第7話【新千葉駅発、マイリンゲン着・運命急転】
引用する文章は、オリジナルのもの以外は著作権切れの作品から借用させていただいています。
以下文章は萩原朔太郎(1939),『宿命』に収録された『運命への忍辱』,創元社より引用。
『とはいへ環境の闇を突破すべき、どんな力がそこにあるか。齒がみてこらへよ。こらへよ。こらへよ。』
【20】
海の潮に似た、しかし致命的に違う臭いに心を拐かされ、誘蛾灯に集る蟲が如くに、俺はリビングの中心のカーペットに足と視線を向けた。
そのカーペットに転がっていたのは、さっきまで俺を妖艶に弄んでいたはずの心春ちゃんだ。
だが、この彼女には頬に一筋の切り傷が刻まれており、しかもそこから流れ出たのだろう生命の朱雫は乾ききっている。
そして、死んでいるかのように微動だにしていない。
「……心春、ちゃん」
噛み殺すことができず、俺の喉の奥から漏れ出た驚愕に震える言葉は、暗闇と雷雨の音が支配する部屋に存外響いた。
雷光によって、彼女の状態が一層鮮明に照らされる
その光に僅か一拍遅れて、轟と、かなり近くで雷が腹に響くほどの音量で鳴った。
「……ッ!」
轟音によるショック療法か、立ちすくんでいた俺は身体の自由を取り戻し、心春ちゃんの生死を確認するためにすぐ傍に寄ってしゃがみこんだ。
上体を起こさせ、生きているのか、呼吸しているのかを探る。
……よかった。息はしている。ただ、この傷は何だ?
頬の切り傷から流れ出たのであろう血は完全に乾いており、血痕の原因となった傷が数時間前に負ったものであることは、医術の知見など無い俺でも一目見て分かった。
そして近づいて分かったのだが、この心春ちゃんは露出狂の一件があった夜と同じようなポニーテールであり、髪の毛も完全に乾いている。
今日の蠱惑的な心春ちゃんは、頬にこんな切り傷などはなかったし、髪の毛も風呂上がりだからとわずかに濡れていた。
……なら、俺に応対していた心春ちゃんは、誰だ?
そんな疑問が浮かぶのと同時に、この部屋に満ち満ちていた海の潮に似た臭いの発生源が、未だ死んだように眠っている彼女ではないことに気が付く。
だが、すぐ傍だ。
発生源の正体に目を向けようとして──リビングの全照明が一斉に点いた。
「な!」
「ダメじゃないですか♡リビングは散らかってるから入っちゃダメって言ったのに♡」
部屋が明るくなったのと同時に、俺は反射的にリビングの入り口に振り返った。
そこには照明のスイッチを押した人物──もう一人の心春ちゃんが、その小さな体躯と幼い顔に見合わない艶容な表情で、俺をじぃっと濡れた視線で見つめている。
スカートと、前ボタンが1つも留められていない羽織っただけのワイシャツという服装の彼女は、幼いながらも僅かながらに女性的な曲線を帯びている身体が晒されており、半赤裸というべき煽情的な格好だ。
だが、俺はそんな彼女の装いからも、彼女の妖しい淫蕩な表情からも、一切のエロティシズムを感受することは不可能だった。
ただひたすらに、目の前の少女の形を取ったナニカに、魂が悴む程の恐怖と違和を覚えていたから。
雷の轟という音と共に、海の景色を楽しむためにガラス張りになっているのであろう、この部屋の展望回廊を想起させる壁の一面から白い稲光が飛び込んできて、部屋を一際明るく照らした。
「……お前は、誰だ?」
「あはっ♡心春ちゃんですよ♡」
「……違うだろ」
「ふふ♡せっかくこの身体の使い心地を確かめる相手にしてあげたのに、可愛そうな人♡お風呂で死臭を落として、準備して待ってたのなぁ~♡」
心春ちゃんとは露出狂の一件でしか話したことはないが、絶対にあの時の彼女ではないことは分かっていた。
だが、死臭?
