7<恋の病と、4回目>
「……山上の宣戦布告は、受け取れない」
落ち着いた口調で、しかしハッキリと、七緒は言った。
私は緊張と不安で、もうどうにかなりそうだった。
鼓動がうるさい。
宣戦布告って一体何?
受け取れないってどういうこと?
その疑問を代弁してくれたのは、意外なことに──このやりとりの当事者であるはずの山上だった。
「宣戦布告? ってそれ何だっけ?」
「えぇぇ……?」
と、七緒が心底情けない顔で山上を見つめる。効果音をつけるならきっと「ガビーン」だ。
まぁ、彼のショックも当然といえば当然だろう。あれだけあらたまった雰囲気をかもし出して放った言葉が、「何だっけ?」の一言で片付けられてしまったのだ。
しかも山上のほうはブランコに座ったまま、少しも悪びれることなくあっけらかんと笑っている。
「わりぃ、わりぃ。俺、東に宣戦布告なんてそんな物騒なことしたっけ?」
「思いっきりしただろ! 1ヶ月くらい前!」
「……?」
「いやいや、なんでポカン顔だよ! お前、わざわざ俺を待ち伏せてこの場所で堂々宣言してたじゃねーか!」
自分に対する「宣戦布告」とやらを必死に思い出させようとする七緒。なんだか見ていて気の毒になってきた。
「おい、まさか本当に忘れたのか。お前、『俺は杉崎が好きだ。杉崎が東と過ごす時間も今後は俺との時間に変えていきたい。男女の仲良し幼馴染みとかそういうのは卒業していい年齢だろ』とか一方的に言うだけ言ってウィンクかまして去ってっただろ!」
その非常に簡潔な説明は、私の心臓を破壊するには十分すぎるほどの威力だった。
血が驚くべき速さで送り出され、それが顔中に集中するものだから、カーッと燃えるように熱い。
山上が七緒にそんなことを言っていたなんて、ちっとも知らなかった。なんというか、山上って──本当に本当に、ストレートな人だ。
あまりの恥ずかしさにひとり顔を手で覆うと、肘が葉っぱにぶつかった。その場しのぎの隠れ家である植え込みがガサリとわずかな音を立てる。
七緒と山上が同時にこちらを向いた。
「なんだろ、今の音」
……あぁ、私の馬鹿!
「猫じゃね?」
と、山上。その言葉が私には天の助けのように聞こえた。猫の真似なんてしたこともないけれど、この場を切り抜けるためにはやるしかない。
「ニ、ニャーオゥー」
「ほら、やっぱり猫だ」
「本当だ、猫だな」
心で大きくガッツポーズ。自分の物真似能力もなかなか侮れないものだ。
私が妙な自信をつけたところで、2人のやりとりが再開された。
「あー、うんうん、そうか。宣戦布告って、あのことか」
「よし、思い出したな? 話進めるぞ?」
無駄な汗をかきながら七緒が確認をとる。
もう完全に山上のペースだ。
「……山上は『杉崎との時間をくれ』っていうような意味で言ったんだと思うけど、それは無理だ。やっぱり心都とは十年以上の幼馴染みとして、まぁ喧嘩とかも多いけど一緒に過ごしてきてる仲だし……幼馴染みっていう存在は、やっぱり結構、自分でも思ってる以上にでかいと思うから」
私は七緒との修学旅行でのやりとりを思い出した。あのとき再確認した彼の存在の大きさは、今もばっちり心に残っている。
身を乗り出して、七緒の言葉に耳を傾ける。
「だから俺もそれはしないし……うぬぼれじゃなければだけど、多分あいつもそんなことしてほしいとは思ってない。山上が、心都と距離を置いてくれって言ってもそれはできないよ」
喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
──うぬぼれなんかじゃないよ。
七緒。
もしそんなことになったら、私はきっと立ち直れない。
七緒はまっすぐに山上に向き合い、言った。
