第5話【ジーキル博士とハイド氏、或いはグレゴールと毒虫・異能検証】
以下条文は『日本国刑法逐条解説書』より抜粋。
第113条『1.変質を自覚しているのにも関わらず、変質届出書を提出せず人を死亡させた者は、死刑又は無期若しくは7年以上の拘禁刑に処す。2.変質を自覚しているのにも関わらず、変質届出書を提出しなかった者は、2月以上の拘禁刑又は20万円以上の罰金を処す。』
第124条『変質届出書を提出していない変質した者を蔵匿し、又は隠避させた者は、その変質した者が人を死亡させていないときは1月以上の拘禁刑又は10万円以上の罰金を処し、人を死亡させていたときは死刑又は無期若しくは5年以上の拘禁刑に処す。』
【16】
春分の日を超えて昼の時間が長くなっているとはいえ、流石に19時を過ぎると夜の帳が降りている。
俺は、再び駅前へ向かうバスに乗っていた。
その理由は、俺が『催眠欲求』に目覚めてしまい、『変質者』となった原因といってもいい『路傍の野掛け』に向かうためだ。
自分が変質者になってしまったの自覚した後、『催眠漫画短編集』を家中探したのだが、見つからなかった。
凛菜にも連絡して、俺が貸した『人間たちの話』以外の本を持っていないか確認したが、持っていなかった。
管理局にはまだ通報していない。
『催眠漫画短編集』そのものがなければ通報しても意味ないだろうし、俺自身が『変質者』になってしまった今、管理局に連絡するのは躊躇われたのだ。
他にも法律上、変質を自覚した者は管理局に届出書を提出しなければいけないのは知っているが、『催眠欲求』による変質を届け出るのは危険だと判断した。
事故のようなもので目覚めたとはいえ、この異能は俺でも危険視されてしまう力だと分かる。
それに、俺は凛菜に一度催眠をかけてしまった。
異能の正当な理由のない使用は、それだけで犯罪だ。
俺はもう『変質者』であり、犯罪者になってしまった。
だから、管理局に届け出るのが怖かったのだ。
目覚めた経緯や能力に気づいた経緯を話すことはできない。
情状酌量の余地はあるかもしれないが、罪に問われた場合は大学を退学になるだろうし、両親が『性的欲求系変質者』を育てたと悪評を流されるかもしれない。
高校に通っている弟にも迷惑をかけるだろう。
変質災害によって孤児になってしまった俺を、ここまで育て、大学にも入れてくれた家族には迷惑をかけたくなかった。
だから、まだ家族にも凛菜や雄一といった幼馴染にもこのことは言っていない。
『未届出変質者』だと知ってその存在を通報しなかった場合、彼らも変質者蔵匿罪や秘匿罪に問われ、犯罪者となってしまうからだ。
急に俺がこの世界に一人ぼっちになってしまったような、そんな孤独感を感じる。
このまま一生、俺は『変質者』であることを隠し通さなければならないのか?
できるのか、日本の優秀な警察や管理局相手に?
今ならまだ罪に問われないのでは?
むしろ、黙っているのがダメな選択なのでないのか?
本当は、もう自首したほうがいいのではないか?
頭の中で不安と疑念が渦巻く。
自分でも答えなんてわかるわけがない。
工学部の俺に、法知識など大層なものはない。
『──どういう事情によってかは私には予想することはできないが、しかし、私の直感と、私の言い表わしようのない境遇のすべての事情とは、もう終りが確実で、しかも間近いということを私に告げるのです。』
前に読んだ『ジーキル博士とハイド氏の怪事件』の、ジーギル博士が失踪する前に残した手紙の一文が思い浮かんできた。
『ジキルとハイド』という呼び名でも有名な多重人格者が出てくるあの小説は、今の俺の状況とよく似ているなと思ってしまう。
善良な紳士であるジーキル博士と、彼が薬品によって切り離した人格の悪側面のハイド氏についての小説。
だとすると、『催眠漫画短編集』は人格を切り離すための薬品か?
