↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄ですね。では議事録を取ります 〜元ベテランPMの悪役令嬢は、破滅フラグをリスク登録簿で管理する〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
34/37

第34話 本人の言葉は、代筆しません

その文面は、優しかった。


優しすぎて、誰の言葉なのか分からなかった。


朝の管理事務所で、私は昨日別に置いた一枚を、もう一度手に取った。


冬支度の支援を、領の内へ広く募るための文だ。


寒い冬に困っている者へ、手を差し伸べる。


助けられた令嬢は、こうして救われ、心から感謝している。


そこまで読んで、また同じ行で手が止まった。


助けられた令嬢は感謝している、とある。


けれど、その令嬢の名はどこにもない。


名のない令嬢が、心から感謝していると書かれている。


その名のない一行で、私はリリア様の声を聞いたことにされかけていた。


王宮でも、同じ形の文を見た。


困っている令嬢が助けられて、心から感謝している。その本人の言葉として、札に載せかけた一件だ。


あの時に書かれかけた感謝は、本人のものではなかった。


整えた誰かが本人ならこう言うはずだと書いた感謝だった。


この領の文の優しい一行も、同じ形をしている。


助けられた令嬢という例まで、あの王宮の文から写されているように見える。


写したのが本邸の側か、その元になった救済の文か。


そこまでは、まだ分からない。


分かるのは一つだけだ。


この感謝を本人が言ったかどうか、誰も確かめていない。


「お嬢様」


戸口の内側で、現場書記が紙束を抱えて立っていた。


土間の荷置き場には、昨日積んだ薬草箱が三つ、荷車の上で出番を待っている。


「その文は、本邸の側から目を通すようにと回ってきた紙でございます」


「回ってきました。けれど、回した先で一行が足りていません」


私は感謝の行を指で押さえた。


「助けられた令嬢が感謝している。この令嬢が、誰なのか書かれていません」


「広く募る文に、名はかえって出さぬものかと」


「名は出さなくてよいのです。出してはいけないのは、本人が言っていない感謝です」


書記が紙束の縁を握り直した。


マルタが机の脇から、文面の優しい一行を覗き込む。


「お嬢様。この一行が気にかかるのでしたら、書き直されては」


マルタの声は落ち着いていた。


「お嬢様がお書きになる方が、よほどお早いかと」


早い。


確かに早い。


感謝の一行を消して、困っている人を助けましょう、とだけ書けばいい。


困った例も、名のない令嬢も、丸ごと外してしまえばいい。


そうすれば、誰の言葉でもない、ただのお願いの文になる。


私は筆を取りかけた。


取りかけて、止めた。


それも、私が本人の代わりに決めることだ。


この一行を残すか消すか。それを本人に断りなく私が決めれば、整えた誰かと同じことになる。


優しく整えるか、優しく消すか。


向きが違うだけで、本人の言葉をこちらで扱っている点は変わらない。


前世で、現場の声として清書された報告を読んだことがある。


きれいにまとまった一文を、言ったとされる本人に確かめると、そんな風には言っていないと返ってきた。


整えた者に悪気はなかった。


ただ、言っていない言葉は、どれだけ優しくても本人のものにはならない。


「マルタ」


私は筆を置いた。


「本人の言葉を、こちらで作ってはいけません」


「お消しになるのも、でございますか」


「消すのも、こちらの判断です。本人が、その一行を出してよいと言ったのかどうか。そこが先です」


マルタが、覗き込んだ姿勢のまま私を見た。


責めるのでも、感心するのでもない。


私が筆を取りかけて止めたのを、確かに見た目だ。


「言いやすく整えることと、言っていないことを言わせることは違います」


私はそう言って、白紙を一枚、机の中央へ置いた。


王宮で一度、この区別を引いた。


困っている者の言葉として札に載せかけた一文を、本人の確認待ちで止めた。


同じ区別を、自分の家の文にも引くだけだ。


「では、その文は今日も出さぬので」


「出しません。本人に確かめてからです」


私は白紙へ、確かめる項目を縦に分けて書き始めた。


本人が言ったこと。


本人が言っていないこと。


使わない範囲。


状態。


四つの行を引いて、私は一番上の行で手を止めた。


本人が言ったこと。


その欄を、私はまだ埋めない。


埋めれば、それこそ代筆になる。


「ここは、空けておきます」


「空けて、どうなさいます」


書記が聞いた。


「本人が言うまで、誰も書きません。私もです」


私は表題に、帳票の名を書いた。


◆ 本人確認メモ

対象    :冬支度支援に関する文面案

本人が言ったこと :本人確認待ち。こちらで書かない

