20話 絶体絶命と覚醒と
「ここを離れるぞ」
譲は莉沙の肩を抱いたまま、足を速めようとした。
その時、二人の数歩先へ、ひとつの影が虚空から溶け出るように現れた。
妖を感じる力を失った状態の譲にも、それが禍々しい存在であることは分かった。
筋骨隆々としたシルエットこそ人間の成人男性に似ているものの、青い肌や、頭部に生えている捻じれた二本の角が、異形の妖だと告げている。
この異常な状況に、周囲の人間たちは気づく様子もない。莉沙が指摘したように、譲が使う「人払いの結界」に似た力が働いており、認識阻害されているのだろう。
「お前、半妖だな。『マガツ様』憑きの人間を倒したんだってな」
申し訳程度に獣の皮をまとった青肌の妖が、ざらついた声で笑った。
――『マガツ様』憑きだと? 放火犯の火洞のことか? たしかに、奴に憑いていた妖は「自分は個にして全」と言っていたが……
火洞に憑いていた妖の言葉を思い出し、譲ははっとした。
「純血の『可惜夜の民』は相手にしたくねぇが、半分人間なら、力も大したことないだろう? お前を食えば『可惜夜の民』の力が手に入るってことだ。これで、俺を見下していた連中を出し抜けるぜ」
「僕を、食うと言うのか――『マガツ様』とは何だ?」
莉沙を背後に庇いながら、譲は言った。
「話す義理はねぇな。……そっちの女も、質のいい人間の匂いがするぞ。俺は、旨そうなものは先に食う主義なんだ!」
言い終わらぬうちに、青肌の妖が地面を蹴った。鋭い鉤爪の生えた大きな手が獲物を引き裂かんと襲いかかる。
その疾風のような動きに、譲は自分の身体が対応しきれないと感じた。
――「暗晦」のせいで反応速度も人間と同程度になっている……万全な時であれば、この程度の相手に後れを取ることないどないのに……!
「莉沙、逃げろ!」
譲は、叫びながら自身の身体を盾にするのが精一杯だった。
胸から腹にかけての灼熱感と共に、大量の血液を失った感覚を覚え、譲は膝をついた。
咄嗟に、切り裂かれた傷を手で押さえたものの、その程度で出血が収まるはずもなかった。
「まだ生きてるのか? 半分だけでも妖だけあって、しぶといな。その分、楽には死ねないってことか」
よろよろと立ち上がろうとする譲を前に、妖は残忍な笑みを浮かべた。
――莉沙だけは守らなければ。
ちらりと後方を見やった譲が見たのは、大きく目を開き、両手で口元を覆って震えている莉沙の姿だった。
恐怖に支配され何も考えられず、逃げるという選択肢さえ浮かばないのだろう。
「早く死にたいなら、お前は主菜で、女は後の楽しみにしてやるよ」
再び、青肌の妖が疾風のごとく動いた。
――こんなことで死ぬのか……自分だけならともかく、莉沙を守れずに終わるなど……!
激痛と出血で朦朧とする意識の中、絶望に塗り潰されかけていた譲は、不意に湧きおこる得体の知れない力の奔流を感じた。
「痴れ者が! それ以上、彼に触れるな!」
先刻まで恐怖に震えていたはずの莉沙が、譲を庇うように音もなく立ちはだかり、叫んだ。
襲いかかってきた青肌の妖が、まるで不可視の壁に阻まれるごとく弾き飛ばされる。
「彼を傷つけたこと、万死に値する」
莉沙の言葉と共に、蹲っている妖の身体が崩壊を始めた。
「ば……馬鹿なッ! 貴様は、ただの人間の女だったはず……それなのに……やめろ! やめてくれ! その『力』を向けるな……ッ」
湿った音を立てながら泡立ち崩壊しつつあった妖は、やがて霧散し完全に消滅した。
その様を夢の中の光景のように見つめていた譲は、莉沙の後姿に、ひどい違和感を覚えた。
肩に触れるか触れないかくらいの長さの髪が、いつの間にか腰の辺りまで伸びており、その色も栗色から輝くばかりの銀色に変化している。
「譲よ、いま癒してやるからな」
振り向いて言った莉沙の目は、見慣れた琥珀色ではなくアメジストを思わせる紫色をしていた。
状況を把握できず呆然としている譲を、莉沙はふわりと横抱きにした。
彼女は譲を抱え、人気のない東屋へ入り、彼をベンチに横たえた。
「楽にするがいい。……ああ、人払いの術を展開しているゆえ、誰にも気づかれてはおらぬ。安心せい」
譲を膝枕する格好で、莉沙が彼の傷に手をかざした。
なにか温かく柔らかなものに包まれるような感覚を伴い、傷の痛みが薄らいでいく。
「……莉沙、いったい、きみは……」
痛みが完全に消え、譲は身を起こした。先刻まで血が噴き出していた傷は、跡形もなく塞がっている。
「ずっと、こうして会いたかった」
言って、莉沙が譲を抱きしめた。髪や目の色は変わっているものの、顔立ちは彼女のままだ。しかし、以前にはなかった妖艶な雰囲気に、譲はたじろいだ。
「きみは莉沙じゃないな? 妖か? この子に憑りついているのか?」
「半分は当たりで、半分ははずれだ」
目の前の状況が何もかも信じられず混乱している譲を見上げながら、莉沙が微笑んだ。
