第6話【新千葉駅発、・運命流転】
以下文章は洲崎芽美(2021),『変質者学を修める人のための基本知識』,水鏡社,3貢-4貢より引用。
『──『変質者』という呼称は本来、強い願望や衝動、欲求により肉体や精神構造が変質し、それらの渇望を満たすための超能力や異能と呼ばれる力を得た者の総称である。
『変質者』という名称の由来は、『Traité des Dégénérescences』(著:Bénédict Augustin Morel,1857)によって定義されたフランス語の変質した者や退廃した者、犯罪を行なった者を意味するdégénéré(デジェネレ)だ
1866年に江戸幕府が幕府軍をより西洋的に整備したいという思惑でフランスに働きかけ、来日した軍事顧問団によって神力隊がdégénérés troupe (デジェネレ トルプ)と呼称されたのを洋学者が変質者の部隊と訳し、それが全国に広まった説が有力である。
現代では『変質者』と呼ばれる特殊な能力を持った人々は、『変質者』と呼ばれる以前までは覡や化身、愛し子として仏教や神道、修験道といった宗教が主な思想基盤であった近代日本までは広く重宝、崇拝されていた(妖怪や妖術使い、蕃神等と呼ばれて批難された者も一定数存在した)。
一神教が主流のヨーロッパ圏ではウィッチやサタナス、デジェネレと呼ばれて基本的に排斥の対象であったこと(治癒系の異能等を持つ者は神の御業、奇跡として協会に保護されてはいた)が、それぞれの呼称と対照的文化背景から伺えるだろう。
しかし、時の流れと共に西洋的宗教観や思想基盤が流入したのか、現代日本でも『変質者』という言葉が能力を持つ人々だけでなく、性犯罪者や不審者等をも示す言葉になってしまっているのは、偏見や差別を助長させかねない由々しき事態だ。
本書では、元来の意味の『変質者』と俗語的に使われている変質者という単語を区別するために、元来の意味での『変質者』を記述する際は──(以下省略)』
【17】
外から大粒の雨がアスファルトに身投げする音が聞こえる。
次いで、ツンとした嫌な臭いが鼻を刺してきた。
……何があった? どうして俺は風呂場なんかでうつ伏せで寝ている?
ようやく意識が明瞭としてきた。
酷くのどが渇いている。
……昨日は能力の検証をするために自分に催眠をかけて……確か、『俺はスクワットが好き』という暗示を……ああ、ようやく思い出した。
あの催眠をかけた後、スクワット以外のことに興味がなくなり、多分4時間ぐらいずっとスクワットを続けてしまったのだ。
水も飲まず、休息も取らず、ずっと。
そのせいで脱水症状を起こし、体温も上がって日射病に近い状態となり、最後はゲロを吐いて気絶に近い形で意識を失ってしまった。
お陰で、今の俺の服は吐瀉物まみれだ。
いや、昨日は昼飯以外には何も食べていなかったので、吐瀉物というよりも胃液と言った方がいいのかもしれない。
シャワーで洗い流せるので、風呂場で気絶したのは幸いだった。
「……俺の能力、使いづらすぎだろ」
まさか、自分自身すら殺しかけるとは。
スクワットのしすぎで風呂場で死ぬとか、恥ずかしいにも程があるだろ。
『『変質者』の能力は大体気絶させれば解けるはず』と、露出狂を気絶させた六華さんは言っていたが、それは俺には当てはまっているらしい。
もしそれでも催眠が解けなかったらを考えると、背筋が冷たくなるのを感じた。
凛菜に『何もしないでくれ』と催眠してしまった時、呼吸すらしなくなったのを思い出す。
やはり、俺の異能は使うのが難しすぎる。
今後はもっと慎重にならなくては。
「やべ! 今何時だ? 阿多古さんからの着信を無視しちまった」
服を着たままシャワーを浴び、付着してしまった胃液を洗い流していると、昨日の夜に着信があった事を思い出した。
スクワットをしていて出られなかったが、時間的に阿多古さんからの連絡だろう。
今日の夜に一緒に食事をする約束をしているのだから。
服を脱ぎ捨て、タオルで体を拭きながら部屋に向かう。
スマホを見ると今は12時前のようで、昨日の20時過ぎ辺りに阿多古さんから2回ほど着信があった。
申し訳なさを感じながら、折り返し連絡をする。
