5<爆発と、りんご以上>
「七緒先輩! これを見てほしいッス!」
昼休み。私たちの教室にやってくるなり、禄朗はA4サイズの1枚の紙を掲げてみせた。
もはや2年生が3年生の教室に我が物顔で入ってきているとか、声がでかすぎて耳障りだとか、そんなことを咎める者はいなかった。何しろ相手は素行の悪さで校内にその名を轟かせる──しかし敬愛する七緒の前ではたちまち健気な乙女みたいになってしまう──進藤禄朗なのだ。
七緒はその紙を受け取り、まじまじと見る。最初は平常だった表情がしだいに驚きに染まり、やがて彼は素っ頓狂な声をあげた。
「学年順位43位? まじで?」
「そうッス! まじッス!」
禄朗が得意気に笑う。
どうやら彼が持ってきたのは、先日の中間テストの総合結果らしい。ひと学年は100人弱。その中で40位台とは、間違っても悪くはないポジションだろう。
私も驚いて目を見張った。暴力的で直情的、頭を使う作業なんて一切苦手そうなこの禄朗が! 学力試験で上位半分に入ったなんて!
世の中何が起きるか本当ににわからないものだ。
七緒が笑顔で禄朗の肩を叩く。
「すげーな、禄朗!」
「前回から60位くらいアップしたッス。俺、こう見えてやればできる奴なんスよねー」
「いや、本当すげーよ。頑張ったんだなー」
60位アップって、それ、前回はほぼ最下位ってことじゃないか。まさにごぼう抜きだ。
感心するのと同時に、華ちゃんの顔が脳裏に浮かんだ。
『禄ちゃんとお勉強会なんです』と嬉しそうに微笑む華ちゃん。今回の禄朗の大幅順位アップは、彼女の力によるところが大きいのだろう。
きっと禄朗のこの結果を誰より喜んでいるのは華ちゃんに違いない。
胸が温かくなる。
よく頑張ったな、禄朗。
そして華ちゃんに感謝しろよ、禄朗。
ていうか七緒にべたべたしすぎじゃないか? 禄朗。
「補習回避して夏休みは遊びまくりましょう!」とかわけわかんないこと言って、いつまでガッチリ握手しているんだ? 禄朗。
早く離れてほしい。
離れなさい。
離れろ。
「──で、あいつの髪は一体なんなんスか?」
禄朗が突如、教室の隅の少し離れた場所で念を送っていた私を指さす。
七緒がそれを真面目な顔でたしなめた。
「……禄朗、そのことについては触れてあげるな。俺だって朝から見ないフリしてるんだから」
私は傷付いた。それはもう、ざっくりと深く。
──そう。今日の私の髪の毛は、いつもとは一味ちがう。
自分としてはくるくるふわふわな女の子らしいヘアスタイルを目指したつもりだった。しかし今朝目覚めたとき、私の頭は理想のウェーブ感を遙かに越えた「ちりちり&ごわごわ」状態になっていたのだ。
やっぱり、前の晩に髪を乾かさないで三つ編みをして寝るというケチったやり方が間違いだったようだ。
もう一度シャワーを浴びるほどの時間もなく、泣く泣くそのままの髪で登校したところ、美里を始めとするクラスメイトたちは絶句。七緒すらからかってこない。
いっそ「その髪なんやねーん」と漫才ばりに真っ向からつっこんでくれたらまだ気が楽だっただろう。しかし、おそらく私がこの世の終わりのような顔で現れたため、誰も気軽に触れることができなかったのだと思う。みんな、優しい。もう優しすぎて涙が出そうよ。
「うわー、ヅラみてぇだな」
反対に、優しさの欠片もないのがこの禄朗だ。馬鹿にしきった薄ら笑いを浮かべ、こちらに近付いてくる。禄朗は片手で私の頭を乱暴に触り、
「ぎゃははは! なんだこれ、『ゴファッ』て、人間の髪の毛の感触じゃねーよ!」
「うるさい触るな!」
「鳥の大家族の住居にピッタリだな!」
「あんただってツンツンした馬鹿みたいな頭してるくせに!」
「なんだとテメェ! 俺のは入念にセットされた気合の入った髪なんだよ! そんな爆発コント後みてぇな髪型と一緒にするな!」
今にも始まりそうな掴み合いに、七緒が「はいはい」と間に入ってストップをかける。
「でも本当にどうしたんだよ、心都。頭燃えたの?」
七緒がようやく私と目を合わせた。そして視線を少し上、頭部にずらし、
「……ぷっ」
耐え切れなくなったようにふき出した。
「わ、笑うな! ちょっとくるくるふわふわに憧れただけで、そんでもってちょっと方法間違えちゃっただけで……ささいな失敗だよ!」
「ささいねぇ」
笑いをこらえ肩を震わせながら、七緒。
私は悔しくて唇をかんだ。
昨日の子リスちゃんに影響されているということは、七緒には絶対に知られたくない。だって、あんな女の子らしい可愛いヘアスタイルを目の当たりにして、憧れないわけないじゃない。
それが、何をどうしたら、こんなアフロ一歩手前みたいな髪型に?
