「……とりあえず、自分の気持ちに整理がついたら、七緒くんにもう一度この話振ったほうがいいんじゃない? このままズルズルしてたらこの話題はうやむやになっちゃうわよ」
「そうだよね……」
私だって、このままにしているのは嫌だ。
七緒がわざわざ伝えてくれた決意に、自分なりの素直な言葉をきちんと返したい。
「ちょっと考えてみる。ごめんねジメジメしちゃって」
「ううん。……あ、そういえば心都、今日も夏期講習?」
美里が少し明るいトーンになって、話を変えてくれた。
「そうだよー。平日はほぼ毎日あるもん」
どんなに志望校がふわふわしていても、恋に頭を悩ませていても、受験生は受験生。私はこの夏、近隣の学習塾に通っている。
美里のように家でコツコツと要領よく学力を上げられるタイプではなく、しかも得意科目とそれ以外の差が激しい私は、お母さんの勧めもあり、夏休み限定の特別夏期講習に参加することになったのだ。
今日もあと数十分後には出かけなくてはならない。
「なんかこの間、田辺くんもそこの夏期講習に参加してるみたいなこと言ってたわ。会ったことない?」
「えー、そうなんだ。結構うちの学校の子いるけど、田辺は見たことないなぁ。もしかしてクラスが違うのかも。私は理系のほうが苦手だから、数学レベルアップクラスなんだ」
「あ、そっか。じゃあ違うわね。田辺くんは英語を重点的にやるクラスだって言ってたから」
「ふーん。……っていうか、美里、田辺と夏休み中ちょくちょく会ってるの?」
やけに田辺についての情報が充実している。夏期講習のクラスがどこかだなんて、夏休み中に会っていないとできる会話ではない。
ひと呼吸置いたのち、美里は憂鬱そうな声を出した。
「頻繁にメールが来るの。頼んでもないのに近況報告みたいなメールが」
「あぁ……そうなんだ」
「あの人、メールですらやかましいのよ……。顔文字もガチャガチャ使いまくるし、それに加えて一文ごとにビックリマークが5個くらい付くのよ。信じられる?」
「そ、それはご苦労様……」
労いの言葉をかけずにはいられない。
その後も少し雑談(主に美里が、田辺からのメールによく使われる\8(((●^▽^●)))8/☆という変な顔文字の意図がわからないという不満をぶちまけ、私は心で『頑張れよ田辺』と20回くらい呟いた)を交わし、電話を切った。
私は夏期講習用の参考書や辞書が入ったトートバッグを持つと、部屋を出る。
考えるのは『ラブチャンス同盟』のたった一人の仲間のことだ。
田辺のやつ、夏だっていうのに相変わらず暑苦しく攻めてるなー。
今年は猛暑らしいし、この夏を境に本格的に美里に嫌われなきゃいいけど。この想像はなんとなく現実味がある気もする。
でも──。
玄関でサンダルを履きながら、ふと思う。
美里も、本当に興味のない相手だったらメールの内容をこんなに覚えていることもないような気がする。きちんと本文を読むかも怪しい。彼女はそういう性格だ。
だから、田辺が夏期講習で英語クラスに所属していると記憶しているってことは、彼をそこまでぞんざいに思っているわけではないんだよね、きっと。
なんだかんだ、順調に距離を縮めていってるんじゃないだろうか。
そう思うと少し嬉しくなる。
でもまぁ、とりあえず、『\8(((●^▽^●)))8/☆』は止めたほうがいいよな。
私がやんわり注意してあげるべきかしら……。
そんなことを考えながら「いってきまーす」で勢いよくドアを開けた、その瞬間。
ゴン、という鈍い音とともに、何かが戸にぶつかる手ごたえがあった。慌てて外に出ると、
「……」
右手を額に当ててうずくまる、ジャージ姿の七緒がいた。左手には半分に切られたスイカを抱えている。
「えっ、何してんの?」
「俺が聞きてぇよ……なんだよこれ、タイミング悪……」
若干涙声だ。可哀想に、よほど痛いのだろう。
何してんの? と聞いたものの、この状況を見ればいくら私でもわかる。
おそらく我が家にスイカのおすそ分けに来てくれた彼がインターホンを鳴らそうとしたところ、ちょうど私がドアを開けてしまったのだ。
「ごめんごめん。まさかそんな所にいると思わないからさぁ」
ようやく痛みの波を越えたらしい七緒が、額をさすりつつ立ち上がる。
「どっか出かけるとこ?」
「うん、今から夏期講習」
「あー……そっか。これ、うちの母親からおすそ分け」
私はスイカを受け取り、お礼を言った。
「わぁ、おいしそう。ありがとう」
多分、いつも通り笑えていたと思う。
笑わなくちゃいけないと無理に思ったのではなく、自分でも驚くほど自然に笑顔が出た。
それは多分、七緒が普段と変わらない態度だったからだ。
「七緒もこれから部活?」
「うん。大会近いからな、一番気合いいれてる時期だよ」
「あ、そっか……今月引退試合って前に言ってたもんね。今日も暑いみたいだから熱中症とか気を付けてね」
「おー」
いつもと変わらない、自然な会話。
お互い、夏祭りのときうやむやに流れた進路の話をまたほじくり返したりはしない。
だからなんだか、あの日のことは全部夢だったのではないかとさえ思えてくるのだ。
もちろんそんなはずないってことはよくわかっているのだけど。
出かけるところ悪かったな、と言い帰っていく七緒。
私は小さく手を振る。
彼の背中が小さくなっていく。
あぁ、駄目。
駄目駄目だ。
結局私は、「良い幼馴染み」にも「恋する乙女」にも徹しきれていない。
どっちつかずの中途半端な奴なのだ。