第4話【掘り出し物と福袋・変質覚醒『■■■■』】
以下条文は『改正日本国憲法』より抜粋。
第19条『思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。ただし、変質を管理する目的においてはこの限りではない。』
【13】
「……ようやく安心できる」
四十万円を全てコンビニのATMに入金し、やっと一息付けた。
別に悪いことをしたわけではないのに、こそこそとATMを操作して。
はたから見れば、オレオレ詐欺の受け子のような怪しい動きだったかもしれない。
だが仕方ないだろう!
四十万円なんて大金を現ナマで持ったことなど、大学生の俺にはないのだ!
公園からコンビニまでの短い道中だったが、すれ違った人全員が強盗に見えた。
……とりあえず、行ったことのない本屋にでも行って癒されよう。
管理局で証言したために貰った捜査協力費の一万円で豪遊し、この心労を癒してやるという意気込みで俺はコンビニを出た。
「……古本屋?」
コンビニの道路を挟んだ正面は中華料理屋だったが、その隣、すなわちはす向かいには『路傍の野掛け』と彫られた看板が掲げられた古本屋があった。
なぜその店が古本屋であるか分かったかというと、店の外にも本棚や本が積まれたゴンドラが置いてあるからだ。
……おかしいな。さっきもこの道は通ったし、古本屋なんてあったら俺はその時に気づいていたはずなのに。
少しの疑問が浮かんだが、さっきは腹も減っていたし気づかなかっただけだろうと、信号を渡ってその店の前へと足を運ぶ。
いかにも個人経営の古本屋という風体の店構えで、期待に胸が高鳴るのが分かる。
こういうお店は掘り出し物が見つかることも多い。
期待に満ちた心持ちのまま、『路傍の野掛け』へと入った。
「……らっしゃい」
入店した俺をまず出迎えたのは、気難しそうな六十代ぐらいの店主の言葉。
彼は入り口右手のカウンターの向こうで座って本を読んでいた。
強面の店主は会釈した俺をちらと見たが、すぐに興味を失ったのか手元の本に視線を戻し読書を再開する。
チェーン店ならともかく、個人経営の古本屋なら珍しくもない対応だ。
静かにしていれば怒られないだろう。
俺は、俺と強面の店主以外誰もいない店内を見渡す。
狭いわけではない店内だが、多くの本棚とそれを埋め尽くす古本によって多少の圧迫感がある。
しかし、決して嫌な圧迫感ではない。
それぞれの古本が持つ長い歴史や情報量によって圧倒されるような、修学旅行で行った京都の蓮華王院本堂で千一体の千手観音立像を前にした際の畏敬すら覚える感動に似た圧迫感だ。
圧迫感というより、存在感というほうが正しいのかもしれない。
俺は入り口から、それら確かな存在感を放つ古本が並ぶ本棚へと近づく。
近づくにつれ、新品の本にはない古本や古書特有の香しい紙の匂いが強くなり、俺の鼻孔を擽ってくる。
落ち着く匂いだ。
図書館でも似たような匂いを感じることはあるが、ここまで強く感じることはない。
あまり広くない店内に所狭しと存在する古本によって醸成される、それこそ“古本屋”の匂いとしか形容できない匂い。
SFコーナーはどこだろうか?
並べられた古本の背表紙を見ながら、お目当ての物を探す。
こういうお店は大体ジャンルごとに固まっていることが多い。
時折店主がページをめくっている音だけが響く、そんな静寂な店内を音を立てないように歩き回る。
やはり、俺好みの居心地がいいお店だ。
俺がこういうお店が好きなのは、チェーン店では値が付かないからと買取拒否されるか処分される本が置いてあるからだ。
チェーン店では数年に一人買うかもしれない本を置いておくわけにはいかないのも分かる。
限られたスペースを最大限に活用するため、少しでも利益を上げなくては店は潰れてしまう。
そんな資本主義的競争によって、古本を手に入れる場所はどんどん駆逐されているのだ。
実家近くに全国展開の大型買取チェーン店ができたとき、父さんが「若い子たちにも昔の本を読んでほしいから」と多くの本を持って行ったが、一冊も売らずにひどく落ち込んだ様子で帰ってきてどうしたのか尋ねると、「……『古い本なので値段がつけられません。全て処分してもいいですか』と言われた」なんてちょっと泣きそうになってたことを思いだす。
古本好きには世知辛い世の中だ。
──! 見つけた。SFコーナーだ。
出版社も、年代も、作者も、言語すらバラバラな古今東西のSFが、この古本屋の棚に収められていた。
日本人のSFもあるが、店主の趣味なのか外国語のままの原本や日本語訳された古本が多い。
ロボットという概念を初めて世に出した戯曲『R.U.R』で有名なカレル・チャペックの『山椒魚戦争』や、ロボット三原則で知られるアイザック・アシモフの『われはロボット』や『鋼鉄都市』、誰もが絶対に一度は題名を目にしたことはあるであろうスタニスワフ・レムの『ソラリス』や『砂漠の惑星』が、日本語訳された文庫と共に置いてあった。
興味は惹かれるが、俺は外国語が苦手なのであまり原典は読まない。てか、読めない。
アイザック・アシモフの本は英語なので時間をかければ何とか読めるかもしれないが、カレル・チャペックの本はチェコ語だし、スタニスワフ・レムの本はポーランド語だ。
となりに日本語訳の古本があったから、作者と本の題名が分かった。
俺の第二外国語はドイツ語だし、それも本を読めるレベルには到底到達していない。
父さんは「原典で読むのが最も作品を楽しめる」という原典至上主義者であるが、俺は読むとしてももっぱら日本語訳されたものだ。
俺は父さんのように多言語を読んだり話したりできないし、別に原典だからどうという考えはない。
そもそも日本人作家のSFのほうが好みだ。
なので日本人作家の本を探す。
お、『司政官』だ。実家にはあるけど、こっちには持ってきてないな。
『日本沈没』もある。おお! 初版初刷の上下セットだ! いや、でも父さんが持ってた気がするな。
ん! 星新一もちゃんとある! 『人造美人』の初版初刷! 俺の所有しているのは初刷じゃないし、しかもかなり状態がいい!