俺に上体を起こされている彼女は、確かに死んでるように意識を失っている。
しかし、死んではいない。
呼吸だってちゃんとしているし、彼女の小さな体躯を震わす鼓動を俺の手は認識していた。
「……誰か殺して、このマンションに逃げ込んだのか?」
「っぷ、あはっ♡殺して、私が逃げ込んできた?貴方、まだ気づいてないの?そ♡れ♡に♡」
「それ?」
少女の形をした恐怖は、俺の背後を指さした。
振り返り、『それ』と呼ばれたものを視認する。
視界に入っても、しばらく俺は『それ』が何なのか理解することができなかった。
「 ……ッ?!」
だが、『それ』が何なのか理解した瞬間、激烈な恐怖と吐き気を催す嫌悪感が腹の底から湧き上がって来て、思わず腕の中の心春ちゃんをはねのけて立ち上がってしまった。
床に頭をぶつけた彼女が、「うぅ」と小さく呻く。
「あはっ♡本当に気づいてなかったんだ~♡パパの死体に♡」
俺が背を向けているリビングの入り口から、足元から聞こえた心春ちゃんの呻き声と全く同じの、しかし、果てしない悪意が塗りたくられた声が聞こえた。
一目見ただけでは分からないが、『それ』は恐らく成人男性の遺体だ。
一目見て分からなかったのと、恐らくという言葉が付くのは、『それ』がもはや血みどろの肉塊というべき暴状を呈していて、成人男性位の大きさであることしか分からないからだ。
頭部、胸部、腹部、腕部、脚部の肉体全てを、鋭い刃物によるものであろう刺し傷が刻まれている。
どれが致命傷なのかも分からない。
いっそ、丹念な料理の仕込みとも形容できそうな、絶対に傷がない場所を作ってやらないという狂気的執着さえ覚えた。
腹部の裂傷からは、赤黒く固まった血と数多の刺撃によって元の形を失った臓腑群、そしてそこから漏れ出た消化液などの体液の混合物が漏れ出ている。
「うっ!」
海の潮のような臭いの発生源は、人としての尊厳まで毀損されたこの惨殺死体だ。
潮の臭いは、幾多の魚の死骸や死滅したプランクトンによって発生する腐敗臭だというどこかで聞いた話を、恐怖に打ち据えられた頭の隅で回想していた。
潮の臭いと違ったのは、あらゆる生き物が本能的に最も嫌う同種の死臭が混ざっていたからだろう。
「あはっ♡吐いちゃだめだよ♡」
「……!」
「吐いちゃったら──もっとオシオキしなくちゃダメだから♡」
リビングの入り口から聞こえていたはずの声は、遺体に忘我している間に俺のすぐ背後に移動している!
なぜ俺はこんな得体のしれない存在に背を向けたんだ!
しかし、そんな後悔は遅すぎた。
「えい♡」
身体をそちらに向けた瞬間、腹部に強烈な灼熱感を感じる。
ついで、硬質な何かに身体を貫かれている違和感、臓腑を無遠慮に直接握られるような拒絶感、最後に、今までの人生で感じたことのない激痛が襲ってきた。
ああ、骨折した時も、痛みより早く熱感があったなと、まだわずかに残っていた頭の冷静な部分で過去を思い帰す。
俺の腹部には、包丁が深々と突き刺さっていた。
【21】
「ぐッ!! ガァァアアアァァァァ!!」
「も~♡歩生さん叫びすぎ♡ど~ん♡」
「ガァ!! クハッ!!」
痛みに叫んでその場に蹲った俺を、心春ちゃんは──いや、彼女の形をしたナニカは、思いっきり蹴り飛ばした。
倍近い体重差であるはずなのに、俺の身体は軽々と蹴り飛ばされて、リビングのガラス張りの一面に背中を強打する。
肺の空気が強制的に抜け、間抜けな声が喉で鳴るのを止められない。
そして、蹴られた勢いで刺さっていた包丁が抜けたため、俺の身体を廻っていた熱い血潮が抜け、冷たい死に近づいていくのが分かる。
……だが、冷えていくおかげで、目の前の存在の正体がようやく分かった。
体重差のある俺を容易く蹴り飛ばせる膂力、心春ちゃんの姿になる『異能』。
コイツは──
「……『変質者』!」
「せいか~い♡」
少しでも傷口からの出血を抑えるために腹に手を当てながら、俺はそう叫んだ。
奴はその言葉を、包丁を拾いながら肯定する。
クソ! この部屋で眠っていた心春ちゃんを見つけた時点で違和感を感じ、管理局か警察に連絡するべきだった! この状況ではもう通報できそうにない!
