旅人さん
海は奪う者。月は与える者。そう教えられて軽く信じ込んでいたが。この穏やかな波音に何を奪われるものか。月の出ていない夜に何が与えられるのか。何かが起こるなんて考えられない。
僕は。……俺は。
自分自身の何もかもを決めかねていて、生きているのか死んでいるのかさえもよく分からなかった。
ただただ波音を聞きながら独りで佇んでいた。このまま暗闇に溶けることも叶わずにずっと。
目が慣れて海岸沿いの浜を歩き、宿に戻ろうとした時だ。波の音に合わせず何者かが歩く音が聞こえた。ガス灯の下にて人の姿も見えた。
「どうも、こんばんは」
その人物の声は女のもので明るかった。しかしこんな夜更けに女ひとりで何をやっているのかは気になる。だから問うたのだ。その答えが返ってくる。
「私? ああ、少し泳いでいたの」
「はぁ。こんな真冬に?」
「嘘よ、うそうそ」
女の笑顔が見える。相手からもこちらの顔が見えたようだ。
「もう! あなたもちょっとは笑って欲しいものだわ!」
夜が明けて宿を出た。これからどこへ旅するのかと顔馴染みになった旅客に聞かれたが、特に考え無く「どうでしょうね」と答えるだけに終わった。
海の前に建つ古小屋だった。ここは故郷と違って雪が積もらず凍らない海で、そこだけが気に入っている。いや、旅客が「連れない奴だ」と影で悪口をこぼすところも実は割と心地が良いか。
どこへ行くかを決めるため、明るくなった浜を歩いていた。
「あ!」
相手がこっちに気付いて声を上げられる。
「……どうも」
相手のことを少し覚えていたから返事をした。
再び出会ったのは口ばかり立つ男面ではなく、どこかの令嬢のようだ。しかし昨夜に見た時は若干大人びて見えていたのだろうか。明るい場所でまじまじ見えると成人前の少女らしかった。
彼女は、目の前の男を怪しまず、気軽に旅人さんと呼んだ。
「旅人さんはこれからどこへ行くの?」
「さあ。今、探しているところです」
「へえー。あっ、海外とか?」
「……どうでしょうね」
「あははっ」
彼女は話しながらケラケラと笑う。一体何が面白いのか。こちらは何もわからないまま、しかし彼女は話題をどんどん転がしていく。一緒に歩こうとも誘われた。断ると、自分も同じ方角に行くからと言われて結局連れ添うことになってしまう。
砂を蹴って歩きながら。時々水路の溝を飛び越えながら。どこかへ進んでいくと、急に彼女が振り返った。スカートを揺らして、白か黄色の髪をふわっと浮かせた。
「ちょっと家に来てくれない?」
「え」
無論。嫌である。
旅人さんは、とあるコテージに招待される。そこでさっきの少女がどれほどの令嬢かということを知ることになった。どうやら貴族にしては金が無い家なのかと思わせた。
貸しコテージのエントランスで待たされる間、造花を飾った花瓶を眺めている。まるでいつかの記憶にある有名王族所有の古屋敷のようだ。記憶は記憶を呼び起こしてくるから、ここには居たくないなと思った。
「旅人さん、こっちへ来て」
少女が何か準備を終えて顔を出したが。ここは少女の期待に答えるよりも後ろの扉を開けて出た方が賢明だ。しかし。「この方が?」と、少女の後ろから父親らしき人物が現れる。
どんな階級、どんな職業の男にも恥だけはかかせてはならないと、呼び起こされた記憶の中から焦げ付き取れないものがこの足を引き止めてしまった。
「ど、どうも。初めまして」
知らない顔の男に挨拶を。商人としてなのか、貴族交際としてなのか、はっきりしない挨拶をした。これに相手は眉をしかめている。
「中に入りなさい」
「……はい」
彼が髭を伸ばしているのは富の象徴というよりも、美容に金をかけられないからなのだろうか。
(((次話は明日17時に投稿します
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