19話 二人だけの時間に
家の中には、クリームシチューの匂いが漂っている。綿雪が作る、市販のルウを使わないシチューは、譲と莉沙の好物の一つだ。
「そろそろ夕食ができますが……莉沙様は帰宅してから部屋を出ていませんよね。私が、呼びに行きましょうか」
料理の味見をしていた綿雪が、ダイニングに来た譲に声をかけた。
「いや、僕が呼んでくるよ」
譲は、莉沙の部屋に向かった。
彼女の部屋の扉を叩き、譲は中にいるであろう莉沙へ呼びかけた。
「そろそろ、ご飯だよ。今日は、きみの好きなクリームシチューだ」
譲は数分待ったが、返事はなかった。彼は、再び扉を叩いた。
「きみと、少し話したいんだ。開けてくれるかな」
少しの間のあと、かちゃりという音と共に、扉が細く開いた。
「……ユズ兄、怒ってる?」
扉の隙間から顔を覗かせ、沈んだ声で莉沙が言った。
「僕が? どうして?」
「だって、私が我儘言って困らせちゃったし」
莉沙は、おずおずと譲の顔を見上げた。
その表情を見た譲は、莉沙に対する愛おしさが込み上げるのを感じた。
――僕から拒絶に近い言葉を言われて拗ねているのかと思っていたのに。やはり、彼女は優しい、いい子だ。
「そんなふうに思ってないよ。……入っていい?」
そう言って譲が微笑むと、莉沙の表情は少し和らいだように見えた。
譲は、莉沙の部屋に招き入れられた。
パステルカラーを基調にした、いかにも女の子らしい部屋だ。
整頓されたベッドの枕元や棚には、お気に入りの動物のぬいぐるみたちが置かれている。それら一つ一つを買った際の記憶が蘇り、譲は口元を綻ばせた。
「まだ、そのクマ持ってたんだ」
譲は、枕元に置かれている大きな茶色のテディベアに目をやった。莉沙が三歳くらいの頃に、店で見かけて欲しがったので購入したものだ。
触る機会の多いぬいぐるみの宿命で、首に巻いたリボンの先はほつれ、手足や耳の先など擦り切れているが、それは莉沙がテディベアを気に入っているという証左でもある。
「もちろんだよ。お店で見て、どうしても欲しいってユズ兄におねだりしたの、覚えてるよ。今も、一緒に寝てるんだから」
莉沙は、少し恥ずかしそうに言ってベッドに腰掛けた。その隣に、譲も座った。
「――僕こそ、自分の考えを押し付けるばかりだったね。僕が考える『きみの幸せ』と、きみが考える『きみ自身の幸せ』が同じであるはずはないのに。莉沙の気持ち、僕も嬉しくはあるんだ」
譲の言葉に、莉沙は目を見開いて彼の顔を見た。
「人間として幸せになってほしいと言いながら、きみが僕以外の男の傍にいるところなんて想像したくもない……笑ってしまうくらい矛盾しているよね」
言って、譲は小さく息をついた。
「でも、きみを、僕の半妖としての生き方に付き合わせていいのかという迷いも拭いきれないんだ。莉沙という人間の人生の責任を負う覚悟は、きみを大切に思うからこそ重く感じるのかもしれない」
「……自分の人生の責任は、自分で取るものでしょ」
莉沙が、その大きな琥珀色の目で譲を見つめた。
「ユズ兄は、全部背負おうとしてるんだね。でも、私の人生は私のものだよ。だから、私のことを嫌いじゃないなら、傍にいさせてほしいの」
莉沙の言葉を聞いた譲は、彼女が思いの外大人になっていたと感じて、驚いた。
「そうか……きみのほうが、覚悟が決まっていたということか」
譲は、きまり悪さを感じて頭を掻いた。
「まだ、はっきりと返事ができる状態ではないけど、僕も莉沙を大切に思っている。それだけは、信じてほしい」
そう言って譲が見つめると、莉沙は嬉しそうに微笑んだ。
「……明日は休みだし、二人で出かけないか?」
譲の言葉に、莉沙は目を丸くした。
「二人で? ハリちゃんたちも、お留守番?」
