9話 始まりの朝は穏やかに
真白家の朝は、炊き立てのご飯と味噌汁の匂いで始まる。
朝食を用意するのは、白虎の妖である綿雪の役目になっていた。
料理は人間の世界に来てから学んだ彼だが、今は人間の主婦顔負けの腕を誇るほどだ。
「おはよう、綿雪。この匂いを嗅ぐと、朝なのに食欲が湧いてしまうね」
パジャマにカーディガンを羽織った姿で、譲はダイニングのテーブルに着いた。
「恐れ入ります。今朝は、坊ちゃんのお好きな葱と鯖の水煮が入った味噌汁ですよ」
「一杯で栄養が取れるというやつだ」
二人が話しているところに、部屋着の莉沙もやってきた。
「ユズ兄、綿ちゃん、おはよう。 絢斗さんは、まだ寝てるかな?」
「彼なら、三十分ほど前に、朝の日課とか言ってランニングに出かけましたよ」
綿雪が答えた時、店舗の入り口の扉が開く音がした。
「ただいま戻りました」
タオルで汗を拭きながら、ジャージ姿の絢斗もダイニングに姿を現した。
「おかえり。そうやって、毎日鍛えているんだね。何キロくらい走るんだい?」
「やらないと落ち着かないというか……今日は偵察も兼ねて、軽く十キロくらいだ」
「えっ、三十分くらいで十キロって、アスリート並じゃないか」
「そうか? 現役の『闇狩り』なら、それくらい普通と言われるが」
譲の言葉に照れ臭そうな顔で答える絢斗は、どこにでもいる普通の若者のように見えた。
「天外さん、ハムエッグの卵は二つでいいですか」
「え、ああ、お願いします」
綿雪に声をかけられ、絢斗が恐縮した様子で言った。
「食事まで用意してもらって、申し訳ない……」
「一人増えても、大した手間ではありませんから」
そう言いながら、綿雪は手際よくハムエッグを仕上げている。
テーブルの上には、ご飯をよそった茶碗や味噌汁の椀、常備菜である煮物の小鉢が並べられており、そこに焼き立てのハムエッグが加わった。
「今日も、綿ちゃんの目玉焼きの焼き加減は最高だね」
莉沙が、目玉焼きに箸を入れながら微笑んだ。
「天外くんは、目玉焼きは醤油派? それともソース派?」
「しょ、醬油でお願いします」
「僕と同じだね。この半熟の黄身と醤油が混ざったところが美味しいよね」
譲が言うと、莉沙が口を開いた。
「やっぱり、ケチャップは少数派なのかなぁ。マヨネーズも美味しいけど」
「莉沙様は、洋食がお好きですからね。そのうち、またオムライスでも作りましょうか」
綿雪の言葉に、莉沙は目を輝かせた。
「うん、綿ちゃんのオムライス大好き! 期待してるね」
「……あの、綿雪……さん、ひとつ聞いていいか」
絢斗が、綿雪を見た。
「あんたは虎の妖……猫に葱を食べさせてはいけないと聞いているが、葱入りの味噌汁を食べて大丈夫なのか」
「ええ、私は妖ですから問題ありませんよ」
絢斗の質問に、綿雪はくすりと笑った。
「でも、マタタビには少し酔っ払うよね」
譲が言うと、綿雪は顔を少し赤らめた。
「人間にとっての酒のようなものですから……」
人数は増えたが、いつもと変わらぬ朝食風景に、譲は、この穏やかな時間が続くことを願った。
「それじゃ、行ってくるね」
制服に着替えた莉沙の後ろに五匹のハリネズミが続くのを見て、絢斗が目を丸くした。
「ハリネズミも、学校に行くのか?」
「ああ、ボディガードみたいなものだよ。もちろん、人間には見つからないように姿を消して行くけどね」
譲は、当然とばかりに微笑んだ。
「彼らと僕は、任意のタイミングで視覚と聴覚を共有できるんだ」
「つまり、ずっと監視しているのか……」
「そ、そんなに引かないでくれよ、天外くん。小学生までは僕のほうから覗くことが多かったけど、中学以上になったら、ハリたちが異常を感じた時だけ知らせてもらうようにしてるんだ。莉沙のプライベートも大事だし、常時監視してるとかじゃないよ」
ぎょっとした顔の絢斗に、譲は慌てて説明した。
「なるほど、都会の女子高生ともなれば『カレシ』とかもいるだろうし、いつも覗き見されていたのでは気が休まらないだろうな」
「か、かれし……」
絢斗の言葉に、譲は頭を殴られたような衝撃を覚えた。
――そういえば、これまで莉沙に「彼氏」ができたという話など聞いたことはない……何度も告白されたことはあるようだが、全て断っているらしいし……ずっと子供のような気がしていたが、十七歳にもなれば、好きな男の一人や二人いてもおかしくないか……
莉沙が見知らぬ男と連れ立って歩いている様を想像した譲は、ひどく不快な気持ちになった。
「……そうそう、天外くんは、今から住民票を移したりとか、色々と手続きがあるんだろう? 僕も付き合うよ」
嫌な妄想を掻き消すべく、譲は言った。
「それは助かるが……店は大丈夫なのか?」
絢斗が言うと、綿雪がフフと笑った。
「店番くらい、私もできますよ。そもそも、お客も滅多に来ませんしね」
「客が来なければ来ないで、それは問題では?」
ますます首を傾げる絢斗を見て、彼の純真さに譲は苦笑した。
「心配ないよ。うちは、資産運用とかもしてるから」