怒ってなければいいのだが。
『……はい、阿多古です』
「もしもし、白浜です。心春ちゃんだよね? お父さんはいるかな?」
『歩生さん! すみません、父はクライアントの方に呼び出されちゃって、今はお家にいません。……食事の件ですよね?』
数コールの後、電話に出たのは心春ちゃんだった。
電話相手が俺だと分かると、事務的な応対の声色から、前にあったときのような喜怒哀楽がはっきりわかる声色になった。
お父さんに代わってもらおうと、俺はそう言葉をつづけたが彼は今不在らしい。
だが、彼女も夜にご飯を食べることは知っていたようなので、会話を続けることにした。
「申し訳ない。ちょっと疲れて寝てしまったようで、昨日の電話に出ることができなかった」
『いえ、大丈夫ですよ!あんなことがあった後ですしね。疲れがたまっていても仕方ないですよ』
「はは、そう言ってくれると助かる」
本当はスクワットのし過ぎで風呂場で気絶したのだが、そんなことは言わなくてもいいだろう。
ただ、あんなこととは露出狂の『変質者』の事件だろうが、俺は彼女が奴に追い回されたことで心理的な外傷を受けてないかが気になった。
深夜に『変質者』に追いかけられ、局部を見せつけられたのだ。
男が怖くなってても仕方ないし、もしそうなら俺は今日の食事会を辞退しようとも考えていた。
電話に出れなかったという引け目もあるし。
「俺のことよりもさ、心春ちゃんは大丈夫?」
『へ? 私ですか? 私は特に疲れてませんよ?』
「いや、あんなことがあったのに、俺とご飯食べられるか? 奴に追いかけまわされたせいで、男性恐怖症的なのになってないか心配で。もしそうなら、俺は今日は行かないほうがいいかなって思ってるんだけど」
『あー……』
「心春ちゃん?」
俺は気遣いのつもりだったが、何故か心春ちゃんは妙な声色になった。
もしかして、本当に男性恐怖症のようになってしまったのだろうか。
なら、俺は行かないほうがいいだろう。
『いえ! 私は大丈夫ですよ』
「本当に? 無理しなくても大丈夫だよ?」
『本当に大丈夫です! ……ただ、私もパパがどのお店に予約したか分からなくて、7時半頃なのは聞いているんですが……。パパはこのスマホを持っていくのを忘れてしまいましたし、パパが帰ってくる6時頃までに、私の家に来てもらってもいいですか? ……お礼もしたいですし』
「はは、お礼なんて、俺はそんな大層なことはしてないのに。そもそも、食事を奢ってもらえることがお礼だよ」
『いえ、父だけでなく、私もお礼をしたいんです。『性的欲求系変質者』なんかに襲われるところだったんですから』
「……あはは、そうだね」
俺がその『性的欲求系変質者』になってしまっているからか、普通の人々のピンクに対するイメージを改められて突きつけられた気がして、ちょっとショックを受けていた。
心春ちゃんみたいないい子にも、なんかと付けられる俺たちの嫌われ具合はやはり相当だ。
そんな俺の内心のショックをつゆ知らず、電話の向こうの彼女は言葉を続ける。
『じゃあ、私の家の住所をいいますね』
「ん、ちょっと待ってくれ、メモを用意するから……よし、大丈夫だ」
『東京新都の──……のマンションで、部屋番号は3402号室です』
彼女の家は東京にあるらしい。
露出狂に追われた深夜に、終電を気にしていた理由が分かった。
ここ旧千葉奪還区域も、行政上東京に組み込まれたが実際にはほとんど以前のままだ。
彼女の言う東京とは、いろいろな奪還区域が組みこまれて大きくなった東京ではなく、もともとの東京都内だった。
「6時ごろにそっちに着けばいいのかな?」
『はい。ちょうどパパも帰ってくると思うので、その時間でお願いします。コンシェルジュさんから私に取り次いでもらえば、マンションに入れるのでフロントで部屋番号を伝えてください』
「わ、分かった」
コンシェルジュだとか聞き覚えのない単語が出てきてしまって、ちょっとびっくりしてしまった。
管理人とは違うのか? それに3402号室って、34階の2号室ってことか?
どんなマンションだよ。
阿多古さんのお父さんは弁護士だったし、ぽんと俺と六華さんに20万ずつ渡せてしまうし、もしかしてめちゃくちゃお金持ちなのか?
