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婚約破棄ですね。では議事録を取ります 〜元ベテランPMの悪役令嬢は、破滅フラグをリスク登録簿で管理する〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ


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第31話 できない理由にも担当があります

帳簿室の机に、朱を溶いた小皿が出ていた。


書記が遅れた札へ印を押すために用意したものだ。


赤い印は、遅れているという意味になる。


朝の冷えで朱の面に薄い膜が張っていた。


私は筆を取り、薬草箱の行へ朱を置きかけて手を止めた。


赤い印を押せば、札の上に遅れという字がひとつ増える。


それだけだ。


誰がその遅れを引き取るのかは、印からは出てこない。


遅れている、と書かれた札は明日も遅れたまま机に残る。


「お嬢様、押されませんので」


書記が小皿を見て言った。


「押しません。赤い印は、遅れを数えるだけです」


私は筆の先を朱からそらした。


「できていない、だけでは次に進めません」


前世で、何か月も承認待ちのまま動かない作業を見たことがある。


止まっているのは難しい判断だからだと誰もが思っていた。


調べると、その伺いは誰宛にも出されていなかった。


待ちの札がついているのに、待たれている当人に頼んだ者がいなかった。


遅れには、たいてい持ち主がいる。


ただ、その名が札のどこにも書かれていないだけだ。


机の上に昨日の作業分解表を広げた。


薪。


穀物。


衣類。


薬草箱。


馬車。


補修資材。


六つの作業にそれぞれ状態が並んでいる。


運搬待ち。


材料待ち。


未着手。


裁可待ち。


支払い待ち。


情報不足。


昨日はここまでで筆を置いた。


止まっている形は分けた。


止まっている物を誰へ確かめれば動くのかは、まだ書いていない。


「状態の隣に、もう一列足します」


私は白紙を作業分解表の横へ並べた。


「何待ちか、の隣に、誰へ確かめるか、を書きます」


「確かめる先、でございますか」


書記が紙束を抱え直した。


「遅れを叱る前に、何待ちなのかを分けます。分けたら、その待ちに名のついた相手を置きます」


薪の行から始めた。


状態は運搬待ち。


「薪を南の村へ回す段取りは、誰が組めますか」


「運ぶ日と馬車と人手なら、私が」


倉庫係が戸口の内側から答えた。


昨日、同じ前提を口にした男だ。


「では薪の確かめる先は、あなたです」


私は薪の隣に書いた。


倉庫係。


穀物の行へ移る。


状態は材料待ち。


雨除けの布が足りない。


「布は、どこへ頼めば届きますか」


「材料商でございます。ただ、いつ頼んだのかが、私には」


「では確かめる先は材料商。いつ頼んだかを、先に調べます」


衣類の行は状態が未着手だった。


「衣類は、まだ誰も数えていません」


「数えるのは、手の空いた者で」


「手の空いた者、では誰も数えません」


倉庫係が口ごもった。


いつもそう決めていたのだろう。


手の空いた者、とは誰でもない者のことだ。


「今日からは、数える人の名を一つ置きます」


私は衣類の隣に書いた。


確かめる先は、数える人を決めること。


未着手は、遅れですらない。


止まっているのではなく、始まっていない。


始める人を置けば、その日のうちに一歩進む。


補修資材の行へ移る。


状態は情報不足。


「補修資材を運ぶ道は、通れますか」


「橋か水路を荷車が通れるか、私どもには分かりません」


書記が紙束の奥から一枚を抜いた。


橋の補修について相談したいという、札の控えだ。


「これは冬支度の山ではありません。ですが、道が通れないと補修資材は動きません」


「では確かめる先は」


「運送人と、あなたです。橋か迂回路が通れるかを、先に見ます」


橋を直すのは別の誰かの仕事。


通れるかを確かめるのは、こちらの仕事だ。


紙の上で、遅れという一語が別々の相手へ分かれていく。


薪は倉庫係。


穀物は材料商。


衣類は、数える人。


同じ遅れに見えていた札が確かめる先を持ち始めた。


書記の目の動きが昨日とは違う。


叱られる前に何を隠すか、ではない。


どの遅れなら、自分の口から相手の名を言えるか。


それを探す目だった。


馬車の行は簡単には進まなかった。


状態は支払い待ち。


「替え馬を頼む支払いは、誰が確かめますか」


戸の外で運送人が革帯を握った。


「それは、私には分かりません」


昨日と同じ所で答えが止まる。


支払いを確かめる相手が現場の誰にも分からない。


私は馬車の隣の欄を空けたままにしなかった。


未定、と書いた。


「未定は、責任逃れではありません。確認先です」


「確認先、でございますか。分からない、ではなく」


「分からないで止めると、明日も誰も動きません。未定と書けば、次は誰が確かめるかを決める番になります」


マルタが紙の上の未定の二字を見た。


「待ち、とか、未定、とか。お嬢様は、できていない所ばかりを書いておられます」


「できていない所に確かめる先がつくと、それは次の一手になります」


「叱る代わりに、でございますか」


「叱っても、支払いの相手は出てきません。出てくるのは、黙る顔だけです」


マルタはそれ以上言わなかった。


支払い待ちの未定は今日のうちには消えない。