「も~♡にぶちんだな~♡ようやく気が付いたんだ♡」
「……」
……どうする? 俺も『変質者』であることはまだバレていない。
同種であることを明かし、媚びへつらうか?
それとも、イチかバチか奴に催眠をかけるか?
『タコ糸で縛った5円玉を使った他者催眠』と『鏡に映った自分を介してかける自己催眠』しか使えないのに?
血が抜けて死が近づいていくにつれて、頭も冷えて思考が冴えていく。
その頭で、思考で、生き残るための最善手を打つために、黙して考察を続ける。
そんな俺の様子を見て、奴は獰猛に笑い血がべっとりと付いた包丁を口元へと運んだ。
「貴方も悪くない顔だし、私のストックに加え……へぇ」
「……?」
俺の恐怖を煽るためか、包丁に付着した血液を奴は舐める。
その瞬間、奴は酷く興味深げな表情を覗かせた。
今までのどの表情とも違う、純粋に驚いたかのような表情だ。
血を舐めただけでそんな顔をする理由が分からず、俺はただ奴を睨みつけることしかできなかった。
「貴方も『変質者』なんだ♡」
「なッ!?」
「最初から言ってくれればよかったのに♡野良?♡どっかのお手付き?♡」
血を舐めただけで、何故そんなことが分かる!?
奴の『異能』は『変身能力』じゃないのか!?
俺の唯一の隠し札がバレてしまい、激痛によるものではない脂汗が額から流れたのを感じた。
しかし、普通だったらとうに気絶しているかもしれない激痛と出血だったが、なかなか意識が無くならないことに気が付いた。
もしかしたら、『変質者』になったことでそういった耐性も付いたのかもしれない。
……だが、奴の言っていることは分からないが、『変質者』である俺にさっきよりも明らかにフレンドリーになっている。
媚びへつらえば、命だけは見逃してくれるかもしれない。
「しっかし、こんな偶然あるんだ~♡ここに『変質者』が三人も集まるなんて♡」
「……は? 三人?」
こんな殺人鬼の『変質者』に媚びへつらうという、そんな最悪な選択肢が浮かんだが、奴の続いた言葉に頭が真っ白になってしまった。
三人の『変質者』?
ここには俺と奴と、まだ意識を失っている心春ちゃんしか生きている者はいない。
まさか……
「この身体の持ち主も、『変質者』だよ~♡」
「あり、えない」
「私の『異能』で変身するときに記憶を読み取れなかったし、絶対に『変質者』だよ♡変身系の『欠陥』も、こういう判別には使えるから便利だよね~♡」
『欠陥』だとか、相変わらず奴が何を言っているかは分からないが、少なくとも嘘をついている様子はなかったし、嘘をつく意味もないだろう。
露出狂に襲われた夜、心春ちゃんが管理局の六華さんを避けているような、家まで送ってもらうのを遠慮しすぎているような、そんな行動や違和感があったのを思い出す。
そう言われると、『変質者』であるはずの露出狂から、数百メートル以上も逃げていたのも確かに不自然だ。
それが彼女も『変質者』であったからなのであれば、全ての行動や違和感の辻褄が合った。
「薬で眠らせてから『異能』を聞くこと忘れてたのを思い出したから、どんな変質でどんな『異能』なのかは分かんないんだけどね~♡ま、それは私の仕事じゃないんだけど♡」
「……仕事?」
これが、こんなことが仕事?
