3話 守りたい小さな命
赤ん坊の莉沙が譲のもとへ来てから一週間ほどが経った頃、彼の友人である太刀川が「真白骨董店」を訪ねてきた。
「未婚の父になったと聞いて、陣中見舞いに来たぜ」
大きな紙袋を抱えた太刀川は冗談めかした口調で言ったものの、抱っこ紐で莉沙を抱えている譲の姿に驚きの表情を見せた。
「……なんだか、やつれてないか?」
「そう? たしかに、気を遣うことが多くて疲れてはいると思う。僕は人間のように頻繁に寝なくても平気なはずなんだけどね」
譲は、この一週間を思い返して乾いた笑いを漏らした。
「赤ん坊って自分勝手だよね……お腹が空いたら泣いて、ウンチやオシッコが出たと言っては泣いて、その他にも何か気に入らないことがあれば泣くし。こっちの都合なんか、お構いなしなんだ」
「そりゃ、赤ん坊ってのは、そういうもんだからなぁ。そうだ、これ使ってくれ。ブランケットに今治タオルのセット、あと安全なぬいぐるみもあるぞ」
そう言って、太刀川が持っていた紙袋を差し出した。
「へぇ、高級品じゃないか。ありがとう、助かるよ」
「カミさんが選んだんだけどな。女の子用だから可愛いのにしようって張り切ってたよ。うちは息子しかいないからな」
譲に礼を言われ、太刀川が照れ臭そうに頭を掻いた。
抱っこ紐で抱えられている莉沙は、二人の顔を不思議そうに見比べながら、何が楽しいのか時折きゃっきゃと声をあげて笑っている。
「可愛いなぁ。息子たちが赤ん坊だった頃を思い出すよ。今じゃあ、可愛さの欠片もないけどな」
「そうだね。可愛いから何でも許せるのかもしれないね」
莉沙の可愛らしい仕草に蕩けそうな顔をしている太刀川を見て、譲はくすりと笑った。
彼は、ぴったりとくっついている莉沙の高い体温が、何もかも思い通りにならない苛立ちを鎮めてくれるような気がした。
その時、店の引き戸を開けて入って来た者がいた。
「ただいま戻りました。坊ちゃん、荷物を片付けたら交替しますね」
買い物から戻ってきた少年姿の綿雪が、太刀川に気づいて目を丸くした。
「……その方は?」
「ああ、太刀川さんは大丈夫。僕が半妖ということも知ってるから。ベビー用品を持ってきてくれたんだ」
譲の説明を聞いて、綿雪は安堵の表情を浮かべた。
「そうなんですね。私は、坊ちゃ……譲様の従者をしております綿雪と申します。以後お見知りおきを」
「従者? てっきり、中学生がバイトしてるのかと思ったよ。俺は太刀川だ、よろしくな」
丁寧に挨拶する綿雪を見て、太刀川は驚いた様子を見せた。
「綿雪の本性は白虎の妖で、僕なんかよりも年上だし、ベビーシッターとしても優秀なんだ」
譲が説明すると、綿雪は少し誇らしそうな顔をした。
「坊ちゃんが赤子の頃も、お世話させていただきましたからね。坊ちゃんは神経質なところがあって、オムツが小指の先くらい濡れたら交換するまで泣きやまないし、すぐに抱っこしろと言って泣くし……考えてみれば、莉沙様のほうが扱いは楽ですよ」
「そ、そういう話は勘弁してくれ」
綿雪の思わぬ証言に、譲は顔を赤らめた。
「一本取られたな、譲。だが、赤ん坊の時期なんて、あっという間に終わっちまうから、今のうちに楽しんでおくといいぞ」
からからと笑いながら、太刀川が譲の背中を軽く叩くと、まるで意味が分かっているかのように、莉沙も可愛い笑い声をあげた。
太刀川の言葉どおり、莉沙は日ごとに成長していった。寝返りがうてるようになったかと思えば、やがて一人で座れるようになり、いつの間にか這い這いで移動し始めている。
ある日、莉沙がローテーブルにつかまって立ち上がるところを目撃した譲は、思わず声をあげた。
「綿雪! 莉沙が立ったよ!」
「おや、まだ一歳にもなっていないはずですが、早いですね」
譲と綿雪の視線が自分へ集まっているのに気づいたのか、莉沙は二人のほうを向くと、ふらつきながらも一歩前へ出た。
