魔王を殺して君が死ぬ。そして勇者は間違える。
魔王との戦い黒雲が渦巻く、山脈の谷間、霧が立ち込める荒野で、勇者一行――リーダーの勇者アレク、婚約者で癒やし手のリリア、剣士ガレン、魔法使いセリナ、斥候のキール――は、魔王ザルガスに立ち向かう。
血と汗にまみれた五人は、息を合わせて魔王の猛攻を凌ぐ。聖剣を握るアレクの青い瞳は、決意と怒りに燃える。
「我が名はザルガス、終焉の王」
魔王の声は低く、疲れを帯びている。黒い翼を広げ、炎の剣を握る姿は威圧的だが、赤い瞳には敵意よりも諦めが漂う。
「この戦いは無意味だ、勇者たち。やめよう。人々の未来のために」
その言葉に、アレクの心がざわめく。魔王が戦いを望まない? 違和感が胸を刺す。かつて、ザルガスは幾つもの村を滅ぼし、罪のない人々の命を奪った魔王だ。その過去を知るアレクは、雑念を振り払う。
「黙れ、魔王! お前の存在が人の脅威である限り、俺たちは戦う!」
「アレク、左から攻める!」
ガレンの叫びが響き、彼の剣が魔王の鎧を切り裂く。
「セリナ、援護を!」
アレクの指示に、セリナの雷撃が黒い翼を焦がす。キールは影から短剣を投げ、魔王の動きを封じる。
「リリア、俺を癒やしてくれ!」
アレクの声に、リリアが微笑み、癒やしの光を放つ。一行の連携は完璧だ。だが、アレクの心の奥で、魔王の消極的な態度が引っかかる。
「なぜ…戦う気がないような…?」
アレクは聖剣を振り上げる。
「終わりだ、ザルガス!」
だが、その瞬間、魔王の瞳が鋭く光る。
「ならば…これが運命だ」
炎の剣が弧を描き、アレクではなくリリアに向かう。
「リリア!」
アレクの叫びが空を切り、遅い。炎の刃がリリアの胸を貫き、彼女は血を吐きながら倒れる。
「リリアに何をする! 」
アレクの視界が赤く染まる。怒りと絶望が彼を突き動かし、聖剣を魔王の心臓に突き立てる。
「死ね、魔王!」
ザルガスは呻き、黒い霧となって崩れ落ちる。
「愚かな…勇者よ…星骸珠に…気をつけろ…悪意ある者に渡れば…何が起こるか…」
その言葉を残し、魔王は消滅。玉座のそばに、黒い光を放つ宝珠が転がる。
アレクは直ぐにリリアに駆け寄り、彼女を抱き上げる。
「リリア、しっかりしろ!」
銀髪が血に濡れ、緑の瞳は薄れゆく。
「アレク…ごめん…私…」
リリアの声は弱々しい。ガレンが歯を食いしばり、セリナが泣き崩れる。キールが呟く。
「回復魔法でも…もう無理だ」
一行は傷の深さを悟り、顔を曇らせる。ガレンが静かに言う。
「アレク…リリアと二人で…最後の時間を」
セリナとキールが頷き、三人は玉座の間から離れる。アレクはリリアの手を握り、涙をこぼす。
「リリア、君は俺の全てだ。婚約の約束…守れなかった…」
リリアは微笑み、震える手でアレクの頬に触れる。
「アレク…愛してる…後悔しないで…」
彼女の唇にアレクは口づけを交わし、彼女の息が止まるのを感じる。
「リリア…行かないで…」
リリアの瞳から光が消え、アレクの嗚咽が響く。しばらくして、仲間たちが戻る。ガレンは肩を落とし、セリナは涙を拭い、キールは黙って床を見つめる。アレクは立ち上がり、魔王の死体を確認。玉座のそばに転がる星骸珠を拾う。冷たい感触に身震いしながら、彼は呟く。
「これが…国王が言っていた宝珠か」
国王の言葉が脳裏に蘇る。