……違うか、彼らには可逆性があった。
それに、存在していることが罪ではない。
もっと俺に近しい存在でいうならば、フランツ・カフカの『変身』に出てくるグレゴール・ザムザだろうか。
ある日突然、不可逆的に毒虫へ変身した彼のほうが、忌み嫌われる『性的欲求系変質者』になった俺に近い気がする。
両親と年下の兄弟がいるという共通点もあった。
弟と妹という違いはあったが。
彼のように半分腐った野菜やチーズが好きになってしまうのだろうか、例えば、俺が今も嫌悪感を覚えている催眠ものとか。
……はは、そうなったら終わりだな。
ジーキル博士とグレゴールに共通する大きな点は一つある。
彼らが共に作品内で死ぬことだ。
ジーキル博士は自殺、グレゴールは衰弱死という違いはあるが、彼らは死ぬ。
俺は?
俺も絶望して、ジーキル博士のように自殺してしまうのだろうか。
俺が死んだときも、グレゴールが死んだときのように家族が神に感謝するのだろうか。
勿論、両親や弟が俺に対してそんなことをするとは思えない。
だが、その俺は『変質者』になる前の俺だ。
今の俺は“ピンク”、つまり忌み嫌われる『性的欲求系変質者』。
家族に自分の性癖を堂々と言えることも稀だろうに、人間ではなくなってしまうほど特殊性癖に焦がれるのは、正直家族でも許容できないだろう。
毒虫となったグレゴールは、家族に拒絶され、父親にぶつけられた林檎による傷で衰弱死したと言ってもいい。
俺が『変質者』だと明かしたら、家族は今までのように俺を『俺』として見てくれるのだろうか。
俺は、彼らの誰とも血が繋がっていないのに。
バスの窓から見える夜の駅前は、まだ街灯や店の明かりで煌々と明るい。
そんな明るい未来など、今の俺には全く見えなかった。
【17】
「……そろそろか」
駅前から『路傍の野掛け』への道を歩きながら、俺は何をすべきなのか考えていた。
あの白内障で目が白く濁っていた店長に、あの本が何なのか、誰から買い取ったのか、『催眠漫画短編集』が入っていたのは知っていたのかは、絶対に聞き出さなくてはいけない。
……最悪、異能を使ってでも。
俺が昼食をとって謝礼を入金したコンビニと、中華料理屋と居酒屋が遠くに見えてきた。
中華料理屋も居酒屋もかなりの賑わいらしく、喧騒が聞こえてくる。
あの中華料理屋を挟んで居酒屋とは反対側に、『路傍の野掛け』があるはずだ。
「──は?」
しかし、『路傍の野掛け』があるはずの場所にはシャッターが下りていた。
道に出ていたゴンドラや本棚、看板すらもすべて無くなっている。
まるで、そこにもとから古本屋など無かったかのように、一切の痕跡がない。
「……いや、営業時間外だからか。明日は雨だったよな、確か」
天気予報を思い出しながら、そう納得する。
看板がないのも、多分価値があるものか何かだからだろう。
長い歴史を経た文化財のような、年月を感じさせる逸品だったからだ。
きっと、そうだ。
二階が居住スペースになっているタイプの店でもないので、あの店長はいないだろう。
完全に今日は無駄足になってしまった。
急に腹が減ってきて、今日は昼にサンドイッチとサラダチキンを食べた以外に何も口にしていないことを思い出す。
隣の中華料理屋に入れば、腹も満たせるし、『路傍の野掛け』についての情報も何かわかるかもしれない。
俺は吸い込まれるようにその店に入った。
「いらっしゃい! 何名様だ?」
「一人です」
「じゃあカウンター席に座ってくれ!」
いわれるがまま、空いていたカウンター席へと座る。
4つのテーブル席は満席で、カウンター席もほとんどが埋まっていた。
かなり繁盛しているのだろう。
味の期待もできそうだった。
「……あれー、歩生クン?」
「り、六華さん!」
「おー、やっぱり、きぐーだね。こっちのテーブル席座りなよ。おねーさんがおごっちゃうぜ」
俺がテーブル席で何を頼もうか悩んでいるとき、声をかけられた。