持っている本でも、状態が良かったり初版初刷の本を見つけてしまうと欲しくなってしまうのは、古本愛好家あるあるだろう。
俺は父さんのような原典至上主義者ではないが、愛好家としての初刷至上主義者ではある。
買っちゃおうかな? 今は一万円の臨時収入もあるし……は!?
「は!?」
静寂な店の中を、俺の思わず出てしまった驚きの声が響く。
こういうお店ではできるだけ静かにするのがマナーであろうが、そんなことを言ってられないほどの衝撃が俺を襲ったからだ。
なぜなら、俺は『人造美人』の奥付を見てから一番最初のページである見返しを見たのだが、そこに星新一のサインがあったからだ。
昔にネットオークションで見たことがあるが、学生の俺には手が出せなかった星新一の直筆サイン本に書かれていたものと全く同一の筆跡。
古本屋で出会えたのが奇跡と言ってもいい。
日本のSF作家どころか、あらゆるジャンルの中で俺が最も敬愛する作家さんの直筆サインが書かれた、きわめて状態の良い初版初刷の第一短編集。
正直、めちゃくちゃほしい。
もう一度全体を見てみるが、約六十年前に出版されたのに新品のように綺麗だ。
棚に置かれているのが怖くなってしまうぐらいに。
値段を示すシールだとかが貼られていないのも怖い。
時価的なアレだろうか。
しかし、今の俺は阿多古さんから謝礼で頂いたお金もある。
売り物でない可能性すらあって、もしそうだと残念だが仕方ないとすら思ってしまう。
……格好つけて謝礼は半分でいい、なんて言わなければよかったな。
そんな情けない後悔をしながら、強面で気難しそうな店長が本を読んでいるカウンターへと向かう。
「すみません。この本値段が分からないんですが、売り物ですか」
「……本のどこかに栞が挟まってるだろ。何色だ」
「え、ちょっと待ってください」
先ほど俺が大声を上げたことを責めることはなく、本を読んだまま店長はそう言ってきた。
言われた通りに本を傷つけないように開いて栞を探すと、赤一色のシンプルな栞が中ほど辺りに挟まっているのを見つける。
「赤色です」
「……なら五千円だ」
「は!? 五千円!? 安すぎますよ!」
「クッ、安すぎると文句を言われるのは、初めての経験だな」
「あ、す、すみません」
五千円は確かに古本としては高いが、この本の価値を考えると安すぎるぐらいだ。
阿多古さんの謝礼どころか、管理局からの捜査協力金で払ってお釣りが来てしまう。
気難しそうな店主は読書をやめ、俺の顔を真っすぐと見遣った。
初めてちゃんと顔を合わせたので今気づいたのだが、俺から見て右側、つまり彼の左目の水晶体は白く濁っている。
白内障を患っているのだろうか。
ただ、視力はちゃんとあるようで、俺の瞳をしっかりと捉えている。
病による後天的なものではあるが、初めてオッドアイを見た。
妙にそれが印象に残る彼は、不愛想な表情のまま口を開く。
「で、買うのか? 買わないのか?」
「買います!」
「毎度」
買うのかを問われ、俺は思わず即答してしまった。
買わないという選択肢などもはや存在しない。
管理局の一万円を財布から出しながら、それでもこの本が本当に五千円でいいのか心配になってしまったので、一応聞く。
「本当に五千円でいいんですか? サイン本で完美品といっていいレベルですよ?」
「なんだ兄ちゃん? 一丁前に心配してんのか? 心配するぐらいなら、この在庫処分品のどれかでいいから買ってけ」
強面な表情のまま、彼は顎でカウンター横のゴンドラを示した。
その在庫処分品と言われた古本たちは、ひどくボロボロだったり、上中下巻の下巻のみだったり、聞いたこともない作家の本だったりで、確かに売れ残っても仕方なさそうなものがほとんどだ。
しかし、1つ俺の目を惹いたものがあった。
それは本ではない。
落ち着いた本棚の木の色や、日に焼け色褪せた古本の背表紙で埋め尽くされたお店の中で存在感を放つ、おめでたい紅と白二色の大袋。
それは──
「……福袋?」
「ああ、それか。正月に売ってみたが、こんな時期まで売れ残っちまった。流行りには乗るもんじゃねえな」
四月を目前にしたこの時期には場違いな、結構大きめな福袋だ。
落ち着いた色合いの周囲とは浮いていて、どことなく居心地悪そうに佇んでいる。
本来は初売りで店頭に並び、三ヶ日だとかで売り切れるはずの福袋は、約四か月も売れ残っているせいか妙にくたびれた雰囲気を放っていた。
「これ、いくらですか?」
「千円でいい。十冊は入ってるから、一冊当たり百円だな」
「じゃあこれも買います」
「毎度」
追加で千円を払い、その福袋を購入した。
二枚のレシートを受け取って、ウエストポーチのスマホと財布をポケットに突っ込み、ぶつかって本に傷がつかないようにしてから『人造美人』を入れる。
福袋を手に取ると、確かに結構な重さを感じた。
「ありがとうございました」
「毎度あり」
不愛想な店長に礼を言って、そのまま店を後にする。
本当にいい買い物をしたものだ。
いい古本屋を見つけることができた。
心春ちゃんが『変質者』に襲われてくれたおかげでというと不謹慎だが、人助けをしたおかげでこんな掘り出し物を手に入れることができ、これからはもっと人助けをしていこうと誓う。