「星骸珠は、何百年も前に生まれた呪いの宝珠だ。起源は誰も知らぬが、どんな願いも必ず叶える力を持つ。だが、その代償は計り知れない。星骸珠には意志が宿り、人の弱みに付け込み、誘惑する。決して願い手の意図通りには叶えず、歪んだ形で実現する。かつて、愛する者を救おうとした王は国を滅ぼし、平和を願った英雄は怪物と化した。魔王がこれを守っている理由はわからぬが、悪意ある者の手に渡れば、何が起こるかわからない。アレク、決して使うな。星骸珠は王都へ持ち帰り、封印せよ」
リリアの亡骸を抱え、一行は魔王の城を後にする。王都までの道は遠く、一行は近くの村でリリアの埋葬を行った。アレクは無言で土をかけ、彼女の笑顔を思い出す。ガレンが肩を叩く。
「アレク…俺たちも辛え。でも、前に進まなきゃ」
セリナが呟く。
「リリアは…私たちの光だった」
キールは黙って空を見上げる。
その夜、村の宿でアレクは眠れぬまま粗末な布団に横たわる。薄暗い部屋の片隅で、窓から差し込む月光が床に青白い影を落とす。リリアの血に染まった銀髪、止まった緑の瞳が脳裏に焼きつき、胸を締め付ける。
彼女の声が耳にこだまするが、同時にザルガスの炎の剣がリリアを貫く瞬間がフラッシュバックする。
「リリア!」
アレクの呻きが部屋に響く。疲れ果てた身体が重い瞼を引き下ろし、アレクは浅い眠りに落ちる。夢の中で、彼はリリアと並んで歩いていた。見渡す限りの草原、風に揺れる花々。リリアの銀髪が陽光に輝き、緑の瞳が笑う。
「「アレク、ほら、こんな花見たことないよ!」」
彼女は一輪の白い花を手に持ち、アレクに差し出す。
「「結婚したら、こんな草原に家を建てようね。子供は何人ほしい?」」
リリアの笑顔は温かく、アレクも笑う。
「「お前らしいな、リリア。子供は…そうだな、二人かな」」
二人は手を繋ぎ、笑い合う。陽光が二人を包み、まるで全てが永遠に続くかのようだった。だが、突然、草原が暗転する。風が止み、空が血のように赤く染まる。リリアの手が冷たくなり、アレクが振り返ると、彼女の胸から血が溢れていた。
「「アレク…ごめん…私…」」
リリアの声は弱々しく、緑の瞳が薄れていく。彼女の身体が崩れ落ち、アレクの腕の中で血に染まる。
「「リリア! いや、行かないで!」」
アレクの叫びが虚しく響き、彼女の唇が最後の言葉を紡ぐ。
「「アレク…愛してる…」」
次の瞬間、リリアの身体は黒い霧に飲み込まれ、消える。アレクの手には血だけが残り、耳元で不気味な囁きが響く。
「「リリアを…救いたいか…?」」
「うああっ!」
アレクは叫び声を上げて目覚める。額に冷や汗が流れ、心臓が激しく鼓動する。薄暗い部屋の中、息を荒げながら視線を上げると、何かが光っている。月光に照らされた懐の中で、星骸珠が不気味に脈打っていた。赤黒い光が、まるで生き物の心臓のように蠢き、アレクの目を見つめるように揺らめく。
「リリアの笑顔を…もう一度見たいか? 願え…彼女をこの手に…」
アレクにだけ聞こえる声が、冷たく、誘うように響く。アレクは歯を食いしばり、珠を握り潰すようにしまう。
「黙れ…俺は王都に届けるだけだ」
だが、リリアの血に染まった姿と、夢の中の笑顔が交錯し、心が軋む。
翌日の昼、森を進む一行。星骸珠が再び光り、囁く。
「リリアは待っている。お前が彼女を救うのを…。願え、アレク、永遠の愛を…」
アレクは足を止め、額に汗を浮かべる。ガイルが不思議な顔で振り返る。
「アレク、どうした?」
アレクは慌てて首を振る。
「…なんでもない」
だが、珠の冷たい感触が手に残る。
翌夜、別の村の宿。星骸珠が光り、囁く。
「お前の罪だ、アレク。リリアを救えなかったのはお前だ。願えば…彼女を戻せる…」
アレクは枕に顔を埋め、誘惑を振り払う。
「リリアは…死んだ。もう…」