入り口から見えなかった一番奥の4人がけテーブル席には、六華さんと見覚えのないスーツを着崩した男の人が座っていて、俺のほうを見ている。
二人とも黒い管理電子首輪をしており、管理局の職員であることが分かった。
管理局も近いし、彼らがいてもおかしくない。
「んー? どーしたの?」
「白浜君! ここの飯うまいっすから、八剱特等官に奢らせてめっちゃ食べちゃいましょ!」
「僕のお金だからって調子いーこといーやがって。……歩生クン? 遠慮しなくていーよ?」
「……はい、失礼します」
なぜかスーツを着崩した人がフレンドリーな理由が分からないが、中々彼らのテーブルに行こうとしない俺を六華さんが訝しんでいるのが分かった。
今、俺が一番会いたくない人たちが、彼ら管理局の人々だ。
だが、これ以上六華さんに怪しまれるのはまずい気がする。
俺は同席することを選択した。
入り口側の下座、見知らぬ男の人に会釈してから彼の隣に座る。
「いやー、まだこの辺いたんすね!」
「えーと、はい。せっかく駅前に来たので、いろいろ見てました。……あなたは?」
「あはは、やっぱ気が付かないかー。東浦さんだよー。そのひと」
「え!」
「東浦っす!」
全く分からなかった。
前髪を上げ、眼鏡をはずし、黒スーツも脱いでいる彼は、昼の真面目な公務員という概念の擬人化のような東浦さんとは一致しない。
せいぜい、良く鍛えられた身体をしているなと思ったぐらいだ。
「すみません。全く違うので分かりませんでした」
「昼は異能を強化するためにあんな格好をしてたんすよ」
「へーそんな異能もあるんですね」
「っすよ! 『変装してるとき嘘が分かる異能』みたいな感じっす」
「……へぇ」
最悪だ!
嘘が分かる能力なんて、今の俺が一番会ってはいけない異能じゃないか!
間が悪すぎるだろ!
……いや、待て。
なぜそれを今言う?
昼の俺を疑っていたのか?
「ちょっとー、あんまし能力を民間人に言っちゃだめだよー」
「すみません! でも、白浜君に謝りたかったんすよ、疑ったことを」
「……あー」
話が見えない。
今の『変質者』となった俺はともかく、なぜ昼のときのまだ変質していない俺を疑ったんだ?
「ごめんねー、僕が歩生クンを怪しいって思ったからさ、東浦さんにお願いして嘘をついてないか確認してもらったんだよねー」
「い、いえ。……なんで怪しいと考えたかは、聞いてもいいですか?」
「何か八剱特等官のカンらしいっすよ。あと、『変質者』を素手で抑え込むのはおかしいって言ってたっす。俺が嘘を感知できなかったし、あの“カナシガリ”がガリガリだったし、白浜君が筋トレしてるからってことで納得したらしいっすけど。やっぱり筋トレ最高っすね!」
「……あはは、そうですね」
特等官ともなると、第六感的なものも鋭いのだろうか。
まさか、今俺が『変質者』になっているとは思わないだろう。
俺は肝を潰していた。
だが、今彼らは疑っていないらしい。
むしろ二人ともばつが悪そうな顔をしている。
嘘が分かる異能であることを開示して、その条件も明かしているのはその証明だ。
ひとまずは安心した。
「ほんと、白浜君みたいな嘘をつかない勇敢な子を疑うなんて、八剱特等官も人が悪いっすよね! 君みたいな子が部下に欲しいすよ! ……どうっすか? 管理局、興味ないっすか?」
「い、いやー、俺にはちょっと……」
「東浦さーん。僕の悪口聞こえてるよー。それに、歩生クン困ってるし」
「まぁ管理局なんて来ないほうがいいっすね! ブラックだし! はっはっは!」
なんだか二人は、俺を疑ってしまったと思っているからかとても好意的だ。
特に東浦さんが。
……この二人になら、俺が『変質者』になってしまったことを伝え、どうすればいいのかアドバイスをもらってもいいんじゃないかと思えてきた。
この二人も管理局所属とはいえ『変質者』だし、親身になってくれるんじゃないかという期待もある。
「……実は」「そういえば!」
俺と東浦さんの声がかぶってしまった。
