「君を抱けない」と言った旦那様。妹と浮気していたあなたを、今夜こそ地獄へ落として差し上げます
婚礼の夜、私は純白のネグリジェに身を包み、寝台で夫を待っていた。
薔薇の香油を肌に纏い、母から譲り受けた真珠の髪飾りで金の髪を飾る。鏡に映る自分の頬が、期待と緊張で薄紅色に染まっていた。今夜をもって、私は本当の意味で彼の妻になる……。
エドワード・グランヴェル公爵——社交界の華と謳われた美貌の貴公子。彼との結婚は、伯爵家の娘である私にとって、これ以上ない栄誉だった。
扉が開き、夫が入ってくる。月明かりに照らされた彼の横顔は、彫刻のように完璧だった。
「エドワード様……」
緊張で震える声を絞り出した。夫は優しく微笑み、ゆっくりと近づいてきて——私の頬にそっと手を添えた。
「レイナ、君は美しい」
心臓が早鐘のように鳴る。彼の瞳に映る自分を見つめ返す。これから始まる甘い夜を想像して、全身が熱くなる。
けれど次の瞬間、彼は手を離し、一歩下がった。
「だが、君を抱けない」
「……え?」
思わず聞き返した。今、なんて言った?
「君は純粋すぎる。私のような男が触れていいものではない。愛しているからこそ、君を穢したくないんだ」
「でも、私たちは夫婦に——」
「レイナ」
彼は私の言葉を遮り、額に軽く口づけた。冷たい、体温を感じない口づけ。
「いつか、その時が来るまで待っていてくれ」
そう言い残して、彼は部屋を出て行った。一人残された私は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
意味が分からなかった。でも、きっと夫なりの優しさなのだと、愚かな私はその時信じようとした。
それから半年。夫は変わらず優しかったが、決して私に触れることはなかった。朝食の席で交わす挨拶、社交界での形式的なエスコート、人前での完璧な夫婦の演技。でも、二人きりになれば、彼は必ず距離を置いた。
そして気がつけば、妹のセリアが頻繁に公爵邸を訪れるようになっていた。
「あら、セリア……今日も来たの?」
「ええ。エドワード様の書斎で古い書物を見せていただくの」
「そう……。私も一緒に見せてもらおうかしら」
「姉様はそういう趣味ないんだから無理しないで」
セリアは無邪気を装って言う。艶やかな黒髪を揺らし、私より大きな胸を強調するドレスを着て……。
「奥様」
ある夜、侍女のクラリスが、ためらいがちに口を開いた。
「旦那様と、セリア様が……その、書斎で、お二人きりで……」
クラリスは言いよどんだ。彼女の表情で全てを悟った。
私は窓の外を見つめたまま、静かに微笑む。満月が冷たく輝いていた。婚礼の夜と同じ月。
ああ、そういうことだったのか。
「君を抱けない」——それは、既に妹を抱いていたから。
いや、もしかしたら最初から妹が目当てで、私は単なる隠れ蓑だったのかもしれない。
愛が音を立てて崩れていく。胸が張り裂けそうに痛んだ。けれど涙は出なかった。代わりに、冷たい何かが心の底から湧き上がってきた。
復讐の炎。
「クラリス」
「はい、奥様」
私は振り返り、忠実な侍女を真っ直ぐ見つめた。
「私はあの二人を、完膚なきまでに破滅させる。今、そう決めたわ。あなたは私に協力してくれる?」
クラリスは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに深く頭を下げた。
「奥様にお仕えするのが、私の務めでございます」
私は窓の外に視線を戻した。
「エドワード、セリア。私があなたたちを穢して差し上げます」
月に向かって、まるで宣戦布告をするように呟く。
「名誉も、誇りも、すべて……」
冷たい月光が、決意を固めた私の顔を照らしていた。
※
それから私は、ただ静かに、獲物を待つ蜘蛛のように観察を始めた。