だが、涙が止まらない。
数日後の朝、川辺での休息中、星骸珠が囁く。
「リリアの温もりを覚えているか? あの指輪の約束を…。願えば、彼女は今ここにいる…」
アレクは拳を握る。川の水面に映るアレクの顔がリリアに変わる。
「黙れ…黙れ…!」
だが、心の奥でリリアの笑顔がちらつく。その日の夕方、一行は魔物の群れに襲われる。指揮を取るアレクは叫ぶ。
「ガレン、右翼を! セリナ、魔法で援護! リリア、癒やしを…!」
言葉を切った瞬間、沈黙が落ちる。ガレンが剣を振りながら叫ぶ。
「アレク! リリアはもういない! 現実を見ろ!」
セリナが涙声で言う。
「お願い、アレク…」
キールが無言で魔物を仕留める。アレクは謝る。
「…すまない、癖で…」
だが、ガレンの言葉「現実を見ろ」が胸に突き刺さる。
戦闘は終わり、一行は黙って進む。魔王を倒したとしても、魔族が消えるわけではない。歴史を振り返れば、魔王が倒されても時間が経てば新たな魔王が生まれ、人々の脅威となる。ザルガスもまた、数多の魔王の一人だった。かつて村々を滅ぼし、罪のない命を奪った過去を持つが、他の魔王も同じだ。アレクの心に疑問が芽生える。
「俺たちの戦いに…意味はあったのか?」
野宿の夜、その夜は宿が見つからず、一行は森の中で野宿する。焚火の炎が揺れる中、アレクは眠れず、一人考え込む。ザルガスの言葉が頭を離れない。
「この戦いは無意味だ」
もし、あの時戦いをやめ、魔王の提案に応じていれば? 戦意を失っていたザルガスを説得できていれば、これ以上人々の犠牲は出さず、リリアは死なずに済んだのではないか?
アレクの懐から、銀の指輪が地面に落ちる。リリアがくれた婚約の証だ。かつて、リリアは笑いながら言った。
「「指輪は男が渡すもの? ふん、私が先に好きになったんだから、私が渡す!」」
アレクは照れながら断ったが、彼女の強引さに負けた。その夜、アレクはプロポーズした。
「「魔王を討ったら、二人で平和な生活を送ろう」」
リリアの笑顔が、焚火の炎に重なる。アレクの頬を涙が伝う。
「リリア…君がいない世界に、意味なんて…」
その時、星骸珠が懐で脈打つ。アレクにだけ聞こえる声が囁く。
「彼女を失ったのはお前の弱さだ。願え、アレク。リリアをこの手に取り戻せ。永遠の愛を…この世界を犠牲にしても…」
アレクの手が震え、珠に触れる。リリアの笑顔が脳裏に焼きつき、心が軋む。
「リリア…君を…」
星骸珠の誘惑と暴走アレクは焚火の前で立ち上がり、星骸珠を握りしめる。
「リリア…君を…取り戻す…」
彼の声は震え、瞳に狂気が宿る。星骸珠が赤く輝き、囁く。
「願え、アレク。リリアを生き返らせたいか? 全てを犠牲にしてでも…」
アレクが呟く。
「リリアを…生き返らせてくれ…」
その瞬間、ガレンが異変に気づき、テントから飛び出す。
「アレク! 何をしてる!? その宝珠を離せ!」
セリナとキールも駆け寄る。セリナが叫ぶ。
「アレク、だめ! 国王が言ったでしょ、星骸珠は危険なんだから!」
キールが静かに言う。
「アレク、落ち着け。リリアはもう…」
だが、アレクの耳には届かない。星骸珠の囁きが彼の心を支配する。
「彼らは邪魔だ。リリアを救うには、代償が必要だ…」
ガレンがアレクの肩を掴む。
「アレク、渡せ! その珠は危険だ!」
アレクはガレンを振り払い、叫ぶ。
「お前らに俺の気持ちがわかるか!? リリアを失った俺の痛みが!」
ガレンは目を細め、危険を悟る。
「アレク、落ち着け! 星骸珠はお前を狂わせる!」