思わず、口から疑問が出てしまうのを止められなかった。
奴の機嫌で簡単に殺されてしまうかもしれないのに、その機嫌を損なうかもしれないことを。
「そ♡適当なお家に入り込んで、『変質者』が居ないか“お話”して、居るなら連れ去って売り飛ばすっていうお仕事♡結構『未届出変質者』っているんだよ♡」
「……なんで、心春ちゃんの家を狙ったんだ?」
「ん~♡可愛い女の子の学生がいる一家を狙っているだけで、特に理由はないよ♡『変質者』がいなかったら、皆殺しにするだけだし♡」
コイツのその言葉から、つい最近ニュースで見た『変質者』の事件を思い出した。
「……! 連続女学生一家惨殺事件!」
「ぴんぽ~ん♡ニュースをちゃんと見ててえらいね♡ていうか、貴方は何の変質?♡この状況で動けてないし『英雄』系じゃないでしょ?♡」
「俺も、売り飛ばすのか?」
「どうしよっかなぁ~♡かわいい女の子は、『変質者』じゃなくても“工場用”にも“愛玩用”にもなるから高く売れるんだけど、貴方みたいな男の子はなぁ♡……あはっ♡でも、私は貴方のこと気に入っちゃった♡」
「……は?」
急な奴の言葉に、俺は言葉を失ってしまう。
呆然としている俺に、奴は刃物を持ったまま近づいてきた。
そしてしゃがんで俺の顔を覗き込み、妖しく笑いながら話し続ける。
スカートと羽織っているだけのワイシャツがずれ、その中身が少しばかり見えてしまった。
どうやら、まだ下着は着ていなかったらしい。
「──私、新しい女の子の変身先を手に入れたら絶対にすることがあるんだけど、何かわかる?♡」
「……知るか」
「ふふ、私たちの体が丈夫なのもあるけど、殺されかけてるのにそうやって返せるのは才能あるよ♡『変質者』の♡」
「……こんな才能、いらなかったけどな」
「さっきの童貞丸出しの感じも可愛かったけど、今の冷たい感じもかっこよくていいと思うよ♡私の物にしたくなる♡」
俺は、さっきから痛みや恐怖以外の何かが、急速に俺の中で大きくなっていくのを感じていた。
臓腑をすべて焦げ付かせるような、地獄の業火のような激甚たる何かが。
そんな俺の内心などつゆ知らず、目の前の殺人鬼は話し続ける。
「絶対にすることの話だっけ?♡私ね、女の子を殺したり、売り払った後、その子に変身して全然知らない人に犯してもらうの♡」
「──は?」
「出会い系で相手を探したり、ホテル街で声をかけたりかけられたり、成り代わって学校に行って適当な人を誘ったりしてね♡最初は相手が嫌がってても、その気にする誘い方もいっぱい覚えたんだぁ♡お小遣い稼ぎにもなるし♡」
なぜ、俺はコイツの吐き気すら覚える気色の悪い性癖を聞かされているのだろうか。
なぜ、コイツはそんなことを俺に言っているのだろうか。
まさか、『変質者』とは皆こんなに狂っているのか。
……俺は、コイツに同類だと思われているのか。
俺の中の、業火のような何かがより一層強く燃え盛っていくのを感じる。
「だってさだってさ!♡その子の人生を滅茶苦茶にして!♡男どもに身体も犯させて穢させると!♡『ああ、私はこの子の尊厳をぶっ壊せたんだな』って実感できて!♡最ッッ高に気持ちよくなれるんだよ!!♡」
コイツは心底そう考えているのが分かる、そんな邪悪と悦楽に蕩けた表情をしてそう言った。
腐った花のような、甘ったるい臭いを漂わせながら。
俺の眼をどろりとした情欲で濁った眼で見つめながら。
……ようやく、業火が如くに滾る俺のこの感情の正体が分かった。
「ま、その後男共は殺すんだけどね♡気持ち悪いし♡」
「……それを俺でやる気だったのか?」
「だいせいか~い♡でも、貴方が童貞さん過ぎて全然乗って来なかったからできなかったけどね♡」
「……悪いな。『幼女偏愛』の『変質者』じゃなくて」
「あはっ♡でも、私は貴方が乗って来なくて良かったよ♡ほかの男たちみたいに殺しちゃうところだったから♡……だから、貴方は私の奴隷になって♡そうしたら殺さないであげる♡」
「……奴隷?」
