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王子が生まれたので、もう我慢しなくてもよろしいのですよね?

作者: 塩野さち
掲載日:2026/09/13

「おめでとうございます、陛下。今度こそ、正真正銘の王子殿下にございます」


 扉の向こうで、産婆が泣いていた。


 僕は母の寝室へ伸ばしかけた手を止めた。廊下の窓から入り込んだ春の風が、白い制服の肩に花びらを落とす。胸元では、王太子の証しである銀の獅子が冷たく光っていた。


「男か。本当に、男なのだな」

「はい。お健やかな男のお子でございます」


 父の声が震えた。続いて響いた笑い声は、僕が十八年間、一度も聞いたことのないほど明るいものだった。


 アルヴェリア王国の王家に、男の子が生まれた。


 公には、第二王子の誕生となる。けれど、この扉の内側にいる者たちにとっては、父が生まれて以来、実に四十六年ぶりの男子だった。


 僕は王国の第一王子、エリアス。


 そして、生まれた日の朝に名前を取り上げられた、第二王女エリアナでもある。


「エリアス殿下?」


 背後から呼ばれ、僕は手を下ろした。花束を持った若い騎士が、不思議そうにこちらを見ている。栗色の髪に、少し垂れた茶色の目。僕の付き添いを務めるリュカだった。


「お入りにならないのですか」

「入るよ。花をありがとう」

「抱えきれないほど注文なさるから、花屋のおばさんに求婚かと聞かれました」

「弟に求婚する趣味はないな」


 リュカが笑い、僕も口元をゆるめた。そのままの顔で扉をたたく。返事を待って入ると、部屋には乳と薬草の入り混じった、温かく湿った匂いが満ちていた。


 天井の光石が昼の星のように輝き、寝台のまわりを金色に照らしている。魔法によって生まれるこの光を、僕は初めて見たとき、病院の照明だと思った。


 前の人生の終わりに見上げた、あの白い光だと。


 この世界に生まれる前、僕は日本という国で暮らしていた。二十七歳の、ごく普通の会社員だった女性である。剣も魔法も縁がなく、昼食のパンを片手に、誰かの代わりに仕事を引き受けてばかりいた。


 いつか海の見える町を旅しよう。そのために買った青い旅行かばんは、一度も使わなかった。入院先でさえ仕事の引き継ぎを気にして、最後に口にしたのは、迷惑をかけてすみません、という言葉だったと思う。


 だから、赤ん坊の体で目覚めたときには願った。


 今度は、自分の足で好きなところへ行こう。食べたいものを、温かいうちに食べよう。


 ところが、僕を抱き上げた父は、顔をしかめた。


「また、女か」


 僕は、その声も、母が目を閉じたことも覚えている。


 この国では、王位を継げるのは男子だけだった。父に弟はおらず、父の叔父たちに生まれた子も、娘ばかり。すでに第一王女として披露されていた姉を、いまさら男にはできない。