けれど空欄のままなら、誰も次に手を伸ばさない。


未定と書いた札は、確かめる先を埋める日まで机の上で待てる。


隠された未定は、待つことすらできない。


最後に薬草箱の行へ戻った。


状態は裁可待ち。


棚で三日、止まったまま。


確かめる先の欄が、まだ空いている。


昨日、書記はここで言った。


誰の裁可を待つのか、私どもには分かりません、と。


「薬草箱の搬出を裁可するのは、いつも誰ですか」


私が尋ねると、書記は紙束をめくった。


「救貧院へ回す分は、家政の側の裁可でございます。家令様の」


「家令は、今どちらに」


「先月から、本邸の方へ。こちらには、めったに」


私は裁可待ちの札を手に取った。


裁可待ち、とだけ書かれている。


宛先がない。


誰の裁可を待つかが書かれていないまま、待ちの札だけがついている。


家令の裁可が下りないから止まったのではない。


家令に頼んだ覚えがないから止まっていた。


伺いは書かれ、棚に置かれ、それきり誰の手にも渡っていない。


裁可待ちという札が、待つ相手を持っていなかった。


「この札の待ち先は、家令です」


私は薬草箱の隣に書いた。


家令。


「裁可待ちにも、待つ相手がいます。相手の名がない札は、待っているのではありません。止まっているだけです」


書記が札と私の手元を見比べた。


私は新しい紙に家令へ宛てた伺いを起こした。


何を運び出すか。


薬草箱、三箱。


どこへ。


救貧院ほか、領内の手当てへ。


支払いは誰が確かめるか。


ここは、未定のまま残す。


いつまでに返事が要るか。


日を一つ、書き入れた。


「これを、本邸の家令へ届けます」


私は書記へ紙を渡した。


「届けるのは、私どもで、でございますか」


「届け先と、いつまでに、が書いてあれば、届けられます。待ち先のない札は、誰も運べません」


書記は伺いの紙を両手で受け取った。


「倉庫係」


私は棚の方を見た。


「裁可が戻れば、すぐ積めますか」


「箱さえ下ろしておけば、積むのは早うございます」


「では、下ろしてください。今日のうちに」


倉庫係が棚の三段へ手を伸ばした。


三日、棚で止まっていた箱だ。


男は一番上の一箱を抱え、土間の荷車の脇へ運んだ。


二箱目。


三箱目。


棚から土間へ薬草箱が三つ移った。


運び出されたわけではない。


裁可はまだ戻らず、支払いの確認も未定のまま。


けれど、棚で止まっていた箱が荷車の脇まで動いた。


三日ぶりに箱が場所を変えた。


薬草は、寒くなる前に救貧院へ回る分だ。


棚の上では、誰の手当てにもならない。


荷車の脇でも、まだ届いてはいない。


それでも、棚よりは一歩、扉に近い。


「これで、運び出せるのですか」


倉庫係が土間の三箱を見て聞いた。


「まだです。家令の裁可と、支払いの確認が要ります」


「では、なぜ下ろすのでございますか」


「裁可が戻った日に箱が棚の上なら、また一日かかります。荷車の脇なら、その日のうちに出ます」


倉庫係は三箱の蓋へ目を落とした。


それから、ごく短く言った。


「下ろすのなら、お答えできます」


私は白紙の表題へ筆を戻した。


そこへ帳票の名を書く。


◆ 停滞理由一覧

対象    :冬支度物流改善

作業    :薬草箱の搬出確認

状態    :裁可待ち

確認先   :家令(公爵家側の裁可権者)

次アクション:裁可可否と支払い確認先を照会する


作業    :補修資材の運搬経路確認

状態    :情報不足

確認先   :運送人、現場書記

次アクション:橋または迂回路の通行可否を確認する


書き終えて、私は確認先の列を上から見た。


倉庫係。


材料商。


数える人。


家令。


未定。


運送人と書記。


遅れの欄は、まだ六つとも埋まっていない。


けれど、どの遅れの隣にも次に名を書くべき欄が立った。


叱責の言葉ではなく、確かめる先の名が紙に並んでいる。


書記が伺いの紙を抱えたまま、ひとつ口を開いた。


「お嬢様」


「はい」


「以前なら、私は止まっているとは申し上げませんでした」


声が低かった。


「順に処理しております、と。そう申し上げて、終わりにしておりました」


「今日は、なぜ言えましたか」


「分かりません。ただ、止まっている物の名なら、叱られぬような気がいたしました」


書記はそれだけ言って口を閉じた。


止まっている物の名なら、言える。


けれど、なぜ三日も言えなかったのか。


その理由は、まだ机の上に出ていない。


以前、屋敷の帳簿室で課題表を作ったとき、使用人はそれを処罰者の名簿だと思った。


私が人前で侍女を叱ったからだ。


報告した者が損をすると、私自身が教えた。


札の待ち先なら、私が書ける。


家令の名も、材料商の名も、書いて届けられる。


けれど、報告そのものが戻らない理由は、家令の名では埋まらない。


待ち先のない札は、運べる。


戻ってこない報告は、まだ運べない。


土間の荷車の脇で、薬草箱が三つ出番を待っていた。


棚から動いた箱は、確かに一歩進んだ。


けれど、その一歩を現場が自分から知らせに来る日は、まだ来ていない。


私は停滞理由一覧の確認先の列をもう一度見た。


名の書かれた欄が、いくつか増えている。


まだ空いている欄も、ある。


そして、どの欄にも書けない遅れが、ひとつ残っていた。


報告が、戻らない。


その待ち先に、私はまだ誰の名も書けずにいた。


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