手に入れた綺麗な『人造美人』は傷をつけないために、ちょっと前の俺の誕生日に凛菜がくれた布のブックカバーをするべきだろう。
俺と同じく古本屋巡りが好きな凛菜を連れ、またこの『路傍の野掛け』に来ようと考えながら、ブックカバーのある俺の下宿先へと急ぐ。
「おお~! やっぱこれ本物だよな」
部屋に帰ってパソコンで星新一のサインを確認し、やっぱり本物だと確信した俺はうきうきで凛菜がくれたブックカバーを『人造美人』に付ける。
運命が示し合わせたのかと思ってしまうほどぴったりだった。
……いや、俺が凛菜に『人造美人』辺りの時代の文庫本をよく貸していたので、当時の文庫本に合わせてブックカバーを作ってくれたのかもしれない。
必然の奇跡だろうか。
そういえば凛菜が今日上着を返しに来てくれるし、改めて礼を言うべきだろう。
しかし、ここまで幸運なことが連続していると、何か揺り戻しで大きな不幸で怖い。
しばらくは気を付けて生活しよう。
……いや、露出狂の『性的欲求系変質者』と遭遇したのは、割と大きな不幸なのかもしれない。
そんなことを考えていると、ベットの上に置きっぱなしにした大きい福袋に目が行く。
真っ先に本のサインの真贋を確認したため、まだ開封はしていない。
幸運が続いている今の俺なら、何か面白そうな本の一つや二つ出る気がする。
仮に全く興味のないジャンルの本でも、新たなジャンルに触れる機会だ。
行儀は悪いがベットの上で胡坐をかいて、十冊分の重さはあった福袋の口をハサミで開封した。
「……は?」
福袋の中に十冊以上の本があったが──『誰でもできる! お手軽催眠術!』、『催眠入門』、『催眠術の奇跡』といった、全てが催眠術に関係した本だった。
いや、マジでなんでだ。
催眠術師が一気に本を売りに来て、それの在庫処分か?
しかも、『路傍の野掛け』においてあった本は大体が数十年前の、新しくても十年前ぐらいの本だったが、これらの本は多分最近発売されたものがほとんどだ。
本の角も綺麗だし、帯が付いている本がある。
催眠術師が売りに来たというより、催眠術師になろうとして本を買ったはいいが、すぐに興味が失せたか全く芽が出ず挫折した人が売りに来たのかもしれない。
……それか、あの強面で気難しそうな店主が催眠術師になろうとしてたのか?
マジで分からない。
とりあえず整理しようと全てベットの上に置く。
福袋からすべての本を出して並べてみると、全部で十一冊の本があった。
十一冊中十冊は文庫本や新書、大きくても教科書のような装丁だったが、一冊だけ青年誌──いや成人誌の装丁の本がある。
「いや、なんでエロ本もあんだよ!」
最初はいわゆる趣味ものにありがちな、サッカーマガジンとかカーマガジン的なやつの催眠術版かと思ったのだが、普通にエロ本だった。
目からハイライトが消えた、いかにも“催眠されてます”みたいな表情の女の子の絵が表紙のエロ漫画本だ。
『催眠漫画短編集』という、何の捻りもない直球すぎる題名が表紙で踊っている。
「……いや、マジでどうする」
これらの本を無理矢理に買わされたのなら、返品だってしてやろうと思える。
だが、福袋という何が出ても文句を言えないものから出てくると、そう思うのは難しい。
それに、『人造美人』の初版初刷のサイン本という激レアものを手に入れた店だ。
まぁ、笑い話になるしいいかと、俺はこの福袋の中身も許容しかけていた。
「……ちょっとだけ、読んでみるか」
俺に催眠術師になりたいという欲求や、催眠的なプレイが好きという性的嗜好はない。
バラエティの催眠術とそのリアクションを取る芸人さんとかは好きだが、それはあくまでバラエティだからだ。
信じるというより、面白いから見るというのが正しい。
催眠的な要素があるエッチな漫画とかも、賢者タイムやふとしたときに『これ普通に可哀想じゃないか?』とか『倫理的にちょっとアレだろ……』って、俺はなってしまうタイプだ。
俺はこれといった性癖はないが、催眠ものは苦手寄りのジャンルである。
ただ、貧乏性であるため、千円出して手に入れた本たちを見ずに捨てるというのも、どうだかなと思ってしまった。
まだ3時過ぎで外は明るいし、そういう気分でもないのでフラットに読めるだろうと、怖いもの見たさで流し読みしてみる。
「……絵は上手い……けど、俺はやっぱり催眠はちょっとなぁ……」
同じ作者のものだろう二十ページから三十ページぐらいの短編が、五つ収録されていた。
古典的な5円玉を使う催眠術の短編、逆に先進的な催眠アプリを使う催眠術の短編、セラピー的な治療と見せかけた短編、催眠能力に目覚めた男の短編、そして催眠術にかかったふりをして両片思いの学生が行為に及ぶ短編。
SFというジャンルがスペースオペラを描くものや未知の生命体との遭遇を描くもの、近未来の管理社会を描くものなどに細分化できるように、催眠ものもここまで多種多様に細分化できるのだと感心してしまった。
一応読み終わった本を閉じる。
確かに絵は上手いし、女の子たちも可愛らしかったり綺麗だ。
が、やっぱり俺には催眠ものの適性はないみたいだった。
最後のは割と良かったが、それはこれが催眠術によって女の子の自由意志を奪ってないからだろう。
それはもはや催眠ものといっていいのか分からないが。