 ならば、まだ誰にも見せていない次女を。


 赤ん坊の僕の頭上で決まったことを、止められる者はいなかった。産婆と侍医は口を閉ざし、父は神殿の前で、王子を授かったと宣言した。


 僕が最初に覚えさせられたのは、父上でも母上でもない。


 『僕』という、自分を呼ぶための言葉だった。


「何をぼんやりしている、エリアス」


 父に呼ばれ、僕は寝台の前で膝をついた。母の腕には、小さな赤ん坊が収まっている。頬は赤く、まぶたは薄く、指の爪は貝殻のかけらよりも小さかった。


「おめでとうございます、父上、母上」

「名はレオンとする。強い王になるぞ」

「……ええ。きっと」


 王になる。


 父は、これまで僕に向かって言い続けてきた言葉を、眠っている赤ん坊に与えた。僕の胸にある銀の獅子には、一度も目を向けなかった。


「抱いても、よろしいでしょうか」


 母が父を見た。少し間があってから、白いおくるみが僕の腕に渡される。


 弟は驚くほど軽かった。それなのに、息をするたび、腕の中で世界が一つ持ち上がるようだった。そっと差し出した人差し指を、小さな手が握る。


 温かい。弱くて、頼りなくて、たしかに生きている。


「おめでとう、レオン」


 これは嘘ではなかった。この子が生まれたことは、僕にも嬉しい。男であることも、王家に生まれたことも、弟が自分で決めたわけではないのだから。


 どうか、お腹がすいたら泣いてほしい。嫌なことがあれば、嫌だと手足をばたつかせてほしい。


 誰かの望む王子になる前に、たくさん眠って、大きくなってほしい。


「もうよい。お前は下がれ」


 父が僕の腕から弟を抱き取った。置き場所を失った両手を、僕は膝の上にそろえる。


「今夜は近しい者だけで祝う。お前は明日の式典に備えなさい」


 寝台のそばには、姉のセレスティアもいた。薄青のドレスをまとい、母とよく似た顔で、弟をのぞき込んでいる。


 僕は、近しい者には入らないらしい。


「承知しました」


 立ち上がった拍子に、肩の花びらが落ちた。白い大理石の上で、踏まれる前の蝶のようにひっくり返る。


 扉を閉めると、廊下に残っていたリュカが姿勢を正した。


「お顔を見られましたか」

「うん。すごく小さかった」

「赤ん坊ですからね」

「……そうだね。赤ん坊だ」


 歩き出すと、窓の外で祝いの鐘が鳴った。城下町の屋根から白鳩が飛び立ち、その向こうを、荷馬車ほどもある空魚がゆっくり泳いでいく。


 春空を震わせる鐘の音が、背中を押す音なのか、何かの終わりを知らせる音なのか。そのときの僕には、まだ分からなかった。


◇◆◇


 弟が生まれてひと月で、僕の部屋は西の塔へ移された。


 日当たりの悪い部屋だった。壁紙には古い雨染みがあり、窓枠に触れると、塗装が白い粉になって指につく。中庭の噴水さえ見えず、見えるのは灰色の裏門と、洗濯場の屋根だけだった。


 父の執務を学ぶ時間は、予定表から消えた。軍議の資料も届かなくなり、剣の訓練場を使うには、わざわざ許可を取れと言われた。


 廊下ですれ違う大臣たちは、僕の顔よりも先に背後を見るようになった。新しい王子の乳母が通れば、僕への挨拶を途中で切り上げ、そちらへ駆け寄っていく。


 まだ首も据わらない赤ん坊に責任はない。あの小さな手は、僕の予定表も、部屋の鍵も取り上げてはいない。


 そうしているのは、みんな大人だった。


 家族の食卓に呼ばれたのは、三日前が最後だった。十人で使える卓の端に、僕の皿だけが離れて置かれていた。


「胸のものが窮屈なら、部屋では外せばいいでしょう」


 食後、居合わせた家族以外に誰もいなくなると、姉はそう言った。僕が、首元に指を差し込んだのを見たのだ。


「それで侍女に見つかれば、叱られるのは僕です」

「なら、我慢なさい。今までできたのですもの」


 姉は茶に砂糖を落とし、銀のさじを回した。小さな輪が、いくつも浮かんでは消えた。


「姉上。僕は、いつまで王子なのでしょう」

「そういうことは父上にお聞きなさい」

「女に戻っても、ここにいてよいのですか」


 さじの音が止まった。


「今さら、何を言うの。あなたが王子だから、わたくしは早く跡継ぎを産めと言われずに済んだのよ」


 母は、膝の上で刺繍を続けていた。弟に着せる服だった。針が布を行き来するばかりで、こちらを見ることはなかった。


 僕が黙ると、お茶の時間は何事もなかったように続いた。


 西の塔の机にも、今は茶が置かれている。すっかり冷めて、表面に薄い膜が張っていた。口をつけると、舌に渋みだけが残った。


 僕はカップを置き、今朝届いた一枚の紙を読み直した。


 表題は『王太子殿下の御静養について』。


 明日の昼、父に王太子の印章を返すこと。その後、北の離宮へ移ること。手紙はすべて検閲を受け、面会は国王の許しがある者に限ること。


 静養が終わる日は、書かれていなかった。


 扉が二度鳴り、リュカが顔を出した。


「まだ、起きていらっしゃいますか」

「起きていなかったら、いま起きたところだね」

「それは、すみません。お腹のほうは?」

「そちらは、とっくに起きているよ」


 彼が入ってくると、冷えた部屋に蜂蜜の匂いが流れ込んだ。外套の内側から、紙包みが出てくる。丸いパンが二つ。表面には砕いた木の実がまぶされ、まだ湯気が立っていた。


「夕食の盆が運ばれていなかったので。門の前の店に、間に合いました」

「また自分のお金で買ってきたの?」

「僕の夕食を半分、ということにしてください」


 僕は一つを受け取った。指先にじんわり熱が染みる。かじると、薄い皮がパリッと割れ、溶けた蜂蜜が舌の上に広がった。


 前の人生でも、こんなふうに座って、焼きたてのパンを食べるだけでよかったのかもしれない。


「椅子を使って。君が立っていると、食べづらい」

「では、失礼します」


 リュカは、がたつく脚を確かめてから腰を下ろした。ふっと近づいた彼の袖から、革と蜜蝋の匂いがした。靴職人の息子である彼は、騎士になってからも、自分の革具を手入れするのが好きだった。


