1<進路と、5文字の暗号>
終了を告げる鐘が鳴る。私はシャープペンを置き、心の中でひっそりと歓喜の声をあげた。
あぁ、終わった! 3日間の苦痛。地獄の中間テスト。
3年生になって最初のテストというのは、気合も労力も今までと全く違う。学年が変わり勉強が難しくなるので、ここでついていけなくなってはこの先ずっと落ちこぼれる可能性もありえる。
それに加え、今期の成績は高校の推薦入試にも大きく影響してくるのだ。生徒全体が熱気むんむんで必死に勉強するものだから、恐らく学年の平均点も今までより上がるだろう。だから私も今回は力を入れて勉強した。そのぶん疲労も大きければ、終わった瞬間の喜びもひとしおだ。
張り詰めた空気がほどけ、ざわつく教室内。回収のため後ろから解答用紙が回ってくるのを待つ間、開放感から思わず鼻歌なんか歌ってしまう。
「ご機嫌っすねー」
と、隣の席の七緒がこちらを見る(テストのときは座席が名前順になる関係で、なんとなんと、ラッキーにも七緒と隣同士になれるのだ。クラス替え初日にこの事実を知ったときは、ついつい小躍りしたくなってうずく両膝を必死に抑えたっけ)。
明らかに小馬鹿にしたようなその目線。さてはこいつ聞いていたな、私の鼻歌、き●しのズンドコ節。
いつもならスイッチオンで挑発に乗ってやるところだけど、今の私は幸せいっぱい、寛大だ。解答用紙を前に回しながら、にっこり余裕の笑みで答えることができる。
「うふ。あたりまえじゃん。魔の中間が終わったんだもん。七緒だって嬉しいでしょ?」
「そりゃ嬉しいけど……それ以上にねみぃ」
七緒があくびをかみ殺しながら言った。よく見ると目の下にうっすらクマまである。どうやら昨夜、かなり遅くまで勉強したらしい。
「帰ってゆっくり寝な寝な。……っていうか、ねぇ、国語の点数勝負しようよ。コンビニのアイス賭けて」
「はぁ? 普通、勝負ってテスト前に約束するもんだろ」
「だって今日の国語、予想以上に解けちゃったんだもん。85点はカタイな」
「うわ、きったねぇ。自分が調子良かったら一方的に勝負ふっかけんのかよ。スポーツマンシップに反するぞ」
「私、スポーツマンじゃないし。バリバリ文化系料理部員だし」
「……百歩譲って数学だったら受けて立つけど」
もともと苦手な数学には、今回もあいにくあまり自信がない。私は七緒の譲歩案を丁重にお断りした。
七緒とは3週間前の修学旅行以来、特に大きな事件もなく仲良くやれている。一度わけもわからずぎこちない態度をとられた上に大喧嘩しているだけに、いつも通りであるはずの今のこの状況に小さな幸せを感じてしまう。
それに、あのときの七緒のおんぶ。後々冷静になって考えてみると、なかなか少女漫画的なシチュエーションだったんじゃないかと我ながら思う。
七緒が私を心配して走って探しに来てくれたのもかなり嬉しかったしなー。なんだかんだ一生忘れられない旅行になっちゃったなー。
そんなことを思い返してムフフと微笑むと、
「……え、何、こわっ」
七緒が大げさに身を震わせた。
何とでも言ってくれ。今の私は心底ご機嫌なのだ。
また2ヶ月後には期末テストがやってくるけれど、とりあえず今は目の前の壁をひとつ越えたことが嬉しい。今日は自分へのご褒美に雑誌でも買って帰ろう。
しかし、しばらく続く予定だったこの開放感は、その直後、あっさりと消え去った。帰りのホームルームで進路調査票が配られたのだ。
「それぞれ第一志望から第三志望まで記入して、来週中に提出するように」
すぐ前にいるはずの担任教師の声が、どこか遠くから聞こえてくるような錯覚をおぼえる。
私は呆然と手の中の藁半紙を見つめた。
そうだ。いくら中間テストを乗り越えたからといって、受験生だという事実に変わりはない。そろそろ真面目に進路について考えなくてはいけない時期だ。
──進路。
正直言って、現段階で何も考えていない。漠然と「まだ就職する気はないし、両親も高校行けって言ってるから、進学かな」「特別こだわりとか行きたい学校もないから、とりあえずお金のかからない公立校かな」という気持ちだけはある。
しかし本当に「それだけ」。具体的な志望校はおろか、推薦入試でいくのか一般入試でいくのかも決めていない。
形も信念もない、ふわふわとした思いだけなのだ。
もしかして私、やばい?