「なるほど……?」
分かったような分からないような顔で、絢斗が頷いた。
そろそろ出かけようと、二人が店の玄関に向かおうとした時、掛け軸の付喪神、撫子の声が響いた。
「いいなぁ、黒っちは連れて行ってもらえるんだ」
壁に掛けられた掛け軸から、撫子が上半身を乗り出している。
「『黒縁』は、僕のアクセサリーみたいなものだからね。きみも、来るかい?」
譲が言うと、ティーン向け雑誌から抜け出してきたような格好の撫子が姿を現した。
現代風の緩く波打った長い髪や、ロング丈のスカートにカーディガンという服装の彼女は、何も知らない者にはお洒落な十代の少女にしか見えないだろう。
「居間に、莉沙っちの雑誌があったから参考にしたの。メイク、もうちょっと盛ったほうがいいかな?」
「いや、今のままで十二分に綺麗だと思うよ」
撫子は譲の言葉を聞いて満足げな顔をしていたが、不意に絢斗のほうへ向き直った。
「あなた、そのジャージで出かける気?」
「なにか問題でもあるのか? 一応、外出用のやつに着替えたぞ。寝る時用とトレーニング用のも分けているが」
「ないわ~! ない寄りのナシってゆーか。てか、全部ジャージじゃん」
「べ、別に俺がどんな格好をしようと、お前には関係なかろう!」
「だって、一緒に歩くのキツいし」
ぐうの音も出なくなっている絢斗を見ながら、譲は撫子の言葉に半分ほど同意していた。
「用事が済んだら、天外くんの服も見に行こうか」
譲が声をかけると、撫子の目が光った。
「いいわね! 私のコーディネートで、絢っちもイケメンに変身させてあげるよ。モトは良いんだから勿体ないって」
「い、いや、俺は……」
彼にとっては思わぬ方向に話が進んでいるのだろう、絢斗は狼狽している。
「僕も、撫子には同意だよ。見た目がきちんとしていたほうが、他人から警戒されにくいだろう?」
「なるほど、そういう効果もあるのか。考えたことがなかった……」
絢斗は譲の言葉に納得した様子だ。
結局、譲と絢斗は、人型になった撫子と共に出かけることになった。
絢斗の様々な手続き関連の用事を済ませると、譲たちは最寄りであるK駅へ向かった。
駅に併設されているショッピングセンターを見た撫子は、興味津々という様子だ。
ショッピングセンター内のカフェで昼食を済ませたあと、撫子は絢斗をメンズファッションのフロアへ引っ張っていった。
「動きやすさを重視するなら、アウターはこれね。インナーは重ね着して、パンツはこっちかな」
付喪神として外に出たばかりとは思えぬ撫子のコーディネートに、譲も舌を巻いた。
撫子が選んだ服をまとって絢斗が試着室から出てくると、店内にいた客たちの目が彼に向いた。
身長180センチの譲より若干背丈は低いものの、平均は優に超えている上、日ごろの鍛錬で鍛え上げられた絢斗の肉体が、服のデザインを一層洗練させて見える。ぼさぼさなままの髪も、見ようによってはワイルドと言えなくもない。
「あの人、イケメン……モデルさんかな」
「俺も、あれと同じ上着にしようかな」
「あなたと、あの人では、身長も体型も違うじゃない」
「分かったよ~、ダイエットするよ。明日から!」
若い男女の客たちが話す声を聞いて、譲は笑いをこらえた。
「こ、これ、どうなんだ?」
絢斗本人は、注目を浴びるのも不慣れなのか戸惑っている。
「うん、垢抜けたね。カッコいいよ」
譲が言うと、絢斗は安堵の表情を見せた。
買い物を終えた三人は店を出た。絢斗は、新しい服の入った紙袋を大事に抱えている。
「せっかく買ったんだから、着ていけばいいのに」
「これはよそいきだ。……選んでもらって、助かった」
「私も楽しかったし。そのボサボサ頭も、見てると手がウズウズしてくるってゆーか……今日は色々な人を見て情報をゲットしたし、今度カットしてあげるよ」
撫子と絢斗のやり取りに微笑んでいた譲は、不意に脳内へ何者かの「声」が入り込んでくるのを感じた。
『……きみが通報してくれたんだね。火を点けている者の姿は見ましたか?』
――これは、ハリネズミたちが聞いている声……彼らが自発的に送信してきたということは、莉沙の身に何かが起きたのか?
はっとした譲の目の前に、莉沙を見守っているハリネズミたちを通した映像が浮かび上がる。
莉沙の傍には、警察官と消防隊員らしい数人の男たちの姿があった。
周囲の風景は、譲にも見覚えのある場所だ。
――ここからも近いな。すぐに行かなければ!
「ハリたちから報せがあった。僕は莉沙のところへ行かなければならない。きみたちは、先に帰っていてくれるかな。道は、分かるよね」
譲は、絢斗と撫子に声をかけた。
「莉沙っちがピンチ? 私も行く!」
「俺も同行する。何か役に立てるかもしれないし」
二人が、さも当たり前のように答えた。
たしかに、ただの人間ではない彼らが一緒であれば心強いかもしれないと、譲は思った。
「そうか、ありがとう。では、僕についてきてくれ」
言って、譲はハリネズミたちの視界から見た場所へと走り出した。