『──じゃあ、楽しみに待ってますね! あはっ』
いろいろと驚くことが多すぎたせいで、電話が切れる直前の心春ちゃんの言葉は耳に入らなかった。
【18】
春休み、そして日曜日だからか電車にはそれなりの人がいた。
ただ、座るのに困るほどではない。
4時頃乗った東京新都駅行の電車に、俺は揺られていた。
「『東京新都で高校生がお手柄! 『英雄願望』に目覚める!』……ねぇ」
手持ち無沙汰だったので、スマホで『変質者』関連のニュースを検索していると、そんなニュースが目に入ってきた。
気になってそのページを開いてみると、どうやら『変質者』に襲われた友人を守るために『英雄願望』に目覚め、友人を助け出したらしい。
ヤフコメにも、『素晴らしい! やっぱり『英雄願望』持ちは正義の味方だな』『こういう子が管理局にたくさん入ってほしい!』だとか、かなり好意的なコメントが寄せられている。
「……『連続下着泥棒、『蒐集欲求』の『性的欲求系変質者』か』」
関連のニュースでそんなページが出てきたので飛んでみると、最近捕まった連続下着泥棒が『性的欲求系変質者』であり、その能力を使って犯罪を犯していたというニュースだった。
この記事に対するコメントは、『本当に気持ち悪い』『なぜ『性的欲求系変質者』は去勢しない? 隣の国ではしているのに』だとか、かなり辛辣なコメントばっかだ。
『英雄願望』とのあまりの違いに、本当に『性的欲求系変質者』は忌み嫌われているんだなと、肩身が狭い。
俺は事故といってもいいような変質の仕方だったが、そんなもの他の人々には関係ないだろう。
『催眠欲求』という、俺は興味のない性的嗜好により変質し、精神干渉系というかなり気持ちの悪い異能に目覚めてしまったのだ。
殺処分される可能性が有るほどの強度で。
だから、ほかの人々にはバレるわけにはいかない。
もしバレそうになった場合は、『英雄願望』に目覚めた高校生の彼や管理局の職員には悪いが、俺も『英雄願望』であると騙らせてもらおう。
俺も殺されたくない。
それに、誰かに催眠をかけてどうにかしようというつもりもない。
……凛菜は事故のようなものだから例外だ。
現に俺は、福袋から出てきた催眠術関係の全ての本を、資源回収の常設ボックスにぶち込んできたし。
雨だったので他の人に見られる心配もないし、駅前に行くバスが来るバス停までの道にそのボックスがあることを思い出したから、向かうついでに全てを捨てた。
催眠術の情報なんて調べなければ出ないだろうし、その一切を遮断すれば怪しまれることもないだろう。
俺が使えるのは、『タコ糸で縛った5円玉を使った他者催眠』と『鏡に映った自分を介してかける自己催眠』しかない。
だが、それでいい。
催眠なんて俺は興味ないし、自分にかけた催眠のせいで死にかけたのだ。
むしろ使えないほうがいい。
「……ん?」
下着泥棒のニュースページの関連ニュースに、『連続女学生一家惨殺事件の犯人、未だ捕まらず』というページが出てきた。
飛んでみると、女学生がいる一家全員が惨たらしく殺害されるという、東京を中心として行われている猟奇殺人についてのニュースだ。
ただ、稀に全員分の遺体が見つかることはなく、一人もしくは数人が行方不明になることもあるらしい。
怖い事件だが、旧千葉区域では未だ起こったことがないのは幸いだ。
今は東京に向かっている最中だが、俺は男だしまぁ大丈夫だろう。
他にもいろいろとニュースを見ながら、俺は東京へと運ばれていった。
【19】
「……本当に、ここだよな?」
俺は、傘を差しながらでは屋上を見上げるほどができないほど高いマンションの足元で、思わず確認するように呟いてしまった。
建物のほんの目の前には東京湾が、すぐそばには東京湾に流れ込む河川がある。
育ち故郷である静岡の遠州灘とは少し違う、だけど懐かしさを感じる潮の匂いがした。
オーシャンビュー、リバービューというやつだろうか。
薄々お金持ちなのではないかと思っていたが、ちょっと想像がつかないレベルだ。
……予約してくれているお店って、ドレスコードが必要なレベルのお店じゃないよな? ジーパン穿いてきちまったぞ。
ちょっと肌寒いからジャケットは羽織ってるけど。
昨日の電話には出れなかったので、今日は少しでも早く着こうとした結果、5時ぐらいにこの高層マンションに着いてしまった。
周囲を散策するにはあいにくの雨模様。
それに、雨は強くなってきている。
少し早いがマンションに入れてもらうか。
マンションは周囲を壁にぐるりと取り囲まれていて、プライベートが保護されている。
その壁もマンションの正面部分の道路に面した箇所に建物があり、人や車が出入りしていた。
そこで手続きをするのだろうと、俺も雨から逃れるようにその建物の中に入った。
建物の内部は高級感溢れるホテルのエントランスのようで、数人のコンシェルジュがフロントで事務作業をしていたが、俺の存在を認識すると礼儀正しい所作で一礼をしてくる。
……すごいな、俺はジーパンにシャツとジャケットを羽織っただけのラフな格好なのに、それに対する感情をおくびにも出さないなんて。
「本日はどのような御用ですか?」
「えっと、3402号室の阿多古さんに取り次いで頂いてもいいですか? 彼らと食事の約束をしている白浜歩生と申します」