ただ、意を決して話始めようとした俺の声は小さく、東浦さんの何かを思い出したかのような大きな声にかき消され、気づかれなかったが。
彼の話を聞いてからでもいいだろうと、彼の話に耳を傾ける。
「聞いたっすか? アメリカの精神干渉異能持ち『変質者』がようやく終了措置されたって話」
「……!」
ふいに出てきた精神干渉異能というワードに、俺は反応しないように努めた。
俺の『催眠欲求』で目覚めた催眠能力も、精神干渉異能の一種であるだろうからだ。
「あー、あの扇動型で宗教作ってたやつ? 兵器化の計画があったーとか、ジャーナリストにすっぽ抜かれてたねー」
「それっす! やっぱり精神干渉異能は怖いっすよねー。問答無用で乙種以上なのも分かるっす」
「正直、完全に精神を支配できるなら甲種でいいと思うけどねー」
「……すみません。乙種とか甲種だと、何か違うんですか?」
『変質者』の変質や能力によって、甲種から丁種の5段階に区別されるのは知っているが、区別された後の扱いだとかは知らない。
彼らから得た情報だと、俺は乙種以上に区別されることは予想が付く。
だからこそ、その等級の『変質者』が受ける扱いを知りたかった。
「そうだなー、一番大きいのは、乙種以上の事件を起こした『変質者』は現場で即殺するのが許されることかなー」
「そ、即殺」
「甲種だったらー、事件を起こしてない一般人でも、場合によっては終了措置……殺処分が許されるしー。まー甲種分類なんて、よほど凶悪な能力しかないけどね」
「……!」
「さっきの精神干渉異能だと、自殺させられる強度だと甲種でしたっけ」
「そうだねー、救恤とか改宗の『終末構想』もタイプは違うけど精神干渉だし。推測上だけど贖罪もかー、僕は多分自死も……歩生クン、顔が青いけど大丈夫?」
俺は凛菜に『何もしないでくれ』という催眠をかけてしまい、呼吸の自由を奪って窒息死させてしまうところだった。
『自殺させられる強度なら甲種』で『一般人でも殺処分が許される』なら、俺は甲種で殺処分が許される存在になってしまう。
なんで、俺がこんな異能に目覚めたんだ。
そんな青くなった俺を、正面の六華さんは見つめていた。
あの、桜瑪瑙の眼で。
催眠能力なんて精神に作用する力を持ってしまったからか、今なら分かる。
あの眼は俺を心配する眼ではない。
……俺を、まだ疑っている眼だ。
「いや、大丈夫です。殺処分とかちょっと物騒な言葉が出てきたので、ビックリしちゃっただけですよ。あ、謝礼の件、ありがとうございました」
「んー、ビックリした?」
「めっちゃ驚きましたよ。あんな大金なんて持ったことないですから。そういえば、阿多古さんとも電話して、明日の夜一緒にご飯を食べることになりました」
彼女に俺が『変質者』であることを知られてはいけない。
彼女は特等官。
『変質者』の事件を解決するスペシャリスト。
何件もの変質事件を解決し、『変質者』を補足し、戦い、殺処分してきたのだろうか。
人間離れしたその美貌と喪服のような黒スーツが、今の俺にとっては死神の象徴のように思えて仕方がない。
だから、平静を装え。
絶対にバレない様に。
「へー、良かったね。そういえばこのあたり見てたって言ってたけど、何見てたの?」
「あー、本屋とか古本屋が見てましたね」
「じゃーもっと駅前のほう言ってたんだ。この辺には本屋さんも古本屋さんもないし」
「は?」
「え?」
六華さんの言葉に思わず反応してしまい、ブラフに引っかかってしまったかと後悔したが、俺の反応に対して彼女は本当にびっくりしている様子だ。
この辺りどころか、隣に『路傍の野掛け』という古本屋があるだろ。
俺のそんな様子に、彼女は本当に戸惑っているようだった。
「東浦さん、この辺りに本屋さんとかあったっけ?」
「いやーないと思うっすよ。俺はこの店に今日の昼も来たぐらいの常連なんで、この辺りの地理は詳しいっすけど、駅前ぐらいにしかないはずっす」
「僕も結構来るんだけど、知らないなー」
どういうことだ?