もっと、こう、そういった行為には愛があるべきだと、俺は思ってしまう。
……そういう行為を過剰に神聖視してしまうのが、童貞ぽいと言われたら否定はできない。
事実なのだから。
「よくこんな過激な本を出版できたな。管理局に差し止めされるだろ……いや、待て!」
ここでふと気づく。
俺は閉じていた本を開け、どの短編でもなく、1番後ろの奥付を見た。
やはり、無い。
あるべきはずの変質管理省の検閲済み印が無かった。
「……これ、違法表現物じゃねぇか」
違法表現物、それは変質管理省──管理局の上位行政組織──による変質表現検閲を受けずに世に出た表現物を指す。
変質管理省という省庁の役目は、その名の通り変質を管理すること。
『変質者』でも、彼らが生み出す『変質物』でもなく、『変質』そのものを管理するのが、その使命だ。
あらゆる人や団体が創り出す表現物は、全て変質管理省や管理局に検閲される。
『変質者』の発生を過度に煽るとされた表現物は規制され、場合によっては製作者が法的に裁かれる。
日本の検閲は比較的緩い方ではあるが。
「……持ってるだけで犯罪だよな、これ」
第一次異能大戦の後には、世界中であらゆる危険な『変質』の原因となり得る表現が禁止されたらしい。
しかし、人は禁止されても、いや、禁止されるからこそ欲する願望がより強く生じるものだ。
それこそ、禁酒法のように。
禁止された欲求を満たすための闇ポルノだとかは、ギャングや反社会組織の資金源となり、より過激なものになっていったそうだ。
そして、そのせいで世界中で更に危険な『変質者』が誕生した。
そういった『変質者』によって国体を保てなくなった国や無政府状態になった国、物理的に消滅した国すらある。
これらの事象により、多くの国は完全に規制するのではなく、本当に過激すぎる表現だけを規制しようという方針転換をしたそうだ。
「……通報するか」
しかし、緩い規制になっても、それらの検閲を受けずに出される表現物はある。
……それこそ、この『催眠漫画短編集』のように。
あくまで一要素だったり、過激すぎる表現がなければ催眠ものも許されるだろうが、この短編集は催眠という行為を過剰に賛美しているかの内容だ。
意図的に『変質者』を生み出すようなことが目的の表現物も、違法表現物に指定されてしまう。
違法表現物は持っているだけで、つまり単純所持でも有罪になる。
そんな危険物を福袋に入れるなんて、もはやテロ行為だろ。
せっかく『路傍の野掛け』といういい古本屋に出合えたが、流石にこれは許容できない。
もしあの店が摘発され、俺が違法表現物を持っていることが変質管理省や管理局にばれたら、最悪逮捕されるだろう。
こういった違法表現物を目撃したり販売されていることを知ったら、すぐに管理局か警察に通報しろなんて小学校からずっと教育されてきた。
「ガッ! 痛ェ!」
その教育に従い、すぐに通報しようとスマホを手に取った瞬間、頭を金属バットでブン殴られたかのような衝撃と激痛が襲ってきた。
あまりの痛みにベットへ頭を抱えて倒れ伏す。
「ッグ!! ガアァアアァ!!」
痛い! 痛い! 痛い!
四十℃を超えたインフルエンザの時よりも酷い頭痛。
ベットの上で身悶えしていると、痛みの発生源は頭蓋の内側へと次第に移動していく。
そうじゃない! 移動なんてものではない!
何かが、俺の脳内に入り込んでいる!
自分という存在に何か、生理的嫌悪感を伴う悍ましいナニカが侵食してくるかのような、激烈な異物感が!
「来るな! 来るなアァァアアア!!」
あまりの頭痛に、自分の叫び声すら聞こえないほど大音量の耳鳴りが聞こえる。
頭蓋を砕かんと、内側から四方八方めちゃくちゃに撞木で殴りつけられているかのようだ。
堅牢なはずの頭蓋骨が、卵の殻のように頼りないものに思えた。
酷い耳鳴りのせいで吐き気すらこみあげてくる。
億人の拍手の音を無理やりに束ねるか、黙示録の七つのラッパを全て同時に吹かなければ、この頭が割れると本気で錯覚する大騒音は生まれないはずだ。
「ッア、ク……」
くも膜下出血の耐え難い頭痛ではないかと疑い救急車を呼ぼうとするが、力の抜けた手ではスマホはしっかり掴めず、落下してベットの下へ消えていく。
だが、次第に痛みは消えていった。
違う、あまりの激痛が俺の痛みの許容量を超え、意識が消えていっているのだ。
視界から色が消えていく。
世界から色相が完全に奪われ、古い映画のような無彩色な世界へと遷移した。
そしてそのモノクロの世界から明度すら無くなっていく。
やがて、俺の意識は完全に闇に閉ざされた。
【14】
どれぐらいに時間がたったのだろうか。
昏睡から意識は取り戻したが、時間感覚を喪失している。
痛みはもう無い。
たが、猛烈な喉の渇きに襲われた。
暖房をつけたまま眠ってしまった冬の日の朝みたいな、しかし、それを何百倍にもしたかのような激烈な乾燥感。
ふらふらと台所へ向かい、コップに水をなみなみと注いで飲み干す。
……全く癒えない。
一々コップに水を注ぐのすら煩わしく、蛇口に直接口をつけ水を貪る。
びちゃびちゃと、胃の底に水が落ちていく音が聞こえた。
どれぐらいの間そうしていたのだろう。
おそらく数分だ。
ようやく喉の渇きは収まった。
──何が起きた?