彼は力づくで珠を奪おうとアレクに飛びかかり、二人は地面で取っ組み合う。セリナが泣きながら叫ぶ。
「やめて! 二人ともやめて!」
キールが一言呟く。
「アレク…」
だが、アレクの耳には何も届かない。ガレンが再び叫ぶ。
「リリアは死んだ! 現実を見ろ、アレク!」
その言葉がアレクの怒りを爆発させる。
「黙れ! お前なんかに…!」
星骸珠が囁く。
「剣を取れ、アレク。ガレンを殺せ。願いを叶えたければ…この世界を犠牲に…」
アレクの目が赤く光り、近くの剣を手に取る。
「ガレン…お前が…邪魔だ!」
一閃。剣がガレンの胸を貫き、彼は血を吐いて倒れる。セリナが絶叫する。
「ガレン! いやぁ! アレク、なんてことを!」
キールは動揺を隠せず、短剣を握る手が震える。星骸珠が囁く。
「まだだ、アレク。残りの二人を殺せ。リリアを生き返らせるには、代償が必要だ…」
アレクは一瞬動揺するが、狂気に駆られキールに剣を向ける。
「キール…すまない…」
キールは抵抗する間もなく斬られ、倒れる。セリナが命乞いをする。
「アレク、お願い! やめて! リリアだってこんなこと望まない!」
だが、アレクの剣は止まらない。セリナも血に染まり、地面に崩れ落ちる。アレクは血まみれの剣を握り、星骸珠を見つめる。
「代償は払った…リリアを生き返らせろ!」
「まだだ、まだ足りない…」
次の瞬間、アレクを耐え難い痛みが襲う。アレクの身体が燃えるように熱くなり、骨が軋む音が響く。星骸珠の力により、魔族の血が彼の体内に無理やり流れ込む。
まるで溶けた鉄が血管を駆け巡るかのように、皮膚の下で何かが蠢き、肉を引き裂く。心臓が不規則に鼓動し、肺が締め付けられるように縮こまる。アレクは地面に倒れ、爪で土を掻きむしる。
「うあああっ…! 何だ…これは…!」
彼の青い瞳が赤く染まり、腕の筋肉が不自然に膨張し、黒い脈が浮かび上がる。人間の身体が魔族の血を拒絶し、骨が折れるような激痛が全身を貫く。まるで内側から別の存在が這い出そうとしているかのようだ。額から血のような汗が流れ、喉から吐血が溢れる。
「リリア…! こんな…痛みで…!」
星骸珠が冷たく囁く。
「殺せ、もっと殺せ、アレク。人間を殺せ。さすれば、お前の望むものが手に入る…」
アレクは痛みに悶えながら、リリアの笑顔を思い出す。
「「アレク、愛してるよ!」」
彼女の声が、痛みの中で遠く響く。だが、星骸珠の囁きがそれを掻き消す。
「人間を殺せ。リリアを救うには、それが必要だ…」
アレクの絶叫が夜の森を切り裂く。時空が歪むほどの魔力が暴発し、周辺の木々が根ごと吹き飛び、地面がひび割れる。魔力の嵐に飲み込まれ、全てが跡形もなく消える。アレクの意識は痛みとリリアの記憶の間で揺れ動く。
「リリア…君を…君を…!」
彼の身体は変形し、黒い鱗が皮膚を覆い、背中から翼のような影が蠢く。拒絶反応は止まらず、骨が砕け、肉が裂ける音が彼の耳にこだまする。
―――――数時間後
痛みが収まった時、アレクはもはや人間ではなかった。赤い瞳、黒い鱗に覆われた腕、背中に生えた不気味な翼――彼は魔族と化していた。周囲は更地となり、森は消え、仲間だったものの死体すら見つからない。星骸珠が握られた手に冷たく光る。
「さあ、アレク…人間を滅ぼせ…リリアを…取り戻すために…」
アレクは星骸珠の囁きに従い、魔族の姿で村々を襲い始めた。最初の村は、夜の静寂を破る炎と叫び声で包まれた。アレクの剣は無慈悲に振り下ろされ、逃げ惑う村人――老人、女、子どもの区別なく――を切り裂く。母にしがみつく幼子が泣き叫ぶ中、アレクの赤い瞳は無感情だ。