「はい。少々お待ちください。……こちら、コンシェルジュサービスの佐原です。阿多古様で宜しいでしょうか──……」
俺が要件を話すと、フロントのぴしりと制服を着こなしたコンシェルジュがヘッドセットをつけ、どこかと連絡を取り始めた。
恐らく、相手は阿多古さんだろう。
「──はい。承知致しました。白浜様、お待たせ致しました。確認が取れましたので、こちらのカードキーで本棟にお入りください。お帰りの際はご返却をお願い申し上げます」
「はい。ありがとうございます」
黒地に銀色の文字が輝く高級感あふれるカードキーを受け取り、俺はこの建物から本棟へと続く回廊に進む。
この回廊にも、何か高そうな壺や豪奢な生け花、よくわからないが価値ありそうな絵が嫌味にならない程度の間隔で飾られている。
しかし、本当に高級ホテルみたいな内装だ。
……そんなところに泊まったことはないので、完全に俺の想像の中のイデア的な高級ホテルだが。
「カードキーは……ここでいいのか?」
回廊の行きどまりには、頑強そうなドアとカードキーを読み取るための機械だけが置かれていた。
読み取らせるとドアが開いたので、間違ってはいなかったようだ。
本棟の一階もエントランスであったが、さっきの建物よりも広々としている印象を受ける。
エントランスホールと呼ぶべきだろうか。
「お待ちしておりました。白浜様、阿多古様の部屋までご案内します」
「え、あ、はい」
「こちらへどうぞ」
エントランスホールに入ってすぐのところにいた、制服を着た男の人に急に話しかけられ、つい動転した声で返してしまった。
エレベーターホールまで案内され、彼に案内されるがままに共にエレベーターに乗り込む。
……ちょっと神経質で仰々し過ぎないか? それとも、東京の高級マンションとはみなこういうものなのか?
「……お気に障られたのなら申し訳ありません。しかし、最近『変質者』による殺人事件が頻発していまして、入居者様の安全を確保するためにも少々セキュリティが厳重になっているのです。どうか、ご納得下さい」
俺の疑念が顔に出てしまっていたのか、彼はその訳を説明してくれた。
それならば仕方ない。
こういったマンションで『変質者』による殺人が起こってしまったら、その価値を大きく毀損してしまうし、住民からの信用を揺るがしてしまう。
セキュリティが売りなのであろう高級マンションのブランドを守るため、仕方ないことだろうから。
……ていうか、俺が『変質者』だし。
「ああ、いえ、それならば仕方ないですよ。最近物騒ですから」
「ご納得して頂き、感謝申し上げます」
「連続女学生惨殺事件の犯人とか“カワハギ”とか、色々危険な『変質者』がいますしね」
「……“カワハギ”ですか?」
「え、はい」
六華さんが言っていた危険な『変質者』であろう“カワハギ”の名前を出してみたが、制服の彼は怪訝な声を上げた。
「申し訳ありません。連続女学生惨殺事件の犯人は一等官を殺害した『変質者』であることは知っているのですが、“カワハギ”という『変質者』は耳にしたことがなく」
「それは……あ、私が旧千葉区域から来ましたので、あのあたりの『変質者』かもしれません」
「成程、左様でございましたか。……到着しました。3402号室は、左手の廊下の突き当たりにございます」
「すみません。ご丁寧にありがとうございます」
「いえ、では失礼いたします」
流石に部屋まではついてこないようで、部屋の位置を俺に教えて彼はエレベーターで降りて行った。
彼に言われた通りにそちらへと向かう。
すぐに、『3402』と黒地に銀色の数字が彫られたプレートのあるドアにたどり着いた。
初めての家にお邪魔するとき特有の僅かながらの緊張を抱きながら、インターホンを押す。
『歩生さんですか!』
「ああ、ちょっと早くなっちゃったけど大丈夫?」
『大丈夫ですよ! ちょっと前に準備が終わったところです。今ドアを開けに行きますね!』
明るい調子の心春ちゃんはそう言って、インターホンの前から立ち去ったのだろう。
そしてドアの向こうから少しばかりの速足の音が聞こえてきて、すぐにドアは開かれた。
「すみません! お待たせしました!」
「いや、大丈夫だよ」
開け放たれたドアの先にいた心春ちゃんは、よほど急いで開けに来てくれたのか頬が赤らんでいる。
いや、露出狂の事件に巻き込まれたときはポニーテールに結ばれていた髪が下ろされており、少しばかり濡れたように艶めいているので、お風呂上がりだったのかもしれない。
……ちょっと早めに着すぎたか。
「ごめん。もしかしてお風呂入ってたところだったか?」
「いえ、ちょうど出て髪の毛乾かしてただけなので、大丈夫です!」
「そ、そうか。大丈夫ならいいんだけど」
心春ちゃんは天真爛漫にそう返してくるので、何か俺が気にしすぎている気持ち悪い奴みたいだなと思ってしまった。
まぁ、彼女の見た目は中学生以下の幼い容姿であるし、いくら快活でかわいらしい容姿でも俺が欲情することはない。
『幼女偏愛』といった性的嗜好を、決して俺は持ち合わせていないのだから。
制服のスカートとシャツに身を包んでいる彼女に、靴を脱いで用意されていたスリッパを履きついていく。
……いや、確か彼女は見た目は幼いが、もう高3になるって言ってたよな? ちょっと無防備過ぎないか?
