王子が生まれたので、もう我慢しなくてもよろしいのですよね?
「おめでとうございます、陛下。今度こそ、正真正銘の王子殿下にございます」
扉の向こうで、産婆が泣いていた。
僕は母の寝室へ伸ばしかけた手を止めた。廊下の窓から入り込んだ春の風が、白い制服の肩に花びらを落とす。胸元では、王太子の証しである銀の獅子が冷たく光っていた。
「男か。本当に、男なのだな」
「はい。お健やかな男のお子でございます」
父の声が震えた。続いて響いた笑い声は、僕が十八年間、一度も聞いたことのないほど明るいものだった。
アルヴェリア王国の王家に、男の子が生まれた。
公には、第二王子の誕生となる。けれど、この扉の内側にいる者たちにとっては、父が生まれて以来、実に四十六年ぶりの男子だった。
僕は王国の第一王子、エリアス。
そして、生まれた日の朝に名前を取り上げられた、第二王女エリアナでもある。
「エリアス殿下?」
背後から呼ばれ、僕は手を下ろした。花束を持った若い騎士が、不思議そうにこちらを見ている。栗色の髪に、少し垂れた茶色の目。僕の付き添いを務めるリュカだった。
「お入りにならないのですか」
「入るよ。花をありがとう」
「抱えきれないほど注文なさるから、花屋のおばさんに求婚かと聞かれました」
「弟に求婚する趣味はないな」
リュカが笑い、僕も口元をゆるめた。そのままの顔で扉をたたく。返事を待って入ると、部屋には乳と薬草の入り混じった、温かく湿った匂いが満ちていた。
天井の光石が昼の星のように輝き、寝台のまわりを金色に照らしている。魔法によって生まれるこの光を、僕は初めて見たとき、病院の照明だと思った。
前の人生の終わりに見上げた、あの白い光だと。
この世界に生まれる前、僕は日本という国で暮らしていた。二十七歳の、ごく普通の会社員だった女性である。剣も魔法も縁がなく、昼食のパンを片手に、誰かの代わりに仕事を引き受けてばかりいた。
いつか海の見える町を旅しよう。そのために買った青い旅行かばんは、一度も使わなかった。入院先でさえ仕事の引き継ぎを気にして、最後に口にしたのは、迷惑をかけてすみません、という言葉だったと思う。
だから、赤ん坊の体で目覚めたときには願った。
今度は、自分の足で好きなところへ行こう。食べたいものを、温かいうちに食べよう。
ところが、僕を抱き上げた父は、顔をしかめた。
「また、女か」
僕は、その声も、母が目を閉じたことも覚えている。
この国では、王位を継げるのは男子だけだった。父に弟はおらず、父の叔父たちに生まれた子も、娘ばかり。すでに第一王女として披露されていた姉を、いまさら男にはできない。
ならば、まだ誰にも見せていない次女を。
赤ん坊の僕の頭上で決まったことを、止められる者はいなかった。産婆と侍医は口を閉ざし、父は神殿の前で、王子を授かったと宣言した。
僕が最初に覚えさせられたのは、父上でも母上でもない。
『僕』という、自分を呼ぶための言葉だった。
「何をぼんやりしている、エリアス」
父に呼ばれ、僕は寝台の前で膝をついた。母の腕には、小さな赤ん坊が収まっている。頬は赤く、まぶたは薄く、指の爪は貝殻のかけらよりも小さかった。
「おめでとうございます、父上、母上」
「名はレオンとする。強い王になるぞ」
「……ええ。きっと」
王になる。
父は、これまで僕に向かって言い続けてきた言葉を、眠っている赤ん坊に与えた。僕の胸にある銀の獅子には、一度も目を向けなかった。
「抱いても、よろしいでしょうか」
母が父を見た。少し間があってから、白いおくるみが僕の腕に渡される。
弟は驚くほど軽かった。それなのに、息をするたび、腕の中で世界が一つ持ち上がるようだった。そっと差し出した人差し指を、小さな手が握る。
温かい。弱くて、頼りなくて、たしかに生きている。
「おめでとう、レオン」
これは嘘ではなかった。この子が生まれたことは、僕にも嬉しい。男であることも、王家に生まれたことも、弟が自分で決めたわけではないのだから。