途切れた記憶の糸を手繰っていく。
管理局へ行って証言をし、電話で心春ちゃんのお父さんと話をし、そして……ああ、『路傍の野掛け』で買った福袋に違法表現物があったんだ。
それを読んだとたん、激痛に襲われ意識を失った。
はやく違法表現物を管理局か警察に連絡しなくては。
違法表現物の単純所持で俺が捕まってしまう。
ピンポーン。
部屋に戻ろうとした瞬間、インターホンが鳴った。
まさか、もう管理局か警察が来たのか?
日本の彼らは優秀だ。
背筋に冷たいものが走る。
ピンポーン。
もう一度、インターホンが鳴る。
俺はまた乾いてしまった喉から、小さく悲鳴のような音が出てしまったのを隠すのに務めた。
ゆっくりとドアスコープを覗く。
そこには──凛菜がいた。
ああ、今日の午後に上着を返しに行くと言っていたなと思いだし、安堵したのか緊張が一気にほどけたのが分かった。
「悪い。寝てた」
「あ、ううん。昨日あんなことあったし、仕方ないよ」
すぐにドアを開けると、黒いプルオーバーのセーターに身を包んだ凛菜が紙袋を持って立っていた。
空は赤くなっており、夕方時だ。
意識を失ってからおそらく三時間ほど経っているだろう。
「こ、これ! ちゃんと洗ったからね」
「ありがとうな。わざわざ洗わなくてもよかったのに」
凛菜から俺の上着が折りたたまれて入ってる紙袋を受け取る。
律儀だなあと感心した。
だが、凛菜は妙に暗い顔をしていて、気になった俺がどうしたのかと聞く前に、彼女が口を開く。
「……その、昨日は私を送ったせいで、歩生君が『変質者』に襲われっちゃったんだよね。本当にごめん」
「え、あー、いや。襲われてる場面に遭遇しただけで、俺が襲われたんじゃないし、気にするなって。凛菜が『変質者』に襲われるよりはずっといい」
「……でも」
どうやら凛菜は、昨日俺が『変質者』に遭遇したのは自分のせいだと考えて気に病んでいるようだった。
俺が遭遇したのは、別れた後に公園でやらかしの反省会をしていたからだし、本当に凛菜のせいではない。
だが、気にするなと言っても凛菜の気は晴れないようだ。
彼女は少し優しすぎる。
どうにか励ますことができないかと考え、一ついいことを思いついた。
「凛菜、ちょっと見てもらいたいものがある。部屋に上がってくれないか?」
「え、あ、……うん。お邪魔します」
凛菜に上がってもらい、そのまま俺の部屋へと入る。
そして、机の上においてある『人造美人』を手に取って、彼女に見せつけた。
「これ! 見てくれよ!」
「あ、そのブックカバーは……」
「そう! 凛菜が俺の誕生日にくれたやつなんだけどさ、この中の本!」
「え、これって」
「そう! 星新一のサイン本! しかも第一短編集『人造美人』の初版初刷に書かれてる!」
「すごい……! プレミア本だね!」
俺が星新一のサインが書かれたページを見せると、凛菜はとても驚いた様子だ。
凛菜も俺が星新一さんがあらゆる作家の中でも最も敬愛しているのを知っているので、俺の興奮している理由が分かるだろう。
その勢いのまま俺は口を開く。
宝物を自慢するような子供のような振る舞いで。
「だろ! これさ、今日証言に行った帰りに寄った駅前の古本屋で見つけたんだ。……凛菜を送ってなければ『変質者』に遭遇してないし、管理局へ行くために駅前にも行かなかったと思う」
「……!」
「だからさ、マジで気にしないでくれ。『変質者』絡みに勝手に首突っ込んだのは俺だし、ケガもしてないから。むしろこの本に引き合わせてくれたのは凛菜だ。送らせてくれてありがとうございますって、俺が感謝しなきゃいけない」
「ふふふ、なんで送ってくれた歩生君が感謝するの」
俺のとんちんかんな物言いに、凛菜は優しく笑ってくれた。
そのいつもと変わらない彼女の様子に、ほっと俺は胸を撫でおろす。
もう、彼女の顔には暗い後悔や自責の念は一欠けも見当たらない。
俺は『人造美人』を机の上に戻した。
ありがとう、星新一、『人造美人』、そしてそれを引き合わせくれた『路傍の野掛け』!
おかげで凛菜を励ますことができた。
「歩生君」
「ん?」
「……ありがとうね」
「ああ」
その言葉の意味は分かる。
どうやら、俺が子供のような振る舞いやとんちんかんな物言いをわざとしていたのは、凛菜にはバレバレだったらしい。
でも、彼女はそれを俺に直接言うほど無粋ではない。
だからこその感謝の言葉だ。
俺はその言葉を相槌だけで受け入れた。
気恥ずかしさからか、むず痒い沈黙の帳が俺たちの間に降りた。
「き、今日も長居しちゃ悪いから、私はもう──」
「……ん? どうした凛菜?」
そんな居心地が悪い空気を破ったのは凛菜だったが、言葉の途中で彼女は何かに気が付いたようだった。
具体的に言えば、俺のベットの上にある何かに。
何か、そんな気になるものが置いてあっただろうか。
……あ。
「……歩生君、催眠術に興味あるの?」
ベットの上には十冊もの催眠術に関係する本が堂々と置いてあった。
意識を取り戻した後、すぐさま凛菜が来たので片付けるのをすっかりと忘れてしまっていた。
……いや、十冊? 確か、あの『催眠漫画短編集』を含めて十一冊じゃなかったか?
