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双火の姫(帝都潜入編)  作者: 蘭火
第1章
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父と娘 ③

 ― ロンディウム市街 中央区 紅凰館こうおうかん ―


 二人はロンディウム市街のとある屋敷の裏口に姿を現した。帝国でも有数の貿易商が住まう屋敷は壮麗そうれいを極め、敷地は市街地の広大な一角を占めている。


 今回、アイシャとヴァンデールが任務を行うに当たり、拠点としているのがこの紅凰館であっ

た。


 ヴァンデールが裏口の扉を開けて中に入ると、そこは巨大なホールだった。辺り一面が豪華な装飾で施されており、二階へと続く階段が中央に存在している。彼らは階段を上って、突き当りの一室に入って行った。


 部屋に入るなり、そこで何か書き物をしていた恰幅かっぷくの良い紳士が二人を向いて立ち上がった。


「ヴァンデール殿! それに、そちらはアイシャ殿。無事に戻られて何よりです。昨晩はアイシャ殿が戻られませんでしたので、私どもは大変心配しておりました。」


 良く通る声で話しながら、二人の目の前に近付く。彼の背丈はアイシャとほぼ同じくらいだ。豊かな口ひげを蓄え、人付きの良い表情を浮かべている。


「セルバン殿。無事、娘は見付かった。暫く部屋で休息を取らせる。」


「無論ですとも。アイシャ殿にお怪我は無かったでしょうか?」


「右手に軽い怪我をした。手当を頼む。」


「お任せください。ミネアを呼びましょう。」


 セルバンが机上の呼び鈴を鳴らすと、部屋の右側の扉が開いて使用人の女性が現れた。


「お呼びでしょうか。」


「アイシャ殿の部屋に行って彼女の手当をしてくれ。お怪我をされている。」


「かしこまりました。」


 応じるや否や、ミネアは扉の向こうに戻って行った。


 ヴァンデールはアイシャに向き直って気遣きづかうように言う。


「お前は先に部屋に戻っていろ。俺は彼と話がある。」


「分かったわ。」


「午前中はゆっくり休んでおけ。昼時になったらまた会おう。」


「うん。」


 二人を後にして、アイシャは部屋の外に出る。彼女の部屋は真っ直ぐ歩いて左側、先ほど上がって来た階段のすぐ手前にあった。彼女が歩く廊下の左右には、鏡や台座など様々な調度品が置かれていたが、その多くに埃が積もっている。


 火の国への退避を間近に控えたこの館の管理が、十分に行き届いていないことを物語っていた。



 部屋に入り、寝台に腰掛ける。いくらもしない内に、扉をノックする音が聞こえた。


「いいわよ。」


「失礼致します。」


 小さなかごを持ってミネアが入って来た。寝台の傍にある丸椅子を移動させ、アイシャの正面に座った。ミネアはエプロンドレスに身を包み、茶色の髪を頭の後ろで結った小柄な女性で、年の頃はアイシャよりやや上であった。


 鳶色とびいろの大きな目をうるませてアイシャを見つめる。


「アイシャ様、ご無事で良かったです。昨夜、ヴァンデール様がお一人で戻られた時は、アイシャ様に何かあったのではと大変心配しておりました。」


「ごめんなさい、心配をかけて。でも、大丈夫よ。」


 アイシャが紅凰館に到着したのは二日前、ロンディウムで行う任務のためにセルバンとは何度か話していたが、ミネアとは挨拶を交わす程度であった。それでも心から自分のことを心配していたと知り、アイシャは少し申し訳なさを感じた。


「お怪我された所をお見せください。」


 アイシャは右手をミネアに差し出す。出血は既に収まっていたが、ガラス片で切り裂かれた傷が痛々しく残っていた。ミネアが籠の中から小瓶と布巾を取り出してアイシャに見せる。


「薬を塗ります。少しみますがご容赦ください。」


「ええ。」


 ミネアは素早く小瓶の蓋を開けて、中の液体を布巾に染み込ませる。アイシャの右手を取って、傷口に布巾を軽く当てた。鋭い痛みが走り、アイシャは顔を歪ませる。


「痛みますでしょうか。」


「……少しね。でもこれくらい平気よ。」


「そのままお待ちください。すぐに包帯を巻きます。」


 籠から包帯とはさみを取り出し、無駄のない動きでアイシャの右手に包帯を巻きつけた。程良い長さで包帯を切り、彼女の右手に括り付ける。


「今日一日は包帯を外さないでください。この薬は今回の任務のため、セルバン様が特別に取り寄せたものです。明日には傷口が塞がっているでしょう。」


「凄い効き目ね。助かるわ。」


「はい。セルバン様もお役に立てたことを喜ばれると思います。」


 ミネアは道具一式を籠に仕舞った後、膝に両手を付き、真剣な表情でアイシャに向き直る。


「……あの、アイシャ様。」


「どうしたの? そんなにかしこまって。」


「はい……、一言だけお伝えさせて下さい。アイシャ様が我々火の国の者の為にご尽力頂いていることは、重々承知しております。ですが、どうかご無理はなさらないでください。アイシャ様は我々と違い、火の国にとって掛け替えのない方なのですから。」


 率直に心配の言葉を掛けられアイシャは驚く。若いとはいえ『火の魔女』直属の戦交官であるアイシャが、護衛の対象に心配される事はあってはならなかった。心の動揺を見せないようにしながら慎重に言葉を選ぶ。


「ええ。無茶はしないわ。それにいざという時は、自分の身を守ることくらいできるから安心して。」


 ミネアは何か言いたげな表情でアイシャを暫く見つめていたが、目線を下げた。


「……そうですね。差し出がましいことを申しました。」


「傷を看てくれてありがとう。少し寝かせてもらうわ。昨夜はあまり眠れてなくて。」


 アイシャは気丈に振る舞うが、その表情には疲労がにじみ出ている。


「承知致しました。ご昼食の用意が整いましたら、また参ります。」


「分かったわ。」


「では、失礼致します。」


 ミネアは席を立ち、丸椅子を元の位置に戻した。部屋の窓際に近寄ってカーテンを閉めた後、扉の前で会釈をして部屋を出て行った。


「はあ。」


 アイシャは靴を脱いで寝台に倒れ込む。ようやく拠点に戻った安堵あんどから、身体の力が抜けてしまっていた。寝台の上で横になり、いくばくもなく眠りに落ちて行った。

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