「リリアを…救う…」
剣が幼子の首を切り落とし、母の絶叫が響く。家々は炎に包まれ、血が地面を染める。星骸珠が囁く。
「もっとだ、アレク。全ての人間を滅ぼせ…」
アレクは答える。
「リリアのために…」
次の村、次の町。どこへ行っても同じだった。アレクの魔力が村を焼き尽くし、生存者は一人も残らない。女子供の命乞いも、彼の耳には届かない。
ある村では、少女が「助けて」と叫びながら逃げるが、アレクの黒い翼が影を落とし、彼女の小さな身体は一瞬で血の塊と化す。星骸珠が囁く。
「良いぞ、アレク。人間の血で、愛したものの道が開ける…」
アレクの心はもはや人間のものではなく、ただ「人間を滅ぼす」「愛した人を救う」という目的だけが朦朧と残る。記憶は曖昧になり、リリアの名前すら忘れ、顔もぼやけるが、彼女の笑顔だけは焼きついている。アレクの無慈悲な破壊に、人類絶滅を望む魔族たちが集まり始めた。
「我らの王よ!」と彼を称える声が響く。
魔族の群れは増え、アレクはいつしか「魔王」と呼ばれるようになった。彼の赤い瞳は感情を失い、ただ星骸珠の囁きに従う。
「全ての人間を…リリアを…」
彼の記憶は薄れ、かつての仲間や自分自身の名前すら曖昧になる。だが、星骸珠の声だけは鮮明だ。
「続けろ、アレク。世界を滅ぼせ…」
アレクの存在は人間の国々に恐怖を広げた。
とある国の王は、魔王アレクの脅威を恐れ、選ばれた勇者一行に討伐を命じる。
「魔王を倒せ。人類の未来がかかっている」
「必ず魔王を討つ」とリーダーは誓うが、その声には微かな震えが混じる。
ある日、魔族の一人がアレクに報告する。
「魔王よ、勇者一行があなたの命を狙っている。人間どもの最後の希望だそうだ」
アレクの赤い瞳が虚ろに揺れる。
「勇者…?」
人間の心をほぼ失った彼の頭に、かすかな記憶がよぎる。銀髪の女性、笑顔、指輪…。だが、すぐに星骸珠の囁きがそれを掻き消す。
「人間だ、アレク。全て殺せ。愛したものを救う為に…」
アレクは無感情に頷く。「人間を…滅ぼす......を…救う…」
それから数週間が過ぎ、アレクは山の奥深くにそびえる魔王城の玉座に座していた。黒い石でできた広間は冷たく、窓から差し込む月光が彼の鱗を不気味に照らす。
星骸珠は玉座の脇、黒い台座の上で脈打っている。その光はいつもより異様に揺らめき、まるで生き物の心臓のように不規則に収縮する。アレクの赤い瞳がそれを捉えると、突然、星骸珠の声が頭に響く。
「勇者が…近づいている…」
その声はいつもと異なる。低く、粘つくような響きに、嘲笑のような歪んだ笑い声が混じる。まるで星骸珠自体が愉悦に震えているかのようだ。
「勇者を…殺せ、アレク…。彼らの血で…愛したものへの道は完成する…」
声は途切れ、広間に不気味な静寂が落ちる。星骸珠の表面が一瞬、血のような赤に染まり、まるで笑う口のように裂けた影が浮かぶ。アレクの背筋に、かつて人間だった頃の感覚――恐怖に似た寒気が走る。
「勇者…」
アレクは呟き、玉座から立ち上がる。黒い翼が広がり、広間の空気を震わせる。星骸珠の不気味な笑いが耳に残るが、彼の心はすでに動揺を押し殺している。
「人間を…殺す......を…」
彼は星骸珠を握り、魔王城の門を飛び出した。月光の下、黒い翼が夜空を切り裂き、山を越える影となる。山脈の谷間、霧が立ち込める荒野で、アレクは勇者一行と相対した。五人の若者が立ち並び、剣、魔法、癒やしの光が準備される。