ベットの上の十冊は、件のエロ漫画本を除いた十冊だった。
もしかしたらベットの上で頭痛に身悶えしているときに、スマホと同じくベットの下に落ちたのかもしれない。
それは不幸中の幸いだ。
もしアレを見られていたら、言い逃れようがなく社会的に殺されていた! マジでふざけるな『路傍の野掛け』!
だが、状況は依然最悪。
即死が致命傷になった程度の事態の好転に意味はない。
異性の部屋に催眠術なんて怪しげな本が十冊もあったらドン引きだ。
いや、同性の友達でも引くだろう。
今俺は二十年近い付き合いの幼馴染を失う危機に瀕している。
なんでこうも俺は間が悪いんだ!
「い、いや、福袋! そう! 福袋を買ったら、全部何故かこんな本だったんだよ! ほら! これに入ってたんだ! こんな時期まで残ってる理由が分かったよ! 在庫処分品だったし!」
「……」
過去一番の速さで俺の頭は回り、この状況を切り抜けるための方法を探した。
その結果は「この状況はむりだねー。正直に白状するしかないよー」だった。
なぜか六華さんの口調で脳内の俺がそう結論付けたのは、彼女が今まで見てきた人物の中で最も頭が回ると判断したからだろうか。
俺は紅白の福袋と書かれた空き袋を見せて、必死で凛菜に伝える。
しかし、彼女はじとーとした目で俺を見るばかりだった。
「り、凛菜さん……」
「……ふう、うん、分かってるよ。歩生君は催眠なんてする人じゃないもんね」
「そ、そうだよ! 催眠なんて全部偽物だしな! いやー早く資源回収の日が来ないかなー! 処分したいなー!」
「……ねぇ、歩生君」
「は、はい! 何でしょうか! 凛菜さん!」
「私に催眠術をかけてみてよ」
「分かりま……は?」
つい空気に負けて肯定してしまいそうになったが、凛菜の言葉の意味が分からない。
どういう論理の飛躍だ。
何がどういう繋がりで、俺が凛菜に催眠術をかける流れになる。
「な、なんで?」
「……催眠術なんてないなら、かけようとするぐらいならいいよね? それにないことが証明出来たら、未練なく本を処分できるでしょ? だから、かけられるよね」
「は、はい」
なぜか有無を言わせない口調の凛菜に、俺は頷くことしかできなかった。
ここまで強い口調の凛菜は、猫好きの彼女と犬好きの雄一が猫カフェに行くか犬カフェに行くかで論争していた時ぐらいだ。
俺は犬も猫も好きなので中立の立場ではあったが、それでも彼女がやると覚悟を決めたときの迫力は印象に残ってる。
なんで今こんなにも覚悟を決めているのかは分からない。
彼女が催眠術など存在しないことを自身で証明することで、俺が催眠術という怪しげなものに嵌らないようにしてあげようという覚悟だろうか。
彼女の覚悟に負けた俺は、本の中でも一番薄く初心者向けっぽい『誰でもできる! お手軽催眠術!』を手に取った。
「あー、でも5円玉とタコ糸がいるからできないな」
「タコ糸なら前に焼豚を作ったときに使ったから、キッチンにあるよ」
「あ、はい。取ってきます」
俺以上に俺の部屋のキッチン周りを把握している凛菜がそういうなら、きっとあるのだろう。
キッチンに行って小物を入れてある引き出しを開けると、確かにそこにタコ糸はあった。
……必要なものがないから有耶無耶にするという悪あがきの意味はなかったか。
それを持って部屋に戻ると、凛菜は俺のベットに腰かけていた。
そんな彼女の様子を見て、少しばかりドキリとしてしまう。
仕方ないだろ!
健全な二十歳童貞には、家族同然の付き合いの幼馴染であっても、女の子が自分のベットに腰かけているというのはちょっとばかし刺激的なのだ!
普段は大部屋のほうでご飯を食べたりするので、俺の部屋に凛菜が上がるのはそうないことだし!
実家にいたころはお互いの部屋によく上がっていたが、こっちに来てからは殆どないし!
誰に言っているかも分からない言い訳を心中で叫びながら、俺はできるだけ平静を装って自分の椅子に座る。
「ええっと、20㎝ぐらいにタコ糸を切って……5円玉を縛って……よし。こんなもんか」
『誰でもできる! お手軽催眠術!』に用意するものとして書いてあった、古典的ないかにも催眠術の小道具的なものを作った。
今日日、こんなものはギャグかステレオタイプ的な催眠術師のイラストでしか見ないぞ。
「……なぁ、ホントにやるのか?」
「大丈夫だよ、私は。……それとも、ほんとに催眠術があると信じているの?」
「いや、信じてないけど。……分かった」
ここまで準備はしたが急に怖気づいてしまいそう聞くが、凛菜の覚悟は硬いようだった。
そこまでして催眠術の存在を否定したいのだろうか。
別に俺は信じていないのに。
……いや、もしかして怒ってる?