腹の底、丹田辺りから湧き上がってくる臓腑全てを焼き尽くすが如き感情の正体。
それは怒りだ。
俺はこの目の前の『変質者』に対し、激甚な怒りを抱いている。
今すぐにでも喉元に喰らい付き、噛み千切ってしまう程の、もしくは幼い少女の身体であっても顔面を思いっきり殴りたくなる程の激烈な怒り。
痛みも出血も、もう一切を忘れていた。
「うん♡私の奴隷になって♡」
「なんでだ?」
「最近思うんだぁ♡確かに私はこの子の人生を滅茶苦茶にできたけど、もっとも~っと穢せるんじゃないかって♡そうしたら、もっともっとも~っと気持ちよくなれるんじゃないかって♡脊髄を直接甘噛みされるみたいな、極上の快楽があるんじゃないかって!♡」
「……」
「でねでね!♡思いついたの!♡私は女の子を殺すか売り払ってるだけだけだし、あくまで本人と同じ身体に変身して男共に穢させるけど、それってホントに本人の尊厳を穢せてるのかなって!♡じゃあ、殺したり売り払う前に本人を犯せば、もっと穢せるんじゃないかって!♡」
「……お前が男に変身して犯せばいいだろ」
気持ち悪い上、中々要点を話そうとしないコイツに苛立ちが募る。
とっとと要点を言え。
話が長い奴は嫌いなんだ。
それに、俺はコイツと一秒たりとも余計な会話をしたくない。
話を聞きたくもない。
だが、コイツは管理局の一等官を殺した『変質者』だ。
まだ変質して一日しか経っていない俺が、怒りに任せてどうにかできる相手ではないだろうし、ここにはまだ意識を取り戻していない本物の心春ちゃんもいる。
どうにかしてこの場から彼女を連れて逃げ、管理局に通報しなければならない。
この脳の血管が切れて憤死しそうな程の怒りを、俺の精神の獄舎に封じ込めてでも隙を窺う。
こらえろ、こらえろ。
一瞬たりとも、絶対に隙を逃すな。
「女心が分かってないなぁ♡そんなだから童貞さんなんだよ♡」
「ほっとけ、ていうかお前女なのか?」
「ひど~♡正真正銘女の子で~す♡あはっ♡それが貴方の素?♡いいね♡うん、そっちのほうが好きかも♡」
このクソ女は、どこまでも人の神経を逆撫でるのが好きらしい。
殴りそうになってしまったが、自分自身の傷口を思いっきり抑えつけて自制する。
激痛は一瞬だけ走ったが、すぐに激情の奔流によって上書きされてしまった。
「管理局の“首輪付き”共から逃げる時は仕方なく変身するけど、私は男なんてなりたくないからさ♡私の代わりに貴方が女の子を犯してよ♡ね♡ね♡いいでしょ?♡人の尊厳を滅茶苦茶にするのは、すッッッごく気持ちいいよ!♡共犯者になっちゃお♡」
「……」
「え~♡だめ?♡仕方ないなぁ♡じゃあ私もいっぱい相手してあげるよ?♡二十人ぐらいの可愛い女の子に変身できるし♡このちんまくて貧相な身体じゃなくて、もっと肉感的な子が良かった?♡それとも好きな人がいる?♡その子に変身してあげようか?♡遺伝子を取り込む必要があるから、殺しちゃうかもだけど♡」
「……」
「ふふ♡このままじゃ貴方死んじゃうよ?♡私の奴隷になりますって言って、跪いて足に口付けしてくれたら医者に連れて行ってあげる♡闇医者だけど、治癒系の『異能』持ちだから普通のお医者さんより腕いいし、傷も残らないよ♡」
「……二つ、聞かせてくれ」
「いいよ♡労働条件を聞きたくなるのは当たり前のことだもんね♡」
黙れ。
そう言いそうになったが、唇を噛んで言葉を紡ぐ前に殺す。
ただ、強く噛みすぎたせいで口の中に鉄の味が広がった。
「お前は、可愛い女の子の学生がいる一家を狙っているって言ってたが、何でだ?」
「え~♡可愛い子ってさ、それだけで幸せそうだと思わない?♡ずるいと思わない?♡そんな子の家族を滅茶苦茶にしたら、絶対気持ちいいだろうなって思わない?♡」
その目は爛々と狂気的な光が宿っていた。
直視しただけで嫌悪感を持つ、そんな厭らしい下品な光だ。
「次♡早く早く♡最後の質問は?♡」
「……俺を奴隷にしたとしても、飽きたら殺すんだろ?」
「……あはッ!♡でも、今死ぬよりは長生きできるよ♡」