「まだパパは帰ってきていませんし、ちょっとリビングは散らかってますので私の部屋で待っていてください。いまお飲み物を持ってきますね!」
「あ、ありがとう」
……簡単に自分の部屋に招き入れようとしてくるし、俺がそういう対象として見られていないだけか。
大抵の初対面の人に、『いい人そう』という実質的に『無害そうな人』『どうでもよい人』という印象を持たれる俺だ。
それは別にいいが、彼女の将来を考えると勝手に心配してしまった。
俺としてもリビングに通してくれたほうが助かるのだが、住人にそう言われると逆らえない。
大人しく彼女の部屋で待つ。
清潔感あふれる白色に、女の子の部屋らしいピンク色や水色といったポップな色の小物やぬいぐるみで彩られた部屋だ。
女の子の部屋など、凛菜の部屋ぐらいにしか入ったことないので落ち着かない。
俺の部屋は古本の芳しい紙の匂いで満ちているが、なぜ女の子の部屋は形容しがたい花のようないい匂いがしているのだろうか。
そんな女の子らしい部屋の中心にあった、円形の小さなテーブルの前に腰を下ろして座る。
……落ち着かねぇ。
やはりどうにも落ち着かず、スマホで適当なニュースでも見て気分を落ち着かせようとしたとき、ふと彼女の勉強机の横にあった本棚に目が行った。
どうにも、読書が趣味になるとほかの人の本棚が気になってしまうものだ。
勝手に人の部屋を歩き回るのもアレだろうと、座ったままその本棚に目をやって蔵書に目をやる。
下のほうの段には少女漫画が詰められていて、凛菜と話が合うかもしれないなと思った。
凛菜は古典のような日本文学だけでなく、少女漫画も好きだからだ。
上のほうの本棚には、教科書や参考書、ノートが恐らく教科ごとに律儀に分けられてて並べられており、心春ちゃんは几帳面な子なんだなという印象を受けた。
そして、勉強机の前の椅子に座りながら手が届く場所には、旧帝や名門私立の赤本が並べられており、頭もいい子なのかと驚く。
……いや、下世話な話だが、こんなにもいい部屋に住んでいて、親も弁護士だし当たり前の話かもしれない。
なんでそんな子が、深夜に一人で都心から離れた旧千葉区域にいたのだろうか。
塾だとかならこっちのがレベルが高いだろうに。
「お待たせしました! ココアでいいですか?」
「大丈夫だよ」
そんな疑問が浮かんだ瞬間、この部屋の主が入ってきた。
心春ちゃんはお盆を持っており、それにはお菓子の入った器とホットココアが注がれたコップが二つ乗っている。
彼女はお盆をテーブルの上に置き、片方のコップを俺に渡してきた。
「よいしょと、どうぞ」
「ありが……ちょ、心春ちゃん!?」
「あはっ」
俺は感謝の言葉と共にコップを受け取ろうとしたが、その言葉が最後まで紡がれることがなかった。
なぜなら、心春ちゃんがコップを俺に渡しながら隣に腰を下ろしたからだ。
小さいとはいえ、ちゃぶ台のような円形テーブルなので、隣に彼女が座ってもおかしくはないのかもしれない。
だが、完全に肩が触れる距離の隣はおかしいだろ!
風呂上がりだからか、彼女の高い体温すら明瞭に感じられる距離は!
俺の焦った様子に、心春ちゃんは彼女らしくない小悪魔的な笑い声を漏らしている。
「ちょ、ど、どうしたの!」
「あ、ダメですよ~♡歩生さん♡離れちゃあ♡」
「え、こ、心春さん?」
「あはっ♡心春、でいいですよ♡歩生さんなら♡」
反射的にスライドして距離を取ろうとしたが、心春ちゃんは俺のジャケットの袖をつかんでそのままスライドしてきた。
俺が取ろうとした距離以上の距離を詰められ、より密着してしまう。
袖はつかまれたままであり、再び距離を取ろうとしても同じ結果になるだろうことは容易に想像がついた。
そして妙に甘ったるくなった彼女の声に、ついさん付けで呼んでしまった。
なんだ?
何が起きている?