催眠術の本が10冊もこれ見よがしに置いてある部屋に上げられたら、気持ち悪いし怒っても仕方ないか。
結局、今の俺には彼女に対する拒否権はない。
俺は椅子をベットに腰かけている凛菜の前まで移動させ、彼女の目の前に座った。
左手に『誰でもできる! お手軽催眠術!』を、右手に小道具を持って。
「えっと……『今から左右に動かすこの5円玉を、顔を動かさず、眼球運動だけで動きを追ってください』」
「……分かった」
『誰でもできる! お手軽催眠術!』には、言うべきセリフや5円玉を揺らす角度は約45℃にしてくださいだとかの細かい指定が多かった。
凛菜はそれに従い、じっと揺れる5円玉を見つめている。
「……『これは誘導催眠です。準備催眠といってもいいかもしれません。本催眠をかけるための、弱い弱いとても微弱な催眠です。しかし、そのためにこの催眠術にかからない人はいません』」
「……ん」
「『揺れる5円玉は現実と夢想を行き来するあなたの意識のメタファーです。どちら側が現実なのか、夢想なのかは考えなくても構いません。どちら側も現実であり、夢想なのです。』」
「……」
「『人の意識はもとよりそのように曖昧なものなのです。現実か夢想かではなく、それらが混然一体となって意識となっている。催眠術とは、それを制御する術なのです』」
「……」
「『先に、この催眠は弱い弱い微弱な催眠といいましたが、あれは正しくもあり、間違っています。人間はすでに自分自身に無意識に催眠をかけている。自分は如何なる行動をする、自分は如何なる思考をする、自分は如何なる存在である、と。思い込みといってもいいかもしれません。自分自身を規定する思い込みと』」
「……」
「『この催眠はそれを自覚させ、そして他者に委ねさせるようにするための物です。ほら、あなたはもう自分自身が分からない。全てを私に委ねてしまっているでしょう』……だってよ。やっぱり催眠術なんてありえねえよな」
「……」
本を片手に催眠術をかけていたので、最中の凛菜の様子は分からなかった。
ようやくこの催眠手順が終わり、そこで初めて彼女のほうを見た。
途中から返事がなかったのは、あまりのばかばかしさに呆れて言葉も出ないのだろうと、そう、思っていた。
凛菜はいまだに揺れる5円玉を黙って見ている。
だが、様子が変だ。
心ここに在らずといった様子で、ただじっと凝視していた。
「からかうなって。こんな本がおっぴろげになった部屋に上げちまったのは謝るから。……凛菜?」
「……」
「ちょ、どうしたんだ。マジで」
そんな凛菜の様子は、5円玉を止めても終わることはなかった。
からかっているのだろうかと思ってそう問いかけるも、一切の反応もない。
5円玉が完全に停止すると、彼女はゆっくりとした動きで俺の顔を見やった。
「なっ!」
「……」
その彼女の瞳はひどく輝きのないものだった。
底翳が如く、昏くなった瞳。
意志が一切感じられない、俺しか映していない瞳。
しかし、どこかで見たことのある瞳だ。
しかも最近。
それは──
「……『催眠漫画短編集』の、催眠をかけられた女の子たちの瞳」
「……」
まさか、本当に催眠にかかってしまったのか?
なら、凛菜は俺の言うとおりの行動をする?
例えばそれが、エッチなことでも?
……いや、ありえない。
きっと凛菜が俺をからかっているだけだ。
女性は生来の役者というし、催眠にかかったふりをしているのだろう。
俺が彼女は本当に催眠にかかっていると思い、エッチなことを命じたらそれこそ絶縁に発展してしまう。
きっと凛菜は俺を試しているのだろう。
だが、その手には乗らないし、催眠なんかを使って女の子を思いどおりにする男ではないかと疑われたのは心外だ。
確かにこんな本がある部屋に彼女を上げてしまい、不快な気持ちにさせてしまったのは俺の瑕疵であることは認める。
しかし、こんな試すような真似をすることはないはずだ。
仮にも俺たちは20年もの付き合いなのだから。
少しばかりのもやもやが生まれたので、俺も凛菜をからかってやろうと思った。
凛菜は俺が催眠なんかを信じる男だと思っているようだが、俺は凛菜があがり症なのを知っている。
彼女と俺は、幼稚園から高校の文理選択まで奇跡的にずっと同じクラスだったのだ。
遊戯会や学芸会、合唱コンクールなど多くの人に注目されてしまう機会や行事では、彼女は絶対に真っ赤になってしまうのは知っている。
……できるだけセリフの少ない配役や、人の多いパートになることで迷惑をかけないようにし、できる限りの精一杯で頑張る誠実さは彼女の美徳ではあるが。
それは今は関係ない。
試されたことによるもやもやを晴らすため、絶対に彼女ができないことかつ全くエッチではないことを考え、一ついい案が浮かんだ。
「猫だ。凛菜、お前は『猫になってしまう』」
俺の実家で飼っているバスという黒猫を思い出しながら、俺はそう凛菜に命じる。
高校の頃、彼女が「にゃーにゃーバスは可愛いにゃー」といってお腹を撫でている場面に遭遇した時、「ね、猫の鳴き真似なんてしてないから!」と真っ赤になっていたことがあった。
それだけで真っ赤になってしまう彼女が、猫になりきれるわけがない。
……なぜ猫の真似といわれても、凛菜が黒いプルオーバーのセーターを着ていたからという理由が付けられるし。
「あがり症のお前に猫の真似なんてできる訳が「んにゃー」……は?」
せいぜい、顔を真っ赤にして蚊の鳴くような声で「……に、にゃー」というのが関の山だろうと思っていたのに、彼女は顔色一つ変えずにそう鳴く。
呆然としている俺をよそに、彼女はベットから降りた。
当たり前のように四足歩行で。
まるで、本当の猫であるかのように。
「んにゃー、にゃー」
「ちょ、ま!」
そして、目の前の椅子に座る俺の足元へ甘えるように体をこすりつけてくる。
いや、おかしいだろ!
凛菜はこんなことができる子ではない!
