火の魔女
― エフレイン王国 首都ガーネット 蘭華荘 ―
火の魔女の住まう館、蘭華荘。広大な庭園に囲まれ、静かな雰囲気に包まれたその館に、ガタガタと大きな音を立てて一台の四輪馬車が向かっていた。
初夏の日差しの中、御者は額に汗を流しながら手綱を引き、馬車馬は荒い息を吐きながら最大限の速度で馬車を牽いている。馬車の扉には、王国の有力貴族を示す鷲の紋章が描かれていた。
館の玄関口が近付き、御者が緩やかに馬車を減速させ始めたその時、馬車の扉が勢いよく開け放たれて一人の女性が飛び降りた。手で押さえた麦わら帽子からのぞく茶色の巻き毛が風に揺れる。
詰襟のかっちりとしたブラウスに、丈が足首の辺りまでのスカートを着た彼女は、有力貴族らしい品格を備えながら、活動的な印象を与える。
「シャルロット様……。」
突然の出来事に、御者が驚いた表情で振り返る。
「そこで待っていなさい。少ししたら戻るわ。」
胡桃色の瞳に強い光を宿したシャルロットは、振り向きもせずに御者を制し、急ぎ足で館の玄関口に向かった。麦わら帽子を手に持ち、玄関口の呼び鈴を鳴らす。
扉が開くまで、シャルロットは息苦しそうな表情をしながら、手で顔の辺りを扇いでいた。程なくして扉が開き、使用人の少年が現れた。茶色の髪と瞳を持つ少年は、シャルロットを見るなり面食らった表情になる。
「シャルロット様! どうされましたか?」
シャルロットは無言でコンラートの傍を通り抜け、ホール内へと入って行った。慌
てて扉を閉めて追い付こうとするコンラートに、背中越しに問いかける。
「コンラート、カトレアはどこかしら?」
「二階のバルコニーにいらっしゃいます。一体どのようなご用件で……?」
少年を問いかけを無視して、シャルロットはきびきびとした足取りで既に二階へと続く階段を上がっていた。
シャルロットの目の前、踊り場の壁面にはステンドグラスが飾られており、白い火竜であるエフレインの主神アウラが象られている。昼下がりの陽光が差し込み、天上へ飛翔する火竜の雄姿と天を焦がす息吹が煌々と輝いていた。
シャルロットは慣れた足取りで二階へ上がり、蘭華荘の南側に面したバルコニーに着いた。バルコニーに立つと一気に視界が開けて、近くには蘭華荘の広大な庭園、遠くには首都ガーネットの街並みを一望できた。
街並みの中には、エフレイン王国女王の居城である『赤の城』も視界に収めることができる。
その『赤の城』を背景に、一人の貴婦人が優雅に紅茶を嗜んでいた。シャルロットに気付くとカップを持つ手を止めて微笑む。生き生きとした榛色の瞳、緩やかな曲線を描く豊かな栗色の髪が印象的であった。すらりとした身体に白色のシュミーズドレスを着ている。
この貴婦人こそ、シャルロットの上官、『火の魔女』カトレアであった。
シャルロットは、手摺の傍に置かれた二人掛けのテーブルに近付いた。強い日差しが降り注いでいたが、テーブル脇のパラソルが陽光を遮っている。
「ごきげんよう、シャルロット。帝国での任務、ご苦労様ね。」
弾む息を抑えているシャルロットを見上げながら、カトレアが口を開く。玲瓏とした響きを伴う落ち着いた口調はシャルロットの逸る心を幾分か沈静化させた。
「ごきげんよう、カトレア。急ぎお伝えしたいことが……。」
「まずは掛けてちょうだい。」
シャルロットが席に着くなり、コンラートが駆け足でバルコニーに現れた。
「カトレア様。シャルロット様にお茶のご準備は必要でしょうか?」
「不要よ。シャルロットはここに長居する気はないでしょう?」
「ええ、そのつもりです。」
シャルロットはきっぱりと答えた。カトレアがくすりと笑ってコンラートに伝える。
「ほらね? 代わりに、下で待っている御者の方にお茶を出してあげて。日頃シャルロットに振り回されてお疲れでしょう。」
「カトレア……。」
「……かしこまりました。」
反論しようとしたシャルロットから逃げるように、コンラートがさっと身を翻してバルコニーを後にする。その姿を見送ったシャルロットはカトレアの方を向いて話しかけようとした。
「カトレア、帝国が……。」
カトレアの様子を見たシャルロットは、発しかけた言葉を吞み込む。火の魔女が目を閉じ、ゆっくりと紅茶を飲んでいた。有力貴族の生まれで、居丈高な態度を取りがちなシャルロットでさえ、目の前の静寂を破ることはできなかった。
火の魔女とは、火の国に存在する数十人の魔女の内、最高位の魔女に与えられる称号である。王国においては代々要職を任されることが慣例になっており、当代の火の魔女であるカトレアは外交全般を担当している。
国中から尊敬を集める立場であるが、カトレアの態度から驕りは感じられず、気さくで親しみ深い印象を与えている。しかし、時として干渉し難い雰囲気を纏うことがあった。
バルコニーにそよ風が吹き、辺りに甘い香りがふわりと広がる。カトレアが身に付けている日出蘭の香りであった。やがてカトレアが目を開け、柔和な表情でシャルロットに問いかける。
「帝国の情勢はどうだったの?」
「我が国との開戦の機運が高まっています。帝国海軍の高官に接触し、作戦に関する情報を幾つか入手しました。」
