行きつけの静かな喫茶店がギャルのバイトを雇ったので、安息の地がなくなりました。
偶の休日に、暮らしの住処であるアパートの近辺にある喫茶店に行くのが好きだった。
老人が一人でやっている物静かなその場所は、私にとっては安息の地であった。日頃の喧騒から離れて、そこで静かに読書する。それが私の楽しみだった。
「いらっしゃいませ、お一人様ですか?」
「ええ、そうですが……」
しかしそんな私の日常は、一瞬にして崩れ去ることになってしまった。
老人が一人だけでやっていたその喫茶店には、店員が増えていた。それも、ここには似つかわしくないと思ってしまうような、明らかに染めた金髪の派手な女性店員である。
日常において、彼女の存在というものを咎めようなどとは思わない。個人の趣向に、文句を言うつもりはない。それは自由にすれば、良いと思っている。
ただ私が思う理想の静かなる休日には、彼女の存在というものはない。
見るからに明るく天真爛漫である彼女は、この喫茶店を華やかに――悪く言えば騒がしくしている。コーヒーを飲みながら読書をする場所として、ここは相応しくないと思ってしまう。
「お好きな席へどうぞ」
「ありがとうございます」
女性店員に促されて、私は適当な席に腰掛けることにした。
といっても、先は決まっている。窓際の一番奥が空いていれば、私は決まってそこに行く。
席はまばらに埋まっていたが、幸いにも今日もそこは空いていた。私は、恐らく最後になるであろうことを思いながら、席に腰掛ける。
「ご注文はお決まりですか?」
「ホットコーヒーをお願いします」
「かしこまりました!」
私が注文を伝えると、女性店員は心なしか誇らしげに返答してきた。
今まで私が見たことがないことから考えると、恐らく新人であるのだろう。それも彼女は、高校生くらいに見える。もしかしたら初めてのバイトに対して、やる気を出しているのかもしれない。
そんな少女を見ていると、ついため息が出てしまう。それは彼女に呆れている訳ではない。既に仕事からやりがいだとかそういったことを忘れている自分に、辟易としているのだ。
「お祖父ちゃん、ホットコーヒー一つ」
「ここではマスターと呼びなさい」
「ああ、そうだった」
私が自分というものを振り返っていると、店主と少女の軽快な会話が聞こえてきた。
そこから考えると、彼女はマスターの孫娘ということなのだろう。何故、彼女のような子を雇ったのかということに対して、非常に納得できる理由が得られた。
そうして納得することができると、この場における異物は自分の方であるとわかった。祖父と孫の憩いの場を楽しめる人こそが、ここの客層ということだろう。実際に、自分以外の客達は二人のやり取りに微笑ましそうにしている。
いや別に、私もそれが微笑ましいと思わない訳ではない。ただそれを休日の楽しみとすることは、できないというだけだ。
「お待たせしました。ホットコーヒーです」
「ありがとうございます」
色々と考えている内に、いつの間にか女性店員がホットコーヒーを持って来てくれていた。それが机に置かれたのを確認してから、私は鞄から読みかけの本を取り出す。
するとメニューを置き終わったはずの少女の視線が、こちらに向いていることに気付いた。私が読んでいる本が、気になっているということだろうか。
「……どうかしましたか?」
「え? あ、いや、ごめんなさい。何読んでるのか、気になっちゃって」
「そうですか」
女性店員に対して問いかけてみると、とても軽妙な答えが返ってきた。
今日初めて会うはずの男性客が読んでいる本が気になるなんて、彼女は少々変わっているのかもしれない。
「難しい本なんですか?」
「難しい本というものがどういったものなのかはわかりませんが、これはライトノベルですよ」
私は、女性店員の質問に答えることにした。
それは気まぐれだ。特に理由などはなく、聞かれたから答えただけに過ぎない。
どうせ目の前の彼女とは、今日限りの付き合いだ。そんな考えもあってか、私の口はいつもより軽くなっているのかもしれない。
「ライトノベル……わあ、可愛い女の子」
「堅苦しい本ではありません。ですが面白いものですよ」
「ちょっと意外かも。おじさんみたいな人が、そういうの読むなんて」