二人に俺を騙しているような雰囲気は一切感じられない。
悪戯好きっぽい六華さんはともかく、東浦さんまでそんなことはしないはずだ。
じゃあ、俺の行った『路傍の野掛け』はなんだ?
「へいお待ち! チャーハン大2つのギョーザセット、麻婆豆腐とエビチリね!」
「おーありがとうございまーす。ねぇ店長、この辺に本屋とか古本屋ってある?」
「いや? ないと思うぞ? 本屋はともかく、古本屋はこの辺でできるはずないしな」
「な、なんでですか?」
俺はつい聞き返してしまった。
だって、あんな蔵書量の古本屋なんて、誰かの記憶には残っているはずだろう。
しかも、この店の隣にあった店だぞ。
店長が知らないはずがない。
「何でって、この辺りは15年前の最悪抗争で火の海になって、焼け野原になっちまったからな。その前は何軒かあったんだが、全部店を畳んだよ。近くに再開発でできた大規模リサイクルショップもあるし、この辺で古本屋なんてないと思うぞ」
「……ぁ」
「っと、悪いな。また注文が決まったら呼んでくれ」
店長はほかのお客さんの注文を作るために、厨房に戻っていく。
俺は酷く狼狽していた。
最後の望みをかけて、目の前の二人に問いかける。
「……すみません。この店の隣って何のお店がありますか」
「この店の隣? 片方は居酒屋で片方は布団屋だったかな? 布団屋は1か月ぐらい前に店長のおばあちゃんが亡くなっちゃって、閉まっちゃったけど」
「……そうですか。ありがとうございます。……すみません。ちょっと体調悪いんで帰ります」
「え、歩生クン?」
布団屋のほうが『路傍の野掛け』があったほうのお店だ。
このお店に入る前に見たので、『路傍の野掛け』ではない片方のお店は居酒屋であったことは覚えている。
1か月であの蔵書量の古本屋になることは不可能だろうし、どこか別の店から古本を持ってきたとしても、今日の昼にこの店に来た東浦さんが認識していない時点でありえないだろう。
世界から現実感が失われた気がした。
俺だけが間違っているかのような、そんな異物感だけが胸中で膨らむ。
疑われるとか、そんなことが気にならなくなってしまうほどの言いようのない恐怖が俺を襲う。
俺はふらふらとこの店から出た。
「八剱特等官、まだ彼のことを疑ってたんすか」
「ん、どーだった?」
「お昼も今も、絶対に嘘はついてないです。俺の異能は常時発動型だし、昼ほど精度はなくともそれぐらい分かります。……それより、阿多古心春とかいうガキと一緒にご飯食べるの、止めなくてもいいんすか? 白浜君よりもあのガキのが絶対怪しいと思うっすよ」
「まー僕も心配だけど、大丈夫でしょー」
「……それ」
「んー?」
「それ、嘘っすね」
【17】
どうやって家に帰ってきたかは分からない。
多分、バスに乗って帰ってきたのだろう。
立っている世界が、急に頼りにならない現実感が剥奪された世界になってしまったかのような、そんな違和感に苛まれながら。
だが、駅前である本を見つけ、買ってくることができた。
『変質者学を修める人のための基本知識』という、『変質者』についての本だ。
今日、管理局の暇な時間で3年前期の選択科目について調べていた時に見た、変質者学基礎を担当する俺の大学の准教授の著書らしい。
今の俺は過敏になりすぎているもしれないが、『変質者』についての本を買うのも怪しまれるのではないかと思っていた。
少しでも『変質者』についての情報が欲しかったが、そのせいで疑われたら元も子もない。