 彼が僕の秘密を知ったのは、一年前のことだ。


 視察の帰り道、川沿いの橋が崩れた。僕は魔力で体を支え、流されかけた荷馬車を岸へ押し戻したが、折れた板が脇腹をかすめた。


 軽い傷だった。けれど、血が止まらなければ、人前で服を脱がなければならない。


 侍医のいる王宮まで我慢すると言い張る僕に、リュカは首を振った。出血を放っておけません、と、騎士になりたてのくせに、王太子へ正面から言い返した。


 僕は、川音にまぎれるくらい小さな声で告げたのだ。


「僕は、女なんだ」


 彼は口を開け、それから慌てて閉じた。外套を僕に渡すと、街道から見えないよう、荷馬車の横に立った。


「包帯を置きます。届かないところだけ、呼んでください」


 戻ったら父に話すだろうと、僕は思った。秘密を見破った褒美に、もっと立派な主のもとへ移るかもしれない。


 けれど、翌朝もリュカは僕の部屋をたたいた。肩に外套を掛けるときだけ、傷のある側を避けて。


 それから一年、彼は誰にも話さず、そばにいた。


「読んでもいいよ」


 僕が紙を押しやると、リュカの目が文字を追った。読み終わった彼は、パンの残りを静かに包み直した。


「ご病気ということに、されるのですか」

「そうみたいだ。北の離宮は涼しいよ。夏でも暖炉が必要なくらい」

「僕も、お供を願い出ます」

「許されないと思う。この下を見て」


 紙の末尾には、現在の従者をすべて任から解くとあった。リュカはもう一度読み、両手を膝に置いた。


「殿下は、どうなさりたいのですか」


 僕は、残っていたパンを見つめた。


 どうすれば父が納得するか。どう振る舞えば母を困らせずに済むか。そういう問いなら、いくらでも答えてきた。


 けれど、いま彼が尋ねていることに、国の法律も、礼儀作法の教本も答えをくれない。


「まだ、分からない」

「はい」

「でも、寒いところは嫌だな」


 口にしてみると、あまりに小さな望みだった。十八年を閉じ込める命令書に向かって言うことが、それなのかと、自分でもおかしかった。


 リュカは笑わなかった。


「では、そこへ行く準備は、しなくていいと思います」


 胸の奥で固まっていた何かに、細いひびが入った。


 僕は残りのパンを食べた。蜂蜜のついた指を拭き、机の引き出しから、古びた革表紙の手帳を取り出す。隙間から、押し花にした小さな青い花がこぼれた。


 最強の勇者と呼ばれる男が、六年間の稽古の終わりに、僕へ押しつけていったものだった。


「それは、剣の秘伝書ですか」

「違うよ。旅先でお腹を壊さない方法とか、安宿の見分け方とか」

「……勇者様が?」

「一番大事なことだから、忘れるなって」


 ページを開くと、太くて乱暴な文字が目に飛び込んできた。紙にはまだ、焚き火の煙に似た匂いが残っている。


 僕は、あの人と最後に剣を合わせた日のことを思い出した。


◇◆◇


 最後の稽古は、去年の夏だった。


 王宮の裏手にある林では、葉の隙間から落ちる光が、地面に細かく揺れていた。雨上がりの土はやわらかく、靴底をずらすたびに、青い草の匂いが立ち上がった。


「遅い」


 セヴラン師匠の木剣が、僕の額を軽くたたいた。痛くはなかったが、情けない音がした。


「今のは、避けたと思ったのですが」

「避けようと思った顔をしてから、避けるんじゃねえ」

「顔ですか」

「顔だ。あと肩。あと足。全部うるせえ」


 灰色の髪をひもでくくり、無精ひげを生やした師匠は、酒場の隅にいそうな中年男だった。人類最強の勇者と紹介されなければ、僕はきっと、王宮に酒を届けに来た人だと思っただろう。