やっぱり私って駄目駄目だ。惨敗。
「心都の長所は、思い込んだら一直線、一途になれるところよね」
デザートのりんごゼリーをお上品に食べながら、美里が言う。
「そして短所は、ちゃんと正しい方法を調べないで暴走するところ」
「……ごもっともです」
「なんでそんな頭になっちゃったわけ?」
美里の問いに答える前に、私は辺りを見回した。
七緒は、私の頭を指さしては爆笑する禄朗を廊下へと連れ出していた。このままじゃ大喧嘩に発展しかねないことを察知したのだろう。これはかなり有り難かった。私だって好きな人の前で後輩にキレて拳をふるう姿なんて晒したくない。
七緒が遠くにいることを確認し、私は美里に向き直る。
「実は昨日、七緒がデートに誘われてるとこに居合わせちゃってさぁ」
「うん」
「その相手っていうのが、1年生の女の子なんだけど、くるくるふわふわの茶色いショートヘア、うるうるキラキラのつぶらな瞳がそりゃあもう可愛くて」
「うんうん」
「それに触発されてちょっとウェーブさせようと髪の毛三つ編みして寝たら、今朝こんなことになってました」
なるほどねぇ、と美里が腕組みをする。
「それ、嫉妬とはちょっと違うってことよね?」
私は自分のとんでもない頭を触り、頷いた(やはり禄朗の言うとおり感触は『ゴファッ』だった)。
昨日感じたのはジェラシーよりももっと強くて、胸をかきむしりたくなるような自己嫌悪だ。
夕日の中に佇む七緒と子リスちゃんが、思わず一瞬見とれてしまうくらいにお似合いで。
よりによってそんなとき、私はこれまでの人生の中でもかなりひどい疲れきった姿で。
あまりにも大きな差を感じてしまい、闘志のトの字も湧いてこなかった。
「七緒がその子に結局どう返事したのかもわからずじまいで気になるけど……なんか、本当の問題はそこじゃないっていうか、もっと根本的なところっていうか……」
七緒のことを好きな女の子なんて、きっと数え切れないくらいいっぱいいる。
そんな中から選ばれて、恋人という肩書きで堂々と隣にいられる確率なんて、いったいどれほどのものなんだろう。
──いや、そもそも、私はそのたくさんの女の子のうちの1人にすら入れていないんじゃないだろうか。
黒岩先輩や子リスちゃんを始め、彼女たちはみんな可愛くて素直で、眩しさすら感じるほどに、ちゃんと「女の子」だ。
対して男兄弟やおっさんである私は、未だそんなライバルたちと同じ土俵にすら上れていない気がするのだ。
可愛い女の子になろうとすればするほど、空回りしているこの現状。さすがに悲しくなってしまう。
「心都、負のオーラ出てる」
美里がりんごゼリーの1番大きな果肉をスプーンですくい、私にくれた。甘くてちょっとすっぱくて、おいしい。
「可愛くなりたいって気持ちはわかるけど、そのまんま誰かを真似しようとしても今日みたいに失敗するだけよ、きっと」
「……やっぱり、そうかな」
「うん。もちろん最低限の身だしなみとかは大前提だけど、そこから先は、心都にしかない武器を大切にしていったほうが絶対魅力的よ」
「私にしかない武器って?」
思わず身を乗り出し、美里にすがるような体勢になる。
そんなものがあるのなら、ぜひとも全面に押し出してこれでもかというほどアピールしていきたい。
「そうねぇ……例えば……」
美里が上を向き、少し思惑を巡らせる。
「驚異的なまでに七緒くんに異性を感じさせないキャラクターとか。今日みたいに体を張って七緒くんの笑いを取りに行くガッツとか」
それは、果たして武器なのか。どちらの特質も意図せずして生まれた不本意きわまりないものだ。
「心都」
いつの間にか七緒が、近くまで来ていた。
どうやら禄朗を自分の教室まで帰すことに成功したらしい。
「……何」
プチ傷心中の私、ついつい無愛想な返答になる。
七緒はそんな私の態度の悪さを気にも留めず、やたら優しい笑顔で隣に立った。
なんだ?
