父と娘 ①
― ロンディウム市街 中央区 ―
中央区に戻ったアイシャは、昨夜離れ離れとなった協力者を探していた。不測の事態が起こった場合を想定して、事前に落ち合う場所は決めている。フードを深く被り、目立たぬように路地裏や大通りの端を歩きながら目的地であるマーカム広場に向かっていた。
アイシャは街中を歩きながら、ロンディウムという街の光と闇を注意深く観察していた。雷の魔法を活用した機械によって目覚ましい発展を遂げた街は、道路や橋梁といった交通基盤が構築され、高層階の建物が数多く立ち並び、百万人という膨大な人口を抱える都市を形成している。
しかしその反面、増え続ける人口に街の整備が追い付いていなかった。
多くの馬車が行き交う大通りでは、煙突から降り注ぐ煤と道端の汚泥が混ざり合って黒く変色し、踏んで転倒しないよう神経を立てなければならない。生活用水がそのまま垂れ流される川沿いに近付くと悪臭に思わず顔をしかめることになった。
整備が追い付かない街を下支えしている者の多くは移民の少年たちだった。道沿いの建物を一軒ずつ回って廃品を荷車に集める回収人。小柄な体で細長い煙突内を掃除する清掃人。果ては河川に身体を浸して金目の物を探す溝浚いなど、少年たちは日銭を稼ぐためにイズナディア人が避ける仕事を率先して行っていた。
彼らの多くは瘦せ細り、肌が黒ずんでいる。
アイシャはその様子を見て、トーヤが彼らよりもましな仕事をしているのだと思った。暗く狭い坑道での仕事も危険と隣り合わせではあるが、トーヤの健康を損なう程ではないことは確かであった。
(もしエフレインが帝国領になったら、エフレイン人は少年たちの様な扱いを受けることになるのね。)
火の国の商人を不当に捕える帝国に対して火の魔女が採った選択は、武力行使ではなく『戦交官』の派遣による事態の解決だ。戦交官とは、エフレインの位置する西大陸にて十年前に発生した戦争を契機として、火の魔女が新設を提言した武官である。
従来の武官の運用は、事が起こるまで配備しておき、他国からの攻撃を受けたら反撃をするという消極的なものであった。戦争を通じ、より積極的な武官の運用が必要と判断した火の魔女は、有事の前に事態を検知し収拾を付ける武官を配備した。
戦交官は国から特命を帯びて、他国で任務を遂行する。主には他国への潜入、情報収集、要人の護衛を行い、必要に応じて戦闘も行う。
火の魔女は彼我の実力差を冷静に見極め、戦交官の派遣を決定した。仮に帝国に対して王国軍を派遣した場合、帝国に反撃する口実を与えてしまうことになる。
両軍が相対すれば、多数の魔女と軍艦を擁する帝国が王国を圧倒し、最終的には帝国の占領下に置かれる可能性が高い。そうなれば、火の魔女に仕えるコンラートのような少年も、過酷な労働を課されることになるのだ。
蘭華荘に戻るといつも笑顔で紅茶を淹れてくれるコンラートを思い出して、腹に沸々《ふつふつ》としたものを感じた。
(帝国領になんて、絶対にさせないわ。)
帝国との戦端を開かないようにするとは言っても、手をこまねいて何もしない訳にもいかない。それこそ、事態を解決する手段を持たないと判断されてしまう。
戦交官として派遣されたアイシャには、火の国の商人を退避させるために、武力行使とは見做されない範疇で警察隊に対抗するという、綱渡りのような立ち回りが求められていた。
街の現状を確認し、内に宿る決意を強くしたアイシャは、やがて目的地であるマーカム広場に辿り着いていた。
マーカム広場は、多くの露店が立ち並んだ活気のある場所だった。大きな広場ではあるが、数々の露店がひしめき合い、商品を買う者や見物する者で埋め尽くされている。目的地に向かうまで、幾度も人を避け、または押しやって先に進まねばならなかった。
(人混みに紛れる場所で落ち合うことにしたけど、これ程ごった返してるなんて。)
アイシャは胸の内で不満を訴えた。至る所に人だかりができており、行くべき方向も覚束なくなる。更に取引をする者、客集めをする者が口々に話す騒々しさで耳がおかしくなりそうだ。
「三つで十五ロンズなんて高すぎる! せめて十二に負けてくれ。」
「馬鹿を言うな! この値段で無理なら他所へ行け。」
「さあさあ、寄ってらっしゃい。今朝上がったばかりの新鮮なハタ魚だよ!」
(ハタ魚? どんな魚なのか気になるわね。)
魚が好物のアイシャは思わず気を惹かれたが、今は協力者と合流することが第一だ。
(全く。一体どこに居るの?)
