10<雑巾と、涙>
4年前――もっと正確に言うと、3年と11ヶ月前。
私たちは10歳だった。やっと年齢が2桁になって少し大人になれたような、でもまだ子供でいたいような、中途半端な時期。
その頃私は七緒と一緒に柔道を習っていた。といっても、「こんな危険な世の中なんだから今時は女の子だって強くなくちゃっ!」というお母さんの教育方針に基づいて半ば無理矢理始めたようなものだったから、あまり楽しくはなくて。
特に冬の道場の、足元が凍りそうなあの凄まじい寒さは本っ当に嫌だった。
その日もとても冷え込んで、外では雪が積もっていた。
「ありがとーございましたぁ!」
生徒全員での元気のいい号令が終わり、本日の練習は終了。
「あー寒。早く着替えて帰ろっと」
こんな日はこたつでみかんが1番賢い過ごし方だもん、と私は意気揚揚と練習場から一歩踏み出した。
「待て心都」
ぐわし。そんな効果音がぴったりな強さで肩を掴んできたのは、当時私より5センチは身長が低かった東七緒。私の大好きな幼馴染み…なんだけど。
その頃の私は七緒の事を、やたら顔の可愛いただの幼馴染み以外の何とも考えていなかった。
なので当然、意識する事もなくその手を叩く。
「何すんのよぅ七緒」
「お前忘れてるだろーけど今日掃除当番だぞ」
「えー!?」
その道場では練習終了後に生徒が雑巾がけをする決まりがあって、その日は私が当番だったのだ。
冬の雑巾がけ。これほど嫌なものはない。
「何でよりによってこんな寒い日に…」
「文句言うなよ、俺も当番なんだから」
――あぁさようなら、こたつでみかん…。
私はしょんぼりと呟きながら冷たい床をぺたぺた歩いた。
その日の当番は、私と七緒ともう1人、大柄な男子。
確か同い年だったそいつの名前は――ヤマザキだったかヤマガミだったか。
とにかく意地悪な奴。
道場で唯一の女子だった私が心の底から気に入らなかったらしく、しょっちゅう嫌な事を言ってきた。
「あーあ杉崎と一緒かよ!」
そいつは私を見るなり顔を歪めわめいた。
「うるさい」
バケツの上で雑巾を絞りながら言い返すと、相手は今にも唾を吐き出しそうな顔をした。
…くそぅ、ムカつく。
七緒は呆れたように、1人床をごしごしやっていた。
先生や他の生徒の気配はもう辺りに感じられない。広い道場の中はしんと静まり返っていて、それがいっそう寒さを体に染み込ませる。
雑巾から滴る水でキンキンに冷やされた指は手からもげそう。
さっさと終わらせたくて、私は夢中で床を擦った。
「おい杉崎ぃ」
さっきから雑巾を振り回すだけで全く掃除をしていなかったヤマザキだかヤマガミだかが、意地の悪い笑みを浮かべた。
「お前女のくせにいつまで道場続けんだよぉ?」
もう何百回もこいつに言われてきたお決まりの台詞だ。
私はまたかとうんざりして返事をしなかった。
黙ったまま、今までより少し強めの力で雑巾をかけた。
そのシカトが逆鱗に触れたらしく、彼は再び大口を開けた。
…ここからが、問題だ。
「―――!」
ヤマザキだかヤマガミ――もう面倒だからヤマザキって事で――は、私に向かって何か吠えた。
でも私はちょうどその時、力いっぱい雑巾を床に擦りつけている最中で、それが発するキュッという甲高い音に気を取られていた。
…まぁ早い話が、聞き取れなかったわけです。
でもヤマザキの「さぁ、泣くか?泣くよな?泣け!」と言わんばかりの勝ち誇った顔を見れば、私にとってかなりよろしくない意味の言葉である事は明らかだった。
「は?聞こえな…」
私が聞き返そうとしたその時。
今まで真面目に掃除をしていた七緒が、その手から数メートル離れた場所にあるバケツめがけて雑巾を投げた。
ぼちゃっ、と派手な音と水しぶき。
ナイッシュー七緒☆とか言えるスポーティで爽やかな雰囲気じゃなかった。
七緒がこんな事をするなんて、珍しい。
「あーあ、周りびしょび…」
しょ、まで私が言う間もなく。
