紅凰館の住人 ②
「……それにしても、後三日でこの館を出て行くというのは、中々に後ろ髪を引かれる思いがしますな。」
ここ数週間で徐々に住人を減らし、遂には四人だけになってしまった館内を見回して、セルバンがため息を吐く。
「他にいた使用人の人たちは、どうしたの?」
「ええ。私が紹介状を書いて、次の主人の屋敷に移って貰いましたよ。皆信頼のおける優れた方々でしたので、とても惜しいですね。」
「紹介状……?」
突然ヴァンデールがパチリと指を鳴らす。アイシャはぎょっとして父親の方を見やった。
「ちょっと、それ本当に止めて。」
心底うんざりしたという表情で父親を非難する。当の本人は特に気にした風もなく娘の問いに答えた。
「帝国において、執事やメイドといった使用人達は、職場を変える際に必ず紹介状が必要になるんだ。信用が第一の仕事だからな。セルバン殿は、彼らの経歴に傷が付く前に、先んじて次の職場に移って貰うようにしたのだろう?」
「仰る通りです。私が警察隊の立ち入りを受けるのは時間の問題でしょう。そうなってからでは遅いのです。」
あご髭を撫でながら、セルバンはアイシャの方を向く。
「彼らの多くは、私がロンディウムで事業を始めてからの付き合いなのです。あれからもう五年も経ちました。更に、私が貿易業を始めるに当たって、カトレア様には大変なお力添えを頂きました。実は、カトレア様にご同伴頂いてロンディウムまでやって来たのですよ。」
「カトレアがここに来たの?」
目を丸くしながら、アイシャは昔の記憶を辿る。確か五年前、カトレアが一か月ほど蘭華荘を留守にしていた時期があったような……。
「左様です。彼女には様々な目的がおありで、私の開業の支援はその一部だったようです。帝国への船旅もご一緒しました。カトレア様は『久しぶりに王城を抜け出せて清々した。』と仰っていましたな。」
アイシャはくすりと笑う。
「ふふっ。カトレアなら言いそうね。」
エフレインの外交上の問題に頭を悩ませているカトレアは、日々懸案の解決に忙殺されている。同じ蘭華荘の住人であるアイシャにとって、旅先で羽を伸ばしているカトレアの姿は容易に想像がついた。
「はい。私が帰国しましたら、是非ご挨拶に伺いたいと思っています。いくらお礼を申し上げても足りないくらいですが、久しぶりにお目に掛かりたいですな。カトレア様は今も蘭華荘にいらっしゃるのですか?」
「ええ。公務の時間を除けば、蘭華荘で甘いものばかり食べてると思うわ。」
「はははっ。確かにカトレア様は甘いものがお好きでしたな。ご挨拶に伺う際は、何かお菓子を携えて参りましょうか。」
食事を摂り終えた三人が暫く歓談を楽しんだ後、食堂にミネアが現れた。
「失礼致します。お食事はお済みでしょうか。」
「ええ。とっても美味しかったわ。全部ミネアが用意してくれたの?」
アイシャはミネアの方を振り返って問い掛ける。
「ありがとうございます。現在、紅凰館の使用人は私一人しかおりませんので、私がご用意しております。」
ミネアは笑顔で応じるが、その表情にはうっすらと疲れが浮かんでいる。
「食器を片付けに来たのか? それなら私が手伝おう。」
ミネアの様子を見て取ったヴァンデールが席を立ち、テーブルの上で両手を広げる。すると、食器が宙に浮かび、同種の皿がそれぞれ重なるように動き始めた。
「ヴァンデール様! 恐れながら、片付けは私の方で行いますので……。」
慌ててミネアが止めに入ろうとするが、空中を舞っていた食器群は、あっという間に整理されて一か所に収まっていた。
「これくらい大したことではない。君も三日後には長旅に出るのだから、英気を養っておくべきだ。何か手伝えることがあれば遠慮なく言ってくれ。」
宙を舞う食器群に目を丸くしながら、セルバンが席を立って礼を言う。
「お気遣い頂きありがとうございます。この館の運営をミネア一人に任せっきりにしていた私の問題です。私もできる限りミネアを手伝いますが、お二人にも可能な範囲でご協力頂けますと、大変ありがたいです。」
「任せて。私も色々と手伝うわ。」
ヴァンデールの言動に感心しながら、アイシャは快く応じる。ふうん、中々良いところあるじゃない。
「よろしいのですか。本当にありがとうございます。」
ミネアが深々と頭を下げる。
「構わないさ。こいつを厨房に運ぶのだろう。俺が持って行くから、場所を教えて貰えるか。」
「はい! 厨房はこちらです。」
整理した食器群を宙に浮かせながら、ヴァンデールがミネアの後を付いていく。
「皿洗いなら私も手伝うわ。」
アイシャが戦交官になる前は、蘭華荘でコンラートと一緒によく皿洗いをやっていた。
「……お前は手を怪我しているだろう。今は早く治せ。」
呆れた表情のヴァンデールに諭されてしまう。アイシャは恥ずかしくなりながら、自室へと続く階段に向かった。