「俺は山上のことすごくいい奴だって思ってるし、それはこれからも変わらないと思うけど……もし万が一山上があいつを傷付けるようなことがあったら、許せないと思う。……いちおう大事な幼馴染み、だからさ」
淡々と話す彼を見つめ、私はもう胸がいっぱいだった。
七緒が私のことをそんなふうに言ってくれるなんて。たとえ七緒の言う「あいつ」が、「女の子としての私」ではなく「幼馴染みとしての私」であることが一目瞭然でも──やっぱり、涙が出そうなくらい嬉しい。うん。
私が言いようのない感動に浸っていた、そのとき。
「ははは、そんな怖い顔すんなってぇ」
山上が緊張感のない笑い声をあげた。
「俺、別にそれ強要するつもりで言ったんじゃないからさ。いちアドバイスっつーか、願望っつーかさ」
「……はぁ?」
七緒が訝しげに目を細める。
その光景に、私はまたしても激しい既視感をおぼえた。
なぜならこれ、数週間前の私と山上のやりとりと全く同じだから。
おそらく山上はそのストレートさ故に、相手に大きな衝撃を与える言葉をあまり深く考えずに発してしまうのだ。本人に全く悪気がないだけに、よけい始末が悪い。
「お前なぁ……あんだけ言いたいことガンガンぶつけときながら、そりゃねーだろ……。俺けっこう真剣に受け止めて考えたのに」
「わりぃ、わりぃ。俺の言葉は気にすんな!」
「……」
完全に山上に振り回された形になった七緒が、げんなりと肩を落とす。しかし、やがて「まぁいいか」と呟くと顔を上げた。
海より深く山より高い寛容さを大発揮している、というわけではない。
七緒のあの、なんの感情もないガラス玉のような目。……多分面倒くさくなったのだ、全てが。
「そうだ東、お前、焼きそば好きか?」
唐突にブランコから立ち上がった山上が、七緒の肩に手を置く。
「え? まぁ、普通に好きだけど」
「よし! じゃあ今回悩ませちまったお詫びに、来月の夏祭りで焼きそば何個でも奢ってやるよ! 俺、屋台手伝う予定なんだ」
「へー、山上が焼くの?」
「おう。うちの部の顧問が毎年焼きそばの出店やってるみたいで、部員でそれの手伝いなんだ。町内の夏祭り、来るよな?」
七緒は少し宙を見て考え込むような仕草のあと、小さく頷いた。
「……うん。ちょうど、今年は行こうかなと思ってたとこだから」
私は、忘れかけていた現実を突きつけられた気持ちになる。
あの日あのとき夕日さす廊下で、子リスちゃんが誘っていた夏祭り。それに対して七緒がどう返事をしたのか、私は知らないままだった。
だけど──OKしたんだ。やっぱり行くんだ、七緒。
幼馴染みが誰とどこへ行こうとも、私が干渉できることじゃない。それは十分すぎるほどわかっているはずなのに、やっぱりどうしようもなく悲しい。
可愛い後輩と2人きりで夏祭りに行くということが、少なくとも「君のこと好きになる可能性がありますよ」という意思表示の意味を持っているって、あの鈍感な彼はわかっているのだろうか。
「じゃあ、焼きそば食いに来いよ。俺は今年初参加だから知らないけど、かなりうまいらしいぞ」
「サンキュー。楽しみにしてる」
七緒の笑顔を見て、胸が痛んだ。
「それにしても東……、4回だ。4回」
「は? 何が」
「ここ数分で、お前が『幼馴染み』って言葉を口にした回数」
「……数えてたのか」
「まぁな」
へへ、と山上が得意げに胸を張る。だけど七緒の若干ひき気味の表情から、彼が山上を褒めたわけでないことは明らかだった。
「ま、とりあえずもっかい座ろうぜ、東」
山上が再び、ブランコへの着席を促す。
私もだんだんとわかってきた。山上がこんなふうに言うときは、何か話したいことがあるという合図なのだ。……多分。
「東が杉崎のこと大事に思ってるのはよくわかったけどさー」
山上が相変わらずの明るい口調のまま言う。
