第10話 夏バテと牛乳プリン
翌朝、いつもより早く起きてしまった。おそらく昨夜は熱帯夜のせいで寝苦しかったからだろう。目覚めはあまり良くないが、ロフトの上からでも、ソファに寝ている敦が見える。
起きたばかりなのに、また心臓が跳ねていた。葵の頬は桃色に染まっていた。
どう理性を保っても昨日のことを思い出してしまう。ヤンキーに絡まれ、困っていた時に助けてくれた敦。しかも自分の為に怒ってくれていた。今度帰りが遅くなった時は、迎えに行くとまで約束されてしまった。
「いやいや、違う。これは恋とかじゃない。きっとまだ推しとして好きなだけ」
そう思う事にした。敦の事を考えると、きゅんとしてしまうが、これは元推しとして顔が好きだからに違いない。今は髪の毛もボサボサ、無精ひげだって出るぐらいゆるい姿だ。今更、元推しのビジュアルに萌えるのもおかしいが。そう、自分は単に夏の暑さでおかしくなっていると言い聞かせ、ロフトから降り、洗面所に向かった。
顔を洗い、スキンケアをしていると、冷静になってくる。洗面所にある敦の歯ブラシや髭剃りは見てみぬフリをしながら、着替え、身支度も完成した。今日も副業が忙ししい。そんな敦の事ばかり考えているわけにもいかない。そう何度も自分に言い聞かせた。
「そうよ。それにあっくんって今はニートだし。っていうかヒモ? 野良犬?」
そう思うと、昨日感じていた胸のときめき、無理矢理封じ込めた気がしたが。
「おはよう」
「え!?」
洗面所を出たら、敦も起きていた。ソファ周りの掃除もしていた。朝、こんな事をしているのははじめてだ。心なしか姿勢も伸び、目に生気もある。
「実は今日、日雇いのバイトに行ってこようかと思う」
「え、何で?」
相手を単なるニートだと思い、この感情を封じ込めようとしていたのに、どういうことか。
とりあえず身支度を整えた敦と一緒に朝食をとった。今日の朝食はトーストとヨーグルト、バナナだ。
「うん、実は昨日、ホットガイ化しても誰かの役に立てるって自信が出てきたんだ」
「そ、そう……」
甘いバナナを食べつつも、葵の口元はひきつっていた。
「今まで自己肯定感も低かった。でも昨日、葵さんをヤンキーから助けられた。こんな呪いもちでも自信が出てきた。頑張るぞ!」
「え、どういう変わりよう?」
「仕事を頑張る!」
敦はそう宣言すると、あっという間に出かけてしまった。
一人残された葵は、頭を抱えてうめいていた。
「だったら、もうあっくん、ニートじゃないじゃん……」
つまり、その理由で敦を嫌う事など不可能になってしまった。
「いやいや、私には副業があるから。まずは仕事よ、仕事!」
気を取り直し、副業をこなすことにした。いつものようにコアワーキングスペースの個室でバリバリとキーボードを打つ。そうしていると、敦の事など忘れ、集中して副業に取り組んだが、背筋がゾクゾクとしてきた。この個室、冷房が強めだったから。
すぐに温度を下げたが、まだゾクゾクが止まらず、だるくなってきた。元々、学業と並行して副業もしていた。最近は寝不足になるほど副業を取り組み、敦の呪いにも巻き込まれていた。
「うーん、今日はこのあたりにして帰るか」
このまま副業を続けても体調不良になりそうだ。今日は休むことにしてアパートに帰った。
「ただいまー」
こんな昼間に帰るのは珍しかったが、誰もいない。
いつもだったらテレビでダンスや映画の研究をしている敦がいるはずだったが、今日は仕事に逃げたかった。
なんか、違和感。敦がいないだけで、ぽっかりとした空洞がアパートに存在している気がする。
「いやいや、単にあっくんとの生活に慣れただけでしょー」
そうツッコミを入れつつ、冷房をつけ、しばらくソファの上でゴロゴロしていた。
こうして休んでいると、怠さも消えてきた。昼寝もしたら、かなりスッキリしてくる。
「うーん、軽い夏バテだったのかな。それにしても食欲はないなー」
冷蔵庫にはキムチもあった。キッチンの棚には激辛カレーのレトルトやチゲもある。実験に使う為に買ったものだが、じっと見ていても食欲が出て来ない。今はつるっと甘い何かが食べたい。食卓の上にあるバナナも違う気がする。
そうこうしているうちに、窓の外はオレンジ色に染まってきた。もう夕方らしい。
「はー、あっくん、早く帰ってこないかな」
そんな呟きは、葵自身が一番驚いていた。まるで彼の帰りを待っている彼女みたいではないか。
「いやいや、そんなあっくんはホットガイだし。無職のニートだし。ヒモとも言えるし……」
そう無理矢理思い込もうとした時、本人が帰ってきた。警備のバイトをしてきたといい、肌はこんがりと日焼けしていた。
「日雇いバイト楽しかった」
現場のおじさんにも可愛がられたという。敦は楽しそうに報告してくれたが、葵の異変にもすぐ気づいた。
「え、夏バテ?」
「そうなのよー。副業、ガチすぎた」
「ちょっと、待ってて」
「えー?」
敦はまた外出すると、コンビニの袋を抱えて帰ってきた。中には素麺、ペットボトルのスポーツドリンク、それのに牛乳プリンもあった。夏バテ中の今は、どれも嬉しいものばかり。素麺もツルツルと食べられたし、スポーツドリンクも塩分が効いていて生き返る。
「一緒に牛乳プリン食べよう?」
それに笑顔の敦と一緒に食べた牛乳プリンは甘い。喉越しもよく、やわらかく何個でも食べられそう。
「うん、大丈夫だよ。すぐに夏バテもよくなる」
笑顔で励まされた。アイドルの時と違い、自然でやわらかな笑顔だ。しかも氷枕なども準備してくれた。
胸はきゅんと音をたてていた。思わず「しんどい、もう無理……」と心の中で呟いてしまう。敦を推していた時も同じ言葉を呟いていたが、その感情はリアルだ。遠くから見ていた時と全然違う。
昨日はヤンキーに助けられ、夏バテの看病もしてくれた。これで敦を嫌いになる理由は一つもない。逆の理由だけがある。
「葵さん、無理しないで休んでね」
優しい言葉は、さらに葵の胸をキュンとさせてしまう。
夢に牛乳プリンがでてきた。あろうことか夢では敦に牛乳プリンを食べさせてもらっていた。
「はい、葵さん。あーんして?」
夢だ。全部夢だとわかっているのに、これには全く逆らえない。
牛乳プリンは甘く、舌に溶けていき、敦への想いが自覚するしかない。
我ながらチョロい。かつての推しに本当に恋してしまうなんて。初めての恋だったのに。