エドワードの外出記録、セリアの訪問時刻、二人が交わす視線の長さ、贈り物の値段と頻度——すべてを日記に書き留めた。感情を殺し、事実だけを淡々と記録していく。
「奥様、旦那様が今朝、宝石商に」
クラリスから報告を受ける。
「何を買ったの?」
「ルビーのネックレスを。『S』の刻印入りで」
ルビーはセリアの誕生石。Sはセリアの頭文字。なんて分かりやすいんだろう。
「そう。記録しておいて」
ある日、セリアが私の部屋を訪れた。いつものように無邪気な妹を演じながら。
「姉様は本当に退屈な女ね」
紅茶を飲みながら、彼女は挑発的に言った。
「エドワード様もお可哀想。あんな美しい方が、毎晩一人で眠るなんて」
「そうね……私には彼を満足させる魅力がないのかもしれないわ」
私は微笑みを崩さない。心の中で舌は出してるけど。
妹は私の反応を見て、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。愚かな女だ。
その夜、クラリスが重要な証拠を持ってきた。
「奥様、これを」
エドワードの書斎から写し取った文書の数々。夫の印章が押された恋文、セリアの筆跡で書かれた「今夜も私を抱いて、あなたの本当の妻を」というメモ。
そして何より決定的だったのは、セリアの名義で土地を譲渡する贈与契約書の控えだった。
「この土地は……!」
「はい、奥様の持参金で購入された、東の森の土地でございます」
私の財産を、妹に贈ろうとしていた。しかも——
「評議会の承認印がありませんね」
「旦那様、かなり焦っておいででした。セリア様に急かされて、吟味もせずに判を押されたようです」
これは重大な違法行為だった。爵位剥奪に値する違反。
私は証拠の山を見つめ、深く息を吸った。
「クラリス、舞踏会まであと一週間ね」
「はい」
「その日に、すべてを終わらせるわ」
窓の外では雨が降り始めていた。まるで私の涙の代わりに、天が泣いてくれているかのように。復讐の準備は整った。あとは舞台で幕を上げるだけ。
公爵邸で開かれる年に一度の大舞踏会。社交界の重鎮たちが集う、最も華やかな夜。
この日のために、私は特別な衣装を用意していた。漆黒のドレス。まるで喪服のような、しかし恐ろしく優美な一着。胸元には、母から受け継いだダイヤモンドのネックレスが冷たく輝いていた。
会場に入ると、すぐに視線が集まった。
エドワードとセリアは、ホールの中央で親密に寄り添っていた。セリアは真紅のドレス——まるで私の地位を既に奪ったかのような装い。夫は彼女の腰に手を回し、耳元で何か囁いていた。
「あら、公爵夫人がいらしたのね」
「珍しいこと。いつもは姿をお見せにならないのに」
「あの黒いドレス……まるでお葬式みたい」
好奇と嘲笑の視線を浴びながら、私は静かに会場を進んだ。そう、今夜は葬式。二人の社会的な死を看取る夜。
乾杯の時間が来た。エドワードが壇上に上がり、得意げに演説を始める。
「我が領地の発展は、皆様のご協力の賜物です」
偽善者。私の持参金で購入した土地を、愛人に贈ろうとしている男が何を言う。
拍手が鳴り響く中、私は静かに前に出た。
「皆様、少しお時間をいただけますでしょうか」
ざわめきが起こる。エドワードが驚いた顔で私を見た。その隣でセリアの顔から血の気が引いていく。
「妻として、夫の成功を祝して、皆様に特別なものをお見せしたいのです」
私は用意していた書類を取り出した。一枚、また一枚と、ゆっくりと。まるで処刑の鐘を鳴らすように。
「これは、夫が『愛する人』に宛てた手紙です。印章もご確認ください」
書類を高く掲げる。会場がざわめく。
「読み上げさせていただきますね。『君だけが僕の本当の妻だ。レイナなど、君を手に入れるための踏み台に過ぎない』」
エドワードの顔が蒼白になる。