どうか、お腹がすいたら泣いてほしい。嫌なことがあれば、嫌だと手足をばたつかせてほしい。
誰かの望む王子になる前に、たくさん眠って、大きくなってほしい。
「もうよい。お前は下がれ」
父が僕の腕から弟を抱き取った。置き場所を失った両手を、僕は膝の上にそろえる。
「今夜は近しい者だけで祝う。お前は明日の式典に備えなさい」
寝台のそばには、姉のセレスティアもいた。薄青のドレスをまとい、母とよく似た顔で、弟をのぞき込んでいる。
僕は、近しい者には入らないらしい。
「承知しました」
立ち上がった拍子に、肩の花びらが落ちた。白い大理石の上で、踏まれる前の蝶のようにひっくり返る。
扉を閉めると、廊下に残っていたリュカが姿勢を正した。
「お顔を見られましたか」
「うん。すごく小さかった」
「赤ん坊ですからね」
「……そうだね。赤ん坊だ」
歩き出すと、窓の外で祝いの鐘が鳴った。城下町の屋根から白鳩が飛び立ち、その向こうを、荷馬車ほどもある空魚がゆっくり泳いでいく。
春空を震わせる鐘の音が、背中を押す音なのか、何かの終わりを知らせる音なのか。そのときの僕には、まだ分からなかった。
◇◆◇
弟が生まれてひと月で、僕の部屋は西の塔へ移された。
日当たりの悪い部屋だった。壁紙には古い雨染みがあり、窓枠に触れると、塗装が白い粉になって指につく。中庭の噴水さえ見えず、見えるのは灰色の裏門と、洗濯場の屋根だけだった。
父の執務を学ぶ時間は、予定表から消えた。軍議の資料も届かなくなり、剣の訓練場を使うには、わざわざ許可を取れと言われた。
廊下ですれ違う大臣たちは、僕の顔よりも先に背後を見るようになった。新しい王子の乳母が通れば、僕への挨拶を途中で切り上げ、そちらへ駆け寄っていく。
まだ首も据わらない赤ん坊に責任はない。あの小さな手は、僕の予定表も、部屋の鍵も取り上げてはいない。
そうしているのは、みんな大人だった。
家族の食卓に呼ばれたのは、三日前が最後だった。十人で使える卓の端に、僕の皿だけが離れて置かれていた。
「胸のものが窮屈なら、部屋では外せばいいでしょう」
食後、居合わせた家族以外に誰もいなくなると、姉はそう言った。僕が、首元に指を差し込んだのを見たのだ。
「それで侍女に見つかれば、叱られるのは僕です」
「なら、我慢なさい。今までできたのですもの」
姉は茶に砂糖を落とし、銀のさじを回した。小さな輪が、いくつも浮かんでは消えた。
「姉上。僕は、いつまで王子なのでしょう」
「そういうことは父上にお聞きなさい」
「女に戻っても、ここにいてよいのですか」
さじの音が止まった。
「今さら、何を言うの。あなたが王子だから、わたくしは早く跡継ぎを産めと言われずに済んだのよ」
母は、膝の上で刺繍を続けていた。弟に着せる服だった。針が布を行き来するばかりで、こちらを見ることはなかった。
僕が黙ると、お茶の時間は何事もなかったように続いた。
西の塔の机にも、今は茶が置かれている。すっかり冷めて、表面に薄い膜が張っていた。口をつけると、舌に渋みだけが残った。
僕はカップを置き、今朝届いた一枚の紙を読み直した。
表題は『王太子殿下の御静養について』。
明日の昼、父に王太子の印章を返すこと。その後、北の離宮へ移ること。手紙はすべて検閲を受け、面会は国王の許しがある者に限ること。
静養が終わる日は、書かれていなかった。
扉が二度鳴り、リュカが顔を出した。
「まだ、起きていらっしゃいますか」
「起きていなかったら、いま起きたところだね」
「それは、すみません。お腹のほうは?」
「そちらは、とっくに起きているよ」
彼が入ってくると、冷えた部屋に蜂蜜の匂いが流れ込んだ。外套の内側から、紙包みが出てくる。丸いパンが二つ。表面には砕いた木の実がまぶされ、まだ湯気が立っていた。
「夕食の盆が運ばれていなかったので。門の前の店に、間に合いました」