 初めて会ったのは、十一歳の春だ。王宮の宴に招かれた師匠のあとを追いかけ、剣を教えてほしいと頼み込んだ。


 あのころの僕は、前の人生と同じように、頼まれたことを断れずにいた。王子として役に立てば、いつか父も、僕がここにいてよかったと思ってくれる。そう願っていた。


 師匠が教えれば王子として見栄えがすると、父も許した。ただし、ひどい傷をつけるな、人前で恥をかかせるなと、細かく注文した。


 師匠は、父の前ではうなずいた。


 そして、最初の稽古で僕を泥の中へ転がした。


「恥はかいたか」

「……かきました」

「よし。あとは強くなるだけだ」


 それから六年、師匠が王都に戻るたびに、僕はこの林へ通った。足の運びを直され、魔力の通し方をたたき込まれ、落ち葉の上に何度も転がされた。


 父が見に来る日は、いつも違う稽古だった。僕は姿勢を整え、決められた型を繰り返す。父は早々に満足して帰っていった。


「女でも見栄えはつくものだ」


 一度だけ、去り際の声が聞こえた。師匠は何も言わず、父の姿が消えてから、僕に木剣を投げた。


 その日は、暗くなるまで打ち合った。


「木剣を貸せ」


 去年の夏の師匠は、僕の手から剣を受け取ると、刃に沿って指を滑らせた。古い傷がいくつも走る樫の木剣。稽古のたびに、師匠から借りてきたものだった。


「こいつが鋼に負けるのは、木だからか」

「魔力の通し方が甘いから、です」

「よし。じゃあ、あれを切ってこい」


 師匠があごで示したのは、林の端に据えた鉄の杭だった。僕の腕より太い。練習用の的で、これまで何度も木剣を折られた相手である。


 僕は剣を握り直した。指から手のひら、手首から肘へと、自分の呼吸を確かめる。


 魔力を力任せに押し込めば、木が内側から裂ける。師匠に習ったとおり、木目に沿って流した。乾いた枝が水を吸うように、剣が僕の魔力を受け入れていく。


「相手も見ろ」


 鉄の杭には、防御の魔法が刻まれていた。表面を薄い光が巡っている。流れはなめらかに見えて、根元の一か所でわずかに乱れていた。


 僕は、その乱れに剣先を重ねた。


 音は、小さかった。パンの耳を切るより、手応えが薄かったかもしれない。斜めにずれた杭の上半分が、遅れて土に突き刺さった。


「できた……」

「六年もやってんだ。できなきゃ、俺の教え方が悪い」


 師匠は僕の木剣をつかみ、自分の剣を打ちつけた。初めて聞く、空気の裂ける音がした。


 足元の泥が跳ねた。受けた腕がしびれ、息が止まる。それでも、木剣は折れなかった。押し込まれる力の向きを読み、半歩ずらすと、師匠の刃が肩の横を通り過ぎた。


 僕は、その胸に剣先を当てていた。


「……あ」

「その間抜けな顔は、直せ」


 師匠は笑って、僕の頭を乱暴にかき回した。短く切りそろえた髪に泥がついたが、払う気にはなれなかった。


 稽古が終わると、二人で林の石に座った。師匠が袋から出したトマトは、ぬるくて、少しつぶれていた。かじると酸味が広がり、あごを汁が伝った。


「俺は来月、海を渡る」

「次は、いつお戻りになりますか」

「決めてねえ。帰りたいときに帰る」


 僕は、半分になったトマトを両手で持った。師匠にとっては、自分で帰る日を決めるのが当たり前なのだ。


「僕はまだ、王子として足りません」

「お前の父親に言われたのか」

「……何度も」

「剣についてなら、そいつは間違ってる」


 師匠は革表紙の手帳を、僕の膝に放り投げた。続いて、使い込んだ木剣をその上に置いた。


「持ってけ。どっちも、お前にやる」

「師匠の剣でしょう」

「お前の剣になった。大事にしすぎるなよ。折れたら、また作ればいい」


 表紙を開くと、最初のページに、大きな字で『腹を減らしたまま大事なことを決めるな』と書いてあった。


 僕が笑うと、師匠はトマトの最後のひとかけを口に入れた。


「剣は、お前の行き先を決めてくれねえぞ」

「はい」

「行きたい場所は、お前が決めろ。通せんぼするやつがいたら、今日の稽古を思い出せ」


 頭上で、葉が鳴った。林の向こうには王宮の尖塔が見え、そのさらに向こうには、僕の知らない青い空が続いていた。


 僕はそのとき、ありがとうとしか言えなかった。


 けれど、手帳も木剣も、取り上げられないように自分の手でしまった。


