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婚約破棄ですね。では議事録を取ります 〜元ベテランPMの悪役令嬢は、破滅フラグをリスク登録簿で管理する〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ


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第28話 まず、受ける範囲を決めます

王宮の完了報告を閉じた翌日、私の机には冬支度の遅延札が置かれていた。


紙の端には、急ぎ、とだけ書かれている。


急ぎの仕事ほど、誰が責任者なのかが抜け落ちる。


リューデンベルク公爵邸の小書斎は、王宮の会議室ほど広くない。


けれど、机の上に積まれた紙の圧は似ていた。


薪の手配。

穀物倉の搬出予定。

薬草箱の確認。

馬車の割り当て。

補修資材の到着日。


どれも冬支度に必要なものだ。


そして、どれも少しずつ遅れている。


「お嬢様」


帳簿室の書記係が、扉のそばで背を縮めた。


「家令の執務机にございました札でございます。奥の帳簿室へ回すようにと」


「誰から、誰へ回す札ですか」


書記係の青年は、視線を紙束へ落とした。


「急ぎ、とのことで」


「急ぎは分かりました。誰が何を決める急ぎですか」


青年の指が、札の端をこすった。


答えがない。


答えがないのではなく、答えるための欄がない。


札には、冬支度の遅延、至急確認、関係各所へ照会、といった言葉が並んでいた。


だが、依頼元の名は薄い。


責任者欄も、支払い確認先も空欄。


期限だけが、急ぎ、になっている。


札の下には、別々の帳簿から抜き出されたらしい写しが挟まれていた。


薪は北倉から南門側へ回す予定が一日遅れ。


穀物は領内の小村へ配る荷が、雨除け布の不足で荷造り途中。


薬草箱は、蓋の封印を確認する者が決まらず、帳簿室の棚で止まっている。


補修資材は、水路の金具と橋板の釘が同じ材料商にまとめられていた。


そして馬車は、どの荷を先に運ぶかの優先順位がない。


冬支度という言葉は、一つに見える。


けれど、机の上では五つの仕事が、互いの足を踏んでいた。


私は頭の中で、前世のメール件名を思い出した。


至急。

重要。

確認お願いします。


その三つがそろったメールほど、本文に判断者がいない。


「相談ですか。依頼ですか。報告ですか」


私が尋ねると、書記係はますます困った顔をした。


「申し訳ございません。帳簿室では、冬支度の手配が止まると困るので、お嬢様にも見ていただくようにと」


「誰が言いましたか」


「家令の机に置かれていた、と」


また、主語が薄くなった。


机は判断しない。


紙も、責任を負わない。


けれど、公爵家の仕事では、その薄さが便利に使われる。


家令の机にあった。


奥の帳簿室へ回された。


お嬢様にも見ていただくようにと言われた。


どの言葉も嘘ではないのだろう。


だが、そのまま受け取ると、最後には「お嬢様が見た」だけが残る。


そして、見た者が決めたことにされる。


「マルタ」


私は横に控えるマルタを見た。


「これは、私が今すぐ解くべき問題でしょうか」


マルタは少しだけ目を伏せた。


最近のマルタは、私が仕事の匂いに反応した時、止める前に一呼吸置くようになった。


信頼ではない。


たぶん、観察である。


「お嬢様は、解きたそうなお顔をなさっています」


「顔に出ていますか」


「はい」


「改善します」


「顔ではなく、受け方をお願いいたします」


正論だった。


私は遅延札を机に置き、白紙を一枚引き寄せた。


王宮案件の完了報告を閉じたばかりだ。


あの場で私は、橋の補修相談札を自分の持ち帰り仕事にしなかった。


王宮案件と地方公共事業を混ぜない。


受ける前に、範囲を確認する。


昨日はできた。


では、自分の家でもできるのか。


ここでできなければ、王宮での線引きは、よそ行きの正しさにすぎない。


「受ける前に、範囲と責任者を確認します」


私が言うと、書記係は小さく息を止めた。


マルタは、止めなかった。


「冬支度の遅延は放置しません。ただし、私が公爵家の裁可権者になるわけではありません」


「裁可権者、でございますか」


書記係が聞き返す。


「最後に許可を出し、家として責任を負う方です」


私は札の空欄を指で示した。


「父か、父から権限を委ねられた方か。そこを確認しないまま私が進めると、支払いも現場指示も宙に浮きます」


「お嬢様がご判断なさるのでは」


その言葉は、悪意ではなかった。


むしろ、便利な敬意だった。


公爵令嬢が見てくれる。


公爵令嬢が決めてくれる。