想像通りだ。
コイツは直接的に答えなかったが、その言葉は俺の運命を示していた。
俺も結局はコイツの欲望を満たすために使われて、飽きたらぼろ雑巾のようにして殺すのだろう。
コイツが……いや、コレが『変質者』か。
俺は、コレと同類になってしまったのか。
こんな、唾棄すべき存在と同類に。
「あはっ!♡いくら私たちの身体が強靭でも、もうそろそろ限界じゃない?♡ちくたくちくたく♡早くしないとここで死んじゃうよ♡」
「……ここで死んじゃうよ、か」
「景色はいいけど、死ぬのは怖いでしょ?♡ね♡早く奴隷になってよ♡」
俺は展望回廊のようになっているガラス張りの壁一面から、背中をその壁に預けたまま首だけを回して夜の海を眺めた。
高層マンションの34階だからか、かなり見晴らしがいい。
雨雲のせいで天に星は見えないが、遠くの陸地や橋には建物の明かりや車のライトが流れ星のように去っていくのが見えた。
眼下の東京湾にその光が反射していて、まるで真下が星空で上空が静寂な夜の海を想起させるような、世界が逆さまになった幻想的な都会の夜景。
最後に見るかもしれない景色だとしたら、中々上等な部類だろう。
「あと5秒ね~♡」
そんな綺麗な夜景だが、それを見ても俺の怒りは一切留まることを知らなかった。
身体からどれだけの血が流れ出たのかは知らないが、未だ俺の身体は熱く──いや、今までの人生でも最も熱くなっていると断言できる。
血液が質量と途轍もないエネルギーを保持し、煮え滾るマグマになってしまったのかと本気で錯覚してしまった。
「よ~ん♡さ~ん♡」
明るい室内と暗い屋外の明度差で、ガラス張りの壁に俺の顔が映っていた。
地獄の責め苦に遭う捕囚のような表情の、唇から血を流している自分でも見たことがない形相だったが。
……ああ、そうか。
ようやく気が付いた。
俺が一番に憎悪しているのは、俺自身だ。
このクソビッチに、未だ僅かながらにも媚びればいいと考えてしまっている、この生き汚く醜い俺自身だ。
どうせ媚びて奴隷になっても殺される。
奴隷にならなくても殺される。
そして、心春ちゃんは俺がどっちを選んでも殺される。
「に~~い♡」
絶望のカウントダウンが進む。
ただ、俺の恐怖を煽るためにか、カウントダウンが進むにつれて間隔は伸びて、声に含まれる嗜虐の色は濃くなっていく。
「い~~~ち♡」
なら、どっちも生き残れるかもしれない可能性に、俺の全存在、全努力、全能力を捧げよう。
それが、俺が目の前の『変質者』と同類ではないと確信でき、自分自身に絶望せず、人間としての尊厳を守るための唯一絶対の方法であると確信した。
『タコ糸で縛った5円玉を使った他者催眠』と『鏡に映った自分を介してかける自己催眠』しか使えない俺だが、この状況の打開策を閃いたのだ。
「ぜ~~~~」「分かった!……奴隷になる」
「ん~♡奴隷に、なる?♡それに、ご主人様にお願いする時はどうするの?♡」
「……奴隷に、してください」
この打開策を実行するためには、少し隙が必要だった。
その隙を生み出すため、腹の傷を右手で抑えたまま、左手だけで三つ指をつき、頭を深々と地に伏せる。
フローリングの上だが、土下座だ。
人生で初めて土下座などした。
テレビや漫画などでしか見ない、人としての尊厳を捨て去った謝辞。
俺の人間的なプライドなどどうでもいい。
むしろ酷い屈辱を感じるのが、俺がまだ人間であることの、すなわち目の前の『変質者』の同類ではない証明のような気がして、いっそ心地よさすら感じた。
「あはっ!♡うんうん!♡不格好だけど、気持ちが伝わるいい土下座だね!♡プライドないのぉ♡……ほら、そんなに私の奴隷になりたいなら、キスしていいよ♡」
「……ッ!」
自分の思い通りに事が進んだと考え、悦んでいるのだろう。
少しでも油断させる。
それが奴の隙になるはずだから。
だから、この憤怒には鉄蓋をする。
クソビッチは俺の頭をぐりぐりと踏んだ後、地に伏す俺の眼前にその小さな足を差し出してきた。
これだ!