アイシャは焦りを募らせていた。周囲に居る人は殆どが商人か品物を買いに来た者達だが、先程から数名の黒い隊服を着た警察隊を見かけている。気付かれぬよう歩む方向を変えているが、それでも露店が立ち並ぶ広場において、彼らの姿がやけに目に付くと感じている。
昨日の一件で、彼らの警戒が相当高まっていると判断した。
「号外! 号外だ。聞いてびっくり、警察隊を襲撃する者が現れたぞ!」
「本当か? 命知らずなやつが現れたものだな。」
新聞を片手に、高台に上って大声で話す男の周りには人だかりができていた。
商業が盛んな帝国では、複数社が新聞を発行している。情報の鮮度がものを言う商業において、商人が情報に敏感になるのは必然であった。近年では、商売に関する情報だけでなく、民衆の注意を引くような帝国内の事件についても新聞に載るようになった。
中には流言飛語も含まれているが、情報に飢えた民衆にとって重要なのは真偽よりも新事であった。
(昨夜のことがもう記事になっているの? 帝国で情報が伝わるのがこんなに早いとは思わなかった。)
高台に上った男の話を聞きたくなったアイシャは、人だかりの方に向かう。周囲の男たちの殆どはアイシャより背が高く、決して小柄ではないアイシャからしても前方を見渡せないほどであった。
「帝国の機密情報を漏らした疑いのある火の国の商人の捜査中に、警察隊が襲撃されたんだ! 隊員の一人は大火傷を負った。襲撃犯は二名で、一人は火の魔法を使ったそうだぞ!」
高台の男は群衆に聞こえるよう、顔を真っ赤にして叫んでいる。
「火の魔法を使っただって? 一体何が狙いなんだ?」
「最近は帝国内のエフレイン人の取り締まりが厳しくなったからな。大方、追い詰められた連中が、警察隊を襲ったんだろう。」
アイシャの前にいる男たちが話し始めた。疑問だらけといった表情の男に対して、物知り顔の男が答えている。
「火の魔法を使ったのは若い女だそうだ! 赤い目が特徴だという情報を掴んでいる。他にも襲撃犯に関する情報を警察隊に渡せば、報酬が出るぞ! 詳しく知りたければ、帝国日刊新聞社の新聞を読んでくれ。一部で二ロンズだ!」
『報酬』という言葉を聞いた途端に、周囲の男たちは目の色を変えて高台の男に群がり始める。アイシャは慌ててその場を立ち去ろうとしたが、後ろから迫って来た男に押されて、前にいた物知り顔の男にぶつかってしまった。
「あっ、ごめんなさい。」
「いや、そっちこそ大丈夫かい? あれ、君は……?」
物知り顔の男と目が合ってしまう。男の表情が疑心から確信に変わるのは一瞬だった。
(しまった!)
アイシャは心臓が飛び上がる思いがした。踵を返して男から離れようとするが、男に肩を掴まれてしまう。
「君……。もう一度顔を見せてくれないか?」
アイシャは男の手を振り払い、素早く人混みに紛れ込んだ。
「おい、待ちなさい! 警察隊! 襲撃犯はここに居るぞ!」
男は血相を変えて叫ぶ。男の変わり様に、アイシャは恐怖を感じた。男の声は広場の騒々しさにかき消されて遠くまでは届かなかったが、周囲に居た人々は驚いた表情で振り返る。
(まずい。ひとまず広場から出ないと。)
華奢な身体で人混みを次々とすり抜けながら、アイシャは男から遠ざかる。男は何度も喚き散らしながらアイシャを追って来ているが、人混みに阻まれて思うように進めない。しかし、男の声は確実に人々に伝播していた。
「おい、今の聞いたか?」
「ああ、襲撃犯がここに居るって?」
情報は漣のように広がり、群衆が口々に話し出した。群衆の異様さに気付いた周囲の警察隊が、一段と警戒を強める。数名がアイシャの方に近づいて来た。アイシャは益々焦りを募らせる。
(どうしよう。このままだと逃げきれなくなる。)
もう打つ手が無いと思っていたその時、目の前にどこからともなく大柄の男が現れた。アイシャと同様に、全身を漆黒のローブで覆い顔をフードで隠している。驚いたアイシャを余所に、男は彼女の左腕を掴んで力強く引っ張った。
アイシャはつんのめりそうになりながらも体勢を立て直す。
「こっちだ。付いて来い。」
アイシャの方を見ずに、男は低い声で呟く。聞き覚えのある声に、アイシャは安堵を覚えた。男に対して不満を漏らす。
「父さん、一体どこにいたの?」
「話は後だ。今はこの場を切り抜けるぞ。」
男は一切立ち止まることなく、真っ直ぐに歩き続けた。男の前の人だかりは、見えない壁に押しのけられるように道を空け始めた。その様子が周囲の警察隊の注意を引いたようだ。一人の隊員が強く呼び止める。
「そこの二人、止まれ!」
男は隊員の制止を無視して、アイシャの方を肩越しに振り返る。
「仕方ない。今から転移するぞ。しっかり掴まれ。」
「うん。」
アイシャは小さく頷く。次の瞬間、左腕が千切れそうな勢いで引っ張られた。
「おい! 止まれと言っただろう。」
隊員が男の方に掴みかかろうとしたが、その手は虚空を掴んでいた。
「何だと。どこに行った!?」
隊員は素早く周囲を見回すが、何も見当たらない。二人の姿は一瞬にして消え去っていた。