「おいで、莉沙」
莉沙は、両手を広げた譲を見つめ、おぼつかない足取りながら着実に前進し、ついに彼のもとへ辿り着いた。
「すごいぞ。頑張ったな」
譲は莉沙を抱き上げ、その柔らかな頬に頬ずりした。
「ぼっちゃ」
嬉しそうに笑っていた莉沙の口から、喃語ではない言葉が飛び出したのを耳にして、譲と綿雪は顔を見合わせた。
「ぼっちゃ」
莉沙は、にこにこしながら小さな手で譲を指差し、たしかに言った。
「『ぼっちゃ』って、僕のことかな?」
譲は、首を傾げた。
「もしかして、私が坊ちゃんとお呼びしているから、『坊ちゃん』が名前だと思っているのでは」
綿雪が、しまったという顔で呟いた。
「それは困るな……僕の名は『ゆずる』だよ」
自分を指差しながら、譲は莉沙に言った。
「ゆ……ゆじゅ?」
「そう、僕は『ゆずる』だ」
「……ゆじゅ!」
一瞬首を傾げたあと、分かったとでも言いたげに手を叩きながら、莉沙が笑った。
「もう、覚えたのか? 莉沙は、お利口だね。いや、もう天才じゃないか?」
莉沙を高い高いしながら、譲は微笑んだ。
「坊ちゃん、すっかり親馬鹿になっていますね……昔の旦那様を思い出しますよ」
綿雪が、少し呆れたように肩を竦めた。
月日は瞬く間に過ぎ去り、莉沙は三歳の誕生日を迎えた。
幼稚園の入園式を控えた莉沙は、真新しい制服や通園バッグを楽しそうに眺めながら、その日を指折り数えている。
「わたちゃん、あと、いくつねたら、『にゅうえんしき』?」
「あと、七つ寝れば入園式ですよ」
「じゃあ、いっぱいねたら、はやく『にゅうえんしき』になる? おひるねは?」
「残念ですが、お昼寝はカウントされませんね」
「そうなの?」
綿雪を相手にはしゃいでいる莉沙の姿を微笑ましく思いながらも、譲は悩んでいた。
「坊ちゃん、浮かないお顔をされていますが、なにか気になることでも?」
莉沙を寝かしつけた綿雪が、譲の顔を覗き込んだ。
「ああ……家にいる時は、必ず僕か綿雪が莉沙の傍にいるけど、幼稚園へ行くようになれば、そうはいかないだろう? 自分の目が届かないところで、なにかあったらと心配じゃないか」
「それは、そうですね。しかし、莉沙様も、いつかは社会へ出る訳ですし、そのために幼稚園などへ通って慣れていくのでしょう?」
「理屈はそうだが、ネットなどで色々なトラブルの事例を見たら、不安になってしまって……莉沙は、いい子だけど、可愛いから妬まれて意地悪されるかもしれないだろう?」
譲は、小さく息をついた。
「坊ちゃんは、旦那様に似て心配性ですねぇ。旦那様も、坊ちゃんが外を歩かれる時は心配して、遠くから見守っていらしたものですよ」
そう言って、綿雪がくすりと笑った。
「……そうか、遠くから見守ればいいのか」
譲は呟くと、指を鳴らした。
小気味よい音と共に虚空から現れたのは、全身が黄金色の毛に覆われ、赤い目をしている五匹のハリネズミだった。彼らもまた、妖の一種である。
五匹のハリネズミたちは「可惜夜の里」に生息する妖だが、譲に懐いていたため、彼が人間の世界へ降り立つ際についてきていたのだ。
今では、莉沙の遊び相手を務めるなどして彼女とも顔馴染みになっている。
「もしかして、黄金針鼠たちを護衛に付けるのですか? 彼らの体当たりは、結構痛いですからね」
ちいちいと鳴きながら譲を見上げるハリネズミたちを前に、綿雪が目を丸くした。
「彼らも、人間から見えなくなる能力を持っているし、視覚と聴覚を僕と共有できるんだ。防犯カメラ代わりになると思って」
「それで、いざという時は坊ちゃんが急行するという寸法ですか。最強の防犯システムですね」
「そうだろう? ……お前たち、頼んだぞ」
譲に声をかけられたハリネズミたちが、一斉に、ちい! と力強く鳴いた。