「また自分のお金で買ってきたの?」
「僕の夕食を半分、ということにしてください」
僕は一つを受け取った。指先にじんわり熱が染みる。かじると、薄い皮がパリッと割れ、溶けた蜂蜜が舌の上に広がった。
前の人生でも、こんなふうに座って、焼きたてのパンを食べるだけでよかったのかもしれない。
「椅子を使って。君が立っていると、食べづらい」
「では、失礼します」
リュカは、がたつく脚を確かめてから腰を下ろした。ふっと近づいた彼の袖から、革と蜜蝋の匂いがした。靴職人の息子である彼は、騎士になってからも、自分の革具を手入れするのが好きだった。
彼が僕の秘密を知ったのは、一年前のことだ。
視察の帰り道、川沿いの橋が崩れた。僕は魔力で体を支え、流されかけた荷馬車を岸へ押し戻したが、折れた板が脇腹をかすめた。
軽い傷だった。けれど、血が止まらなければ、人前で服を脱がなければならない。
侍医のいる王宮まで我慢すると言い張る僕に、リュカは首を振った。出血を放っておけません、と、騎士になりたてのくせに、王太子へ正面から言い返した。
僕は、川音にまぎれるくらい小さな声で告げたのだ。
「僕は、女なんだ」
彼は口を開け、それから慌てて閉じた。外套を僕に渡すと、街道から見えないよう、荷馬車の横に立った。
「包帯を置きます。届かないところだけ、呼んでください」
戻ったら父に話すだろうと、僕は思った。秘密を見破った褒美に、もっと立派な主のもとへ移るかもしれない。
けれど、翌朝もリュカは僕の部屋をたたいた。肩に外套を掛けるときだけ、傷のある側を避けて。
それから一年、彼は誰にも話さず、そばにいた。
「読んでもいいよ」
僕が紙を押しやると、リュカの目が文字を追った。読み終わった彼は、パンの残りを静かに包み直した。
「ご病気ということに、されるのですか」
「そうみたいだ。北の離宮は涼しいよ。夏でも暖炉が必要なくらい」
「僕も、お供を願い出ます」
「許されないと思う。この下を見て」
紙の末尾には、現在の従者をすべて任から解くとあった。リュカはもう一度読み、両手を膝に置いた。
「殿下は、どうなさりたいのですか」
僕は、残っていたパンを見つめた。
どうすれば父が納得するか。どう振る舞えば母を困らせずに済むか。そういう問いなら、いくらでも答えてきた。
けれど、いま彼が尋ねていることに、国の法律も、礼儀作法の教本も答えをくれない。
「まだ、分からない」
「はい」
「でも、寒いところは嫌だな」
口にしてみると、あまりに小さな望みだった。十八年を閉じ込める命令書に向かって言うことが、それなのかと、自分でもおかしかった。
リュカは笑わなかった。
「では、そこへ行く準備は、しなくていいと思います」
胸の奥で固まっていた何かに、細いひびが入った。
僕は残りのパンを食べた。蜂蜜のついた指を拭き、机の引き出しから、古びた革表紙の手帳を取り出す。隙間から、押し花にした小さな青い花がこぼれた。
最強の勇者と呼ばれる男が、六年間の稽古の終わりに、僕へ押しつけていったものだった。
「それは、剣の秘伝書ですか」
「違うよ。旅先でお腹を壊さない方法とか、安宿の見分け方とか」
「……勇者様が?」
「一番大事なことだから、忘れるなって」
ページを開くと、太くて乱暴な文字が目に飛び込んできた。紙にはまだ、焚き火の煙に似た匂いが残っている。
僕は、あの人と最後に剣を合わせた日のことを思い出した。
◇◆◇
最後の稽古は、去年の夏だった。
王宮の裏手にある林では、葉の隙間から落ちる光が、地面に細かく揺れていた。雨上がりの土はやわらかく、靴底をずらすたびに、青い草の匂いが立ち上がった。
「遅い」
セヴラン師匠の木剣が、僕の額を軽くたたいた。痛くはなかったが、情けない音がした。
「今のは、避けたと思ったのですが」
「避けようと思った顔をしてから、避けるんじゃねえ」
「顔ですか」