公爵令嬢が叱ってくれる。


そうなれば、紙を持ち込んだ人は少し楽になる。


だが、現場は楽にならない。


支払いを待つ材料商は、私の善意では帳簿を閉じられない。


馬車を出す御者は、私の気迫では替え馬を増やせない。


薬草箱を預かる者は、誰の封印を待つのか知らなければ、蓋に触れられない。


公爵令嬢の一言は、現場には命令に聞こえる。


だからこそ、その一言がどこまでの命令なのかを先に書かなければならない。


「私が引き受けるのは、進行管理と整理です」


私は白紙の上に線を引いた。


「どこで止まっているか、誰に確認すべきか、何を決めれば進むかを見えるようにします」


「裁可と支払い承認は、公爵家側の裁可権者へ戻します。現場責任者の代行もしません」


書記係は、理解したような、していないような顔をした。


無理もない。


引き受けると言いながら、引き受けない範囲を先に書いているのだ。


けれど、範囲を書かない引き受けは、後で誰かの善意を燃料にする。


「お嬢様」


マルタが、机上の遅延札を見た。


「冬支度と申しますと、領内の薪や穀物だけではなく、屋敷の薬草箱や補修資材も含まれますか」


「含まれる可能性があります。だから危ないのです」


私は、積まれた札を順に分けた。


薪は領民の生活に直結する。


穀物は倉からの搬出と配分が絡む。


薬草箱は、屋敷内だけでなく、領内の救貧院や怪我人用の備えへ回る可能性がある。


馬車は、運ぶ順番を決めなければ足りなくなる。


補修資材は、橋や水路の状態に左右される。


一つひとつは小さな札だ。


しかし、冬支度という大きな袋に入れた瞬間、全部が同じ急ぎになる。


同じ急ぎになった仕事は、たいてい一番声の大きい人へ流れる。


「橋の補修相談札は、冬支度物流の札束へ混ぜますか」


マルタが、遠慮がちに言った。


王宮で別紙にした札だ。


地方代表の随員から預かった、責任者不在を示す小さな相談札。


原本は宰相府に残っている。


私の手元にあるのは、完了報告のために写した控えだけだ。


私は少しだけ手を止めた。


橋。


補修資材。


冬支度の馬車。


関係はある。


だからこそ、混ぜると危ない。


「関連情報として見ます。正式受任はしません」


私は橋の補修相談札の写しを、冬支度物流の札束の横に置いた。


同じ山には入れない。


けれど、見えない場所にも隠さない。


「橋や水路が通れなければ、薪も穀物も遅れます。補修資材の手配とも関係します」


私は橋の補修相談札の写しから、冬支度物流の札束へ視線を戻した。


「ですが、橋の補修そのものを私の案件にすると、王宮案件から分けた意味が消えます」


マルタが、小さく頷いた。


「別の紙に置くのですね」


「はい。関連情報です。主案件ではありません」


書記係の青年は、そのやり取りを聞きながら、何度も紙と私を見比べていた。


「では、冬支度の件は、お嬢様がお受けくださるのでしょうか」


「受けます」


私は答えた。


言葉だけなら、簡単だった。


簡単だから、怖い。


「ただし、進行管理役として受けます」


私は白紙を指で押さえた。


「目的、範囲、関係者、停滞理由、初回回答までを整理します」


書記係が、初期受付メモの余白へ目を落とした。


「公爵家としての最終裁可と支払い承認は、裁可権者へ上げます」


「最初に、そこまで書くのでございますか」


「書きます。急ぎの仕事ほど、最初の紙が大事です」


私は白紙の上に、表題を書いた。


初期受付メモ。


解決策ではない。


依頼の輪郭を置く紙だ。


◆ 初期受付メモ

案件名   :冬支度物流改善

相談内容  :薪、穀物、薬草箱、馬車、補修資材の手配遅延

受ける範囲 :進行管理、初期調査、関係者整理、停滞理由の確認、改善案の提示

戻す範囲  :裁可、支払い承認、現場責任者の代行

裁可権者  :公爵家側。詳細確認中

初回回答  :三日以内に論点と未確認事項を提出


書き終えると、部屋の空気が少し変わった。


冬支度が終わったわけではない。


薪も穀物も薬草箱も、まだ動いていない。


馬車も増えていない。


支払い確認先も、裁可権者の詳細も、現場責任者の実名も分からない。


けれど、何を受け、何を戻すかは見えた。


その見え方だけで、書記係の動きが変わった。


青年は、机の端に置いた札束を、混ぜたまま抱え直そうとはしなかった。


まず薪と穀物の写しを左へ置く。


薬草箱の札を中央へ置く。


補修資材と橋の補修相談札の写しを、関連情報の別紙へ分ける。


まだ拙い分け方だ。


だが、全部を一つの急ぎとして私の前へ押し出す動きではなくなった。


紙の置き方が変われば、責任の流れも少し変わる。


書記係の青年は、初期受付メモを見つめたまま言った。