だが、この本なら受講する予定だからという言い訳ができるし、心春ちゃんの事件に巻き込まれたからという言い訳もできる。
「……すこしでも、情報を」
この人以外の本もあるにはあったのだが、『変質者を駆除すべき13の理由』とか『変質という奇跡』みたいな両極端な本ばっかりで、立ち読みした程度だとこの本が一番フラットな目線だったのも、この本にした理由だ。
……それに、前者のような本は気が滅入る。
今の俺は殺処分されるかもしれない『変質者』なのだから。
そうならないためにも、『変質者学を修める人のための基本知識』を読み始めた。
「……なるほど、『英雄願望』か」
読み進めていくうちに、いくつか有用な情報があった。
特に今の俺に有用そうだったのは、アメリカの“マスクドヒーロー騒動”と『英雄願望』についての情報だ。
“マスクドヒーロー騒動”は、『英雄願望』の『変質者』についてのインシデントだ。
アメリカで未登録の変身系異能持ち『変質者』が、市民のために何の見返りも受け取らず他の凶悪な『変質者』と戦っていた。
政府は国の組織に正式に加入してもらうため、多額の謝礼金と未登録であることを許すと大々的に発表したものの、変身系異能であるため捜索が難しく“マスクドヒーロー”の本物は現れなかった。
しかし、ある日『殺戮衝動』の『変質者』との戦いで、“マスクドヒーロー”は大怪我を受け、敵は捕縛したが彼自身もその場で倒れ伏し、政府に捕まって治療を受けてしまう。
そうして分かったのだが、“マスクドヒーロー”は80代のお爺ちゃんだったのだ。
彼は「この年でヒーローに憧れたのが恥ずかしかったし、子供たちのヒーローの正体はカッコいいという夢を壊したくなかった。……子供たちが私に憧れて、しわしわのお爺ちゃんになったら問題だろ?」という理由で、政府に名乗り出なかったのだという。
この一件のおかげで、世界中でもともと高かった『英雄願望』のイメージがさらに向上したらしい。
そして『英雄願望』の情報だが、基本的に忌み嫌われる『変質者』の中でも、珍しく世間から好意的に受け取られる数少ない変質の一種だ。
他には治癒系異能に目覚める変質だとかも、好意的にみられるらしい。
そして、青少年が変質しやすい願望だそうだ。
日本の管理局や、世界の管理局と類似の組織では『英雄願望』が主力らしい。
良性の変質であると、一部の宗教的に『変質者』という存在を認めていない国を除いて、そう広く認識されている。
……はは、俺の変質は悪性の変質ってことか。
「……だが、この情報は使えるぞ」
俺は基本的に『変質者』であることを隠していくことに決めた。
『催眠欲求』なんて変質のイメージは最悪だろう。
バレたら殺処分の可能性がある精神干渉系異能なんて、人には絶対に言えない。
だが、もしも『変質者』であることがバレたら、変質を『英雄願望』であると偽るべきだと考えた。
『英雄願望』によって目覚める能力は、『理想の姿に変身する異能』や『声援を受けるほど強くなる異能』、『自分が正しいと思っているときほど強くなる異能』など、この願望の『変質者』が多いからか、それとも各人の“英雄”のイメージ像が違うからか、多岐にわたる。
なら、『悪人の心を浄化する異能』なんてのがあってもいいだろう。
俺の能力ならそれができるし、二十歳にもなって『英雄願望』で変質したのが恥ずかしかったとでもいえばいい。
今はともかく、俺はお昼の時点では東浦さんの『変装しているとき嘘が分かる能力』に引っかからず、『変質者』でなかったことは確かなのだから。
……いや、『変質者』の異能って裁判とかの証拠になるのか?
