第11話 笑顔とチキンマサラ
葵が敦への恋心を自覚したとはいえ、別に呪いが解けたわけでもなく、表面的にはいつも通りの日常だった。
早起きし、身支度を整え、副業も軽くやっておた。食卓でパンを片手にやっていたが、もう夏バテはしたくない。受注案件を減らしつつ、キーボードを叩いていた。
「おはよう」
「え、あっくん。どうしたの?」
そこに敦が起きてきたが、もう身支度も済ませていた。今日はちゃんと髭もそり、髪もセットしていた。その上、清潔感のある白シャツに黒の綿パン姿だった。そういえば昨日、Amazonの箱が敦あてに届いていたが、この服を買ったのだろう。日雇いもはじめ、お金にも余裕が出てきたらしいが。
そんな事はどうでもよくなるぐらい、今日の敦のビジュアルがいい。いつものユルい格好ではない。セットした髪の毛は整った目鼻立ちと調和し、清潔感も溢れていた。
反射的に葵の心臓が跳ねるが、今日は日雇いバイトで、携帯ショップのキャンペーンの仕事をするという。通りでいつもより清潔感がある格好だと思ったが、ビジュアルがいい敦は目に毒だ。無条件に葵の頬が桃色に染まってしまう。
「あれ、葵さん。熱い?」
それに気づかれ、葵の頬はさらに赤くなった。桃色というより林檎色に染まっていく。
「冷房の温度下げるよ」
「あ、ありがとう。こう熱いと嫌になるね!」
葵はしろどもどろになりながらも、全部夏の暑さのせいにした。敦に惚れてしまった事など、口が裂けても言えない。
「ところで、呪いの方は? 何か気づいた事はある?」
一緒に朝食を食べながら、敦に聞く。恋の自覚のせいで忘れそうだったが、呪いは解けていない。
「全くわからない。確かに手料理と美味しい、ありがとうっていう言葉で呪いが無効になる事は分かってけど……」
つまり、今のところ、呪いについて何の進展もなく、停滞状態だった。
あしばらく二人とも無言でトーストを食べていた。サクサクとした咀嚼音が響くだけ。何か、呪いについて突破口はないだろうか。考えてしまっていたが、ふと、良作にいちゃんのラーメン屋が頭に浮かぶ。
「うちの従兄弟のラーメン屋行ってみない?」
「そういえば葵さん、そこでバイトしているって言ってたね」
「うん、従兄弟には軽く事情も話しているし、もしかしたら、外食では呪いの結果は変わるのかな?」
そんな仮説も立てていた。最初のホットチキン以外は、家でしか激辛メニューも実験をしていない。外食では結果が変わるのか気になるところだ。
「わかった。外食でも試してみたい」
いつになく敦の目は真剣で、葵の心臓はキュンと跳ねた。
すぐに敦は日雇いバイトに出かけてしまったが、葵は一人で頭を抱えてしまう。
「いや、もう無理……。ビジュアルもいいし、限界だから……。なにこの天使……」
その顔は林檎色というより、唐辛子みたいにホットだ。こうなってしまったのは、夏の暑さのせいではない。決して。
その後、なんとか理性を保ちつつ、課題や副業もバリバリとこなし、あっという間に夕方になった。敦も帰ってきたので、二人で良作にいちゃんのラーメン屋に向かう。
夕方といえども、熱風がふき、少し歩いただけでも汗が滲む。周囲に響く虫の音だけが、暑さを和らげていた。蝉はあまり鳴いていないようだ。
「あれ? あっくん、なんでキョロキョロしているの?」
葵より背の高い敦を見上げながら聞く。アパートの近所の住宅街だったが、なぜか周囲を伺い、かばうように葵の前を歩いていた。
「いや、あのヤンキーがいないか見てただけ」
「え!?」
「まあ、ヤンキーなんかがいても大丈夫。僕が守るから」
もう無理、限界!