本人が言っていないこと:自分の経験を、感謝や美談として語ること

使わない範囲   :本名、家名、本人の被害を思わせる一文

状態    :本人確認待ち。代筆不可


書き終えて、私は本人が言ったことの行を指でなぞった。


空いたままの欄だ。


支払いの確認先を未定と書いた昨日の紙と、同じ空け方だった。


空けたまま隠さない。


隠された空欄は、誰にも埋められない。


「広く募る文に、一人ひとり確かめるのでございますか」


書記が、昨日と同じことを聞いた。


「この一人だけです。名のない感謝の、元になった本人に」


「元になった本人」


「困っている令嬢の例も、感謝の言葉も、王宮の救済の文から写されています。その文が誰を思って書かれたか、私は知っています」


私はリリア様の名を、この場では出さなかった。


書記もマルタも、机の文面に名を見てはいない。


名のないままの方が、本人にとっては安全だ。


「確かめるのは、その方が本当にそう言ったのか。それだけです」


「お会いになるので」


マルタが聞いた。


二人きりでは会わない。


それは、ずっと前に本人と交わした約束だ。


会って言葉を引き出せば、それも別の形の代筆になりかねない。


「会いません。文で尋ねます」


私は別の白紙を引き寄せた。


「私が書くのは、こちらの言葉ではありません。この文面の、感謝の一行と例を、そのまま写します」


「写すだけ、でございますか」


「写して、これをあなたが言ったかと尋ねます。直すところがあれば、本人の手で直してもらいます」


私は救済の文の感謝の一行を、一字も変えずに書き写した。


そこへ、こちらの整えた言葉は足さない。


困っている人を助ける文に、この一行を載せてよいか。


載せてよいなら、どこまでなら本人の負担にならないか。


尋ねるのは、それだけだ。


「宰相府の通す道で、王都へ送ります」


私は書いた紙を畳んだ。


王宮で本人の言葉を扱った時、宰相府が同席者を立てる場を整えてくれた。


二人きりにしない、本人が後で撤回できる、そのための道だ。


同じ道なら、この文も本人のもとへ正しく届く。


「グレアム様の府を通せば、私の手だけで本人へ押し付けることにはなりません」


「では、本人のお返事が来るまで、その文面は止まりでございますね」


「止まりです。薬草箱と同じです」


私は荷車の上の三箱へ目をやった。


支払いの確認先が埋まるまで、薬草箱は門を出ない。


本人の言葉が戻るまで、この文面も募る先へは出ない。


止めているのではない。


確かめる先が埋まるのを、待っている。


幾日かして、王都の方から、宰相府の道を通って一枚が戻った。


書記が、上等な封ではなく、薄い紙のまま私の机へ運んできた。


「お嬢様。王都からのお返しが、宰相府の確かめの場を経て、一枚」


私はその紙を開いた。


細い文字。


社交の場で上位の令嬢たちに埋もれてしまう、あの小柄な人の字だ。


書かれていたのは、長い言葉ではなかった。


「私が言っていないことを、私の言葉にしないでください」


王宮の机で、一度この言葉を聞いた。


同じ言葉が、今度は領の支援文に向けて、本人の手で書かれている。


私はその行を、声に出さずもう一度読んだ。


「ですが、困っている方を、責めない形でしたら」


文は、そこで一度切れていた。


それから、区切るように続いていた。


「一般のお願いの文は、構いません。私の名も、あの時のことも、出さないでください」


それだけだった。


感謝しています、とは書かれていない。


救われました、とも書かれていない。


書かれていたのは、責めない形でなら一般の文は構わないということと、名と出来事は出すなということ。


「マルタ」


私は紙を机に置いた。


「本人は、感謝しているとは言っていません」


「文面には、心から感謝している、とございました」


「言っていない言葉です。整えた誰かが、本人ならこう言うはずだと書いた一行でした」


マルタが、戻ってきた細い文字を見た。


「では、あの優しい一行は」


「消します。本人が言っていないからです」


私は本人確認メモの、空けておいた一番上の行へ筆を戻した。


本人が言ったこと。


そこへ、本人の手で戻ってきた言葉だけを写した。


困っている人を、責めない形でなら、一般のお願いの文は構わない。


私の整えた言葉は、一字も足さない。


戻ってきた言葉を、そのまま欄へ移すだけだ。


これが、本人が言ったことだ。


感謝も美談も、本人が言っていないことの欄に、もとから書いてあった。


書いてあった通り、それは使わない。


「使ってよい範囲は、ずいぶん狭うございますね」


書記が、二つの欄を見比べた。


「狭いのではありません。本人が決めた幅です」


私は使わない範囲の行を指した。


本名、家名、本人の被害を思わせる一文。


その隣に、本人の手の言葉から、もう一つ書き足した。


