「火の魔女」の戦交官 ①
雷の国、イズナディア帝国。火の国エフレイン王国より海を隔てた東側に位置する島国。
古くから活発な交易を行っていた両国の関係は、ここ数年急速に悪化の一途を辿っていた。きっかけは、イズナディアの最高位の魔女、『雷の魔女』による発明である。
雷の魔法を動力源とした機械の発明は、帝国の工業に革命を起こし、生産力は瞬く間に帝国に程近い東大陸の周辺諸国を凌駕した。生産力の差は、帝国に勢力拡大の野心を持たせ、遂には周辺諸国を傘下に収め東大陸を制覇するに至った。
東大陸の支配を完了した帝国は、エフレイン王国を次の標的に定めた。王国内に数多くの密偵を放ち、また王国の沿岸部では軍同士の小競り合いが発生するようになった。
更に経済の面において、交易関係が不要となった帝国は、帝国内で活動するエフレインの商人への取り締まりを強めた。そして、機密情報の漏洩に関与したとして数人が拘束される事態にまで発展した。
かかる事態に気付いた王国は、火の魔女を通じて、罪状の詳細の回答と拘束された商人の即時解放を求める書簡を送付した。対する帝国は、『帝国内の問題に他国が関与することを禁ずる』と返答。
対話による交渉の道を絶たれた王国は、熟慮の末、実力行使に出る選択を採った。即ち、『戦交官』の派遣による事態の解決である。
― イズナディア帝国 首都ロンディウム 中央区 ―
「はあ、はあ。」
人気の絶えた夜のロンディウム中央区。アイシャは息を弾ませながら一人路地裏を疾走していた。
漆黒のローブに身を包み、黒革の手袋と長靴を身に着けたアイシャは夜の闇に溶け込んでいるが、フードの隙間からは彼女の相貌が時折垣間見える。
形の良い眉にすっきりとした鼻梁、ふっくらと赤みを帯びた唇。凛とした少年のような鋭さに、年頃の女性の柔らかさが加わった顔立ちであった。その中でも一際目を引くのが、彼女の深紅の瞳だ。
紅玉を溶かしたような深紅の虹彩は、闇の中であっても周囲の僅かな光を取り込み、神秘的な煌めきを放っている。彼女を初めて見た殆どの人が振り返るほど印象的であった。だからこそ、このような状況下で敵に顔を見せる訳にはいかなかった。
今宵は月が陰って辺りは薄暗く、頼りにできる明かりといえば、不規則な間隔で目に入るガス灯か建物の窓から薄く漏れた光だ。すでにほとんどの住民は寝静まっているのだろう。自分の息遣いと長靴で石畳を弾く音がやけに大きく聞こえる。
街の大通りから路地裏に飛び込み、ある程度見知った建物の合間を抜けるところまでは良かったが、その先から闇雲に走り回ったせいか方向が分からなくなってしまった。
丁寧に整備された道も街の中心部から離れるほどに凹凸が目立ち始め、下手に蹴躓かないように気を配らなければならない。周囲の建物はそのほとんどが煉瓦造りで、これも走り続けるほどに雑然とした様相を呈し始めた。道幅も狭くなり、自分が両の壁に圧迫されているようで益々焦燥が募る。
ここまで息をつく間もなく路地裏を駆け抜け、夜の冷えた空気を吸い込んだ胸は刺すように痛み始めていた。視界を妨げる長い黒髪を手で払いながら後ろを振り向くと、数人の人影が迫って来ていた。先ほど見た時よりも大分距離を縮められている。怒鳴り声もはっきり聞こえてきた。
「そこを右に曲がったぞ。追え!」
「もう逃げ場はないぞ!」
アイシャが道を曲がってその先の階段をまとめて飛び降りた時だった。後ろでバチッと音が鳴り響いたかと思うと、一筋の雷光が彼女の足元の石畳を直撃した。衝撃に煽られて体勢を崩し転倒する。その拍子にフードが外れてしまった。
「あっ!」
横倒しになりながら直撃した箇所を見ると、道に敷き詰められた数個の石が黒く焼け焦げていた。
「追いかけっこはもう終いだ。そこから動くな!」
階段を駆け降りてきた男たちが押し寄せる。その表情がはっきり見て取れる距離まで近付かれた。いずれも黒の隊服に身を包み、短く刈った金髪に黒の制帽を被っている。ロンディウムの警察隊だ。転倒した際に地面に強く打ち付けた足を庇いながらアイシャは立ち上がる。
「おい! 動くなと言っただろう。」
男の怒鳴り声を余所に、アイシャは顔をフードで隠しながら目の前にいる男たちを素早く確認する。アイシャを取り囲む警察隊は三人。彼らは慎重に歩を進めながらアイシャとの距離を狭めていた。
(火の魔法で追い払えばいいのに、こんなものを使わせるなんて。)
心の中で呟きながら、アイシャはローブの隠しから取り出した小瓶を正面の男に向かって下から投げつける。小瓶の中身は油だった。自分に向かってくる小瓶を男が叩き落とそうとした瞬間、突然それは燃え上がった。
「うわああ!」
男の反応を見ることもなく、アイシャは身を翻して突き当りの路地に駆け込む。炎に腕を焼かれた男は、地面にうずくまり何とか火を消した。男は指先から肩にかけて火傷を負い、小瓶の破片が体中に突き刺さっている。
警察隊の一人が火傷を負った男の傍に駆け寄ってしゃがみ込む。そしてもう一人の男に鋭く言った。
「俺はあの女を追う。お前はこいつを本部まで連れて帰れ。」
そのまま彼女の後を追って走り出した。指示を受けた男は倒れた男の元に近寄る。
「おい。しっかりしろ。何が起きたんだ?」
「ちくしょう……。良く分からねえが……あの小瓶が俺の手に触れるくらいで燃えやがった。」
「それは俺も見ていたさ。だが燃える前に雷が走るような音はしなかった。やはり、あいつは帝国の外からやって来たんじゃねえか。」
「確かに……あの魔法はイズナディア人のものじゃない。ふざけやがって……、何故俺たちを妨害して来たんだ?」
「そいつは分からねえ。さっさと取っ捕まえて、洗いざらい吐いてもらわないとな。それに副隊長なら女一人に後れを取るはずがないさ。」