「おじさん、ですか」
女性店員の言葉に、私は思わずオウム返ししてしまった。
すると彼女は、目を丸める。自らが失言をしたと、思っているのかもしれない。
「あ、ごめん。お兄さん、だよね。別におじさんに見えていた訳ではなくてね……」
「いいえ、構いませんよ。老け顔の自覚はありますから」
「あ、うん。えっと……え?」
動揺しているのか、女性店員は気軽な口調になっていた。
それを咎めようとは、別に思わない。口調などというものは、私にとって大した問題ではないからだ。
「老け顔って……お兄さん、何歳なの?」
「今年で二十歳になります」
「二十歳……二十歳っ?」
女性店員が大きな声を出したのと同時に、店内の視線が全て私に向いた。
皆、一様に信じられないというような顔をしている。そういった光景は見慣れているため、特に驚きはない。私は実年齢よりも、高く見られがちだ。
「嘘っ……私と四つしか違わないの?」
「私はあなたの年齢を知りませんからなんとも言えません」
「か、貫禄があるよね」
「ありがとうございます」
ゆっくりと目をそらす女性店員に対して、私はとりあえずお礼を述べた。
彼女は、どうやら高校生であるらしい。丁度春なので、入学してバイトを始めたといった所だろうか。
そんなことを考えながら、私はコーヒーを飲む。これを飲むのも、今日が最後だろうか。特別おいしいという訳でもないが、気に入っていたため少し残念ではある。
「……今日はもう帰ります。会計をお願いできますか?」
「え? あ、その、ごめんなさい。私のせい、ですか?」
「いえ、そういう訳ではありません。ただ私がいると、皆さんの憩いの時間というものを邪魔してしまうというだけです」
コーヒーを飲み終えてから、私はこの場を去るべきだと思った。
落ち着くというには、目立ち過ぎてしまっている。これからも視線は集中するだろうし、その中で読書というのも難しいものだ。
「重ね重ね言っておきますが、あなたに非はありません。あなたはこれからも、今の自分を突き通せば良いと思います」
「そ、それって、どういうこと?」
「あなたのような人間の方が、多くの人を笑顔にできるということです」
私は、財布の中から三百円を取り出す。少し高くついたような気もするが、気分が悪いという訳ではない。目の前の少女には、好感が持てた。その素直さというものは、私にはないものだからだ。
「あ、えっと、丁度ですね」
「……」
女性店員がてきぱきとレジを操作しているのを見ながら、私は考えていた。一体これから、休日はどのように過ごすべきかと。
また新しい店を見つけるというのも、少々面倒だ。そもそもこの辺り一帯は散策し終わっているし、その結果としてここに行きついた訳である。
いっそのこと、自室で過ごすとしようか。それも悪くはない。そもそもの話、外に出る必要があるという訳でもないのだから。
「レシートです」
「ありがとうございます」
「あ、その……」
「なんですか?」
レシートを受け取り、私は店を後にしようとした。
そんな私のことを、彼女は呼び止める。まだ何か、言いたいことがあるということだろうか。
「また来てくださいね」
女性店員の言葉は、意外なものという訳でもなかった。
去る客にそう言うのは、むしろ当然だ。そうやって再来店を願うというのは、店として至極全うな対応だといえる。
しかしその言葉というものは、妙に私の心に残っていた。それは彼女のことを好ましく思ったからだろうか。彼女がいるから、私はこの店にもう来店したくないと思っていたというのに。
「……ええ、また気が向いたら」
「……待ってますね!」
私の曖昧な返答に対して、女性店員は笑顔を返してくれた。
その笑顔だけで、私にとっては充分だ。この店には、もう二度と来ないだろう。そう思いながら、私は歩みを進めるのだった。
◇◇◇
喫茶店を出て行ってから、私は適当にぶらぶらとしていた。
あそこに代わる新しい店が見つけ出せるのではないか。そんな淡い希望を抱いていたのだ。
しかし、結局そんなものは見つからなかった。一度探索してあの喫茶店を見つけたのだからそれは当たり前ではあるのだが。
「我ながら無駄に歩いたものですね……」
結局、住処であるアパートまで戻って来た時には日が暮れかけていた。