◇◆◇


 翌朝、僕は旅の支度をした。


 着替えを二組。自分でためた小遣いと、師匠の手帳。樫の木剣だけを腰の帯に差すと、持って出たいものは、小さな肩掛けのかばんに収まった。


 鏡の前で、胸に巻いていた布をほどいた。深く息を吸うと、長いあいだ動かしていなかったところにまで、空気が入ってくる気がした。


 白い制服は椅子に置いた。代わりに、昔の遠乗りで使った厚手のシャツを着て、濃紺の上着を羽織る。飾りがなく、肩を動かしやすかった。銀の獅子だけ、その襟に留め直す。


 短い銀髪も、履き慣れた長靴も、そのままにした。この髪で風を受けるのは好きだったし、剣を振るう自分まで嫌いになったわけではない。


 昼の鐘が鳴るころ、僕は家族用の小さな謁見室へ入った。


 父は背の高い椅子に座り、母は少し離れたところで弟をあやしていた。姉と宰相、それに侍医。僕の生まれを知る者だけが、そこにいた。


 リュカは扉の外に残された。今朝から僕の従者ではなくなったのだと、宰相が告げたためだった。


「その格好は何だ」


 父が、僕の襟から長靴まで見下ろした。


「出立の支度です」

「離宮には侍女をつける。男装を続ける必要はない」

「人前には出さないから、ということですね」


 父は答えず、机を指でたたいた。


 僕は胸から銀の獅子を外した。王太子の印章と並べて置くと、石の天板に、カチリと乾いた音が響いた。


 七歳のとき、初めてこの獅子をつけてもらった。父に肩をたたかれ、似合っていると言われた。その夜は、つけたまま眠りたいと侍女を困らせたほどだった。


 いま外してみると、上着に小さな穴が二つ残っただけだった。


「本日をもって、王太子の位をお返しします。王位も、領地も、求めません」

「うむ。最初からそのつもりなら、話が早い」


 父は印章を手元へ寄せた。僕の十八年が、指一本の動きで片づいた。


「離宮での暮らしに不足はさせぬ。お前も、もう王子の務めから解放されるのだ」

「外出はできますか」

「必要な物は取り寄せればよい」

「誰かと会うことは」

「許可した者なら構わぬ」

「僕が会いたい人とは、会えないのですね」


 父の指が止まった。


「分からぬのか。お前が女だと知られれば、王家は国中を欺いていたことになる。神殿にも、諸侯にも、説明がつかぬ」

「王家、ですか」

「この国のためだ。少しは我慢を覚えなさい」


 少し、という言葉が、やけにはっきり聞こえた。


 泣かないこと。声を高くしないこと。胸が苦しくても口に出さないこと。誰かを好きになっても、その人に近づかないこと。


 生まれたときから積み上げたものが、父にとっては、まだ少しだった。


「父上は、王子がいないから僕に王子であれとお命じになりました」

「そうだ。それだけの責任を負わせたのは、気の毒だと思っている」

「いまは、レオンがいます」


 母の腕で、弟が小さなくしゃみをした。母が布を直し、指先でその頬をなでる。僕は弟の顔を見てから、父に向き直った。


「では、もう我慢しなくてもよろしいのですよね?」


 父が眉を寄せた。姉は、僕の足元にあるかばんを見た。


「僕は、北の離宮へは行きません。王宮を出ます」

「何を言っている」

「王子が必要だからと、娘であることをやめさせられました。王子が生まれたからと、今度は人に会うことまでやめろとは、あんまりです」


 声は、不思議なくらい静かに出た。もっと怒鳴るか、泣いてしまうと思っていた。けれど、昨夜リュカの前で口にした小さな望みが、足元を支えていた。


 寒いところには、行きたくない。


 それを、自分で決めたかった。


「身勝手な。お前をここまで育てたのは誰だ」

「ご養育には、感謝しています」

「ならば、なぜ従わぬ」

「感謝していても、嫌なものは嫌です」


 姉の扇が、パチンと閉じた。


「外に出て、どうするつもり? 食事も寝床も、誰も用意してくれないのよ」

「自分で探します」

「あなたに、そんなことができるわけがないでしょう」

「できなければ、覚えます」


 答えてから、僕は少し笑った。剣を初めて握った日だって、何もできなかった。前の人生では列車に乗れたし、部屋を借りて、働いていた。知らないことは多いが、覚えるところから始めればいい。