「それって本当に『幼馴染みとして』なのか?」
私は、今度こそ心臓が破裂する思いがした。
山上ったら、なんて際どすぎる質問をするのだろう。
「え?」
七緒がこれ以上ないくらい目を丸くして、山上を見つめる。
もちろん私は9割方期待なんてしていない。今までの経験、そしてこの七緒のきょとん顔を踏まえれば、私のポジションが「それなりに重要な幼馴染み」に過ぎないことは否定しがたい。
だけど残りの一割で、やっぱり懲りずに甘い展開を期待してドキドキしてしまう。七緒の中で私の存在が少しでも「女の子」になれていれば──先の見えないこの片思いにも、光が差してくるってものだ。
答えが聞きたいような、でも聞きたくないような。
そんな複雑な乙女心に占拠された私は、ついつい身を乗り出しすぎた。自分の体重をかけているのが、コンクリ作りの壁なんかじゃなく、ただの植え込みの葉っぱたちだってことも忘れて。
つまり私は、転倒した。
ドサリと派手な音を立て、七緒と山上の目の前に転がったのだ。
「……」
しばしの、不気味な沈黙。
それを破ったのは素っ頓狂な山上の声だった。
「こりゃ、噂をすればなんとやらだな!」
それを遮るように七緒が言う。
「違う。こいつの場合はただの覗き魔。しかも常習犯だ」
地獄の底から響いてくるような声。私を睨む七緒の全身からは怒りのオーラが溢れている。
私は静かに起き上がり、体についた砂を払った。
ここを切り抜けるためのいくつかの選択肢が浮かんでは消え、また浮かぶ。完全に姿が見えてしまっている今、さすがにもう猫の真似は通用しない。
そうして最終的に私が選んだ道は、「逆ギレ」だった。
「しょうがないじゃん! 趣味の昆虫採集してたら2人が来て、出るに出られなくなったんだから!」
「いつからそんな趣味持ってんだよ! つくんならもっとマシな嘘つけよ! 変態!」
「へ、変態!?」
「どう考えても変態だろ! もう覗きも3回目なんだからな!」
一度目は黒岩先輩とのキス未遂現場の覗き。二度目はクリスマス前の上級生からの告白現場の覗き。そして今。
確かに3回もこんな行動をしていては変態扱いされてもしょうがない。しかし細かいことを言わせてもらえば、これは4回目だ。私は昨日の子リスちゃんからのお誘い現場もバッチリ目撃しているのだから。
なんてことはもちろん七緒に言えるはずもなく、私はグヌヌと黙り込んだ。
「そんなところから不意をついて現れるなんて、さすが自称ゴキちゃんなだけはあるよな、杉崎」
と、腕組みをした山上が、うんうん頷く。どうやら彼は、私がこそこそ盗み聞きをしていたことに関して何の戸惑いもないらしい。有難い大らかさだ。
「……どういう意味?」
「こないだ言ってただろ。『自分はゴキブリ並にしぶとい女だから、」
「っ!」
私は慌てて山上の口を両手でふさいだ。20センチほどの身長差があるのでかなりキツい体勢だけど、これ以上言わせてなるものか。
この後に続くのは『七緒への恋は諦められないわよーん』という恥ずかしすぎる言葉なのだ。いくら大らかだからって、この場で言って良いことと悪いことはしっかり知っておいてほしい。
山上を思いっきり睨みつける。私の手をベリッと剥がした彼は「おぉ、怖」と言った。その弾けるような笑顔は、全くもって怖がっているようには見えない。
「じゃ、俺そろそろ帰るわ。これ以上いたら杉崎にまた殴られかねないからな」
そう言うと、山上は荷物を抱えた。
「東、雑誌ありがとな。焼きそば来いよ」
「おう」
去り際、山上は私に、小さくウィンクをかました。相変わらずのアメリカナイズ。だけどいつもと違う何となく意味深なその目線に、私はふと考えた。
もしかして山上、私がずっと植え込みに隠れていたことを知っていた?