文字通り無駄足でしかなかった訳だ。こんなことなら、さっさと帰って本の続きを読んでいた方が、有意義だっただろう。
「あれ? どこ行ったんだろう」
階段を上り、自室がある階まで来た私は、眉を顰めることになった。
聞こえてきているのは、女性の声だ。その言葉からすると、大方鍵でもなくしたのだろう。
気の毒な話であるとは思うが、別にそのことに関して私が協力できることはあまりなさそうである。とはいえ、同じ階の人間だ。付き合いとして、話くらいは聞いた方が良いかもしれない。
「……」
そんなことを考えていた私は、部屋のドアの前で鞄をひっくり返している少女の姿を見て、足を止めることになった。その金髪に、見覚えがあったからだ。
しかしそのようなことがあるだろうか。あそこは私の隣の部屋だ。その住民のことを、私が知らない訳がない。
そう思ってから、私は思い出した。そういえば最近あの部屋に誰かが引っ越してきた形跡があり、挨拶などがあるかもしれないと身構えていたことを。
「……おじさん?」
そこで少女の視線が、私の方に向いてきた。
彼女の方も、目を丸めている。ここで私と会うなんて、当然思っていなかったのだろう。
それから彼女は、大きく口を開いた。それはなんというか、何か自分が間違ったことをしたと悟ったかのような表情だ。
「ごめん、お兄さんだったね」
「……別にどちらでも構いませんよ」
少女の口から出てきた言葉に、私は頭を抱えることになった。
今重要なのは、どう考えてもそこではない。もっと驚くべきことが、あるだろうに。
「……あなたが隣の住人だったのですね」
「え?」
思いがけない再会に動揺していた私は、なんとか冷静さを取り戻していた。
この辺りにある店でバイトしているのだから、別に近くで暮らしていてもおかしな話でもない。それが隣の部屋であったことは予想外ではあるが、状況的には理解することはできる。
そう自分を納得させていると、少女が自身の隣に位置する角の部屋を見つめていた。そこで誰が暮らしているのか、彼女も理解したのだろう。
「え? お兄さんって、お隣さんだったの?」
「ええ、あなたが見ていたのが私の部屋です」
「そうだったんだ。あ、ごめんね、挨拶が遅れちゃって」
「いえ、お気になさらず。忙しかったのでしょうから」
諸々の事情から考えると、彼女は高校進学とともにこちらに越して来たのだろう。慣れない新生活の中で、挨拶を求めるのは酷な話だ。
そもそも正直な話、私は挨拶が必要だと思ったこともない。どうせ付き合いもそこまで多くはならないだろうし、ないならないでやりようはあるだろう。
「それで、どうかしたんですか?」
「あ、その、鍵を失くしちゃってさ……部屋に入れないんだよね」
「心当たりなどはないのですか?」
「どうだろう? どこかで落としたのかな?」
「わかりました。とりあえず管理会社に連絡しましょう」
少女の悩みは、大方私が予想していた通りのものだった。
鍵の紛失――というよりも、ここで問題が起こった場合は、とりあえず管理会社に連絡する方が良いだろう。
「あ、待って。それなら私が……このアパート、私のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんのだから」
「……なるほど、そういうことでしたか」
スマートフォンを取り出そうとした私は、手を止めることになった。
あの喫茶店のマスター夫妻か、はたまた別方の祖父母か、どちらにしても彼女の祖父母がアパートのオーナーであるらしい。
そういうことなら、そちらから話を通してもらった方が早いだろう。そちらの方が、管理会社も迅速な対応を心掛けてくれるはずだ。
「あ、お祖母ちゃんが対応してくれるって」
「良かったですね」
メッセージが送られてきたのか、少女は私に笑顔を見せてきた。
それにしても、やり取りが早い。目の前の彼女はともかく、彼女の祖母は老人といえる年齢だろうに、中々に最新鋭の機械を使いこなしているようだ。
何はともあれ、これで問題も解決することだろう。後は私が与り知る所ではない。
「えっと、これからどうしよう……」
「はい?」
「いや、部屋に入れないからさ。どこかで時間を潰さないといけないかなって」
自室に入ろうと歩き始めようとした私は、またその動きを止めることになった。
