4<居残りと、リトリート>
私は手の中の紙きれを見つめ、ため息をついた。
一週間前よりも更にしわが寄りくたびれたそれは、忌々しき進路希望調査票。
あれから何度も机に向かい悩んだけれど、結局納得のいく答えは出せなかった。その結果、提出締め切り日である今日、放課後の教室に居残って書いているような事態に陥っているのだ。
期限までに担任教師に提出できなければ、進路白紙でお先真っ暗な受験生としてお呼び出しを受けてしまう。それだけはなんとしても避けたい。
どうやらクラスでまだ書けていないのは私だけらしい。その証拠に、いま現在教室に居残っている生徒は他にいないし、今朝のホームルームで「最終締め切りは今日の17時」と告げる担任の目は、心なしか私を捕らえていた。
「あと30分か……」
憂鬱な気持ちで、黒板の真上にかけられた時計を見る。
タイムリミットが刻一刻と迫っても、なかなか紙面は埋まらない。私には高校選びの基準も、明確な目標もないからだ。
だから中学3年生になり本格的に受験の影がちらつき始めた今も、「とりあえず」の判断しかできない。こんな状態で進路を絞るなんて到底無理だ。
しかし早く提出しないと、待っているのは一対一のお呼び出しコース。
窓の外では真っ赤な夕日が辺りを染めている。
そろそろ、日が暮れる。
私は悩んだ末、北高校を第一志望欄に書き入れた。
そこは、電車で20分ほどかかる公立高校。私にとって特にその高校じゃなくてはいけない要素はなく、今の学力的に見て多分合格圏内だろうなというのが大きな理由だった。
まぁ、まだあくまでも「希望調査」だし。変更もきくし。
自分にそう言い聞かせながら席を立ち、提出のため職員室へ向かう。
ふと、廊下の窓ガラスに映る自分を見た。
美里に叱られてからはさすがに気を引き締め直して、ぼさぼさ頭とジャージ姿での登校は控えている。なので、今日の私も一応髪は自分なりにセットしているし、制服着用だ。
しかしクマに縁取られた目には全く生気がなく、どんよりと濁っている。肌もなんとなくくすんで、若さがない。
身だしなみに気を使っているはずなのに、全く可愛いとは言い難い私がそこにはいた。
理由は明白。
ここ数日は迫り来る進路希望調査票の提出期限に怯え、悩み、更に徐々に受験モードになっていく授業についていくのにも必死だ。そんな疲労が積み重なり、私は目に見えて劣化している。
このままいけば、近いうちに白髪だらけになってしまうんじゃないだろうか。欧米人の白にも近いプラチナブロンドはサマになるけど、純日本人的な顔立ちの14歳のそんな姿は、きっとあまり良いものではないだろう。
真っ白ヘアの自分を想像してへこみつつ、職員室へ入った。
無事に提出して廊下へ出ると、少し離れたところに見慣れた姿があった。
職員室は、1階の最右端に位置する。
その2つ隣の小さな教室は「進路指導室」といって、文字通り、進路指導担当の教師が進路に悩む生徒の相談に乗ったり、はたまた非現実的な進路希望を持つ生徒を諭したりする部屋だ。
生徒たちの間では、通称「うさぎ部屋」。なぜならば、そこに入った生徒は自分の将来への悩みや現実の厳しさのあまり泣いてしまう者も多く、目を赤くして部屋から出てくるその姿はまるでうさぎのようだから──らしい。
その恐ろしいうさぎ部屋から現れたのは、七緒だった。
部屋の謂れに反して泣いてはいないけど、ひどくぐったりとした顔をしている。
本来なら部活中であるこの時間に進路指導室から出てくるだなんて、ひょっとして奴も進路問題がかなり切羽詰まっているのかな。
こんなときに妙な絆を感じる。
七緒は数メートル離れたところにいる私に気付かず、背を向けてすたすた歩き出した。
声をかけようとしたその瞬間、
「東先輩!」
私を追い越し、小走りで七緒の隣へ並んだのは、1人の女子生徒。
七緒が振り向くより先に、私はとっさに、職員室脇の曲がり角へ(自分でも怖いくらいの速さで)身を隠した。
あれ。なんかこれって、完全に盗み聞き体勢?