電光石火、七緒はヤマザキと取っ組み合いを開始していた。
「え?何してんの…」
呆然とする私の声なんか誰も聞いちゃいない。
「な、んだよっ!!」
突然飛び掛かられたヤマザキは驚きと怒りが3:7くらいで混じりあった顔をしていた。
でも大柄なそいつは中学生と戦っても互角なくらいパワーがあって、強い。
小柄で、当時私と戦ってもいい勝負になるくらい弱かった七緒はあっけなく背負い投げされた。
ダンッ、と床が鳴る。
「…っ」
自分が息を呑む音がこんなにもはっきりと響き渡ったのは、後にも先にもこの時だけだ。
ヤマザキの人を見下すような――っていうか実際七緒を見下ろす格好だったんだけど――威圧的で嫌な顔。
「てめぇ弱いくせに俺に…」
奴が全部言い終わる前に、七緒が弾丸みたいにすっ飛んで行って試合が再開された。
「しつけぇなっ」
また、投げられる。
冷たくて固い道場の床は、そうとう痛いはず。
「何だよてめぇ、いー加減にしろよ!」
ヤマザキの怒号。
でも、七緒は何度も跳ね起きて、飛び掛かっていく。
意味不明なほど、何度も。
「な、七緒…っ止めてよ!!ちょっとホントに…」
七緒のきつく食い縛った歯の間からは何の言葉も発せられない。
ただ、静かに燃えるような目だけが、ヤマザキに向けられていた。
起きて、投げられ。また起きて、投げられ。その繰り返し。
結局私がバケツの汚い水をぶっかけるまで、七緒は11回も投げられた。
「冷てぇな、マジで何なんだよお前ら!」
と、全身ぐしょ濡れのヤマザキ。
「おい東、お前弱いくせに俺にいきなりかかってくるなんて100万年早えーんだよ!」
苛立たし気に床の雑巾を蹴り飛ばし、きっと早く着替えたいんだろう、鼻息荒くドカドカ帰ってしまった。
「………。」
私はしばらく放心状態。
今のは何?って混乱状態の心の中で何度もぐるぐる繰り返した。
さっきヤマザキが蹴って跳ね上がった雑巾が頭の上に乗っていたけど、どうにかする気力もない。
七緒もびしょびしょのまま床にへたりこんでいた。
「本当に…何してんの」
私がぽつりと漏らした言葉に、返事はない。
七緒は髪からぽたぽた滴れる水を気にもせず、ただじっと床の一点を見つめていた。
10歳の私には、この沈黙が異様に怖くて、
「──そ」
言いたい事もまとまっていないのに、気持ちを吐き出すためつっかえながらまくしたてた。
「そ…そんなさぁっ!…そんな、人の代わりに怒ったりとか、そういうの…そのせいで七緒が、痛い思いするんだから…」
「違うよ」
相変わらず床を凝視する七緒の目は、誰かを睨んでいるようにも見える。
「…違うよ。俺、心都の代わりに怒ったんじゃない」
いつもよりほんの少しだけ大人びた声で、目の前の幼馴染みは呟いた。
乱闘の数分前、七緒の手によってぴかぴかに磨きあげられた床。
それに映る自分自身を、彼は睨んでいた。
「自分が…“俺”が嫌だから、動いたんだよ」
今まで聞いた中で、最も七緒らしい台詞。
だからこそ、長い長い私の人生で2回も聞けるのかもしれない。
「…だからってあいつに飛び込んでくなよぉ〜…っ」
もう、わけわかんない。
わけわかんないけど、私はありがとうとかごめんなさいを百連発しながら、顔をぐちょぐちょにして泣いていて。
「…ごめん。弱っちぃへなちょこで。」
こんな事を言って七緒もボロッボロに泣きだしちゃうもんだから、私の涙もさらに増えた。
気付いた先生に発見されるまでの10分間、冬の道場で2人で大泣き。
それこそ七ちゃん心都ちゃんって呼び合っていた頃みたいに、わんわん泣いた。
外ではまた雪が降りだしたらしく温度は急激に下がったけど、私はその寒さを少しも疎ましく感じる事はなくて。
熱く火照った涙を冷やしてくれる冷たい空気は、むしろとても素敵に思えた。
――こたつでみかんがあんなに好きな子供だったのに。
七緒と冬。
どっちも、きっとあの日好きになったんだよ。