慌てて周りを見回すと、クラスメイトたちは皆、配られた調査票に多少憂鬱そうにしてはいるものの、特に取り乱す様子はなく、「来るべきものが来た」という顔だった。中には、顔色一つ変えずに周りと帰りの挨拶を交わしてさっさと教室を後にする者もいる。
なんなんだ級友たちよ、その余裕っぷりは。
これが5月下旬の受験生の、ごく普通の姿なの? 私、とんでもない遅れをとっている、救いようのない超ボンクラ野郎なの?
じわじわとした焦りが足元からこみ上げる。
「そういえば、心都」
帰り支度をしながら、隣の七緒が言う。のんきな声だ。
「最近、山上と会った?」
「ううん。私たちの次の週が西有坂の修学旅行だったり、その後すぐテスト期間入ったりで、結局もう3週間くらい会ってない」
一時は毎日のようにあった、山上の忠犬ハチ公ばりの「待ちぶせ」。それがピタリとなくなったので、学校の違う私たちは当然、めったに顔を合わせることもないのだ。
そのかわりというか、彼からのメールは毎日のように届く。「今日の晩飯はカレーだった!」とか「部活が楽しかった!」とか、交換日記のような内容なので、とりあえず私も「今日の夕飯は塩さばだった!」「部活ではクッキーを作った!」と同じようなテンションで返信している。果たしてこれが正解なのかはわからない。こんなメールで山上が楽しめているのかも、わからない。
そして更に不可解なことに、彼のメールの本文の最後には必ず「ILUSM」という謎のアルファベット5文字が添えられているのだ。辞書をひいてもそんな英単語は出てこないし、一体何なのだろう。何かの暗号? それともオリジナルの署名? いつもルンルンUSA育ちのマッチョ男より、とか?(もしそうだったらどうしよう。怖すぎて今後山上とメル友を続けられる自信がない)
「……でもちょうど今日、ちょびっと会う約束してる。修学旅行のお土産がそろそろ腐っちゃうから」
私は机の脇に提げた大きな紙袋を指し示した。修学旅行前日に交わした約束通り、山上にはお土産を2つ買ってきていた。
「あぁ、そうなんだ。山上喜ぶな」
と、事もなげに七緒が相槌を打つ。
私は「東先輩、山上さんにやきもち説」を嬉しそうに唱えた華ちゃんに、あらためて心の中で詫びずにはいられなかった。
「……七緒も一緒に行く?」
冗談っぽく半笑いで訊ねると、案の定、奴も軽く笑って返してくる。
「いや、いい。部活あるし」
「……だよねぇ」
「山上によろしく」
予想通りの答えだ。
なんというか──ごめん、華ちゃん、心からごめん。
私は部活へと向かう七緒の背中を見送りながら、ぼんやりと考えた。
七緒は進路どうするのかな。
どこの高校に行きたいとか、もう決めたのかな。
もちろん相談し合って進学先をそろえるような甘くベタベタした関係でないことは重々承知している。それでもやっぱり気になる。15年来の幼馴染みとしても、片思い中の身としても。
そこまで考えて、はっと我に返る。
いやいや、その前にまず自分の進路だ。人のことを気にしてそわそわしている場合ではない。
こんな何も定まっていないような状態じゃ、恋する乙女(ハートマークを添えて)以前に、受験生として失格だ。
もう少ししっかりしなきゃ。
私は自分自身に活を入れると、机の上に出しっぱなしになっていた進路調査票をできる限り丁寧にたたんで、鞄にしまった。