「そう、二人だけでね。駅前に新しくできたパンケーキカフェ、なかなか評判がいいらしくて、そのうち莉沙と行ってみたいと思っていたんだ。あとは、動物園や公園を歩いたりとか、いつもみたいな感じだけど」
彼としては、機嫌を取るというより、純粋に莉沙が喜びそうなことをしてやりたいという気持ちだった。
「うん、行きたい! なんか、デートみたいだね」
莉沙の言葉に、譲はくすりと笑った。
「それじゃ、夕食を食べに行こう。綿雪が待ってる」
二人は部屋を出て、綿雪が待つダイニングへと向かった。
一夜明けて、間もなく昼になろうという頃。
休日というのもあって、K駅周辺は行き交う人々で賑わっている。
そんな中、譲は莉沙と共に目当てのパンケーキカフェへと歩いていた。
しっかりと手を繋いでいる二人は、傍目には美男美女の恋人同士に見えるらしく、擦れ違う人の中にも振り向く者が少なくない。
「ちょっと肌寒くなってきたから、この前買ったコートの出番が来たね」
そう言う莉沙は、上品なグレーのチェスターコートを羽織っている。その下の鮮やかな赤いニットに合わせたのは、モノトーンチェック柄のロングスカートだ。
「足元はブーツにしたのか。よく似合ってるよ」
譲が言うと、莉沙は頬を染めた。
「ユズ兄は何でも褒めてくれるけど、やっぱり嬉しいな。ユズ兄は、相変わらず真っ黒だね」
「まぁ、そうだね」
莉沙に言われ、譲は自分の服を見下ろした。黒いトレンチコートに黒いニット、スラックスや革靴も黒と、いつもの黒尽くめだ。
背丈が高く、すらりとした体形の譲だからこそ絵になると言えるだろう。
「真っ黒も寂しいから、差し色で少し派手なスカーフとかマフラーを巻いてみるのはどうかな」
「差し色か……」
「じゃあ、私が選んであげるから、あとで買いに行こうよ」
「分かった。莉沙のセンスに期待してるよ」
「任せて。ユズ兄が、もっとイケメンになっちゃうね」
親指を立ててみせる莉沙の無邪気な表情に、譲は口元を綻ばせた。
目当てのパンケーキカフェで昼食を済ませた二人は、K駅からも近い公園へ向かった。その隣には可愛い小動物を多く展示する動物園も設けられた、彼らのお気に入りの場所でもある。
「あのお店のパンケーキ、フルーツいっぱいで美味しかったよ。ユズ兄が食べてた、食事系パンケーキも美味しそうだったけど」
機嫌よく言う莉沙を見て、譲は、やはり来てよかったと思った。
「パンケーキには目玉焼きやソーセージも合うんだね。でも、莉沙が美味しそうに食べていたから、次は甘いやつに挑戦してみるよ」
莉沙と他愛のない話をしながら歩いていた譲の目に、公園のベンチで休む一組の老夫婦が映った。
共に真っ白な髪をした夫婦は、穏やかに会話を楽しみながら公園の池に遊ぶ水鳥たちを眺めているようだ。
彼らの仲睦まじい様子が、譲には微笑ましく見えた。
――種が芽吹き成長して、咲いた花はやがて枯れ、土に戻っていく……限りある生命だからこそ、人々は共に積み重ねる時間を大切のするのだろうな。
「そこの動物園、ライオンとかはいないけど、リスやミーアキャットみたいな可愛い動物が多くていいよね」
そう言って、莉沙が譲の顔を見上げた。
「そうだね。ふわふわした生き物って、癒されるよね」
答えながら、ふと譲は考えた。
――父上が「聞かないほうがいい」とまで言う、莉沙の「事情」とは何なのか。しかし、なにがあっても、僕は彼女を受け止めてみせる。莉沙が、半妖である僕を受け入れてくれたように。近いうちに「可惜夜の里」へ行かなければ……
思いを巡らせていた譲に、莉沙が言った。
「ねぇ、なんだか変だよ」
「どうした?」
「私たちの周りだけ、空気が違うっていうか……ユズ兄が使う『人払いの結界』に似てるよ」
二人は足を止め、辺りを見回した。
――そうか、僕は「暗晦」の期間に入っているから、妖の気配も感じ取れないのか。
譲は背筋に冷たいものを感じて、思わず莉沙の肩を抱き寄せた。