「顔だ。あと肩。あと足。全部うるせえ」
灰色の髪をひもでくくり、無精ひげを生やした師匠は、酒場の隅にいそうな中年男だった。人類最強の勇者と紹介されなければ、僕はきっと、王宮に酒を届けに来た人だと思っただろう。
初めて会ったのは、十一歳の春だ。王宮の宴に招かれた師匠のあとを追いかけ、剣を教えてほしいと頼み込んだ。
あのころの僕は、前の人生と同じように、頼まれたことを断れずにいた。王子として役に立てば、いつか父も、僕がここにいてよかったと思ってくれる。そう願っていた。
師匠が教えれば王子として見栄えがすると、父も許した。ただし、ひどい傷をつけるな、人前で恥をかかせるなと、細かく注文した。
師匠は、父の前ではうなずいた。
そして、最初の稽古で僕を泥の中へ転がした。
「恥はかいたか」
「……かきました」
「よし。あとは強くなるだけだ」
それから六年、師匠が王都に戻るたびに、僕はこの林へ通った。足の運びを直され、魔力の通し方をたたき込まれ、落ち葉の上に何度も転がされた。
父が見に来る日は、いつも違う稽古だった。僕は姿勢を整え、決められた型を繰り返す。父は早々に満足して帰っていった。
「女でも見栄えはつくものだ」
一度だけ、去り際の声が聞こえた。師匠は何も言わず、父の姿が消えてから、僕に木剣を投げた。
その日は、暗くなるまで打ち合った。
「木剣を貸せ」
去年の夏の師匠は、僕の手から剣を受け取ると、刃に沿って指を滑らせた。古い傷がいくつも走る樫の木剣。稽古のたびに、師匠から借りてきたものだった。
「こいつが鋼に負けるのは、木だからか」
「魔力の通し方が甘いから、です」
「よし。じゃあ、あれを切ってこい」
師匠があごで示したのは、林の端に据えた鉄の杭だった。僕の腕より太い。練習用の的で、これまで何度も木剣を折られた相手である。
僕は剣を握り直した。指から手のひら、手首から肘へと、自分の呼吸を確かめる。
魔力を力任せに押し込めば、木が内側から裂ける。師匠に習ったとおり、木目に沿って流した。乾いた枝が水を吸うように、剣が僕の魔力を受け入れていく。
「相手も見ろ」
鉄の杭には、防御の魔法が刻まれていた。表面を薄い光が巡っている。流れはなめらかに見えて、根元の一か所でわずかに乱れていた。
僕は、その乱れに剣先を重ねた。
音は、小さかった。パンの耳を切るより、手応えが薄かったかもしれない。斜めにずれた杭の上半分が、遅れて土に突き刺さった。
「できた……」
「六年もやってんだ。できなきゃ、俺の教え方が悪い」
師匠は僕の木剣をつかみ、自分の剣を打ちつけた。初めて聞く、空気の裂ける音がした。
足元の泥が跳ねた。受けた腕がしびれ、息が止まる。それでも、木剣は折れなかった。押し込まれる力の向きを読み、半歩ずらすと、師匠の刃が肩の横を通り過ぎた。
僕は、その胸に剣先を当てていた。
「……あ」
「その間抜けな顔は、直せ」
師匠は笑って、僕の頭を乱暴にかき回した。短く切りそろえた髪に泥がついたが、払う気にはなれなかった。
稽古が終わると、二人で林の石に座った。師匠が袋から出したトマトは、ぬるくて、少しつぶれていた。かじると酸味が広がり、あごを汁が伝った。
「俺は来月、海を渡る」
「次は、いつお戻りになりますか」
「決めてねえ。帰りたいときに帰る」
僕は、半分になったトマトを両手で持った。師匠にとっては、自分で帰る日を決めるのが当たり前なのだ。
「僕はまだ、王子として足りません」
「お前の父親に言われたのか」
「……何度も」
「剣についてなら、そいつは間違ってる」
師匠は革表紙の手帳を、僕の膝に放り投げた。続いて、使い込んだ木剣をその上に置いた。
「持ってけ。どっちも、お前にやる」
「師匠の剣でしょう」
「お前の剣になった。大事にしすぎるなよ。折れたら、また作ればいい」
表紙を開くと、最初のページに、大きな字で『腹を減らしたまま大事なことを決めるな』と書いてあった。