理解が追い付かない。
彼女は俺の混乱した様子を見ながら蠱惑的な笑みを浮かべ、空いているもう片方の手でコップを持ってココアを飲んでいる。
より密着したせいで、彼女のまだ少しばかり濡れた光沢を放っている髪から、この部屋と同じ花のような匂いがしてきた。
それがココアの匂いと混ざり、俺の思考をより混乱させてくる。
「ふぅ」
「あ、阿多古さん? ちょっと近くないですか?」
「え~♡嫌ですか♡」
「嫌とかじゃなくて、だ、ダメでしょ! この距離は」
「あはっ♡歩生さんかた~い♡ん~♡」
「ちょ、ホント待って! ご、ごめんて!」
暗に距離を取ってくれとお願いするが、心春ちゃんはそのお願いに気づいているのかいないのか、逆に身体をこすりつけてくる。
本当に何なんだ!
露出狂の事件に巻き込まれた時の彼女は、絶対にこんな風ではなかった!
礼儀正しく人当たりのよい雰囲気で、こんな淫猥な雰囲気を漂わせている子では決してなかった!
「と、トイレ行かせて!」
「ダメで~す♡」
「うわ!」
何とかこの場から逃げようと、ショート寸前な思考回路で思いついた逃亡策は簡単につぶされる。
立ち上がろうとして不安定な体勢の瞬間に押し倒され、しかも心春ちゃんが倒れた俺の腹の上に乗ってきたせいで、逃げ場がさらになくなった。
彼女の体重自体は軽いのだが、『変質者』である俺が無理やりに退かすと怪我をさせてしまうかもしれない。
今の俺は、片手で金属製の組み立て式ベッドを頭の上まで持ち上げられるほどに、強靭な肉体になっているのだから。
抵抗しようにもできない俺の様子を見て、彼女は蠱惑的な笑みを深くする。
「離れて離れて~って言ってる割に、歩生さん全然抵抗しないじゃないですか♡」
「いや、これは……!」
「いいですよ~♡私は♡」
「ダメだって! 条例がどうだかするよ!」
「あはっ♡今時みんなこういうことしてますよ~♡それに……♡」
そこで心春ちゃんは言葉を区切り、倒れている俺の耳元に口を近づけてきた。
未だどうするべきか思考している俺は、彼女の顔を払い除けることができない。
「もう少しで私も18ですし、結婚もできますよ♡同意があれば大丈夫です♡」
「俺が同意してないから!」
「も~♡ほんとに生真面目ですね♡……あ、もしかして、私みたいな貧相な身体は嫌ですか♡」
「そういうのじゃないって! 倫理的な問題!」
「お嫌いじゃないならよかったです♡お礼をするためにいろいろ準備してきたんですから♡」
話が通じない恐怖と、酷く現実離れしたこの状況に俺は興奮なんてしている余裕はない。
情けない話だが、彼女の俺の半分もあるか分からない体重によって、俺は完全に身動きできない状態へと陥っていた。
そのまま俺の耳元へ、わざと吐息を漏らしているとしか思えないしゃべり方で、彼女は言葉を続けてくる。
「ちゃんとお風呂も入りましたし♡今、私着けてないんですよ♡」
「な、何の話?」
「え~♡それ、女の子に言わせるんですか♡あはっ♡上でしょ~か♡下でしょ~か♡それとも……両方でしょ~か♡」
「し、知らないって!」
「も~♡かわい~ですね♡……あ、もしかして脱がすのを楽しみにしている人ですか~♡お望みでしたら、着てきますよ♡」
「いや! そんな楽しみ方知らないから! そういう経験ないし!」
「あ~♡やっぱり童貞さんでしたか♡」
つい童貞であることを口走ってしまったが、それで心春ちゃんの理不尽な攻勢は終わることはなかった。
一度俺の耳元から顔を離し、真正面から覗き込むような姿勢に変わる。
彼女は上気した顔で、その幼い容姿に見合わない蠱惑的で嗜虐的な笑みを浮かべていた。
俺の喉の奥から小さく悲鳴のような音が漏れる。
笑みというのは本来威嚇行動であるという話は有名だが、彼女のそれは捕食前の蛇の舌なめずりを想起させるものだった。
というか、やっぱり童貞ってなんだよ!
そもそも童貞なのは関係ないだろ!
非童貞はこの状況で興奮できるのか!
状況と世間体に対する恐怖が絶対に勝つだろ!
「パパは大丈夫ですよ♡まだまだ帰ってこないと思いますし♡」
「だからそういうのじゃないって!」
「かわいいなぁ~♡なら、私がその気にさせてあげますね♡」
「ちょ、ひっ」
俺の顔の直上に心春ちゃんの顔が来て、ゆっくりと覆いかぶさるように近づいてくる。
垂れた彼女の黒髪が暗幕となり、俺の視界の殆ど全てを覆いつくした。
俺の視界に映っているのは、彼女の淫蕩に笑う顔だけだ。
より一層強くなった彼女の髪の良い匂いは、俺の思考を搔き回すには十分すぎる。
蛇のように薄く開かれた彼女の眼に射抜かれた俺は、金縛りにあったように動けない。
さっきまで彼女が飲んでいたココアの匂いが近づいてくる。
た、助けて! 父さん母さん! 暖人! 雄一! 凛菜!