「そしてこちらは、その愛する人——私の実の妹、セリアからの返事です」
次の書類を掲げる。セリアが小さく悲鳴を上げた。
「『今夜も私を抱いて。あなたの本当の妻を。姉など、さっさと追い出してしまいましょう』」
会場が凍りついた。貴族たちが顔を見合わせる。
「さらに、こちらの贈与契約書をご覧ください」
三枚目の書類を示す。
「我が家の領地の一部を、妹の名義に変更する内容です。しかも、この土地は私の持参金で購入したもの。そして——」
私は間を置いた。劇的な効果を狙って。
「評議会の承認印がございません。これは重大な違法行為です」
一瞬の静寂の後、会場が蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「評議会の承認印がない譲渡契約だと?」
「それは重罪ではないか」
「公爵家ともあろうものが……」
私は壇上から降り、あらかじめ招いておいた三人の男性に向かって優雅に会釈した。
「ヴィンセント卿、お忙しい中お越しいただき感謝いたします」
評議会の査察官であるヴィンセント卿が、厳かに頷いた。銀髪の老紳士は、その場で書類を手に取り、印章と筆跡を確認し始める。
「銀行家のモーリス殿も、ご足労いただきありがとうございます」
王都一の銀行を営むモーリスが、懐から虫眼鏡を取り出した。
「ほう、これは確かに……公爵家の印章に間違いございません。そして日付は三ヶ月前。我が銀行の記録とも一致します」
最後に、領地管財官のアルベール子爵が書類を検分する。
「この土地は確かに、公爵夫人の持参金で購入されたもの。私が承認書に署名した覚えがあります」
三人の証言により、会場の空気が完全に変わった。好奇の眼差しが、軽蔑と憐憫に変わっていく。
エドワードが壇上から降りてきた。顔は蒼白で、額には汗が浮かんでいる。
「レイナ、これは一体……」
「何がでしょう、公爵様?」
私は首を傾げ、無邪気を装った。
「書類は本物ですよね? 印章も筆跡も、すべてあなたのもの」
「それは……一時的な過ちだ。熱に浮かされて……」
「熱に浮かされて、私の財産を妹に贈ろうとなさったのですか?」
会場がざわめく。セリアが真っ青な顔で前に出てきた。
「姉様、これは誤解です! 私は何も——」
「セリア」
私は妹を見つめた。かつて愛した妹。今は憎むべき裏切り者。
「あなた宛の贈り物の領収書もありますよ。ルビーのネックレス、ダイヤの指輪、真珠のティアラ……すべて私の持参金から支払われていますね」
モーリスが頷く。
「確かに、これらの支払い記録は銀行に残っております」
セリアの顔から完全に血の気が引いた。取り巻いていた令嬢たちが、潮が引くように離れていく。
「まさか、公爵夫人の財産で……」
「なんて恥知らずな」
「妹が姉の夫を……」
ヴィンセント卿が重々しく口を開いた。
「グランヴェル公爵、この件については評議会で正式に審議する必要があります。明朝、評議会にご出頭を」
「そんな……」
エドワードがよろめいた。公爵位剥奪もありうる重大事。彼の政治生命は、今この瞬間に終わったも同然だった。
「さらに」
ヴィンセント卿が続ける。
「問題の資産については、調査が終わるまで凍結させていただきます」
会場がどよめいた。資産凍結——それは事実上の有罪宣告に等しい。
私は静かに微笑んだ。ああ、なんて愉快なのだろう。あれほど高慢だった二人が、今や社交界の晒し者になっている。
「まさか、姉の夫と……」
「人妻の座を奪おうとするなんて」
「恥知らずにも程がある」
セリアが震え声で叫んだ。
「違う! エドワード様は私を本当の妻だと——」
「黙れ!」
エドワードが鋭く制した。自分の立場を守るため、セリアを切り捨てる気だ。
「君とは何でもない。ただの……一時の過ちだった」