僕が笑うと、師匠はトマトの最後のひとかけを口に入れた。
「剣は、お前の行き先を決めてくれねえぞ」
「はい」
「行きたい場所は、お前が決めろ。通せんぼするやつがいたら、今日の稽古を思い出せ」
頭上で、葉が鳴った。林の向こうには王宮の尖塔が見え、そのさらに向こうには、僕の知らない青い空が続いていた。
僕はそのとき、ありがとうとしか言えなかった。
けれど、手帳も木剣も、取り上げられないように自分の手でしまった。
◇◆◇
翌朝、僕は旅の支度をした。
着替えを二組。自分でためた小遣いと、師匠の手帳。樫の木剣だけを腰の帯に差すと、持って出たいものは、小さな肩掛けのかばんに収まった。
鏡の前で、胸に巻いていた布をほどいた。深く息を吸うと、長いあいだ動かしていなかったところにまで、空気が入ってくる気がした。
白い制服は椅子に置いた。代わりに、昔の遠乗りで使った厚手のシャツを着て、濃紺の上着を羽織る。飾りがなく、肩を動かしやすかった。銀の獅子だけ、その襟に留め直す。
短い銀髪も、履き慣れた長靴も、そのままにした。この髪で風を受けるのは好きだったし、剣を振るう自分まで嫌いになったわけではない。
昼の鐘が鳴るころ、僕は家族用の小さな謁見室へ入った。
父は背の高い椅子に座り、母は少し離れたところで弟をあやしていた。姉と宰相、それに侍医。僕の生まれを知る者だけが、そこにいた。
リュカは扉の外に残された。今朝から僕の従者ではなくなったのだと、宰相が告げたためだった。
「その格好は何だ」
父が、僕の襟から長靴まで見下ろした。
「出立の支度です」
「離宮には侍女をつける。男装を続ける必要はない」
「人前には出さないから、ということですね」
父は答えず、机を指でたたいた。
僕は胸から銀の獅子を外した。王太子の印章と並べて置くと、石の天板に、カチリと乾いた音が響いた。
七歳のとき、初めてこの獅子をつけてもらった。父に肩をたたかれ、似合っていると言われた。その夜は、つけたまま眠りたいと侍女を困らせたほどだった。
いま外してみると、上着に小さな穴が二つ残っただけだった。
「本日をもって、王太子の位をお返しします。王位も、領地も、求めません」
「うむ。最初からそのつもりなら、話が早い」
父は印章を手元へ寄せた。僕の十八年が、指一本の動きで片づいた。
「離宮での暮らしに不足はさせぬ。お前も、もう王子の務めから解放されるのだ」
「外出はできますか」
「必要な物は取り寄せればよい」
「誰かと会うことは」
「許可した者なら構わぬ」
「僕が会いたい人とは、会えないのですね」
父の指が止まった。
「分からぬのか。お前が女だと知られれば、王家は国中を欺いていたことになる。神殿にも、諸侯にも、説明がつかぬ」
「王家、ですか」
「この国のためだ。少しは我慢を覚えなさい」
少し、という言葉が、やけにはっきり聞こえた。
泣かないこと。声を高くしないこと。胸が苦しくても口に出さないこと。誰かを好きになっても、その人に近づかないこと。
生まれたときから積み上げたものが、父にとっては、まだ少しだった。
「父上は、王子がいないから僕に王子であれとお命じになりました」
「そうだ。それだけの責任を負わせたのは、気の毒だと思っている」
「いまは、レオンがいます」
母の腕で、弟が小さなくしゃみをした。母が布を直し、指先でその頬をなでる。僕は弟の顔を見てから、父に向き直った。
「では、もう我慢しなくてもよろしいのですよね?」
父が眉を寄せた。姉は、僕の足元にあるかばんを見た。
「僕は、北の離宮へは行きません。王宮を出ます」
「何を言っている」
「王子が必要だからと、娘であることをやめさせられました。王子が生まれたからと、今度は人に会うことまでやめろとは、あんまりです」
声は、不思議なくらい静かに出た。もっと怒鳴るか、泣いてしまうと思っていた。けれど、昨夜リュカの前で口にした小さな望みが、足元を支えていた。