リーダーの若者は聖剣を構え、青い瞳がアレクを睨む。その瞳に、アレクの胸に懐かしい違和感が広がる。
「…何だ…?」
癒やし手の女性が一歩進み出し、銀髪が風に揺れる。
「魔王! お前の悪行をここで止める!」
その声、柔らかくも力強い響きに、アレクの心が軋む。どこかで聞いた声。どこかで見た笑顔。星骸珠が囁く。
「殺せ、アレク。彼らは人間だ。願いを叶える為の障害だ…」
だが、アレクの足が止まる。リーダーの青い瞳が、かつて鏡で見た自分の姿と重なる。癒やし手の銀髪が、リリアの笑顔を呼び起こす。
「…お前は…?」
記憶の断片が洪水のように蘇る。魔王ザルガスとの戦い、リリアの死、星骸珠の誘惑、仲間たちの血。そして、かつての自分――聖剣を握り、正義を信じた若者。
アレクの赤い瞳が揺れ、鱗に覆われた手が震える。
(お前は…俺だ…)
アレクの視界は過去と現在が交錯する。目の前の勇者一行は、かつての自分たち――アレク、リリア、ガレン、セリナ、キール――そのものだった。星骸珠が嘲笑う。
「アレク…。殺せ。…全てを…」
アレクの心が裂ける。
「…俺は…何を…」
自我の回復と罪悪感がアレクの胸に、鋭い痛みが走った。それは魔族化の肉体的な苦痛とは異なる、心を抉るような感覚だった。かつての自分――聖剣を握り、正義を信じた若者――が目の前に立つ。
リーダーの青い瞳は、かつてのアレク自身の決意を映し、癒やし手の銀髪はリリアの温もりを呼び起こす。ガレンの剛毅な剣さばき、セリナの雷撃、キールの寡黙な影――全てが、失われた過去を突きつける。
(俺は…何をした…?)
アレクの声が震え、魔族の鱗に覆われた身体が一瞬、縮こまる。人間だった頃の自我が、凍りついていた心の奥から這い上がってくる。リリアを救うため、星骸珠の囁きに従い、仲間を殺し、村々を焼き、罪なき命を奪った。母にしがみつく幼子の首を切り、少女の命乞いを無視し、血と炎で世界を染めた。
(俺は…怪物だ…!)
罪悪感が心を締め付け、息ができないほどの絶望が彼を打ちのめす。仲間との記憶でアレクの視界が揺らぎ、過去の記憶が押し寄せる。
ガレンとの訓練。剣術の訓練場で、ガレンが笑いながらアレクの剣を弾く。
「「お前、聖剣持つならもっと鍛えろよ! リリアにカッコ悪いとこ見せんな!」」
汗と笑顔の中で、ガレンはいつもアレクの背中を押した。
「「お前なら魔王を倒せる。俺は信じてるぜ」」
その信頼を、アレクは剣で裏切った。ガレンの胸を貫いた感触、血を吐く彼の驚愕の目が蘇り、アレクの喉から嗚咽が漏れる。
(ガレン…俺は…)
セリナの笑い声。旅の途中の夜、焚火を囲んでセリナが冗談を飛ばす。
「アレク、リリアにプロポーズしたってほんと? うわ、顔赤い! キール、見た!?」
彼女の雷撃は戦場でいつも一行を救い、笑顔は暗い旅路を照らした。だが、アレクは彼女の命乞いを無視し、剣を振り下ろした。セリナの絶叫、「「リリアだってこんなこと望まない!」」が耳にこだまする。
(セリナ…お前まで…)
キールの寡黙な支え。キールはいつも黙って一行を見守り、危険を事前に察知した。
「「アレク……右に魔物」」
短い言葉で、しかし確実に仲間を救った。そのキールに、アレクは剣を向けた。抵抗せず倒れた彼の目には、失望があった。
(キール…俺を…許してくれ…)
回想の中で、アレクは仲間たちの笑顔と血に染まった姿が交錯する。リリアの笑顔、ガレンの信頼、セリナの明るさ、キールの静かな支え――全てを自らの手で壊した。罪悪感が胸を締め付け、アレクは心の中で叫ぶ。
(俺は…何てことを…!)