……だって、ついつい気になって。
わずかに顔を出して覗くと、夕焼けの中、向き合う七緒と女の子が見えた。
上履きの色から察するに、女の子は1年生。かなり小柄で華奢、つむじから細かく波打つ茶色いショートヘアがよく似合っている。
毎朝寝癖をまっすぐに伸ばそうと四苦八苦している私は、ちょっと感心した。
──いっそくるくるふわふわにしちゃえば、あんなにもチャーミングなんだなぁ。
まぁ、あの子はそもそもの顔立ちが可愛いのも大きいと思うけど。真ん丸で黒目がちな瞳がまるで子リスみたいだ。
「こんにちは、東先輩」
「こんにちは」
にこっと微笑みかける子リスちゃんに対し、七緒は少し不思議そうに答えた。面識がないのだろうか。
「あの、私のことわかります?」
「えーと……。あ、よく柔道部の練習見に来てる子だっけ」
「わぁ! 覚えててくれて嬉しいです」
子リスちゃんが顔をほころばせる。
七緒が1年生にモテているというあの美里の言葉は、やはり真実らしい。
「いつも見学してて、東先輩の柔道してる姿、すごーくかっこいいなぁって思ってます」
「そ、そりゃどーも」
七緒がぎこちなく頭をかく。
当然といえば当然だ。彼は「可愛い」と言われたことは数知れずだけど、「かっこいい」なんて言葉は多分ほぼかけられたことがない。
……いや、訂正。私は過去に2回ほど、「かっこいい」と言ったことがあるけれど。おそらくあんな可愛い女の子に笑顔で告げられたことは、これまでにないのだろう(と、自分で言っておいて非常に空しくなってきた)。
小柄な子リスちゃんは七緒よりもだいぶ身長が低い。
彼女と並ぶと、あの幼馴染みもなんだかちゃんと男に見えるから不思議だ。
「それで、いきなりで失礼かもしれないんですけど、今日はお誘いに来ちゃいました」
「お誘い?」
15センチ以上はありそうなその身長差ゆえに、子リスちゃんは必然的に、七緒を見上げる形になる。
屈託なくうるうると輝く瞳が、上目遣いに彼をとらえた。
「来月、一緒に夏祭りに行ってくれませんか?」
子リスちゃんの可愛い声が廊下に響く。
本当は全力疾走したかったけど、バタバタ音を立てて気付かれるとまずいので、あくまでも静かに。でもできる限りの早足で。
私はその場から立ち去った。
もうこれ以上、聞きたくないと思ってしまった。
くるくるでふわふわでうるうるでキラキラな女の子からのデートのお誘い。それに七緒がどう返事をするのかとか、子リスちゃんがどう反応するのかとかは、もちろん気になる。
だけどそれ以上に、この場にいたくないと思う気持ちの方が強かった。
黒岩先輩や禄朗のときは、もう少し強気に「チクショウ負けねえ!」という姿勢でいられたのに。
どうしてだろう?
嫉妬や苛立ちとはまた違う、この気持ち。
気付いたら、もう用のない教室へと逆戻りしていた。
私の今の席は窓際の最前列にある。
晴れた日の授業中は窓からのぽかぽか陽気に睡魔が襲ってくるけど、居眠りなんかしたら一発で見つかってしまう、そんな不運な席。
私は自分の机へと近付き、なんとなく窓に目をやった。
いつのまにか日はすっかり暮れてしまい、外は真っ暗だ。
窓ガラスに映るのは、先程と同じ、お世辞にも可愛いとは言い難い自分。
私は胸に手を当て、深呼吸をした。
──あぁ、私、今すごく可愛くなりたい。
七緒と並んでもバッチリお似合いに見えるくらいに。
すごく、すごく、可愛くなりたい。
これまでのどんな瞬間よりも、強くそう思った。