雨粒とお花
数日が経過して私は車椅子に乗れるようになった。だからもしかしてと思って看護師さんに聞いてみた。
「これでお外に出られる?」
とんでもなく嬉しいことに、看護師さんは縦に頷いた。
大雨のロータリー。夏の通り雨がちょうど訪れていたみたい。こんな雨では馬車も動かせないと多くの御者と馬が雨宿りをしている。
「雨の匂いなんて久しぶり」
「そうでしょう。お馬にも触ってみますか?」
「良いの?」
「先生には内緒ですよ?」
二度と出られないと思っていた病院から出た。雨の匂いを嗅いで馬の頬も撫でた。きっと私が頑張ったご褒美だってお父様は言ってくれるだろう……。
「……」
「どうしましたか?」
「ううん」
せっかくの楽しい時間が台無し。私は寒さでトイレに行きたくなったと伝えて病院の中に戻してもらう。あとはまた、ベッドに横になって本を読む。物語は余計なことを考える暇を与えてくれないから好き。
「あっ」
でも、本の向こうに誰かが現れていたら別だ。手元の文字列から奥の扉に視線を向けると、あの男の子がこちらを覗いていた。
「こんにちは」
「よう」
本を置いたら男の子は私の近くに歩いて来てくれる。
「来てくれてありがとう。今日は雨だね」
「うん。車椅子に乗った?」
「乗ったよ?」
「やっぱり。濡れてたから分かった」
乾燥気味の病室の中に、水滴をつけた車椅子が異様といえば確かに異様。
「あなたは?」
「俺は外を走ってた」
男の子は走る動作を見せる。こんな雨の中を? というのは、本人に聞かなくっても男の子の前髪に雫が付いていたからすぐに分かる。
男の子は鼻を啜り、隠してあったものを出した。ベッドに寝たきりの私から見れば、それが手品みたいにいきなり現れてびっくりする。
「お花!」
「そう。外で摘んできた」
「ああ! それで走って……」
ロータリーにもお花が植わっている。だけど男の子が持っているお花はその場では咲いていなかったと思う。
「あげる」
「えっ、ありがとう」
ピンクの小さい花は見たことのある花だった。名前は知らないけど雑草の花。茎の途中でポッキリ折られた一輪の小花で可愛い。
「なんか元気ない?」
「え? そんなことないと思うけど」
私は、この男の子と話す時が唯一楽しくて幸せな時間に思えていたのに。でも男の子は言う。
「病室に帰っていく時、なんか落ち込んでるみたいに見えた」
あっ……。
きっとどこかで見られていたんだわ。
「なんでもないは無し」と、男の子が先にきっぱり断る。私はちょうど馬が怖かったと嘘を言おうと思って準備していたところだったのに。それもだめになっちゃった。
だから、可愛いお花を見つめながら、少し言ってみる。
「お父様のことを考えたら、色んなことが悲しくなるの。お母様のことも悲しくなる」
これを聞いた男の子の様子をうかがう。彼はしばらく私の目を見ていたけれど、何も言わないままで一回首を横に捻ってしまっている。
私は慌てて言い直した。
「あ、あのね! 私の心臓は、私が大人になるにつれて手術で直さなくっちゃいけなくて。これからあと十回手術があって。お父様は手術が成功したことを喜んでくれて、お母様も『ありがとう』『大好きだよ』って言ってくれて!」
「なんだ。良い親じゃん」
「……」
「何で泣くの?」
知らないうちにポロポロと涙が落ちている。これは私が男の子に嘘を話しているからだって何となく分かった。だから本当のことを言わなくちゃ。
「……お父様はいつも手術のことばかり気がかりで、私がいつ死んでも悔いが残らないようにって好きなことをさせてくれる。お母様は感謝してくれるけど本当は違う。いつも『ごめんなさい』って私に謝ってから『そうじゃないわよね』って言い直すの」
鼻水を啜って、タオルが無いからシーツで涙を拭った。だけど溢れて止まらないから、そのまんまで言っちゃった。
「私、死んじゃうの!」
涙を拭くのに必死で、男の子がどんな顔をしていたか。
一度口に出してみたらスッキリするかと思ったら全然だ。むしろすごく怖くなった。
「なんだ。それなら俺だって死ぬよ?」
私はシーツから顔を離す。
「……あなたも病気なの?」
病院で会うということは、そうなんだと思ってはいたけれど。
「ううん。ここには俺の弟が怪我をしたから入院してるだけ」
「……」
じゃあ私は瞬きだけをして過ごす。
男の子は首を傾げた。二人とも噛み合わないみたい。
色々考えてみたけれど分からない私は、その走ったりできる健康な男の子に聞いてみる。
「どうしてあなたが死ぬの?」
「いや、逆に何で死なないと思ってんの? 人間は六十歳くらいが寿命じゃん」
「ああー……」
なるほど。
「早く死ぬから怖いの? だったらその花、ちぎられてるからもう死んでるし」
男の子からもらった花。力を込めて握りしめちゃったから、ぐったりしてる。首をもたげている。
「こーら、女の子を泣かせないの」
看護師さんが病室にやってきた。私の機嫌が暗くなっていたのを、男の子だけじゃなく看護師さんにも伝わっていたらしかった。だからおやつの時間を早めたんだって言っている。
男の子に椅子を用意し、看護師さんが持って来てくれたビスケットとチョコレートを食べた。男の子もどうぞって一緒に食べた。だけど不思議なのは、看護師さんも同じく椅子に座ってお菓子を食べるというところ。
「青春よね〜」
看護師さんはよくそう言った。
「せいしゅん?」
「あら、男の子にはまだ早いわね」
看護師さんからウインクが私に投げられる。でも私も『青春』について詳しいわけじゃない。話を合わせられないことに看護師さんは「良いの良いの」と頷いていた。それも不思議。
美味しいビスケットを食べている時、男の子は何か真面目な顔で椅子から立ち上がる。
「あの、看護師さん」
「うん?」
「この子を車椅子に乗せて、出掛けても良いですか?」
その提案に、私と、たぶん看護師さんも驚いた。通り雨はもう随分前に過ぎていて、外は夏の蒸し暑い空気が残っているはずだけど。
「出掛けるって……」
「ホールです。受け付けの。見せたいものがあって。……話したいこともあるし」
男の子のこんなに低い声は初めて聞いた。いつもの軽い喋り方よりも、すごく緊張しているのが私にも伝わった。
だけどここで看護師さんは、ぶはっと吹き出して笑ってしまう。
あははと大笑いをしながら「許可します」と言った。あとは「青春、青春」と、繰り返しだ。
(((次話は明日17時に投稿します
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