目の前の勇者一行が、かつての仲間そのものである現実が、彼の心を粉々に砕く。国王の言葉と真実の気付きで回想が途切れ、アレクの意識に別の声が響く。国王の言葉が、遠い記憶から蘇る。
「星骸珠は―――――どんな願いも必ず叶える―――――その代償は計り知れない。―――――決して願い手の意図通りには叶えず―――――歪んだ形で実現する―――――」
アレクの瞳が大きく見開かれる。
「歪んだ形で…」
リリアを救うため、仲間を殺し、世界を焼き、魔族と化した。だが、リリアはもうそこにいた。星骸珠の囁きは、ただ願いを叶えるためのものではなく、彼を破滅へと導く罠だった。時空の歪み、仲間たちの死、魔王としての自分――全てが、星骸珠の仕掛けたループの一部だった。
(俺は…騙されていた…)
アレクの声は震え、聖剣を握る過去の自分を凝視する。
(お前は…俺だ。俺が…繰り返した…この呪い…)
その瞬間、星骸珠が不気味に脈打つ。握られた手の内で、宝珠の表面が血のように赤く染まり、まるで生き物のように蠢く。低く、粘つくような声がアレクの頭蓋に響く。
「ふふふ…気づいたか、アレク。実に…美味だったぞ、貴様の絶望…」
声は嘲笑に満ち、まるで闇そのものが笑うかのようだ。星骸珠の光が一瞬、裂けた口のように歪み、愉悦に震える。
「貴様の罪、貴様の痛み、貴様の破滅――全てが私の糧だ。さあ、続けろ。リリアを殺せ。ループを完成させろ…!」
アレクの心臓が締め付けられ、絶望が全身を支配する。星骸珠は彼の苦しみを味わい、貪るように笑い続ける。聖剣を構える過去の自分を見つめる。
青い瞳は、かつての純粋な決意そのものだ。リリアの銀髪が風に揺れ、ガレンの剣、セリナの魔法、キールの影――全てが、過去の自分たちの姿と重なる。アレクの唇が震え、声が漏れる。
「我が名はザルガス、終焉の王......」
言葉は自然に溢れ、かつて魔王ザルガスが口にしたものと同じだった。
「この戦いは…無意味だ勇者たち、やめよう。人々の未来の為に…」
その瞬間、全てが繋がる。ザルガスもまた、星骸珠の呪いに囚われたアレクだった。愛する者を救おうとし、仲間を、世界を、そして自分自身を滅ぼした。ループの中で、勇者は魔王となり、魔王は再び勇者と対峙する。アレクは自分がザルガスだったことを悟る。
(俺は…魔王だった…)
「黙れ、魔王! お前の存在が人の脅威である限り、俺たちは戦う!」
「アレク、左から攻める!」
「セリナ、援護を!」
「リリア、俺を癒やしてくれ!」
ガレンの剣がアレクの鱗を切り裂き、セリナの雷撃が黒い翼を焦がす。キールの短剣が影から飛ぶが、アレクの魔力がそれを弾く。リリアの癒やしの光が一行を包む。
過去のアレクの青い瞳は決意に燃えるが、その瞳の奥には微かな迷いが揺れている。
アレクは動かない。赤い瞳で過去の自分を見つめ、心の中で呟く。
(これでいい…このまま終われば…)
彼は悟っていた。この戦いで過去の自分に討たれれば、ループは断ち切られる。過去のアレクはリリアを失わず、仲間を殺さず、魔王になることもない。