寒いところには、行きたくない。
それを、自分で決めたかった。
「身勝手な。お前をここまで育てたのは誰だ」
「ご養育には、感謝しています」
「ならば、なぜ従わぬ」
「感謝していても、嫌なものは嫌です」
姉の扇が、パチンと閉じた。
「外に出て、どうするつもり? 食事も寝床も、誰も用意してくれないのよ」
「自分で探します」
「あなたに、そんなことができるわけがないでしょう」
「できなければ、覚えます」
答えてから、僕は少し笑った。剣を初めて握った日だって、何もできなかった。前の人生では列車に乗れたし、部屋を借りて、働いていた。知らないことは多いが、覚えるところから始めればいい。
「エリアス」
母が、ようやく僕を呼んだ。
「あなたが騒ぐと、レオンが起きてしまうわ」
僕は唇を結び、うなずいた。母から目をそらすまで、少し時間がかかった。
「……これで、失礼します」
かばんを肩に掛け、扉へ向かった。押し開く寸前、父の声が背中に当たる。
「誰かある。エリアスを押さえろ」
扉の両脇から、近衛騎士が二人入ってきた。後ろにリュカの姿が見える。彼は何か言いかけたが、先に僕の腕へ、騎士の手が伸びた。
「殿下。おとなしく、お部屋へ」
僕は手首をつかまれる前に、半歩だけ横へずれた。伸びた腕を引き、もう一人の進路へ重ねる。二人の足がもつれたところで、背中を押した。
鎧がぶつかり、重い音を立てた。倒れる前に片方の襟を支え、二人とも壁際に座らせる。
「すみません。そこを通ります」
リュカが目を丸くした。その横を抜けたとき、父が椅子を引く音が聞こえた。
「門を閉じろ! そいつを外に出すな!」
廊下の向こうで、兵士が走り出す。僕はかばんの位置を直して、階段へ足を向けた。
◇◆◇
大階段の先には、槍が並んでいた。
八人の近衛騎士が、前庭への出口をふさいでいる。白い石柱の間で、磨かれた穂先が同じ高さにそろっていた。見事な隊列だった。僕が幼いころから、頼もしいと思って眺めてきた光景だ。
その槍が、今日は僕に向いていた。
「お戻りください、殿下」
隊長が前へ出た。訓練場で、何度か相手をしてもらったことがある騎士だった。
「戻るつもりはありません」
「陛下のご命令です」
「聞こえています。そのうえで、通してくださいとお願いしています」
隊長の目が、僕の腰に落ちた。
「その玩具で、何をなさるおつもりですか」
僕は木剣を抜いた。古い握りが、手のひらに収まる。六年間の汗が染み込んだ感触は、王太子の印章よりも、ずっとよく知っていた。
「なるべく、怪我をさせずに通ります」
隊長が腕を振った。穂先が一斉に動く。胸と肩を狙うもの、逃げ道をふさぐもの。訓練で何百回も繰り返したであろう動きに、迷いはなかった。
僕は息を吐き、最初の槍を木剣の腹で押した。
ずれた穂先が隣の柄をたたく。二本が重なったところを支点にして、僕は騎士たちの間へ滑り込んだ。肩を押し、膝の裏を払い、倒れる体が石柱へぶつからないよう向きを変える。
八本の槍が床に落ちるまでに、隊長はまだ剣を抜き終えていなかった。
「なっ……!」
ようやく抜かれた剣を、根元から切った。鋼の刃が回りながら落ちる。その下へ木剣を差し込み、受け止めてから、床へ置いた。
「踏むと危ないので、気をつけてください」
隊長は柄だけになった剣を見て、僕を見た。僕は頭を下げ、その脇を通った。
前庭に出ると、日差しがまぶしかった。白薔薇の花壇の向こうに、王宮の正門が見える。門扉はすでに閉じられ、太い鉄の横木が渡されていた。
「エリアス!」
二階の回廊に、父と宰相が出てきた。父は手すりをつかみ、庭に伏せた近衛たちを見下ろした。
「手加減などいらぬ! 多少傷つけても構わん、捕らえろ!」
左右の通路から、新たな騎士が来る。その後ろでは、宮廷魔術師が杖を構えていた。先端の石が青く光ると、敷石の上を細い光が走った。
足首に、冷たい感触が巻きついた。魔力で作った鎖だった。さらに二本が空中へ伸び、僕の手首を狙う。