シャルロットは海を隔てた島国であるイズナディア帝国に潜入し、帝国海軍の機密情報を入手する任務を帯びていた。任務を果たしてから蘭華荘に到着するまで、ずっと溜めてきた情報をカトレアに伝えることが叶い、いくらか肩の荷が下りたような気がしていた。
「そう。詳細は後で教えてちょうだい。開戦は帝国政府の下、正式に決定したの?」
「いえ、まだです。今から九日後に行われる帝国議会にて決定します。」
「分かったわ。早急にアイシャに伝える必要があるわね。開戦に至った場合、我々と戦火を交える時期と場所は分かっているの?」
「不明です。そこまでの情報は得られませんでした。」
シャルロットは後悔の念を心に抱えながらも、表情には出さずに答える。しかし、その心の機微を、火の魔女が見透かして微笑んだ。
「ふふっ。気にする必要はないわ。貴方が入手した情報には大きな価値がある。後は私とアイシャに任せてちょうだい。」
自尊心の高いシャルロットは、自らを励ます言葉を聞いても心が休まらなかった。代わりに年下の同僚を意識させられ、心のざわつきが増していた。
「本当に『彼女』に任務を託されたのですか?」
「アイシャのこと? そうよ。今は帝国内の商人を退避させる任務に付いているわ。」
カトレアが不思議そうな表情で答える。『商人』とは、帝国内で活動する火の国の商人のことである。ここ数か月の内に、彼らが拘束される事件が相次いだことをきっかけに、事態の解決を目的としてカトレアの配下であるアイシャが派遣されることになった。重大な任務を託された年下の同僚を思い、焦りを感じたシャルロットは本音を漏らす。
「危険ではないでしょうか。彼女はまだ若く、向こう見ずなところがあります。要員を換えた方が良いかと……。」
「私の判断に異を唱えるというのかしら?」
火の魔女が聞き返す。表情は柔和だが、榛色の瞳は真っ直ぐにシャルロットを見つめている。
「いえ、失礼致しました。」
シャルロットは顔を赤らめて視線を下げた。
「シャルロット……。貴方の懸念は私も理解している。アイシャが任務を達成できるように、打つべき手を打っているわ。でも、これは彼女を優遇している訳ではない。我が国の目的を達する最善の手だと判断したからよ。そのことを分かってちょうだい。」
「……はい。かしこまりました。」
シャルロットは益々羞恥に駆られる。傍から見ると子供じみた彼女の本音も、火の魔女には全て見抜かれていた。
「貴方が得た情報を訊いた上で、貴方に次の任務を伝えるわ。……その前に、ちょうど彼が戻って来たようね。」
「え……?」
バルコニーの正面から、突然羽音が聞こえた。シャルロットが左側に視線を向けると、深紅の羽毛を持つ一羽の鳥が滑空していた。翼を大きく広げた鳥は旋回し、バルコニーへと向かってきた。
思わず椅子から腰を浮かせたシャルロットを余所に、深紅の鳥は二人の目前で大きく羽ばたき、鋭い鉤爪でそっと手摺に掴まった。金色の瞳と深紅に輝く羽毛を持つ魔獣、火の魔女が使役する『不死鳥』だ。
「ヴェルミオン。長旅ご苦労様ね。」
カトレアは悠然と紅茶を飲みながら不死鳥を労う。体長がカトレアの半分くらいの不死鳥は、金色の瞳をじっとカトレアに向けたまま答えた。
〈案ずるな。大した距離ではない。〉
ヴェルミオンを含め、魔獣は基本的に発声器官を持たないが、特定の者に対して声を響かせることができる。ヴェルミオンの声は、男性の低い声に似ており、聞く者に気位の高さを感じさせた。
「ふふっ。長旅だったのだから、少しくらい甘えてもいいのよ。それで、彼らは帝国に着いたかしら?」
疲労など無いかのように振る舞うヴェルミオンを見て、カトレアが可笑しそうな表情を浮かべる。
〈ああ。二人は帝都に到着し、商人のいる拠点まで辿り着いた。〉
「……カトレア、彼は帝国へ行って帰って来たのですか?」
驚いたシャルロットは思わず口を挟む。魔女は契約した魔獣を使役できる。しかし、膨大な魔力が無ければ、魔獣を長時間召喚し続けることはできない。それも遠く離れた帝国へ遣わすなど、聞いたことが無かった。
「そうよ。魔力を消耗するけど、非常時だから仕方ないわ。」
火の魔女が涼しい顔で応じる。
「ヴェルミオン、到着早々で悪いのだけど、実は彼らに追加の任務を伝えないといけないの。」
〈問題ない。聞こう。〉
カトレアが任務の内容を伝える間、ヴェルミオンは微動だにせずその言葉を聞いていた。
「急ぎの要件だけど、貴方は今戻って来たばかりなのだから、少し羽を休めてはどう? 何か食べるものを用意するわ。」
傍から聞いているシャルロットでさえも、ヴェルミオンが次に発する言葉を想像できた。
〈私は疲れてなどいない。直ぐに戻る。〉
ヴェルミオンが間髪を入れずに答える。彼が人であれば肩肘を張っていただろう。
「もう、相変わらずね。気を付けて。」
〈任せろ。〉
ヴェルミオンは翼を大きく広げて羽ばたき、手摺から身を離す。そのまま勢いよく飛翔し、炎の軌跡を描きながら、あっという間に東の空へ飛び去って行った。
遠く海を隔てた東に位置する雷の国に向かって、火の魔女の言伝を携えて。