もはや誰かに助けを求めることしかできなくなった俺は、走馬灯のような光景を見ていた。
死に瀕しているときはこういう景色を見るというが、まさか、この状況が俺にとっては死に等しいというのだろうか?
童貞の俺には、死ぬほど刺激が強すぎるのは確かだが。
『へ、まっ、わた、はみ、はみがきも』
……!
「待って!」
「ひゃん♡」
唇が今にも触れるという瞬間、思い出したのは凛菜のことだった。
凛菜の髪についた桜の花弁を取る際に、『へ、まっ、わた、はみ、はみがきも』と言っていた彼女のこと。
その瞬間、金縛りにあっていた俺の身体は自由を取り戻し、心春ちゃんの両肩辺りを掴んで距離を取りながら上体を起こすことに成功した。
「は、歯磨き!」
「へ?」
「お昼食ってから歯磨きしたか忘れたし! 俺に歯磨きをさせてくれ! 俺はキスもセッ……そういうこともしたことないから! 最初の相手にコイツのキス、昼飯の味がするなとか思われたくないから! だから、歯磨きしてきてもいいか!?」
「……」
自分でもめちゃくちゃ情けないことを言っているのは分かるが、これが俺の魂の叫びだ。
心春ちゃんの肩を抑えながら、訴えかけるように口にする。
彼女はぽかんとした顔をしていた。
「だ、ダメでしょうか?」
なんの返事も返してこない心春ちゃんにそう聞く。
なぜか敬語になってしまったのは、自分でも理由は分からない。
ただひたすらに今は彼女が怖かった。
少しでも時間が欲しい。
「……っぷ、あっはっは。あはっ、ごめんなさい。童貞さんなら仕方ないですね~。ふふ……うん、いいですよ。歯磨きしてきても♡」
「あ、ありがとう」
「そのかわり~帰ってきたら続きですよ♡」
「は、はい」
「同意ゲット~♡」
ぽかんとした顔から噴き出すように笑いだしたときだけは、年相応の幼さだった。
しかし、すぐに蠱惑的な雰囲気に戻る。
だが、この場から一時的に離れる約束を取り付けることには成功した。
「じゃ、いきましょうか♡」
「え」
「洗面台がどこにあるか知らないでしょう♡」
立ち上がった心春ちゃんの小さな手に引っ張られ、そのまま部屋の外へ連れ出された。
どうする。
このまま逃げ出してしまおうとしたのに、彼女と一緒では逃げることができない。
「とうちゃくで~す♡」
彼女の部屋から出て少し廊下を行ったところに、黒檀の扉が二つあった。
ガラス部分がある扉と、完全に木だけでできた扉だ。
彼女は木の扉だけを開けてそう言う。
「ここがお風呂場と洗面所ですから、お客様用の歯磨きセット使ってくださいね♡」
「あ、ああ」
歯磨きしたいといって案内してもらったのに、しないのはおかしいだろう。
少し進んでから振り返ると、彼女は俺を見張るように入り口に陣取っていた。
「ん~♡どうかしましたか♡」
「いや、その……」
「あ、もしかして……」
まずい! 逃げようとしたのがバレたか?
「私の歯ブラシ使いたかったんですか?♡ 変態さんですね♡」
「いや!違うから!」
「あはっ♡」
情けない話だが、心春ちゃんに完全に弄ばれている。
彼女がいては逃げれないし、まともな思考ができそうにない。
どうにかして彼女を、ここから遠ざける方法はないのか?
『も~♡かわい~ですね♡……あ、もしかして脱がすのを楽しみにしている人ですか~♡お望みでしたら、着てきますよ♡』
少しでも何とかする方法がないかを考え、彼女との会話から閃いた。
「……くれないか?」
「なぁに~♡」
「下着、着けてきてくれないか? その、脱がすのを楽しみたい……」
「お~♡歩生さん♡そっちのタイプでしたか~♡いいですよ♡部屋で待ってますね♡」
顔から火が出るほど恥ずかしかったが、何とかそういうことができた。
脱がすのを楽しむどころか、脱がし方も知らないので楽しむもクソもない。
心春ちゃんが部屋のほうへ消えていく。
「どうやって逃げ」──ね、歩生さん」
「は、はい!」
何とか一人になることができたと思った瞬間、ぴょこりと再び彼女が顔を覗かせてきた。
心臓が止まるかと思った。
「こっちはリビングなんだけど、絶対に扉を開けて入っちゃだめだよ。ちょっと、散らかっちゃってますから」
「わ、分かりました」
なぜか感情を伺わせないような声色で、心春ちゃんはそういった。
有無を言わさせないその口調に、俺は頷くことしかできない。
「良い子ですね♡じゃ、待ってますから♡」
俺の肯定の返事を聞くと、彼女は今度こそは自分の部屋に戻っていく。
ようやく、たった数分であるがまともに考える時間ができた。
どうすればいい?