「エリアス」


 母が、ようやく僕を呼んだ。


「あなたが騒ぐと、レオンが起きてしまうわ」


 僕は唇を結び、うなずいた。母から目をそらすまで、少し時間がかかった。


「……これで、失礼します」


 かばんを肩に掛け、扉へ向かった。押し開く寸前、父の声が背中に当たる。


「誰かある。エリアスを押さえろ」


 扉の両脇から、近衛騎士が二人入ってきた。後ろにリュカの姿が見える。彼は何か言いかけたが、先に僕の腕へ、騎士の手が伸びた。


「殿下。おとなしく、お部屋へ」


 僕は手首をつかまれる前に、半歩だけ横へずれた。伸びた腕を引き、もう一人の進路へ重ねる。二人の足がもつれたところで、背中を押した。


 鎧がぶつかり、重い音を立てた。倒れる前に片方の襟を支え、二人とも壁際に座らせる。


「すみません。そこを通ります」


 リュカが目を丸くした。その横を抜けたとき、父が椅子を引く音が聞こえた。


「門を閉じろ! そいつを外に出すな!」


 廊下の向こうで、兵士が走り出す。僕はかばんの位置を直して、階段へ足を向けた。


◇◆◇


 大階段の先には、槍が並んでいた。


 八人の近衛騎士が、前庭への出口をふさいでいる。白い石柱の間で、磨かれた穂先が同じ高さにそろっていた。見事な隊列だった。僕が幼いころから、頼もしいと思って眺めてきた光景だ。


 その槍が、今日は僕に向いていた。


「お戻りください、殿下」


 隊長が前へ出た。訓練場で、何度か相手をしてもらったことがある騎士だった。


「戻るつもりはありません」

「陛下のご命令です」

「聞こえています。そのうえで、通してくださいとお願いしています」


 隊長の目が、僕の腰に落ちた。


「その玩具で、何をなさるおつもりですか」


 僕は木剣を抜いた。古い握りが、手のひらに収まる。六年間の汗が染み込んだ感触は、王太子の印章よりも、ずっとよく知っていた。


「なるべく、怪我をさせずに通ります」


 隊長が腕を振った。穂先が一斉に動く。胸と肩を狙うもの、逃げ道をふさぐもの。訓練で何百回も繰り返したであろう動きに、迷いはなかった。


 僕は息を吐き、最初の槍を木剣の腹で押した。


 ずれた穂先が隣の柄をたたく。二本が重なったところを支点にして、僕は騎士たちの間へ滑り込んだ。肩を押し、膝の裏を払い、倒れる体が石柱へぶつからないよう向きを変える。


