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双火の姫(帝都潜入編)  作者: 蘭火
第1章
12/20

紅凰館の住人 ①

 ― ロンディウム市街 中央区 紅凰館こうおうかん


 ドアがノックされる音でアイシャは目を覚ました。十分に休息を取れたことで意識は冴えている。ミネアが部屋の扉を開けた時には身を起こしていた。


「失礼致します。アイシャ様、ご昼食の準備が整いました。」


「ありがとう。着替えてから食堂に行くわ。」


 勢いよく寝台から飛び降り、ミネアの元に駆け寄る。目が覚めてから空腹を覚えていた。


「はい。そうなさると思いまして、お召し物をお持ちしました。」


 ミネアは手に持った替えの服をアイシャに手渡す。


「今頼もうと思ってたところよ。いつも助かるわ。」


 アイシャは笑顔で応じて服を受け取った。ミネアの表情もぱっと明るくなる。


「もちろんでございます。お脱ぎになられた服は後で取りに参りますので、寝台の上に置いて頂いて結構です。」


「分かったわ。」


「では、失礼致します。」


 ミネアが軽く会釈をして部屋を後にする。空腹を覚えているアイシャは急いで着替えを始めた。ぴったりと身を包んでいた黒のチュニックを脱ぎ、丁寧に折り畳んで寝台の上に置く。代わりに、ゆったりとした白のブラウスと薄紅のスカートを身に付けて姿見の前に立った。


 今の彼女はどこかの貴族の子女にしか見えないだろう。とても夜の街中で警察隊と揉め事を起こすようには思えない。少し乱れた黒髪を手櫛てぐしで整えてから、アイシャは足早に部屋を出た。


 食堂に着くと、既にヴァンデールとセルバンが向かい合ってテーブルに着き、神妙な面持ちで話しながら食事を摂っていた。


「……つまり、イズナディアには皇女が不在なのだな?」


「左様です。シャルナ皇女は今やテオドールの……。これはアイシャ殿、……思わず目を奪われてしまいました。ヴァンデール殿の前で申し上げるのも何ですが、緋門花ひもんかのように可憐ですぞ。」


 アイシャに気付いたセルバンが目を丸くしながら言う。


「ありがとう。セルバンさん。」


 アイシャはくすりと微笑みながらヴァンデールの右隣に座る。アイシャの目の前にも食事が用意されていた。


「二人とも真剣な顔をして、何を話していたの?」


 アイシャはからかい気味に問いかける。


「ああ、シャルナ皇女のことだ。今はテオドールにいるそうだ。」


 至って真面目な表情でヴァンデールが答え、スープをすすり始めた。


「テオドールは帝国領でしょ? 皇女は何故そこにいるの?」


「アイシャ殿の仰る通り、テオドールは一年前の攻略戦によって現在は帝国領になっています。」


 食後の紅茶を飲んでいたセルバンが代わりに答えた。


「ですが占領後も暴動が絶えることがなく、帝国は手を焼いていたのです。そこで送り出されたのがシャルナ皇女でした。彼女はテオドールの混乱の原因が経済の疲弊にあることに目を付け、戦争によって破壊された生産設備の立て直しに注力しました。幸いテオドールには石炭が豊富に存在しますので、動力源には困りません。帝国から大量の建設機械を運び出し、生産設備の急速な復旧に成功したのです。働く場所が整備されれば、多くの民衆の不満は無くなります。それ以降、暴動の数は驚くほど減りました。」


 スープを飲み終えたヴァンデールが、感心したように頷く。


「仕事があって食うに困らなければ、暴動をする必要も無くなるか。シャルナ皇女は民衆の心理を心得ているようだ。」


「その通りです。齢十九にしてあの手腕。敵国の皇女ながら脱帽せざるを得ませんな。」


 好物の魚料理に手を付けていたアイシャは、驚いた表情で唐突に口を挟む。


「この魚すごく美味しいわ。何て言う魚なの?」


「それですか? ハタ魚ですよ。帝国の特産物ですね。」


「そうなの。これがハタ魚なのね……。」


「詳しいな。どこで知ったんだ?」


 ヴァンデールに問われ、アイシャはぎくりとする。マーカム広場の売り口上で知ったとはとても言い出せなかった。


「さあ、特に覚えていないわ……。話を遮ってごめんなさい。それにしても凄いわね。私と同じ歳で一国の統治を任されているなんて。」


「そうですな。ですが、アイシャ殿もご自身の任務を十分に務められていますよ。カトレア様の戦交官として、帝国内にいる我々商人の退避のために危険を顧みず戦われている。私も本当に頭が下がる思いです。」


