3<朝のブルーと、センチメンタル>
私と七緒は、同じ高校に進路を決め、無事に合格、進学した。
彼と一緒の高校生活は本当に楽しくて、あっという間に過ぎていった。
文化祭を一緒に回ったり、不良に絡まれている私を七緒が助けたり、縁日でおもちゃの指輪を買ってもらったり、夜の校舎に忍び込んで屋上で星を眺めながら将来を約束し合ったり……、色々なイベントを経て、なんやかんやで私たちは結婚した。
今は赤い屋根の小さなお家で家族3人暮らし。
小学校に上がったばかりの娘ナナコ(七緒に似てとても可愛い顔をしている)と、白いティーカップで紅茶をいただきながら、夫の帰りを待っている。
愛娘の頭をなで、私は叫んだ。
「なんて幸せな人生!」
自分の大声で目が覚めた。
辺りを見渡すと、そこは赤い屋根の小さなお家のリビング……ではなく、散らかり気味な自分の部屋。窓から朝日がさし込んでいる。
私は机に突っ伏した体勢で寝ていた。そのせいで体の節々が痛い。
「うぅ……。ナナコ、お水持ってきて……」
呟いた直後、我に返る。
しっかりしろ自分。
私は東心都じゃなく、杉崎心都。中学3年生。もちろんナナコなんていない。
机の上には、枕にしていたせいで若干しわが寄った進路希望調査票。こいつについて悩んでいるうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
──あぁ、幸せだった。
私は今覚めたばかりの夢の内容を思い返し、うっとりとため息をついた。
この手の夢は今までにも何回か見たことがあるけど、その中でも1番ハッピーでロマンチックな大長編だった。
二度寝したら続きが見られるかな。
そんなことを思いながら、ふと壁に掛けられた時計を確認すると、
「えっ、8時!?」
既に家を出なければいけない時間だ。
私は慌てて椅子から立ち上がった。
遅刻ぎりぎりで教室に滑り込むやいなや、美里にド突かれた。
「その格好!」
鼻息荒い美里は顔の横で拳を握りしめ、目を三角にしている。
美少女にあるまじき姿。彼女をそんなふうにさせてしまっているのも、私のひどい格好のせいだ。
本日のわたくし──寝坊したため制服をちまちま(ボタンをとめたりリボンを結んだり)と着る時間がなく、学校指定の青いだぼだぼジャージ。もちろん髪をブローする暇なんかもないので、ほぼ起きたままのぼさぼさヘア。
半年ほど前、つまり「可愛くなって七緒に告白する」と決意する前まではしょっちゅうだった格好だ。時間がなくてやむをえずとはいえ、久しぶりにこの怠惰スタイルで登校したところ、美里は怒り狂った。
「最近は毎日ちゃんとした格好してると思ったのに!」
「いやぁ、ちょっと寝坊しちゃって……」
頭をかきかき答える。
美里は何かをぐっと飲み込んだような顔をすると、深呼吸ひとつ、私を椅子に座らせた。
「……」
「み、美里、いま舌打ちした?」
美里は何も言わずにポーチから複数のこまごました道具を取り出し、私の背後に回った。
「恋する乙女だったら、多少遅刻してでも最低限の身だしなみくらいは整えてきなさいよ」
そう言うと彼女は私の髪をブラシでとかし始めた。
「髪の毛は今ホームルーム始まるまでの間にやってあげるから、次の休み時間にちゃんと着替えてきなさい」
「……うん」
直接見えないにも関わらず、美里の手さばきがすさまじく俊敏であることはよくわかった。
きっと私が1人でやっていたら何十分もかかっているであろうヘアスタイリングを、彼女はみるみる進めていく。
「でも、心都が寝坊なんて珍しいわね。いつも早めに学校来てることが多いのに」
「昨日、進路調査票書いてたらなかなか眠れなくてさ」
美里が私の髪に何やらクリームのようなものをつけながら、「なるほどねぇ」と呟いた。
かすかにフルーティな香りがする。それがワックスなのかムースなのか、私には皆目見当もつかない。
「美里はもう進路決まってる?」
「一応ね。今のところ第一志望は南高校」
美里が口にしたそこは、公立校にはめずらしく英語に特化した特進コースがあることで有名な高校だ。