 八本の槍が床に落ちるまでに、隊長はまだ剣を抜き終えていなかった。


「なっ……!」


 ようやく抜かれた剣を、根元から切った。鋼の刃が回りながら落ちる。その下へ木剣を差し込み、受け止めてから、床へ置いた。


「踏むと危ないので、気をつけてください」


 隊長は柄だけになった剣を見て、僕を見た。僕は頭を下げ、その脇を通った。


 前庭に出ると、日差しがまぶしかった。白薔薇の花壇の向こうに、王宮の正門が見える。門扉はすでに閉じられ、太い鉄の横木が渡されていた。


「エリアス!」


 二階の回廊に、父と宰相が出てきた。父は手すりをつかみ、庭に伏せた近衛たちを見下ろした。


「手加減などいらぬ! 多少傷つけても構わん、捕らえろ!」


 左右の通路から、新たな騎士が来る。その後ろでは、宮廷魔術師が杖を構えていた。先端の石が青く光ると、敷石の上を細い光が走った。


 足首に、冷たい感触が巻きついた。魔力で作った鎖だった。さらに二本が空中へ伸び、僕の手首を狙う。


 僕は右足を引き、鎖に木剣を当てた。青い光の中を、細かな粒が同じ方向へ流れている。


 林の鉄杭にも、こんな流れがあった。


 力が重なり、わずかに乱れる場所へ、剣先から魔力を流し込む。鎖は引きちぎれることもなく、春の薄氷のようにほどけて消えた。


「術が……消えた?」


 魔術師が杖を見直す。その隙に、僕は正門へ向かった。


 右の植え込みから、一人の騎士が飛び出した。肩に向かって剣が振り下ろされる。受け流そうと体を開いた、その間へ、別の背中が割り込んだ。


「やめてください!」


 リュカだった。


 打ち合った剣が高い音を立てた。彼の剣は半ばから折れ、弾かれた柄が敷石を転がる。相手が続けて踏み込む前に、僕は木剣でその腕を押し上げ、胸当てを軽く突いた。


 騎士は花壇の縁を越え、土の上へ尻から落ちた。


「リュカ、手は」

「動きます。ちょっと、しびれただけです」

「無茶をしないで」


 彼は右手を開き、閉じた。指が動くのを確かめて、ようやく息をつく。その額には、階段を駆け下りてきた汗が浮いていた。


「君まで命令違反になる。ここに残れば、まだ間に合うよ」

「残って、この方たちと一緒にあなたを捕まえるのですか」


 返事ができなかった。


 リュカは、震えの残る右手を体の横へ下ろした。そのまま、回廊にいる父を見上げる。


「僕は、この方を閉じ込める命令には従えません」


 庭が静まった。噴水の水が落ちる音だけが、妙にはっきり響いた。


「騎士の身分を失うぞ」

「はい」

「二度と、この王宮では仕えられん」

「……はい」


 二度目の返事は、一度目より小さかった。それでもリュカは、頭を下げなかった。


 僕は、彼の袖についた土を払った。そんなことくらいしか、いま触れてよい理由を思いつかなかった。


「少しだけ、僕の後ろにいて」


 回廊の端で、弩を構える兵士が見えた。弦を引く音が続き、父がこちらへ腕を突き出す。


「足を狙え!」


 僕はリュカの前に立ち、木剣へ魔力を通した。


 放たれた矢が、日差しの中で小さく光る。僕は剣を振り抜いた。刃に沿って流した魔力が風となり、前庭を横切る。


 矢は上へはね上がり、石柱の高いところに刺さった。続いて、回廊の兵士たちが構えた弩の弦が、次々と切れる。誰かの帽子が風にさらわれ、噴水へ落ちた。


 僕は剣を下ろした。握りの古い傷に、指がぴたりと重なっていた。


「父上。師匠に何を教わっているか、一度くらい最後まで見てくださればよかったのに」


 父は、口を開けたまま動かなかった。


 僕は正門の前へ進んだ。鉄の横木には防護の魔法がかかっている。表面を巡る光をたどると、留め具の下に、流れがつながる細い隙間があった。


 木剣を当てた。魔法がほどけ、そのすぐあとに、鉄が切れた。


 ずり落ちかけた横木を左手で支え、地面へ下ろす。魔力で腕を強めれば、荷馬車を押し戻したあの日より、ずっと軽い仕事だった。


 両開きの門を押すと、古い蝶番が低く鳴いた。隙間から城下町のざわめきが流れ込む。焼きたてのパンの匂いと、川から吹く風も。


「待て、エリアス。待たぬか!」


 僕は、半分だけ振り返った。


「十八年、待ちました」


 父の顔は、日差しの届かない回廊の奥にあった。いつも見上げていたはずなのに、今日はずいぶん遠く、小さく見えた。


「レオンには、好きなものを聞いてあげてください」


 それだけ言って、僕は門をくぐった。


 誰の許しも待たず、敷居の向こうへ足を下ろした。


◇◆◇


 王宮から城下町へ下る坂道は、思っていたよりも急だった。


 いつも馬車で通っていたから、知らなかった。道の端に小さなすみれが咲いていることも、石垣の隙間で水が鳴っていることも。


 下り坂の先には、赤い屋根が重なっている。煙突から昼食の煙が上がり、川面には帆をたたんだ船が並んでいた。遠くの空魚が、建物の上へ大きな影を落としていく。