私が不審に思い眉をひそめたその瞬間、信じられない出来事が起きた。
七緒が唐突に、右手を私の頭の上に置いたのだ。
もはや、トクン……とかドキン……ではない。ドゴン! と凄まじい音で心臓が跳ねる。
好きな男の子からの“頭なでなで”────『恋する乙女100人に聞きました、思わずキュンとしてしまう瞬間は?』の上位に必ずランクインするであろうシチュエーション。
それがまさか、今このタイミングで訪れるなんて。あまりに急すぎて気持ちがついていかない。
それでも反射的に、さっき食べたりんご以上に甘いときめきが胸いっぱい広がる。
今までの沈みきった負のオーラはどこへやら、私はもう天にも昇る心地だった。
美里が「きゃあ、うっそ、マジで?」と小声で囁きながらも素早く携帯電話を取り出し、こっそり私たちを写真に収めようとする。さすが美里、グッジョブだ(あとで貼付して送ってもらおう。待ち受け画面にするから!)。
七緒は優しく私の頭を撫でながら、うんうんと頷いた。
「やっぱりクロだ」
「……へ?」
「今日の心都の髪、何かに似てるなぁと思ったんだけど。この質感、クロそっくりだよ」
あはは、とのんきに笑いながら七緒が言う。
彼が口にしたのは、黒くてもこもこ、最近めっきり肥え気味な我が家の愛犬(♂)の名前だ。
七緒は幼い頃からクロを可愛がっている。そしてクロもまた、七緒によく懐いている。
つまりこの七緒の慈愛に満ちた顔も、優しい手つきも…………あぁ、なんだ、そういうことか。
胸を占拠していたときめきが、みるみるうちに萎えていく。
「うん。そっくり、そっくり。さすが飼い主とペットだなー」
「ごめん嬉しくない」
私はぞんざいに七緒の手を振り払った。
「え? なんだよ、誉めたのに」
腑に落ちていなさそうな顔で鈍感野郎が言う。
しかし私が自分にできる最上級の恐ろしい顔で睨むと、彼は「うわ」と少しひるんだようにその手を引っ込めた。
美里が無表情で携帯電話を閉じた。
「──あ、そうだ、心都。お前今日部活ないよな?」
ふと、七緒が真面目な顔をする。
「え? ……うん、ないけど」
基本的にゆるい文化部である料理部は、週に3日ほどしか活動がない。だから残りの2日間は家に直帰で、放課後を持て余すことになる。
「じゃあ、もちろん今日は6限が終わったらさっさと家に帰るんだよな?」
「うん。別に予定もないし、こんな頭でうろうろ散歩できるほどハート強くないから」
「そっか、そうだよな」
七緒は納得したようにまた笑顔になった。急にどうしたのだろう。
「なんで?」
「いや別に」
そう言うと彼は私の傍を離れ、どこかへ行ってしまった。
なんなんだ、今の確認作業。全くもって理解不能だ。
首をかしげると髪の毛が『ゴファッ』とうなじに当たり、そのあんまりな感触に、私はうなだれた。
普通、大好きな人に頭を撫でられた乙女は「いやーん、幸せ! 私、もう二度と髪洗わない! あぁ、でもそれじゃ不潔で彼に嫌われちゃうよぉ。どうしよう!」と守れもしない誓いをうきうきと立てた後、無駄な心配に心を震わせるのだろう。
しかし、私は固く決心した。
帰ったらすぐにシャワーを浴びよう。
そしてこの、コシが命の本格ちぢれ麺みたいな髪を、一刻も早くブローで元に戻そう。
で、その時ちょっと、声出して泣こう。