「初期受付メモは、断りの紙ではないのですね」


「違います」


私は首を横に振った。


「進めるための紙です。裁可が必要なものを私の机で止めないために、戻す範囲を書いています」


「戻す、というのは」


「責任を押し返すことではありません。責任がある場所へ届けることです」


言ってから、少しだけ苦くなった。


前世でも、同じ説明を何度もした。


プロジェクトマネージャーは、全部の作業を自分で抱える人ではない。


手を動かす人、決める人、相談する人、報告を受ける人が、それぞれ仕事をできるようにする人だ。


この世界でそのまま言えば、また変な顔をされる。


だから私は、この世界の言葉に置き換える。


進行管理役。


改善担当。


紙の番人。


最後のひとつは、少し違う気がする。


「お嬢様」


マルタが、私の手元を見ていた。


「三日以内に初回回答、とあります。三日で解決する、ではないのですね」


「解決しません」


即答すると、書記係の青年がまた目を瞬かせた。


「三日で出すのは、論点と未確認事項です」


私は初期受付メモの初回回答欄を示した。


「どこで止まっているか、誰に確認すべきか」


私は、裁可権者欄へ視線を移した。


「何を裁可権者へ上げるべきか。そこまでを初回回答にします」


「改善案の提示は」


「候補です。実施承認ではありません」


「では、三日後に何をお渡しすればよろしいのでしょう」


書記係が、今度は自分から尋ねた。


質問が変わった。


最初は、私が受けるかどうかだけを見ていた。


今は、次に何を集めればよいかを探している。


小さな変化だ。


だが、初期受付の目的はそこにある。


「動いていない札を、物ごとに分けてください。薪、穀物、薬草箱、馬車、補修資材」


私は机の上を指で区切った。


「混ざるものは、どちらにも関係あり、として別に置きます」


「担当名は」


「分かるものだけで構いません。分からないものは、未定と書いてください。空欄にはしません」


青年の顔に、かすかな迷いが浮かぶ。


「未定と書いて、叱られませんか」


その一言で、マルタの指が袖の上で止まった。


私はすぐに答えたかった。


叱りません、と。


けれど、私が過去に叱ってきた以上、その言葉だけでは足りない。


「私の初回確認では、未定と書いたことを処罰判断に使いません」


私は言い直した。


「裁可権者へも、その範囲で上げます」


私は書記係が持っていた空欄の多い札を見た。


「ただし、未定のまま放置もしません。誰に確認するかを次アクションにします」


書記係は、ゆっくり頷いた。


信じたわけではない。


だが、何をすれば叱責を避けられるかではなく、何を紙に書けば次へ進むかを見始めた。


私は、初期受付メモの下に小さく書き足した。


未確認事項。


現場責任者。

支払い確認先。

裁可権者の詳細。

現場が話せる状態か。


最後の一行で、筆が少し止まった。


現場が話せる状態か。


以前、帳簿室で作った使用人業務課題表を思い出す。


あの時も、使用人たちは最初、課題表を処罰者リストだと思った。


マルタは、まだ私を完全には信じていない。


それで当然だ。


私は、過去に人前で叱責した。


報告した者が損をすると、私自身が教えてしまった。


公爵邸の帳簿室ですらそうだったのだ。


領地の現場は、もっと遠い。


顔の見えない公爵令嬢の命令は、優しい確認ではなく、処罰の前触れに見えるかもしれない。


「現場確認に参りますか」


書記係が、恐る恐る尋ねた。


「参ります。ただし、質問票を持って押しかける形にはしません」


「質問票、でございますか」


「聞けば答えが出る、という前提の紙です。今回は先に、聞く目的と記録範囲を決めます」


マルタの視線が、ほんの少しだけ動いた。


「お嬢様」


「はい」


「現場の方々は、正しい質問を怖がるかもしれません」


静かな声だった。


責める声ではない。


ただ、知っている人の声だった。


私は、初期受付メモの最後の一行を見た。


現場が話せる状態か。


冬支度物流改善は、札を分ければ進む案件ではない。


私が現場へ行く。


その事実だけで、誰かが口を閉じるかもしれない。


「……初回確認の最初の目的を変えます」


私は新しい行を書いた。


最初に確認すること。


現場が何を言えるかではなく、何を言えない状態にあるか。


筆先が、紙の上で止まる。


薪も、穀物も、薬草箱も、馬車も、補修資材も、まだ動かない。


けれど、動かない理由のひとつは、もう見え始めていた。


仕事が止まっているのではない。


言葉が止まっている。


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