言われてみれば、部屋には入れない以上、彼女はどこかに行かなければならない。ここに私が着いた時よりも、日は沈み始めている。今から出掛けるとなると、確実に夜になるだろう。
「喫茶店などに行くのなら、お送りしますよ」
「え? あ、いやありがたいけど、お店はちょっと遠いし……そうだ。お兄さんの部屋にいさせてもらえない」
「私の部屋ですか?」
少女の言葉に、私は少し驚いた。
それは私にとっては、まったく予想していなかったことだからだ。
彼女の警戒心というものは、薄いということだろうか。それとも私が、既婚者などだと思ったということだろうか。
「それは駄目です」
「え、なんで?」
「私があなたを部屋に入れたら、事案になります」
「事案って……お兄さん、二十歳だったよね?」
「私は社会人で、あなたは学生です。そこには大きな隔たりがあるのです」
少女からの提案を、私はきっぱりと断った。
それがまずいことであるということは、言うまでもない。ここは断固とした態度を突き通すべき時だろう。
「近所のファミリーレストランにでも行きましょう」
「いや、お兄さんの理論ならそれも事案なんじゃないの?」
「しかしあなたを一人にする訳にもいきません。もう辺りも暗いですからね」
「それはそれで心配し過ぎじゃない? まあ、お兄さんがいいならいいけど」
部屋に連れ込むということは、二人で食事をすることとは大きな差がある。本当はそんなこともしたくはないが、今は多少のことは目を瞑るべきだろう。彼女に夜道を一人で歩かせる訳にもいかない。
ファミリーレストランに送った後は、保護者の方を呼んでもらう方がいいかもしれない。いやその前に、私のことを報告しておくべきだろうか。
「ご家族の方に繋いでもらってもいいですか?」
「え? なんで?」
「あなたを送り届けることを報告しておいた方がいいでしょう。後から事実を知られると、色々と言われるかもしれません」
「いや、それは流石に大丈夫だって。私の家族もわかってくれるし。というかお兄さん、気にし過ぎじゃない?」
私の言葉に、少女は少し引いているようだった。
形式というものに、私はこだわり過ぎているということだろうか。その自覚というものが、ない訳でもない。
そういうことなら、このまま送り届ける方が良いだろうか。別に私も、面倒なことがしたい訳ではない。彼女が無事であるのなら、多少のことに目を瞑るとしよう。
「わかりました。それなら行きましょう」
「き、聞き分けがいいね?」
「言っておきますが、私も面倒なことがしたいという訳ではありません。ただ面倒を避けた結果、余計な面倒を被りたくはないというだけです」
「そうなんだ。でも、その割には私のことを助けてくれるんだね?」
「それは私の義務だからです」
私は何も、正義感とか優しさから彼女を助けようとしている訳ではない。
社会人となった私には、まだ庇護下にあるべき者達を守る義務というものがある。それを果たそうとしているだけだ。
「義務って、それはなんか堅苦しくない?」
「堅苦しくても結構です。私が勝手にやっていることですからね。それよりも早く行きましょう。夜は冷えますよ」
「あ、うん」
私の言葉に、少女は鞄にものを詰め始めた。
鍵を探すために、ひっくり返したものは、かなりがさつに入れられているような気がする。急かしてしまったのなら、申し訳ない。
とはいえ、辺りが冷え込み始めているというのも紛れもない事実である。このままここに留まっていたら、風邪を引いてしまうかもしれない。
「……そういえば、まだお兄さんの名前を聞いていないね?」
「ああ、そういえばそうでしたね。申し遅れました。私は倉持陽斗、と申します」
「倉持さんだね。私は西宮詩織」
「西宮さんですか。よろしくお願いします」
これ程までに話していたというのに、名前も知らなかったというのはおかしな話だ。
いやそもそも、彼女とこうして話すことになるなんて思ってもいなかったことである。もう二度と会うことはないと、そう思っていたくらいだ。そう考えると、奇妙な巡り合わせである。
必然的に、彼女とはこれからも付き合いが続いていくことになるだろう。もっとも、今日程に深く付き合うことは、そうないことではあるだろうが。