戦交官と警察隊 ①
― ロンディウム 中央区 紅凰館 ―
セルバンたちが帝国からの退避を決行する日の夜、アイシャは自室で身支度をしていた。姿見の前で黒のチュニックに袖を通し、その上からローブを着る。更に、腰元に手を当てて護身用の短剣があることを確かめた。
鏡に映る自分の姿から準備に抜かりが無いことを見て取るが、一抹の不安を拭えなかった。
(やり残したことは無いはずだけど……。)
セルバンとミネアが乗る船の手配を済ませ、館から港までの退路は確認した。二人の出航後、アイシャとヴァンデールが追加の任務を行うための準備も終えている。不足は無いはずだが、昨夜から胸騒ぎが続いていた。
姿見の左横にある置時計に目を向けると、既に時刻は二十時を示していた。
(そろそろね。二人の様子を見に行かないと。)
ミネアは既に準備を終えていると思うが、セルバンが気がかりである。今頃あたふたと荷造りをしている様が目に浮かぶようだった。
右手を振って部屋の火を消したその時、正面玄関より呼び鈴の鳴る音が響いた。
(こんな時間に誰が……?)
不審に思ったアイシャは、素早く自室の扉を開けて玄関を見る。すると、ちょうど付近にいたミネアが扉を開けようとする所であった。
「ミネア! 待って!」
「え……?」
アイシャが呼びかけるのと、ミネアが扉の鍵を開けたのは同時だった。ミネアが後ろを振り向いた隙に扉が大きく開けられ、外の闇より黒い隊服姿の女性が現れた。
「ロンディウム警察隊だ。セルバン・コルテスはいるか?」
入って来たのはフェリシアだった。ミネアより頭一つ高いフェリシアは悠然と玄関に足を踏み入れる。背後を振り返ったミネアの顔から血の気が引いた。
ミネアを見下ろしながら、フェリシアがもう一度問い掛ける。
「どうした? セルバンはどこにいる?」
「あ……。」
ミネアは鴉の魔女を見上げたまま声を発することができなくなった。目を見開いて呆然としている。
(まずい! 早く引き離さないと。)
悪い予感が的中し、アイシャは青ざめる。急いで階段を駆け下りながらミネアに呼びかけた。
「ミネア! そこから離れて!」
アイシャの声を聞いたミネアが弾かれたようにホールの端へ走り始める。こちらに気付いたフェリシアが蒼色の目を細めた。
「紅い瞳の娘。やはりここにいたか。」
アイシャはフェリシアの前に立ち塞がり、火の魔法で追い払おうとする。セルバンから聞いた通り、目の前にいるのは鴉の魔女。実力差は歴然であったが、今は自分が盾になるしかない。アイシャは後先など考えず、威勢だけで立ち向かっていた。
「ここから出て行って!」
アイシャの右手から勢いよく火炎が迸る。炎はフェリシアを覆い尽くす程の大きさであったが、フェリシアは素早く床を蹴って躱す。躱し様、右手から蒼い雷が放たれた。
バチッ!
空気を切り裂く雷を、アイシャは辛うじて紅い炎で防ぐ。間一髪で反応できたが、アイシャは何が起きたかを理解していなかった。フェリシアの手が光った瞬間に紅い炎で身体を覆っただけである。
初めて敵として相対した魔女、それも帝国随一の魔女を前にし、アイシャの額に冷や汗が伝う。
「面白い。本当に火で雷を防ぐとは。」
鴉の魔女が笑みを浮かべる。その手から放たれる雷の勢いが一段と強まった。アイシャは反動を抑えきれず数歩後退する。
「アイシャ様!」
傍らにいたミネアが叫ぶ。アイシャが視線を向けると、その表情には焦りと驚きが浮かんでいた。視線の先にあるのは雷を遮る紅い炎。アイシャが悪竜に見出された者であることは、誤魔化しようが無かった。
「行って!」
アイシャは必死の形相で声を張る。後悔、罪悪感……、ミネアに伝えたいことは沢山あったが、今は余裕が無い。発したのは一言だけだった。
ミネアが短く頷いてホールの階段を上がって行った。恐らくセルバンのもとへ向かったのだろう。アイシャは改めて視線をフェリシアに向ける。途方もない魔力を消費しながら雷を放っているはずだが、その表情は平然としている。
魔女の強大さを見せつけられ、アイシャは歯がゆくも事態を好転させることができずにいた。
(父さんはどこにいるの? もう限界……。)
紅い炎が尽きようとしたその時、アイシャの前に影が割り込んだ。
「……!」
新手に気付いたフェリシアが雷を止める。目の前には、ローブに身を包んだ大柄な男が現れていた。不可視の障壁で雷を防いだヴァンデールは、静かに鴉の魔女を睨みつける。
「遅い!」
アイシャは思わず非難の言葉を口にした。ヴァンデールが背中を向けたまま答える。
「行け。セルバンを何とかしろ。何やら手こずっている。」
「分かった。」
アイシャは踵を返し、急いで階段を駆け上がった。残されたヴァンデールは右の掌を鴉の魔女に向けて構えながら相手の動きを待つ。フェリシアが腰に下げた鞘からサーベルを引き抜いて構えた。
「貴様らの退路は塞いだぞ。もう諦めたらどうだ?」
「……ならば退路を切り開くまでだ。」
決然と答えたヴァンデールの掌から障壁が放たれると同時に、フェリシアの左手から雷が迸った。
(セルバンさん、一体何をしてるの?)