「そっか、美里、英語の成績良いもんね」
「良いかはわかんないけど……何が勉強したいかって考えたら英語かなって。大学でそっちの学科に進むなら高校のうちから重点的にやっておいたほうがいいでしょ。英語系の資格とかも色々とりたいし、南高ならそういう講習も充実してるみたいだから」
私は感心した。やはり美里はしっかりしている。
自分のやりたいことがわかっていてそれに向かって着実に歩めるなんて、私から見たら相当レベルの高い段階だ。
「心都は? 調査票、結局書けたの?」
美里が私の毛先の束を微調整しながら問う。
「ううん……まだ全然。なんか考えれば考えるほどわかんなくなってきちゃって」
「大丈夫よ、そのうち決まるわよ。まだ夏前だもん」
はい完了、と美里が私の頭を軽く叩いた。
鏡を見ると、数分前までの乱れ具合が嘘のように綺麗にまとまった自分の頭があった。おまけに、1番癖がひどかった箇所には可愛らしい花のピン留めまでつけてくれている。
「わぁ、ありがとう美里」
「今後は自分でちゃんとしてきなさいよ。はっきり言ってさっきまでの心都の頭は富士の樹海……いや、未開発のジャングル状態よ」
「……ど、努力します」
私の恋を誰より応援してくれている彼女は、納得したように頷いた。
高校が別々になったら、もうこうして美里に世話を焼いてもらうことも減るのかな。一緒にお弁当食べたり、くだらない話でキャッキャしたりもできなくなるのかな。
そんなことを考えて、急にたまらず寂しくなってしまう。
「……私、美里がいなくて生きていけるのかな……」
「重っ」
美里が目を眇める。
「なんなのよ、それ」
「なんかもうすぐ卒業だと思うと寂しくて……」
「まだ10ヶ月もあるのに気が早いわね」
「10ヶ月しか、だよ」
「なら10ヶ月後もしっかり生きていけるように、せめて今から身だしなみくらいはきちんと自分で整えなさいって」
「うん……」
私は鼻をすすり上げ、気持ちを立て直した。
あぁ、中学生活最後の1年に突入したからだろうか、近頃どうも感傷的になってしまって良くない。
そう。きっと、全部このセンチメンタルのせいなのだ。
願望たれ流しの夢を見たのも、桜の花びらへの願い事を考える七緒の顔が少し大人びて見えたのも、山上のこじゃれたプレゼントに心乱れてしまったのも──。
「あ」
ふと、あることを思い出す。
「あの、英語が得意な美里さんにひとつお聞きしたいことがあるんですが……」
「急にどうしたのよ」
「ILUSMって何だと思う?」
ILUSM──山上からのメールの最後に毎度必ず添えられている、謎の暗号。
辞書を引いてもその意味はわからず、昨日山上に尋ねようとしてうっかり忘れていた。
「あぁ、それ略語よ。アメリカの10代の女の子なんかがメールでよく使うやつ」
「そうなんだ……」
いくらアメリカ帰りとはいえ、図体に似合わず随分可愛らしいメールテクを使うもんだなぁ(そういえばたまに、いわゆるデコ絵文字を使ってメールを打ってくることもある。流行りの乙女系ってやつか?)。
でも、とりあえず「いつもルンルンUSA育ちのマッチョ男より」の略ではないようで、その点は少し安心した。
「どういう意味なの?」
「I love u so much……あなたが大大大好き! ってことね」
さらりと美里が言う。
しかしその威力は絶大で、私は卒倒しそうになった。
「あ、あ、あいらびゅう……ですか」
山上の並外れたストレートさはじゅうぶん知っているつもりだったけど、それでもまだまだ甘かったらしい。
まさかそんなメッセージが毎回メールに込められていたなんて。
そして、そんなことに少しも気付かず、私は「今日の夕飯は塩さばだった!」とか返信していたなんて。
なんだか色々と恥ずかしい。
「どうしたの心都、顔が真っ赤よ」
「な、なんでもないよ。ちょっと最近、血の気が多くて……」
美里は、私の下手な言い訳に「そうなんだぁ」と納得するほど鈍くはなかった。
「あ、山上くんね」
「……」
「ILUSMって入ってるメールをもらったんだ」