言葉や表情はナチュラルなのに、こんな甘いシチュエーション、葵のキャパシティを超えていた。すでに顔は唐辛子のように真っ赤だった。
「あれ、葵さん、どうしたの? 顔が真っ赤じゃない?」
「いや、た、単に夏で熱いからだよ!」
「そうだね、今年の夏は熱いもんね」
敦が納得してくれてホッとしたが、住宅街を進み、飲食店街に入り、あと少しで良作にいちゃんのラーメン屋につきそうな時だった。
「あれ、葵さん! こんばんは!」
とあるインドカレー屋の前を通ると、声をかけられた。しかも同じアパートのサンジーではないか。
この夏は一時帰国をしていたと聞いていた。おかげでサンジーに敦のことは全くバレていなかったが、いつ日本に戻ってきたのだろう。今も陽気に葵に話しかけ、この店でインドカレーを食べに行かないかと熱心に勧誘していた。
この店、サンジーの経営するインドカレー屋だったらしい。外観は意外と地味目だが、「サンジーのうまうまカレー屋さん」という看板はかなり目立ち、怪しい雰囲気すらある。看板の像やベリーダンサーのイラストはさらにそのムードを演出していた。
「うん? 葵さん、このお兄さんは誰なん?」
しかも敦の存在にも気づき、嬉しくない状況だ。
「おにーさん、うちのカレー食べよう! 激辛だよ!スパイスいっぱい!」
空気の読めサンジーは、敦にまで勧誘までしてきた。確かに店の前はスパイス系のいい匂いがする。それだけでもインド気分だが、今日は良作にいちゃんのラーメン屋に行くんだと決めていた。
まさか、敦もこんな勧誘には引っかからないはずだと思っていた。それに激辛インドカレーなんて食べたら、ホットガイ化は青天井だ。どんなセクハラをするかわかったものじゃない。
「激辛か! 僕、辛いの大好きなんです!」
「ちょ、あっくん! 行くんかい!」
葵の突っ込みもむなしく、成り行きでインドカレーになってしまった。良作にいちゃんのラーメン屋へ行く計画は頓挫してしまったらしいが、仕方なく敦とここに入店した。
店は広くない。テーブル席が四つと、窓際の一人がけの席が三つあるだけだ。中途半端な時間らしく、他に客はいない。店長と店名は怪しさ満点だが、中はオレンジを基調としたインテリアで、明るく、オシャレでもあった。それに濃厚スパイスの匂いもたまらない。食欲をゴリゴリと刺激し、この匂いを感じるだけでも元気になりそう。夏バテは完全にふっとんだ。
「わー、僕はこういうお店大好きだ!」
無邪気に喜ぶ敦を見ていたら、突っ込む気力も失せてきた。とりあえず隅の方の席に座り、サンジーにおすすめを聞いた。夏バテ防止のスパイス入りのチキンマサラがおすすめらしい。北インド系のコク深い味付けに夢中になるという。
「そうか、僕はチキンマサラで! こういうカレー、大好きなんだよ」
目をキラキラとさせながら注文する敦。葵も同じカレーを注文した。ラッシーも追加で頼んだが、こんな子供みたいなキラキラ笑顔の敦は初めてみた。
一緒に暮らしても、どこか無気力というか、一歩引いていた敦。アイドル時代の王子様のような笑顔も作りものみたいだったが、今は違う。心から楽しんでいることが伝わってくるような笑顔だ。目もキラキラと潤み、口角の上がり方も自然だ。それに頬もゆるゆると優しげ。
こんな笑顔もできたんだ。毎日、敦の笑顔を見てすごせたら、どんな幸せだろと思うほど。この笑顔、絶対に守りたい。そのためだったら、激辛魔王の呪いも絶対に解きたい……!
そんな決意も固まった時だ。サンジーがチキンマサラ、ナン、ラッシーを抱えてやってきた。
焼きたてのナンは巨人の足のように大きく、表面はパリパリの狐色。ラッシーも真珠のように綺麗な白だったが、チキンマサラの匂いには勝てない。
豊かなスパイスの匂いが二人を包み、ここはもう異世界。激辛天国の異世界だった。
チキンマサラを一口すくって食べると、リッチな味が広がり、口の中も天国だ。
夢中で食べた。この後、敦がホットガイ化をするのは折り込み済みだ。今はもうそんな未来は気にせず、チキンマサラに向き合い、その味を堪能していた。
「うーん、美味しい!」
「ああ、葵さん。美味しいな……」
敦の目はとろけ、至福そうだ。葵もそうだ。いつもは謎インド人のサンジーだったが、作るカレーは別格だった。今は謎インド人には見えない。激辛天使に見えるぐらいだった。
「可愛い子猫ちゃん。俺と終わらない夢を見ようじゃないか?」
しかし、案の定、敦がホットガイ化し、顎をくいっと持ち上げられた。予想通りの展開だったが、口の中は未だに天国だった。今日のホットガイ化も全部許せてしまうほど。
「敦くん! 面白い!」
側で一部始終を見ていたサンジーは腹を抱えて大笑い。その笑い声に、葵も敦もはっと冷静になり、ホットガイ化は終わった。
我に返ると恥ずかしい。顔から火が出そうだが、敦は意外と冷静だ。「感動するほど美味しい激辛グルメだと逆にホットガイ化するらしい」と分析するほどだ。
「ホットガイ化の呪いか? こういう事は僕の田舎ではよく聞く話だからね」
さしてサンジーはホットガイ化に驚いていない。
「まさか、サンジー。この呪いをとく方法知ってる!?」
思わずサンジーに齧り付くように聞いてしまう。
「うん、うちの田舎のおにーさんやねえやに聞いたら、なんかわかるかも!」
さっそくサンジーは田舎に連絡してくれるらしい。ようやく光が見えた。敦もホッと胸を撫でおろしているぐらい。
「それに敦くん、うちでバイトする? 人手不足で困ってるんだよ」
その上、願ってもない展開にもなった。敦は即決し、ここで働く事になった。
トントン拍子すぎて怖いぐらいだ。葵はラッシーを飲みながら、ふと、冷静になった。確かに甘くて濃厚なラッシーは美味しいが、上手くいきすぎてる気がする。
こんな順調でいいのだろうか。少し不安になってしまうぐらいだが、敦は笑顔だ。その笑顔を見ていたら、どうでも良くなってきた。