二階の廊下を駆け抜けたアイシャは、セルバンの居室の前に辿り着く。息を抑えながら扉を開けると、セルバンとミネアが押し問答をしていた。
「セルバン様、もう警察隊が来ています! 今ある荷物だけですぐに出ましょう。」
「もう少し待ってくれ。ええと、あの書類はどこにやったかな……。」
焦りを露わにするミネアに取り合わず、セルバンがあたふたと鞄にものを突っ込んでいる。セルバンの悠長さを目の当たりにしたアイシャは、なりふり構わず拳を扉に叩き付けた。盛大な音を立てた衝撃が手に伝わるが、今は痛みなど二の次だった。
二人が驚いてアイシャに目を向ける。アイシャの紅い瞳は怒りで燃え上がり、セルバンを焼き尽くすかのようだった。
「何してるの! 今すぐ部屋を出て!」
「アイシャ殿! 申し訳ない、後少しだけ……。」
アイシャの剣幕に狼狽えながらも、セルバンは尚も何かを探そうとする。説得を諦めたアイシャは、セルバンのもとに駆け寄ってその手を掴んだ。
「来て!」
「ア、アイシャ殿……。」
アイシャはセルバンを引きずるようにして部屋の外に出る。続いて出てきたミネアが部屋の扉を閉めた。
「私に付いて来て。」
アイシャはセルバンの手を引きながら廊下を早足で進む。セルバンたちを出航させる港へ行くには、西側の裏口から館の外に出るのが最短距離だ。しかし、裏口を通るには一階のホールに戻る必要があった。
(父さん……。何とかフェリシアを退けていて……。)
祈りながらホールへと向かう階段に辿り着いたが、ヴァンデールはホールで交戦中だった。アイシャは内心で舌打ちをしかけて止めた。相手は神をも殺す魔女なのだ。空間魔法の使い手であっても一筋縄ではいかないのは当然だった。
アイシャは二人の注意を惹かないよう慎重に階段を下り始める。
「何と! ヴァンデール殿!」
「ちょっと、黙ってて!」
ホールでの戦闘を目の当たりにしたセルバンが大声を出す。慌てて注意をするも時すでに遅し。ヴァンデールとフェリシアがこちらを向いた。フェリシアの左手が目にも留まらぬ速さで動き、蒼い雷が放たれる。
「まずい!」
アイシャは急いでセルバンから手を放して紅い火を放とうとするが、それよりも先に、ヴァンデールが彼らの前に姿を現し雷を防いだ。フェリシアと交戦してから数分しか経っていないが、既に息が上がり顔には汗が伝っている。
「……行け。振り返るなよ。」
ヴァンデールがアイシャたち三人に手を伸ばし、次々に身体に触れる。触れた拍子に、三人はホール一階、西側の裏口前に転移していた。
「んん? 一体どうなって……。」
状況が呑み込めないセルバンを余所に、アイシャは勢いよく裏口の扉を開けて外に出た。
「……!」
アイシャは息を呑む。目の前にはヘイデンが待ち構えていた。アイシャの脳裏に、後一歩の所まで追い詰められた記憶が蘇る。