感謝や美談として語ること。本人が言っていない。


「広く募る文は、出せます。困っている人を、責めない形で助けましょう、と。それだけなら本人の言葉を奪いません」


「あの感謝の一行は、なくとも」


「なくてよいのです。なくて困るのは、優しい話にしたい誰かだけです」


私は救済の文から写してきた感謝の一行に、線を引いた。


消したのは私の判断ではない。


本人が、それは自分の言葉ではないと書いてきた。


その通りに線を引いただけだ。


本人確認メモの状態の行を、私は書き替えた。


本人確認待ち、代筆不可。


そこから、本人確認済み、感謝の一行と例は不可、一般の支援文のみ可、へ。


「お嬢様」


マルタが、書き替わった状態の行を見た。


「これで、あの方は何か変わるのでございますか」


すぐには答えられなかった。


許された、とは思っていない。


細い文字のどこにも、私を許すとは書かれていない。


家格を盾に圧をかけたのは、転生する前のこの令嬢だ。


その事は、優しい支援文一つで消えはしない。


「変わりません。あの方が私を許したわけでも、怖くなくなったわけでもありません」


「では、何のために」


「言っていない感謝を、言ったことにされずに済みました。それだけです」


それだけの事だ。


けれど、王宮では本人の確認待ちで止めるところまでだった。


今日は、本人が自分の手で一行を直し、その通りに私が線を引いた。


本人が訂正できる場が、文の上に一つできた。


「今は、訂正できることを成果にします」


私はそう言って、戻ってきた細い文字の紙を、本人確認メモの隣へ置いた。


美しく直すことではない。


本人が、違うと書ける。書いた通りに直る。


それが今日できたことだ。


ただ、線を引いた感謝の一行を見て、私はもう一つの問いを机の端に残した。


この感謝を、誰が本人ならこう言うはずだと書いたのか。


王宮の救済の文から領の文へ、誰がこの形を写して回したのか。


本人が言っていないことは、確かめられた。


けれど、言っていない言葉を本人の口に置こうとした手は、まだ名前を持っていない。


その手を確かめる戸は、今日の戸ではない。


別の日に、別の道から叩く戸。


私は本人確認メモを、薬草箱の札とは別の束へ重ねた。


混ぜない。


支払いの確認先と、文面の本人。


埋まった戸と、まだ叩いていない戸を、同じ束にはしない。


筆を置いた時、書記が土間の方から戻ってきた。


抱えていたのは、本邸の側から回ってきた別の一枚だった。


朝の支援文とは違う、急いで書かれた走り書きの紙だ。


「お嬢様。冬支度のことで、本邸から問いが」


「問い」


「薪も、穀物も、いまだ蔵を出ぬのはなぜか、と。誰の手が止めているのか、確かめよと書かれております」


誰の手が止めているのか。


その一行に、私は手を止めた。


止まっているのは確かだ。


机の端へ寄せた六つの紙のうち、薪も穀物も、まだ古い通り道のまま動いていない。


遅れている。


それは事実だ。


けれど本邸の走り書きは、遅れの理由ではなく、誰の手落ちかをまず尋ねていた。


誰の手が止めているのか。


その問い方には、もう叱る色がついている。


書記の指が、紙束の縁をまた握り直していた。


倉庫係が、荷置き場の奥でこちらを窺って、それから目を伏せる。


誰の手落ちかと先に問えば、現場は身構える。


身構えれば、止まっている物の名も、また誰の口にも上らなくなる。


前の冬、報せに来た娘を犯人にして、屋敷中の口を閉じさせたのは私だ。


同じ問い方が、今度は本邸の走り書きで戻ってきた。


「誰の手か、と先に尋ねれば」


私は走り書きを机に置いた。


「また、誰も止まった場所を言わなくなります」


「では、何とお答えになります」


書記が聞いた。


私は本人確認メモの隣に、白紙をもう一枚引き寄せた。


遅れているのは、現場の怠けではない。


支払いの確認先のように、止まった場所に名がついていないだけだ。


怒鳴っても、止まった場所の名は出てこない。


出てくるのは、また黙る現場だけ。


「誰の手落ちか、ではなく」


私は白紙の上に、二つの言葉を離して書いた。


予定。


実績。


「いつまでに動くはずだったか。今どこまで動いているか。その差を先に並べます」


差を見れば、止まった場所が指せる。


止まった場所が指せれば、そこに確かめる先がつく。


叱るのは、それからでも遅くない。


いや、確かめる先がつけば、叱る相手などいないと分かる。


本邸の走り書きには、明日の朝までに返事を、とあった。


机の上には、線を引いた感謝の一行と、本人の手で戻ってきた細い文字。


その隣に、まだ何も埋まっていない予定と実績の二行。


本人の言葉は、こちらで作らずに済んだ。


明日返すのは、誰かの手落ちではなく、止まった場所の名だ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。