「我が名は明星、綺羅星の民の王、星河の娘だ。しかし、『莉沙』でもある」
「なにを言っている、莉沙は人間だ。きみの、この力は妖そのものじゃないか」
「そうだな……話せば長くなるのだ」
「明星」と名乗る莉沙が、少し困った表情を見せた。それは幼い頃から見慣れた莉沙の表情そのもので、譲は安堵と困惑の入り混じる奇妙な気持ちになった。
「そのような、見知らぬ者を見るような目を向けられるのは寂しいのだ……何度も褥を共にし、あれほど抱きしめてくれたではないか」
「たしかに一緒に寝たり抱っこしたりはしたけれど、それは、きみが小さい頃の話だろう? 事情を知らない人が聞いたら誤解するような言い方はやめてくれ……」
不意に、譲は唇に柔らかなものが押し付けられるのを感じた。
彼女の柔らかな身体の感触と心地よい匂いに脳髄が一瞬痺れたのち、彼は自身が莉沙に抱きしめられ、唇を重ねているのだと気づいた。
「坊ちゃん! 莉沙様! こちらでしたか!」
頭上から降ってきた綿雪の声に、譲は我に返った。
虚空から溶け出すように現れた綿雪が、譲と莉沙の姿に目を剥いた。
「これは……一体? ……ああ、二人きりのお出かけ、すなわちデート……そういうことですね」
綿雪は、たまゆら思考停止していたように見えたが、はっとしたように頷いた。
「いや、勝手に納得しないでくれ。僕も、色々なことが起こり過ぎて整理できていないんだ」
譲は、慌てて莉沙から唇を離して言った。
「しかし、よく僕たちがここにいると分かったね」
「はい……少し前に、凄まじい妖の気配を感じて、もしや何かあったのかと飛び出してきたのです。気配を辿ったら、こういう状況だったというか……ところで莉沙様、ずいぶんと感じが変わられましたね。というか、あの気配は莉沙様の? どういうことですか」
綿雪が、戸惑った様子で譲と莉沙を見比べた。
「ちょうどいい、綿雪にも聞いてもらった方がよかろう」
頷いた莉沙が、口を開いた。
「私は『綺羅星の民』の王、星河の娘である明星だ。『綺羅星の民』については、知っているな?」
「うん……『可惜夜の民』の遠い親類みたいな種族で、この世界とは次元のずれた世界で暮らしている者たちとは聞いている」
言ってから、譲は改めて莉沙――「明星」の姿を見た。
顔立ちは莉沙そのままだが、長い銀色の髪と紫色の瞳が神秘的な雰囲気を醸し出している。
「そうだ。我ら『綺羅星の民』は、力の強い者こそが至上であるという考え方でな。『王』になるのは皆に強さを認められた者だ。『王』と戦って勝利すれば、その者が新たな『王』になる。人間の世界と異なり、政治的な意味は持たず名誉職のようなものだがな」
「そういえば、月人様から莉沙様を託された頃、『綺羅星の里』で王位争いが起きたという噂を聞きましたね」
綿雪の言葉に、「明星」は眉根を寄せた。
「あんなものは、『王位争い』などではない……彼奴……羅喉は卑怯にも、徒党を組んで父上を騙し討ちしたのだ。そして、娘である私も亡き者にしようとした。瀕死状態にまで追い込まれたものの、傍仕えの者に助けられ、私は『可惜夜の里』へと逃げ込んだ。可惜夜の王、北辰様は、私たちを快く保護してくれた……傷を押して私を運んだ傍仕えの者は助からなかったが」
その時のことを思い出したのか、「明星」は唇を噛んだ。
「北辰様は、死にかけていた私の姿を人間の赤ん坊へと変え、力を封印し羅喉らに探知されないようにした。人間の世界で暮らす譲に私を預けたのは、木を隠すなら森へ、という考えだったらしい」
――そうか、父上が僕に莉沙を預けに来たのも、北辰様の御意思ということか。
十七年前、父である月人が突然やってきた日を、譲は思い出した。
と、「明星」が小さく呻いて額の辺りを押さえた。
「どうした?」
「……まだ、羅喉から傷を負わされた際に失った力が戻っていないのだ……駄目だ、自分を保てない……!」
言って、ぐらりと傾いだ「明星」の身体を、譲は慌てて支えた。
「……ユズ兄?」
譲の腕の中で「明星」――いや、莉沙が薄らと目を開けた。髪と目の色も、いつの間にか元に戻っている。
「大丈夫? なんか悪そうな妖に襲われて、大怪我してたよね?」
起き上がった莉沙は、譲の引き裂かれたコートを目にしてから、彼の身体に傷がないか確かめている。
「あれ? 治ってる?」
「うん、大丈夫だ。何も心配ないよ」
「あっ、綿ちゃんも来てたの? そうか、綿ちゃんが助けてくれたんだね」
綿雪の姿を見て、莉沙は納得したようだった。
口を開こうとする綿雪を、譲は視線で制した。
――綿雪が救援に来たことにしておいたほうがいいだろう。
譲の言いたいことを理解したのか、綿雪も口を噤んだ。
「ユズ兄がパワーダウンしてる時だから、どうしようって思ったけど……よかった」
莉沙が、小さく息をついた。
――ああ、いつもの莉沙に戻っている……「明星」の記憶は無いようだが……
心配そうに見上げてくる莉沙を、譲は抱きしめた。