そもそも、心春ちゃんはなぜあんな様子なんだ?
まさか、露出狂の『変質者』から助けたときに惚れられた?
……いや、それは夢を見すぎだろう。
もしそうなら、あの時にもっとそんな素振りを見せているはずだ。
じゃあ、なんであんな人が変わったようになっている。
「……待て、人が変わったようになっている?」
その自分の言葉に想起されるのは、催眠をかけた凛菜やスクワットをしすぎて死にかけた自分自身のこと。
……まさか、俺が心春ちゃんに催眠をかけてしまった?
ありえない。
そんなつもりなど俺には一切なかった。
確かに彼女はかわいらしい容姿だが、少しばかり幼すぎる。
俺に『幼女偏愛』はない。
──本当に?
俺は催眠に関係する性的嗜好は持っていなかったのに、『催眠欲求』に目覚めている。
だから、本当は『幼女偏愛』も抱えているのではないか?
一度浮かんできた思考が、俺の脳内を汚染する。
もし彼女をあんな風にしたのが自分なら、俺自身に絶望してしまいそうだ。
『催眠欲求』と『幼女偏愛』を持っているなんて、俺の背負う業は重すぎるだろ。
もし心春ちゃんに手を出してしまえば、罪まで背負ってしまう。
『催眠欲求』も『幼女偏愛』も俺にはない。
ない、はずだ。
もうこの状況をどうにかするには、俺の異能しかない気がしてきた。
心春ちゃんに催眠術をかけ、『決して俺に性的接触をするな』『俺に関する今日の記憶を消せ』と命令する。
それが唯一、このありえない状況を打開するための作戦に思えた。
催眠術は他者に使わないと決めたが、この状況は例外だ。
俺の使える催眠術は二つ。
『タコ糸で縛った5円玉を使った他者催眠』と『鏡に映った自分を介してかける自己催眠』だけだ。
クソ! こんなことになるなら、捨てる前に催眠術の本をよんでおくべきだった!
「五円玉はある。……ただ、タコ糸がない」
幸いウエストポーチに入っていた財布の中に五円玉はあったが、タコ糸なんてあるわけがない!
……リビングに行くしかない。
この家の構造は分からないが、高級マンションといっても普通のマンションのようにLDKがあるだろう。
リビングに併設されているキッチンに、タコ糸がある可能性に賭ける!
心春ちゃんはリビングに行ってはいけないといっていたが、そんなことを律儀に聞いている場合ではない。
俺の貞操と良心、潔白な犯罪歴を守るためだ。
最悪タコ糸がなくとも、代用品となるひも状の物さえあればいい!
俺はできるだけ音を立てないように洗面台の前から移動し、閉まっているリビングの黒檀のドアを開けた。
リビングは照明が一切点いておらず、真っ暗で何も見えない。
照明を点けたら音と光でバレてしまうかもしれないので、点けずに部屋に侵入した。
……どこかで嗅いだことのある臭いがする。
昔から嗅いだことのあるような、直近にも嗅いだことがあるような。
だが、どうしても慣れないような。
そんな臭いだ。
──潮の臭いか?
静岡の遠州灘に近い街で育った俺は、これに近い臭いに心当たりがあった。
このマンションに入る前にも嗅いだ、東京湾の潮の臭いとも近しい臭いだ。
……だが、何かが違う。致命的に何かが。
こんなことを気にしている暇はないのに、妙に気になってしまう。
このマンションが海に近いから潮の臭いがしているだけだろうと結論付けても、違う違うと俺の中の違和感が叫んでいる。
外の雨は激しくなっており、遠くから雷の音が聞こえた。
……速くタコ糸を探さなくては。
その遠雷の音に目的を再認識し、ようやく闇に慣れてきた目でこの暗闇のリビングを見渡して、タコ糸があるだろうキッチンはどこかと探す。
そうして見回していると、広々としたリビングの中心辺りに、何か転がっていることに気が付いた。
散らかっているといっていたし、段ボールか何かだと思ったのだが、なぜだか酷く心を惹かれてしまいそれに近づく。
近づいて、しまった。
「──は?」
できるだけ音を立てぬよう努めていたのに、この声が出てしまうのは止められなかった。
なぜなら、リビングの中心に敷かれたカーペットの上に転がっていたのは──
「……心春、ちゃん」
頬の切り傷から血を流し、死んだように微動だにしない心春ちゃんだったから。