「火の魔女」の戦交官 ③
― ロンディウム市街 東地区 ―
歩き続けること暫く、アイシャはロンディウムの東地区にいた。東地区は、中央区のように高階層の庁舎が軒を連ねているのではなく、低階層の家屋が立ち並ぶ居住区になっている。
中央区にある拠点に早く戻りたかったが、周囲に人影もない中一人で街を歩いていれば、再度警察隊に出くわす可能性が高い。朝になり街で住民が活動を始めるまでは、手近な建物に身を潜めて身体を休ませておきたかった。
辺りはしんと静まっており、自らの鼓動さえも聞こえそうな程だ。周囲を窺いながら物音を立てぬよう慎重に歩を進め、裏路地に程近い二階建ての家屋に近寄った。扉を軽く押し、鍵が掛かっていないことを確かめる。
入口の扉をゆっくりと開き、隙間から内側に人がいないことを見て、素早く中に入った。一階は台所と居間であることを見て取る。耳を澄ませると、二階から微かに人の寝息が聞こえてきた。
アイシャは周囲を確かめて、裏口の扉付近の壁に身を寄せた。裏口は二階へと続く階段のちょうど裏側にある。二階から人が降りて来ても、相手に気づかれる前にこちらが足音に気づいて裏口から抜けられる。
やっと一息つける場所を見つけたアイシャは、壁に背中を付けて座り込んだ。そして左手を胸の高さに挙げ、掌に小さな火の玉を出現させた。火のゆらぎを見つめていると、次第に緊張が解きほぐされて行く。
アイシャが心を落ち着かせるために、いつも行っていることだった。
(今は焦って行動しても不利になるだけ。朝になるまで、ここで休まないと。)
自分に言い聞かせるように小さく呟く。火は温かな沈黙でもってそれに答えた。
暫く見つめ続けた後、急激な眠気を感じたアイシャは、火を消してそのまま眠り込んでしまった。
眠り始めてから数刻が経ち、いつしか辺りは白み始めていた。アイシャのいる家屋にはまだ日の光は届いていなかったが、わずかに明るさを増す部屋の様子を感じて目を覚ます。
すると目の前に自分の顔を見つめている少年の顔があった。
「お姉さん、誰?」
アイシャは驚いて目を見開き、暫く言葉が出てこなかった。普段の彼女であれば階段を降りて来る物音を聞いてすぐに目を覚ましていただろう。しかし、昨夜の件で疲労していたため、気付かずに眠り続けていた。
「ごめんなさい。勝手に上がり込んでしまって。別に危害を加えるつもりはないの。すぐに出て行くわ。」
床に右手を付き急いで立ち上がろうとするが、掌に激痛が走って思わず呻いてしまう。警察隊との戦いで負った怪我は、まだ癒えていなかった。
「もしかして、怪我してるの?」
アイシャの右手の傷を見て少年が問う。小瓶の破片で怪我をした右手には乾いた血が付いたままだった。
「そこで少し待ってて。水を持ってくるから。」
そう言って少年は台所に行き、水を汲んだ桶と布巾を手に戻って来た。布巾を湿らせ、素早い手付きで彼女の手を拭いて行く。
アイシャは、自分を警戒する様子を見せない少年に驚きを感じつつも、相手に疑念を抱かせないようこの場に留まるべきと判断した。
(ここで無理に出て行こうとしても怪しまれるだけね。まずは相手の様子を見ることにするか。)
少年は十二歳くらいの見た目であった。ぼさぼさの黒い髪に、素直そうな黒い目、あどけなさの残る丸い顔。まだ声変わりもしていない。そんな幼さの残る少年だが、作業着のような服を着ていて、服には煤で汚れたような跡が付いていた。
一般的なイズナディア人は金髪と青い目を特徴とする。また、帝国において煤に塗れるような仕事は移民が肩代わりするようになって久しい。アイシャは少年の様子を見て、彼が帝国での仕事を求めてやって来た移民であると推測した。
少年に気を取られていたアイシャは、刺すような痛みを感じて思わずびくりとする。傷口に冷えた水が滲みた痛みだった。
「あっ、ごめん。痛かった?」
「いいえ、大丈夫よ。ありがとう。」
少年を見上げながら礼を言う。
「勝手に家に上がり込んでいたのに、何故良くしてくれるの?」
少年が不思議そうな顔をして言う。
「だって、お姉さんもイズナディア人じゃないでしょ? 黒髪に赤い目だし。僕たちのような外の国から来た人は、この国では立場が弱いんだ。だから、困ったときはお互いに助け合わなきゃって思ってるんだよ。」
既に二人のいる家屋にも日の光が届き始めており、フード越しであってもアイシャの黒髪と紅い目をはっきりと見て取ることができた。少年の鋭い指摘に心をざわつかせながらも、アイシャは会話を続ける。
「・・・その通りね。あなたはどこから来たの?」
少年は台所で布巾を洗っている。背中越しにアイシャに答えた。
「テオドールっていう所から来たんだ。今は帝国領になっちゃったけどね。帝国領になった後はずっと混乱してるから、今はこの国で仕事をしているんだ。」
「そうだったの・・・。両親はいるの?」
「お父さんは戦争に行ってて暫く戻って来ないんだ。お母さんはこの国に来てから体が弱っちゃって、今は二階で休んでることが多いかな。」
布巾を洗い終えた少年は振り返る。まだ床に座っているアイシャを見て驚いたように言った。
「あっ、ごめん。ずっと床に座らせちゃって。そっちの椅子に座って。もしよかったら、何か食べる? 大したものは無いんだけど。」
彼女の手前にある椅子を指し示す。
「そんな。良くしてもらってばかりで悪いわ。」
「気にしないで。困ってる人は放って置けないんだ。」
アイシャは渋々椅子に腰掛けた。少年はせわしなく動きながら朝食の準備を始めている。アイシャはその様子を見ながら、まだ幼いのにしっかりしたものだと感心した。父親がいない中、母親の看病をしながら仕事をして、一人で一家を支えているのだろう。
「しまった、マッチを切らしてたんだった。スープは冷たいままだけど、大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。ありがとう。」
少年は棚からパンを数切れ取り出して皿の上に置き、更に鍋からスープを掬って椀に移していた。アイシャは鍋の下の炭に火をつけようと思ったが自制した。
少年のために何かをしてあげたいが、アイシャの顔だけでなく魔法も見せるのは危険だろう。少年がもし警察隊に問い詰められた時に、言い逃れをするのも難しくなる。ここまで良くしてくれた少年を、そんな目に遭わせたくは無かった。
「お待たせ。ちょっとしたものだけど。」
そう言って、テーブルの上にパンとスープを勢いよく置いた。皿からパンが転がり落ち、椀からスープが零れそうな勢いだ。アイシャは苦笑しながら、少年から渡された朝食を見た。
彼の言う通り簡素な朝食であったが、自分のためにここまでしてくれる思いやりが嬉しかった。それに昨夜あれだけ走り回って疲れていたアイシャにとって、何か食べるものがあるだけで十分だった。
「ありがとう。頂くわ。」
少年は自分の朝食を、これも大きな音を立ててテーブルに置き、更にもう一つの椀を手に持った。
「これをお母さんに渡してくるから、先に食べ始めてて。」
「ええ。分かったわ。」
少年は二階に上がって行った。少年に対する警戒を解いていたアイシャはフードを外した。アイシャは椀を手にスープを啜り始める。スープはほとんど味がしなかったが、僅かな塩味が感じられた。椀の底には大小様々な野菜が転がっている。少年が慣れないながらも一生懸命切っている姿を想像し、アイシャは微笑ましく思った。