……いや、まさかね。
すぐに推測を打ち消したものの、やっぱりなんだか言いようのないしこりが、私の胸に引っかかっていた。
あとに残された私たちは、非常にギスギスした雰囲気の中に立ち尽くす。
「……変態」
「変態言うな」
「だって変態だろ。それとも痴女か」
「いや、本当、盗み聞きは悪かったと思ってるよ」
「結局、こんなところで何してたんだよ」
「たまたま通りかかったら七緒がいて、山上も来て、つい出来心で隠れちゃって、私の話とか始めるから出づらくなって……」
「つい出来心で、か。変態にありがちな言い訳パターンだよな」
「……『思ってる以上に存在が大きい大切な幼馴染み』にそんな口の利き方ひどい」
「!」
七緒が信じられないというような顔で私を見る。
「お前……性格悪いな!」
「ウフフ」
結局、山上の最後の質問に対する七緒の答えは聞けずじまいだ。
だけど、それでも良いかなと思える。
その前の七緒の言葉は、たとえ対幼馴染み用だったとしても、やっぱりかなり嬉しかったから。
「ありがとうね七ちゃん」
「七ちゃん言うな。……別に、あんなの、普通あぁ答えるだろ、あの状況だったら」
もごもごと七緒が言う。私とは一切目を合わせようとしない。ほんのり赤い頬が、なんとも可愛いらしい。
「……」
どうしよう。なんか、私……。
──今、すごく、七緒のこと抱きしめたい。
だけど駄目だ。衝動に任せてそんなことしたら今度こそ私は正真正銘の変態になってしまう。
「くっ」
私は自分自身の肩に、思い切り拳を叩きつけた。
「え!? 何してんだよ唐突に!」
ちょっと力の加減を見誤ったかもしれない。予想以上に痛い。
「お、抑えが利かなくなったら嫌だから……」
「はぁ?」
「いくら変態でもやっぱり最低限はわきまえときたいっていうか、そこまで墜ちたくないっていうか……」
ぶつぶつと呟く私を、七緒が困ったように見つめる。
「なんだよお前、ノイローゼか?」
どうせなら恋の病と言ってほしい。
と、そんなことはもちろん七緒には言えず、私は無言で自分の肩をさすった(もう本当に、ちょっと半端じゃないくらい、痛い)。
ふいに七緒が私に尋ねた。
「さっきの山上の、焼きそばの話聞いてたよな」
「え? うん。……夏祭りで屋台やるって話でしょ」
思い出したくない話題を出され、私は俯いた。
七緒と子リスちゃんの夏祭りデートだなんて、想像しただけで胸が痛む。
しかし、その次に出てきた七緒の言葉は、私の予想を裏切るものだった。
「一緒に行く?」
私は固まった。驚きなんてものじゃない。予想外すぎる七緒の問いに、完全に頭がフリーズしてしまった。
私の反応の悪さを気にも留めず、七緒はさらに続けた。
「心都さ、最近疲れてるだろ」
「……そ、そう見える?」
確かに私はここ最近、迫りくる進路調査票の提出期限や、難しくなる授業内容に頭を悩ませていた。
だけど、体調を崩したり一切の笑顔を失うなどという大げさなものでもなかったし、普通に学校生活を送っていた。
まさか七緒が、そんな些細なことに気づいてくれていたなんて。
「うん。顔も疲れてるし、ため息も多いし、かと思えば急に変な髪形で登校してきたり、明らかにヤバい追い詰められ方してただろ。確かに受験生になって色々忙しくて大変だけど……だからこそたまには息抜きも必要なんじゃないかと思うんだよな」
にかっと七緒が笑う。
「だから夏祭りでも行ってさ、パーッと遊ぼう」
この事態にもだんだんと頭がついてきた。
つまりこれは、七緒いわく「ヤバい追い詰められ方をしている」らしい私の気晴らしに付き合ってくれるという、幼馴染みの優しさだ。
嬉しさに満面の笑みを浮かべそうになったところで、ハッと重要な問題に気づく。
「子リスちゃんは?」
「子リス? 何それ」
「あ、いや、なんか小動物系の可愛い1年女子に夏祭り誘われてなかった?」
こいつなんで知ってんだ、まさかまた覗きか? と言いたげな七緒。私は慌てて両手を振る。
「噂でね! 噂で聞いたの!」
まぁ、嘘ですけどね。
七緒はまだ疑わしそうな顔をしていたけど、やがて素直に答えてくれた。
「……その場でお断りしたよ。やっぱり、あんまり知らない人と夏祭りとかいっても、楽しめるような気もしないし。あの子も友達と行ったほうが楽しいんじゃないかと思うし」
「……あ、そう」
なんだそれ。本当に、心から鈍感な奴──と、からかう気にはならなかった。
私が思い返していたのは、先ほどの自分自身の言葉だ。
──2人きりで夏祭りに行くということが、少なくとも「君のこと好きになる可能性がありますよ」という意思表示の意味を持っている──。
それって、本来の関係が「幼馴染み」である場合にも有効なのかな。
そういえば、彼にこうしてちゃんとしたお出かけに誘われたのって生まれて初めてな気がする。幼い頃から、放課後「一緒に遊ぼー」とかはしょっちゅうだったけど。
「で、結局どうすんだよ。……行くの? 行かないの?」
七緒が少し居心地悪そうにこちらを見やる。
有効か無効かはわからないけど、まぁ良いか。
だって、七緒の優しさが、今こんなに嬉しいんだもの。
「行く!」
私は頷いた。
ここ最近で一番の、心からの笑顔で。