これを待っていた!
俺はその足を恭しく左手で掴み──キスなどせず、全身全霊の力で引っ張った!
「なっ!」
完全に降伏したと思っていたのであろう俺の突然の抵抗に、奴は何の抵抗もできずに体勢を崩し尻もちをついた。
そして俺は今まで苦心して抑えつけていた、もはや殺意と形容すべきまで煮詰まったドス黒い感情のままに拳を振るう。
「クソビッチが!! 喰らえ!」
「死ねッ!! ガァ!!」
だが、奴も『変質者』。
すぐに手にしていた包丁を俺の突き立てようとする。
しかし、小柄な心春ちゃんの身体の腕では、いくら包丁を持っていても予め行動をシミュレートしていた俺のが速く攻撃が届く!
包丁が俺の頬に傷をつけたものの、拳が顎を強かに打ち抜くほうが速かった。
「邪魔だ!」
「グッ!! ガァァアアアア!!」
怯んだクソビッチに立ち上がりながら肉薄し、その薄い腹に蹴りを叩き込む。
金属製の組み立て式ベットをマットや布団が乗ったまま、片手で持ち上げられる腕の数倍の膂力を発揮する脚撃に、奴は軽々と蹴り飛ばされてリビングの入り口近くの壁に激突した。
「今!」
俺はすぐさま気絶している本物の心春ちゃんを回収する。
もともとデットリフトの100キロぐらいで鍛えていたのだ。
『変質者』になった今なら、40キロもないだろう彼女など片手で持ち上げられる。
「入り口のほうに蹴り飛ばすなんて、お前は間抜けな……は!?」
「間抜けはお前だ!」
奴も俺が逃げようとしているのに気が付いたのだろう。
すぐさま奴は、この34階の中空監獄で唯一の出口であるリビングの入り口で俺たちを待ち構える。
その行動が、俺の想像通りなんて知らずに。
……ああ、相手が想像通りに動いてくれるのは、最高に痛快だ。
それが最悪な輩ならばより一層に!
「どこへ行くつもり?!」
先までの余裕が無くなった奴の声を背後に、俺は駆け出した。
遺体はそのままだ。
心春ちゃんしか逃がせないが、どうか赦してくれと阿多古さんに心中で謝る。
より加速し、俺はガラス張りの壁一面へと突っ込んでいく。
近づいてくるガラス張りの壁は、相も変わらず室内外の明度差で俺の姿を映していた。
まるで鏡のように!
鏡があれば、『鏡に映った自分を介してかける自己催眠』が出来る!
ガラスに映った近づく自分自身の眼を睨みつけ、心の底から叫んだ!
「『俺は!! ガラスなんて!! 砕ける!!』」
心春ちゃんを片腕で掴んだまま、反対の半身を反らして極限まで背筋を縮ませ、圧縮された筋肉によって生み出されたエネルギーを爆発的に解放させた。
雷が落ちるよりも大きな轟音。
俺が殴りつけたガラスは強化ガラスだったのか、一部分だけでなく瞬間的に全面へ罅が入り、そして『砕けた』。
材料力学Ⅱの講義で学んだ、強化ガラス特有の割れ方。
俺の拳も砕けたが、十分すぎる成果だ!
「はは!」
拳を振り抜いた勢いのまま、俺はリビングの向こうの夜闇と雷雨に身を投げる。
決して離さないように本物の心春ちゃんを抱きしめるように持ち替え、自身に暗示をかけたとき特有の心地よい酩酊感に陶酔しながら。
なるほど、マイリンゲンのライヘンバッハの滝に飛び込んだシャーロック・ホームズは、こういう気持ちだったのかと思いを馳せながら!
……いや、ホームズは敵と滝壺へと飛び込んだんだったか。
感想と評価、たくさん下さい。
私が『承認欲求』の『変質者』になるのを防ぐためにも、いっぱいお願い申し上げます。