……さらに本を読んで調べてみたところ、法的に厳密に定められた基準をクリアすれば、証拠として認められるらしい。
彼の異能がその基準をクリアしているかは分からないが、だいぶ希望が見えてきた。
ちょうど、心春ちゃんを露出狂から助けた後なのだ。
いたいけな彼女を襲った穢れた心を持つ『変質者』をどうにかしたかったと、そう懊悩した結果『英雄願望』に目覚め、彼らの心を浄化する精神干渉系異能を得てしまった。
しかし、精神干渉系異能を得てしまったことや、二十歳にもなって『英雄願望』に目覚めたことが恥ずかしく、変質届出書を提出できなかった。
なかなかいい筋書きな気がする。
もしかしたら、俺にはシナリオライターの素質があるのかもしれない。
俺だって、思春期には学校にテロリストが襲ってきた時、どう立ち向かい倒してヒーローになろうとか考えたものだ。
だが、そういうのは中学、遅くとも高校で卒業後すべきだろう。
大学生にもなって、それを考えていたらちょっと恥ずかしい気がするし。
……割と最近の暇な講義の時に妄想したような……いや、うん、忘れよう。
──それに、もし、東浦さんのような『嘘が分かる異能』を前にしたときは、自分自身にそれが真実であると催眠すれば誤魔化せるのだから。
……?
違和感があった。
なぜ、俺は自分自身を催眠すればいいと考えた?
なぜ、そうすれば『嘘が分かる異能』を誤魔化せると考えた?
なぜ、そもそも俺は俺自身に催眠をかけられると考えた?
俺が催眠をかけたのは、凛菜だけなのに。
「……ともかく、検証だ。俺の能力についても知らなくては」
いまだベットの上にある、あの十冊の中から検証に使えそうな本を探す。
……『自分を変える! 自己催眠!』という本が目に留まった。
ああ、もしかしたら、この本の題名がどこか頭に残ってたから、自分自身にも催眠……自己催眠をかけられると考えたのだろう。
そういえば、『人間はすでに自分自身に無意識に催眠をかけている。』と、『誰でもできる! お手軽催眠術!』に書いてあった。
だから自分にもかけられると考えたのだと、そう納得した
「『自己催眠は誰もが無意識に行っている。その暗示を自分の望む方向へ向けるのが、人生を好転させる第一歩です』……何か、この本は自己啓発本みたいだな」
俺はあんまり読んだことはないが、胡散臭い語り口調だ。
一応、本の後付を見てみるも、そこには検閲済み印がしっかりと押されたうえで印刷されており、この本は変質管理省や管理局の検閲を通っていることが分かる。
他の本もすべて印は押されていた。
押されていなかったのは、消えてしまった『催眠漫画短編集』のみだ。
……というか、これらの本も一応処分したほうがいいな。
早く読み終わって資源回収に……いや、少し遠くに常設の資源回収ボックスがあったはずだ。
資源回収日を待つより、ボックスに放り込むほうが速いし安全だろう。
『アスリートが競技前に行っている特定動作、例えば野球選手が打席に入る前のプレパフォーマンスルーティンが有名ですね。あれは決まった動作を行うことで、成功するという催眠を自分自身にかけているのです』
『ただ、一般人には強い成功のイメージを持つのは難しいのです。一般人にとって一番簡単な方法は、実際に口に出すことです。鏡に映った目を覗き込み、自分自身に語り掛け催眠をかけましょう。「私は○○ができる」、「俺は○○が好きだ」と』
「……とりあえず、やってみるか」
胡散臭い自己啓発本みたいだという感想を抱いたが、実例を出されるとちょっと納得してしまう。
なにか心理学的なトリックに思いっきり引っかかっている気がしたが、俺はパンピーなためこういうのに引っかかってしまいやすい。
俺の下宿先で一番大きい鏡は、脱衣所の洗面台の鏡だ。
とりあえず、そこまで移動する。
「うーん、ちょっと遠いな」
洗面台のせいで、ちょっと鏡との距離が遠い。
本を片手に自分自身の瞳を覗き込みながらだと、少し無茶な体制になってしまう。
なので、少し小さいが風呂場の鏡を使うことにした。
「暗示といっても、何をかけようか」
凛菜のように、一切の意志や自我が無くなってしまう催眠を自分自身にかけるのはちょっと怖かった。
特に危険じゃなさそうな催眠、もしくは暗示は何があるだろうか。
俺が偽ろうとしている『英雄願望』の特徴として、身体能力の強化率がほかの変質よりも高いという情報を思い出す。
偽るのならば、俺もできるだけ強い体になるべきだ。
……そうだ、いいことを思いついた。
「『俺は筋トレが好きだ』」
……どうだ?