「そんな! あなたは私を愛していると、レイナなんか踏み台だと言ったじゃない!」
セリアの絶叫が会場に響く。だが、それは彼女自身の首を絞めるだけだった。
年配の公爵夫人が扇子で口元を隠しながら囁く。
「グランヴィル伯爵家も、こんな醜聞にまみれた娘を置いてはおけないでしょうね」
「当然ですわ。どこの家も、こんな女を嫁には迎えません」
セリアの顔が絶望に歪んだ。エドワードの妻になれないどころか、もはや誰の妻にもなれない。社交界から永遠に追放される——その現実を、今ようやく理解したのだ。
※
舞踏会の騒動から三日後、私は公爵邸の応接間で、夫と妹を待っていた。
二人が入ってきた時、その憔悴した姿に少し驚いた。エドワードの完璧だった容姿は見る影もなく、セリアの艶やかな黒髪も生気を失っていた。
「座って」
私は静かに促した。二人は力なく椅子に腰を下ろす。
「評議会の決定は聞いた?」
「……公爵位は維持されるが、領地の三分の一を没収。そして五年間の謹慎処分」
エドワードの声は枯れていた。
「それから、違法に譲渡しようとした土地と、不正に使用された資金は全額返還」
「はい」
「セリア、あなたは?」
妹は俯いたまま答えた。
「実家から……勘当されました……」
「そう」
私は立ち上がり、窓辺に歩いた。外では小鳥がさえずっている。平和な午後の光景。
「あなたたちは、私から多くのものを奪った」
振り返らずに言う。
「愛する夫、信頼していた妹、幸せな結婚生活、家族の絆……すべて」
「レイナ……」
「でも」
私は振り返った。
「私が本当に失ったのは、あなたたちへの幻想だけだった」
二人の顔が歪む。
「エドワード、あなたは最初から私を愛してなどいなかった。セリア、あなたも姉を慕ってなどいなかった。それが分かっただけでも、価値があったわ」
「許してくれとは言わない」
エドワードが絞り出すように言った。
「でも、せめて——!」
「離婚します」
私は簡潔に告げた。
「慰謝料として、東の森の土地をいただきます。それが私の条件」
「……分かった」
彼に選択の余地はなかった。
「セリア」
妹が顔を上げる。涙で顔がぐしゃぐしゃだった。
「あなたとは今後、一切関わりません。私に妹はいなかった。あなたに姉もいなかった。それでいいわね?」
「姉様……」
「その呼び方は二度としないで」
冷たく言い放つ。セリアが嗚咽を漏らした。
私は扉に向かって歩き出し、振り返ることなく最後の言葉を告げた。
「私はあなた方を公に裁きました。愛を奪われた痛みは取り戻せませんが、あなた方が奪ったものは公の場で剥がしました」
扉に手をかける。
「これが、私の正義です」
※
一年後。
東の森にある私の新しい館で、朝日を浴びながら紅茶を飲んでいた。
クラリスが朝の報告を持ってくる。
「奥様、領地の小麦の収穫が昨年の二倍になりました」
「それは良かった。農民たちにも分配を増やして」
「かしこまりました」
窓の外には、豊かな森が広がっている。ここは私の王国。誰にも侵されない、私だけの場所。
エドワードは今も謹慎中。社交界から完全に見放され、かつての輝きは失われた。セリアは地方の年老いた男爵に引き取られ、侍女同然の暮らしをしているという。
可哀想だとは思わない。彼らは自分で選んだ道の結果を受け取っただけ。
私は立ち上がり、庭に出た。薔薇が美しく咲いている。かつて婚礼の夜に纏った薔薇の香油を思い出す。あの時の私は、なんて愚かで純粋だったのだろう。
でも、今の私は違う。
強く、賢く、そして自由。
朝の光が私を包む。新しい一日が始まる。
今朝、私は自分のベッドで目を覚ました。そこにあったのは、盗まれなかった誇りだけだった。
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