(リリア…お前を救うために…俺は消えるよ…)
アレクは剣を下ろし、黒い翼を畳み、聖剣の刃を受け入れる覚悟を決める。だが、その瞬間、星骸珠が激しく脈打つ。握られた手の内で、宝珠の赤黒い光が不規則に点滅し、まるで怒りのように蠢く。
「貴様…何を企む…!」
低く、粘つく声がアレクの頭蓋を貫く。アレクの身体が意思に反して動き出し、黒い鱗が輝き、翼が広がる。
「殺せ、リリアを! 過去を滅ぼせ! ループを完成させろ!」
星骸珠の力がアレクの腕を操り、剣がリリアに向かって振り上げられる。過去のアレクが叫ぶ。
「終わりだ、ザルガス!」
聖剣がアレクの胸を狙う瞬間、アレクの剣はリリアの銀髪を切り裂こうとする。
「いや…! リリアを…!」
アレクの心が叫ぶ。星骸珠の操りに抗い、身体を硬直させる。
ループを断ち切る――その決意が、魔族の血を拒絶するように全身を震わせる。
(俺は…もう繰り返さない…!)
彼の赤い瞳に、かつての青い光が一瞬よみがえる。星骸珠の声が驚愕に震える。
「何…!? 貴様、逆らうのか!?」
宝珠の光が乱れ、血のような赤が不安定に揺らぐ。まるで生き物が怯えるように、脈動が途切れ、声が途中で裂ける。
「貴様の絶望は私のものだ! やめるな…!」
だが、アレクの意志は揺らがない。
(リリアを…守る…!)
彼の動きが一瞬止まる。とどめと最後の言葉その隙を、過去のアレクが見逃さない。聖剣が閃き、アレクの胸を貫く。
「終わりだ!」
血が鱗を伝い、アレクの身体が崩れ落ちる。黒い霧が彼を包み、消滅が始まる。過去のアレクが剣を握ったまま、息を荒げて問う。
「なぜ…最後、わざと切られた? なぜ抵抗しなかった!?」。
その青い瞳には、違和感と混乱が混じる。魔王の行動が、勇者としての自分とあまりにも異なるからだ。
アレクは地面に膝をつき、薄れゆく視界で過去の自分を見つめる。赤い瞳が柔らかくなり、かつての青い光が微かに宿る。彼は無言で微笑む。
「リリアを…幸せにしてやってくれ…」
リリアが過去のアレクの傍に駆け寄り、癒やしの光を放ちながら叫ぶ。
「アレク、大丈夫!?」
その瞬間、リリアの緑の瞳がアレクと一瞬交錯する。アレクの微かに青く光る瞳に、彼女は何かを感じ取る――それは、愛と悲しみに満ちた、かつてのアレクと同じ温かさだ。
リリアの心がざわめき、思わず呟く。「アレク…?」。彼女の声は疑問と動揺に揺れるが、アレクは答えず、ただ穏やかに微笑む。
アレクの身体は黒い霧に溶け、星骸珠が地面に転がる。霧が消え、アレクの姿は完全に消滅した。星骸珠の光は一瞬、弱々しく瞬き、沈黙する。
過去のアレクの心には魔王の最後の言葉と、消滅した姿が焼きつく。
「「幸せにしてやってくれ…」」
その意味を、過去のアレクはまだ理解できない。
霧が薄れ、山脈に冷たい風が吹き抜ける中、過去のアレクとリリアは肩を寄せ合い、消えた魔王の微笑みを胸に刻む。星骸珠は地面に転がり、弱々しい光を放ちながら沈黙するが、その奥底で新たな囁きが胎動する――終わったはずの呪いが、静かに次のものを待ち続ける。