僕は右足を引き、鎖に木剣を当てた。青い光の中を、細かな粒が同じ方向へ流れている。
林の鉄杭にも、こんな流れがあった。
力が重なり、わずかに乱れる場所へ、剣先から魔力を流し込む。鎖は引きちぎれることもなく、春の薄氷のようにほどけて消えた。
「術が……消えた?」
魔術師が杖を見直す。その隙に、僕は正門へ向かった。
右の植え込みから、一人の騎士が飛び出した。肩に向かって剣が振り下ろされる。受け流そうと体を開いた、その間へ、別の背中が割り込んだ。
「やめてください!」
リュカだった。
打ち合った剣が高い音を立てた。彼の剣は半ばから折れ、弾かれた柄が敷石を転がる。相手が続けて踏み込む前に、僕は木剣でその腕を押し上げ、胸当てを軽く突いた。
騎士は花壇の縁を越え、土の上へ尻から落ちた。
「リュカ、手は」
「動きます。ちょっと、しびれただけです」
「無茶をしないで」
彼は右手を開き、閉じた。指が動くのを確かめて、ようやく息をつく。その額には、階段を駆け下りてきた汗が浮いていた。
「君まで命令違反になる。ここに残れば、まだ間に合うよ」
「残って、この方たちと一緒にあなたを捕まえるのですか」
返事ができなかった。
リュカは、震えの残る右手を体の横へ下ろした。そのまま、回廊にいる父を見上げる。
「僕は、この方を閉じ込める命令には従えません」
庭が静まった。噴水の水が落ちる音だけが、妙にはっきり響いた。
「騎士の身分を失うぞ」
「はい」
「二度と、この王宮では仕えられん」
「……はい」
二度目の返事は、一度目より小さかった。それでもリュカは、頭を下げなかった。
僕は、彼の袖についた土を払った。そんなことくらいしか、いま触れてよい理由を思いつかなかった。
「少しだけ、僕の後ろにいて」
回廊の端で、弩を構える兵士が見えた。弦を引く音が続き、父がこちらへ腕を突き出す。
「足を狙え!」
僕はリュカの前に立ち、木剣へ魔力を通した。
放たれた矢が、日差しの中で小さく光る。僕は剣を振り抜いた。刃に沿って流した魔力が風となり、前庭を横切る。
矢は上へはね上がり、石柱の高いところに刺さった。続いて、回廊の兵士たちが構えた弩の弦が、次々と切れる。誰かの帽子が風にさらわれ、噴水へ落ちた。
僕は剣を下ろした。握りの古い傷に、指がぴたりと重なっていた。
「父上。師匠に何を教わっているか、一度くらい最後まで見てくださればよかったのに」
父は、口を開けたまま動かなかった。
僕は正門の前へ進んだ。鉄の横木には防護の魔法がかかっている。表面を巡る光をたどると、留め具の下に、流れがつながる細い隙間があった。
木剣を当てた。魔法がほどけ、そのすぐあとに、鉄が切れた。
ずり落ちかけた横木を左手で支え、地面へ下ろす。魔力で腕を強めれば、荷馬車を押し戻したあの日より、ずっと軽い仕事だった。
両開きの門を押すと、古い蝶番が低く鳴いた。隙間から城下町のざわめきが流れ込む。焼きたてのパンの匂いと、川から吹く風も。
「待て、エリアス。待たぬか!」
僕は、半分だけ振り返った。
「十八年、待ちました」
父の顔は、日差しの届かない回廊の奥にあった。いつも見上げていたはずなのに、今日はずいぶん遠く、小さく見えた。
「レオンには、好きなものを聞いてあげてください」
それだけ言って、僕は門をくぐった。
誰の許しも待たず、敷居の向こうへ足を下ろした。
◇◆◇
王宮から城下町へ下る坂道は、思っていたよりも急だった。
いつも馬車で通っていたから、知らなかった。道の端に小さなすみれが咲いていることも、石垣の隙間で水が鳴っていることも。
下り坂の先には、赤い屋根が重なっている。煙突から昼食の煙が上がり、川面には帆をたたんだ船が並んでいた。遠くの空魚が、建物の上へ大きな影を落としていく。
僕は長靴の紐を締め直し、歩き出した。