 僕は長靴の紐を締め直し、歩き出した。


 王宮で過ごした十八年間が、小さなかばんの中で揺れる。思い出は持ちきれなくても、背負える荷物には限りがある。肩に食い込む重さは、これくらいでよかった。


 少し先で道が二つに分かれていた。右は市場へ、左は川沿いの街道へ続くらしい。師匠の手帳を出そうとしたとき、後ろから声がした。


「まってよー! 殿下ー!」


 振り返ると、リュカが坂を駆け下りてきた。右手で外套を押さえ、左手には、さっき折られた剣の柄を持っている。


「置いていくなんて、ひどいです!」

「ごめん。すぐ後ろにいると思っていた」

「剣を拾っていたんです。支給品なので、置いてくるわけには……あ、もう騎士ではないのか」


 彼は手元を見て、困ったように眉を下げた。僕は笑いかけ、笑う途中で、喉の奥が熱くなった。


 開いたままの王宮の門を見上げた。誰も追ってはこない。僕を呼び止める家族も、かつて忠誠を誓った取り巻きたちも、そこにはいなかった。


 ここまで来たのは、リュカ一人だった。


「本当に、来てしまったんだね」

「はい」

「お給金は出せないよ」

「僕も、あなたにお支払いできるほどは持っていません」


 リュカは息を整えながら、折れた柄を空の鞘へ収めた。留め金を直す右手は、もう震えていなかった。


「次は、自分のお金で買います。どんな剣がいいか、教えていただけますか」

「うん。それなら、いくらでも」


 僕がうなずくと、彼はほっとしたように笑った。


 騎士の制服は、転んだときについた土で汚れている。背が高くて、僕より一つ年上なのに、笑うと少し幼く見える。その顔を、これからも見ていられるのだと思った。


「殿下は、どちらへ向かわれるのですか」

「もう殿下じゃないよ」

「では、エリアス様」


 呼び慣れた名前が、二人の間に落ちた。


 僕は襟に触れた。銀の獅子があったところには、小さな穴が二つある。そこを指でなぞってから、手を下ろした。


「エリアナ」


 口にすると、舌の上で少しだけつかえた。


「本当の名前は、エリアナというんだ」


 リュカは、すぐには繰り返さなかった。僕の顔を見て、それから、背筋を伸ばした。


「では、エリアナ様」


 それだけだった。


 驚いて大声を上げることも、似合うかどうかを決めることもなく、彼は僕の名前を呼んだ。


「……うん」


 返事をした途端、視界がにじんだ。あわてて目を伏せると、リュカが左へ、右へと顔を動かす。


「あの、様もいりませんでしたか」

「そこは、また今度でいい」

「はい。少しずつ、覚えます」


 僕は指の背で目元を拭った。王子らしくなくてもいいのだから、もう少し泣いたってよかったのだろう。けれど、せっかく明るい場所に来たのだから、彼の顔をよく見たかった。


「海へ行きたい」


 遠い昔、使わずに終わった青い旅行かばんが、心の中でようやく開いた。


「この川を下れば、海に出るよね」

「はい。歩けば、何日もかかりますが」

「急がなくていい。途中で、食べたいものを食べて、見たいものを見たい」


 リュカは川のほうへ目を向けた。水面から吹き上げた風が、彼の栗色の髪を揺らす。


「僕は、港町の靴を見てみたいです」

「靴?」

「船乗りの靴は、濡れた甲板でも滑りにくいそうです。どんな底になっているのか、ずっと気になっていて」


 僕は、今度はちゃんと笑えた。


「じゃあ、見に行こう。僕の靴も、途中で直してもらえる?」

「もちろん。針と糸なら、いつも持っています」


 彼は腰の道具袋を軽くたたいた。それから街道へ続くほうへ一歩進み、僕に左手を差し出した。


「行きましょう、エリアナ様」


 大きな手だった。剣の稽古でできたまめと、革を縫う針が残した小さな古傷がある。何度も温かなパンを運んでくれた、その手が、春の日差しの中で僕を待っていた。


 僕は一歩、彼に近づいた。胸いっぱいに息を吸う。首元を押さえなくても、声を低く作らなくてもよかった。


 僕は……いいえ、私は、彼の手を取ったのでした。


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― 新着の感想 ―
長編版があって嬉しいです。 続きを~と思ったら案内があったのでやった❗と思いました。 期待大です❗
まだまだ未知数な赤ん坊なのに、過剰な期待を受けて 可哀そうと思いました。 この王家に生まれて、心身ともに健康なまま育つか疑問。 はたして王として資質が足りるのか。親が親だしなぁ。 それ以前に、この…
こういった展開のお話、大好物です。 後日談(微ザマァ的な)のお代わりが、ぜひいただきたいです。 連載になれば、さらに嬉しいです。 これからも傑作を期待しております。
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