正直、何も変わったような気がしない。
一応、もっと真剣にかけるべきなのだろうか。
そもそも筋トレが好きなんて、ちょっとおおざっぱすぎてイメージしにくい。
「『俺はスクワットが好きだ』……お」
鏡に映る俺の瞳を凝視して、筋トレの中でも特定のメニューを好きだと本気で言い聞かせてみる。
実際、スクワットは自重トレーニングの王様だといわれるほどに効果的な筋トレで、陸上部だった俺もよくやっていた筋トレの一つだ。
なじみ深いトレーニングを思い浮かべながらそう自己催眠をかけると、確かにスクワットを今すぐしてみたいという感覚になってきた。
「『俺はスクワットが好きだ』」
なんだか心地よい酩酊感というか、夢見心地でもっと浸っていたいというそんな感覚だ。
もう一度暗示の言葉を口にしてみると、その心地よい感覚がより一層強くなる。
気が付けば、俺の身体は勝手にスクワットをし始めていた。
「『俺はスクワットが好きだ!』」
「『俺はスクワットが好きだ!』」
「『俺はスクワットが好きだ!』」
本を放り投げ、鏡の前でスクワットをする。
スクワットをすればするほど、催眠をかければかけるほど、俺の心が満たされていくのが分かる!
なんで最近はジムばっかに行っていたんだ!
大学の設備を使えるからって、器具ばっかり使うのはよくないだろう!
どこでもできるスクワットこそ、最高の筋トレで最強の自重トレーニングだ!
「『俺はスクワットが好きだ!!』」
「『俺はスクワットが好きだ!!』」
「『俺はスクワットが好きだ!!』」
「『俺はスクワットが好きだ!!』」
「『俺はスクワットが好きだ!!』」
「『俺はスクワットが好きだ!!』」
ああ、さっきまで『催眠欲求』だとか、催眠能力だとか、殺処分だとかで悩んでいたのがバカみたいだ!
俺にはスクワットさえあればいいじゃないか!
こんなにも満たされた気分になるのだから!
俺の部屋のほうから、スマホの着信音が聞こえる。
ああ、そういえば阿多古さんが連絡するって言ってたな。
だが、今の俺にはスクワットをやめるという選択肢はない!
スマホを取りに行くのに数十秒もかかってしまう!
もったいない!
こんなにも楽しいのに、スクワットをやめるなんてありえない!
電話よりも、食事よりも、睡眠よりも、生存よりも!
俺はスクワットをしたい!
スクワット最高!
スクワット最高!
スクワット最高!
スクワット最高!
スクワット最高!
スクワット最高!
スクワット最高!
スクワット最高!
スクワット最高!
スクワット最高!
スクワット最高!
スクワット最高!
スクワット最高!
スクワットってマジで効果的だよねってお話です。
『──どういう事情によってかは私には予想することはできないが、しかし、私の直感と、私の言い表わしようのない境遇のすべての事情とは、もう終りが確実で、しかも間近いということを私に告げるのです。』……スティーブンソン ロバート・ルイス(1886年/日本語訳:1950年),『ジーキル博士とハイド氏の怪事件』,翻訳者:佐々木直次郎,新潮社より引用