王宮で過ごした十八年間が、小さなかばんの中で揺れる。思い出は持ちきれなくても、背負える荷物には限りがある。肩に食い込む重さは、これくらいでよかった。
少し先で道が二つに分かれていた。右は市場へ、左は川沿いの街道へ続くらしい。師匠の手帳を出そうとしたとき、後ろから声がした。
「まってよー! 殿下ー!」
振り返ると、リュカが坂を駆け下りてきた。右手で外套を押さえ、左手には、さっき折られた剣の柄を持っている。
「置いていくなんて、ひどいです!」
「ごめん。すぐ後ろにいると思っていた」
「剣を拾っていたんです。支給品なので、置いてくるわけには……あ、もう騎士ではないのか」
彼は手元を見て、困ったように眉を下げた。僕は笑いかけ、笑う途中で、喉の奥が熱くなった。
開いたままの王宮の門を見上げた。誰も追ってはこない。僕を呼び止める家族も、かつて忠誠を誓った取り巻きたちも、そこにはいなかった。
ここまで来たのは、リュカ一人だった。
「本当に、来てしまったんだね」
「はい」
「お給金は出せないよ」
「僕も、あなたにお支払いできるほどは持っていません」
リュカは息を整えながら、折れた柄を空の鞘へ収めた。留め金を直す右手は、もう震えていなかった。
「次は、自分のお金で買います。どんな剣がいいか、教えていただけますか」
「うん。それなら、いくらでも」
僕がうなずくと、彼はほっとしたように笑った。
騎士の制服は、転んだときについた土で汚れている。背が高くて、僕より一つ年上なのに、笑うと少し幼く見える。その顔を、これからも見ていられるのだと思った。
「殿下は、どちらへ向かわれるのですか」
「もう殿下じゃないよ」
「では、エリアス様」
呼び慣れた名前が、二人の間に落ちた。
僕は襟に触れた。銀の獅子があったところには、小さな穴が二つある。そこを指でなぞってから、手を下ろした。
「エリアナ」
口にすると、舌の上で少しだけつかえた。
「本当の名前は、エリアナというんだ」
リュカは、すぐには繰り返さなかった。僕の顔を見て、それから、背筋を伸ばした。
「では、エリアナ様」
それだけだった。
驚いて大声を上げることも、似合うかどうかを決めることもなく、彼は僕の名前を呼んだ。
「……うん」
返事をした途端、視界がにじんだ。あわてて目を伏せると、リュカが左へ、右へと顔を動かす。
「あの、様もいりませんでしたか」
「そこは、また今度でいい」
「はい。少しずつ、覚えます」
僕は指の背で目元を拭った。王子らしくなくてもいいのだから、もう少し泣いたってよかったのだろう。けれど、せっかく明るい場所に来たのだから、彼の顔をよく見たかった。
「海へ行きたい」
遠い昔、使わずに終わった青い旅行かばんが、心の中でようやく開いた。
「この川を下れば、海に出るよね」
「はい。歩けば、何日もかかりますが」
「急がなくていい。途中で、食べたいものを食べて、見たいものを見たい」
リュカは川のほうへ目を向けた。水面から吹き上げた風が、彼の栗色の髪を揺らす。
「僕は、港町の靴を見てみたいです」
「靴?」
「船乗りの靴は、濡れた甲板でも滑りにくいそうです。どんな底になっているのか、ずっと気になっていて」
僕は、今度はちゃんと笑えた。
「じゃあ、見に行こう。僕の靴も、途中で直してもらえる?」
「もちろん。針と糸なら、いつも持っています」
彼は腰の道具袋を軽くたたいた。それから街道へ続くほうへ一歩進み、僕に左手を差し出した。
「行きましょう、エリアナ様」
大きな手だった。剣の稽古でできたまめと、革を縫う針が残した小さな古傷がある。何度も温かなパンを運んでくれた、その手が、春の日差しの中で僕を待っていた。
僕は一歩、彼に近づいた。胸いっぱいに息を吸う。首元を押さえなくても、声を低く作らなくてもよかった。
僕は……いいえ、私は、彼の手を取ったのでした。
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