全てを見透かされ、私は固まった。この友人はどうしてこんなにも鋭いのだろう。
うふふと笑った美里は、悪戯っぽく私の肩を叩いた。
「いいじゃない。さすがアメリカ帰りね、素敵。そんなに一直線に気持ちぶつけてくれる人って今時なかなかいないと思うけど」
「いや、田辺もかなりそういうタイプじゃない?」
「田辺くんは全然方向性が違うわよ」
美里の声がぐっと冷たく、低くなる。
しかし教室内の少し離れた場所にいたご本人にはばっちり聞こえていたらしい。
「何何、俺の噂っ?」
意気揚々、目尻を下げて飛んできた田辺に対し、美里は心底面倒くさそうな一瞥を投げた。
「惜しいわね。噂っていうよりは悪口よ」
「わ、悪口!? 栗原……! 俺たち『未来あるお友達』じゃなかったのか!?」
「その未来が仲良しこよしのハッピーエンドとは限らないわよね」
あ、田辺がちょっと泣きそうだ。頑張れ。
『ラブチャンス同盟』の盟友である私の心のエールが聞こえたのか、田辺は涙を堪えその場に踏みとどまった。
「……いや! それでも! それでも俺はハッピーエンド目指すぞ! 少しでも愛が生まれる可能性がある限り、俺は……!」
美里はもはや聞いているのかいないのか、制服のポケットから生徒手帳を取り出し「本校沿革」のページを熟読し始めた(絶対に今このタイミングでやる必然性のない作業だと思う)。
ちょうど朝練から帰ってきた七緒が、「うわぁ」と顔をしかめた。
「何の騒ぎ?」
「田辺が美里に100回目くらいの玉砕中」
「ふぅん」
七緒は特に驚きもせず、2人のやりとり(愛についてやかましく演説する田辺と、沿革に飽きて年間行事のページに移った美里)を眺める。観葉植物でも見るようなその目線は、いかにこの田辺の不遇っぷりが日常茶飯事であるかを表している。
「……ねぇ」
私の呼びかけに、視線は相変わらず大演説に向けたまま、「ん?」と七緒が答える。
今、聞いていいかな。
いいよね。
「山上に何言われたの?」
「え」
七緒が、目を丸くしてこっちを向いた。
「山上が言ってたよ。『お前らが喧嘩したのは俺が東にいらんこと言ったのも一因だ』って。山上と2人で会って何か言われたんでしょ?」
「……」
こんなにもわかりやすく目線を泳がせる人間を、私は他に見たことがない。
つまり、そのくらい、彼はあからさまに動揺していた。
「ねぇ、いらんことって何?」
「……別に大したことは言われてない」
これほど態度に出しておいて、そんな言い訳が通用すると思っているのだろうか(まぁ、さっき美里に「血の気が多い」で誤魔化そうとした私が言えたことじゃない気もするけど)。
「気になるじゃん。知りたい」
「……」
「教えてよ」
なるべく圧迫感を出さないよう心がけて笑顔で詰め寄る。七緒はそのたび、可愛らしい顔を歪め、じりじりと距離を取っていく。……なんだかお姫様を追い詰める悪い魔女みたいな気分だ。
「ねぇってば」
「……あーもう! うるせーな! いいんだよそれは俺が自分で解決するから!」
「はぁ? うるせーだなんて、そんなこと言う子に育てた覚えはないわよ!」
「育てられた覚えもねぇよ!」
少しヒートアップし始めたとき、タイミングよく担任の先生が教室に入ってきて、バトルは中断された。
私は七緒の背中を睨みながら自分の席に着く。
一体なんなんだ。山上も七緒も真相を教えてくれないだなんて、気持ち悪いことこの上ない。
それに、悔しく悲しく情けないけれど、山上の暗号の真相もいまだに私の胸を少しドキドキさせていた。
これじゃきっと、今夜こそ安眠は難しいだろう。
あの夢の続き、絶対絶対、見ようと思っていたのに。
いつも読んでくださっている方々、感想や拍手をくださる方々、本当にありがとうございます。完結までお付き合いいただけると嬉しいです。
そして今更な告知ですが、4/13に短編をアップしました。いちおう心都と七緒の中学1年生の夏休みの話という設定ですが、本編を知らない方でも読めるように(多分)なっています。よろしければ目を通してみてください。