「それは褒め過ぎよ。セルバンさん。」


 照れ笑いを浮かべながらアイシャは答える。


「確かに褒め過ぎだな。実際、昨夜の件はかなり危うかった。俺たちは魔女を相手にしていたんだ。」


 食事を摂り終えたヴァンデールが、紅茶のカップを片手に淡々と言う。アイシャはむっとした表情で父親の方を見やった。


「セルバン殿、警察隊に所属している魔女の情報はないか? 今後相手にする時の参考にしておきたい。」


「そうですね。一人は有名ですので私でも分かりますよ。」


 あご髭を撫でながらセルバンが話し始める。


「魔女の一人はフェリシアと言います。彼女はテオドール攻略戦の功績により、イズナディアの英雄と謳われています。テオドールの神を殺害し、魔法を消滅させることに成功したからです。」


「神が殺されると本当に魔法は使えなくなるの?」


 スープを啜っていたアイシャは思わず口を開いた。


「そう聞いております。テオドールの魔法は水でしたが、今では誰も使えなくなったようです。」


「恐ろしいわね。魔法が使えなくなるなんて。」


 然りといった表情でセルバンが大仰おおぎょうに頷く。


「左様ですな。英雄となった彼女ですが、その後は軍から退き、今はロンディウム警察隊の隊長になっています。軍を退いた理由は明らかになっていません。一説では神を殺害したときに浴びた血が影響したのではないかと言われています。しかし、以前より実力は衰えたとしても、帝国最強の魔女と言われただけのことはあります。相対した時には交戦せず逃げることをお勧めしますよ。」


 ヴァンデールが苦い表情で答える。


「ああ、神をも殺すような魔女だ。俺たちが手に負える相手ではない。だが、昨夜現れたのはフェリシアではない別の魔女だ。撒いたと思ってもすぐに気づかれて、また追われることを繰り返していた。」


「他の魔女については私も殆ど知らないですね。ですが聞くところによると、近年の夜のロンディウムでは、ごろつきや悪党があまり外を出歩かなくなっているようです。なんでも、夜の闇の中から影がおどり出て襲い掛かって来るからだとか。辛うじて逃げ延びた者から聞くと、『影がいきなり飛び出してきた』とか『微かに羽ばたく音が聞こえた』と口を揃えたような事ばかり言うそうです。不気味ですが、それこそがもう一人の魔女の正体ではないでしょうか。」


 ヴァンデールが昨夜のことを思い出しながら話す。傍らでアイシャは紅茶を飲みながら静かに聞いている。


「どうやら、セルバン殿が言った噂の魔女と一致していそうだな。俺が出くわした魔女は、魔獣の身体を借り、極めて隠密性の高い飛行をしていた。俺を追跡している時にも、羽ばたく音は微かにしか聞こえなかった。」


「本当ですか。その状態の魔女を相手にして二人は逃げおおせたのですね?」


「俺は何とかな。逃げる途中でアイシャとは逸れてしまった。」


 セルバンの視線に気づいたアイシャはカップを置いて答えた。


「ええ。父さんは魔女を引き付けて、私から引き離してくれたわ。その代わり、私は三人の警察隊員を相手にすることになったけど。」


「三人を相手に逃げおおせたと? 流石カトレア様の戦交官ですね! 格闘が不得手な私にとって、お二人のご支援は本当に心強い限りですよ。」


「……セルバン殿。あまり娘が付け上がるようなことを言わないで貰えるか。こいつにはまだまだ学ぶべきことがあるんだ。」


「父さん! 何がそんなに気に食わないの?」


 ことある毎に釘を刺す父親に対し、アイシャは腹を立てる。何も人前で父親面しなくてもいいじゃないの!


「まあまあ。これも彼なりに、アイシャ殿を気遣ってのことなのですよ。」


 人付きの良い笑みを浮かべながら、まあまあとセルバンが取りなす。セルバンの柔和な表情を見ていると、アイシャは不思議と苛立ちが収まるのを感じた。

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