実は相当無理して真似しているのではないかと心配になり、彼女の顔を俺のほうへと向けさせて覗き込む。
「ふにゃ? んにゃー」
「な!」
だが、その顔は全く赤くなっていなかった。
しかも、俺の顔を見やったとたん、飼い主に久しぶりに会った猫が喜びをあらわにしたかのような表情で、甘えるために顔を近づけてくる。
それこそ、帰省で久しぶりに会った俺の家のバスみたいに。
マンチカンであるバスはかなりの甘えん坊だ。
俺は必死に顔を遠ざけようとするが、凛菜は俺の膝に手を当てて体を伸ばし顔を近づけてくる。
すぐに俺の背中は椅子の背もたれにぶつかり、これ以上の逃げ場はなくなってしまった。
彼女の顔が近づいてくる。
「んにゃ! へろっ」
「ひゃん! ちょ、マジでどうしたんだって! シャレにならない! お、俺が悪かったから! ごめんて!」
「ふにゃ? んにゃー」
凛菜は顔を近づけ、そのまま鼻と鼻をくっ付けてきた。
猫がよくする鼻キスといわれる行為。
そしてそのまま俺の鼻の頭をペロリと舐める。
ザラザラした猫の舌と全く違う彼女の舌で舐められ、思わず情けない声を上げてしまった。
何か、とんでもないことが起こっていると、俺は思わず立ち上がって凛菜から距離を取る。
しかし、彼女は再び四足歩行で近づいてきて、俺の目の前でコロンと寝転がりお腹を見せてきた。
へそ天だ。
そして撫でて撫でてといわんばかりに身体をくねらせている。
やはりその顔に一切の照れはない。
“なんではやくなでてくれないの?”という疑問の色はあったが。
おかしい。
明らかにおかしい。
こんな本気で猫になりきることは、普通の人でも照れか何かが出るはずだ。
あがり症の凛菜ができるはずがない。
……まさか、本当に催眠術にかかっている?
そうでもなければ、この異常事態の説明がつかない。
「んにゃー!」
「ちょ、ま、『動くな』!」
「んにゃ」
考え込むばかりで全然撫でてくれない俺に業を煮やしたのか、いわゆるマンチカン立ちで服に組み付き、再び顔を近づけてきた凛菜に思わずそう叫ぶ。
すると、彼女の動きはぴたりと止まった。
……まさか、俺が『動くな』と命じたからか?
「んにゃー!」
「……『猫から戻れ』」
「……」
「よ、良かった」
次いで、俺が『猫から戻れ』と命じると、凛菜は『猫になってしまう』という一番最初の命令前のような、一切の意志が剥奪された輝きのない瞳に戻った。
ひとまず安心する。
「……『ベットに戻れ』」
「……」
彼女は黙ったまま、猫になる前に座っていたベットに座った。
恐らく寸分違わぬ位置に。
……まさか、本当の本当に催眠術にかかっている?
いや、確かに催眠治療や催眠術というものが存在するのは知っている。
だが、それは民間療法というか、公式には認められていない類の物じゃないのか?
「……」
「と、解き方は載ってるのか。調べないと……とりあえず、凛菜は『何もしないでくれ』よ」
「……」
机に置いた『誰でもできる! お手軽催眠術!』を再び開き、凛菜に行った一番最初の催眠のページの次の章を開くも、全く別の催眠が書かれており解き方は載っていない。
どうすればいい。
解けろと言って解けるものなのか?
ちょっと違うかもしれないが、こっくりさんとかも催眠の一種だといわれていた気がするし、正式な解き方でないと悪いことが起こるともいわれていた。
本当に大丈夫なのか?
「……ク、……ッカ」
「凛菜! もしかして催眠が解け……!」
俺が考え込んでいると、隣から凛菜が何か音を発したのが分かった。
催眠が解けたのかと考え彼女のほうも見るも、顔を真っ赤にし酷く苦しそうな様子だ。
照れで赤いとかではなく、物理的な苦痛に必死で耐えていることが分かる赤くなり方。
目尻に涙すら浮かんでいる。
明らかに尋常な様子ではない。
なぜこんなことになっているのかを、俺は記憶をたどり考える。
「……! まさか!」
「く、……! ン……!」
あることに気が付き、すぐさま彼女の口元に手を近づける。
していない。
一切の呼吸をしていない!
「『呼吸をしろ』!」
「ぷはッ! くは! ハッ! ハァ!」
やはりそうだ。
俺が「凛菜は『何もしないでくれ』よ」といってしまったから、呼吸すらしなかったのだ。
ゾッとする。
もし呼吸をしていないことに気が付かなかったら、彼女を殺してしまっていたかもしれない。
しかし、呼吸の自由すら奪えるなんて、いよいよ認めるしかない。
催眠術は本当に実在すると。
そして、今の凛菜はどんな行為を命じられても、それを行ってしまうのだと。
それが生死にかかわるようなことであっても。
「……」
「ハァ、ハァ、ハァ」
新鮮な空気を少しで取り込むために、マラソンを走ったあとの荒い呼吸みたいになっている凛菜を見た。
少しばかり涙を浮かべて潤っているその煽情的な瞳に、俺は凛菜をもっとめちゃくちゃにできるんだぞという仄暗い事実を認識する。
濡烏色のつややかで美しく細い髪の毛が、一本だけ桜の蕾を想起させる薄い唇に引っ付いていた。
呼吸ができなくなって苦痛に襲われた色素の薄い肌が、赤らんでいて酷く艶めかしい。
運動が苦手で日焼けをしても真っ赤になって傷んでしまうと、太陽を避けている彼女の繊細で白雪のような綺麗な肌には少しの汗が浮かんでいた。
視線を下にやると、黒いセーターのニット生地に隠された彼女の豊かな双丘が、荒い呼吸で上下している。
ごくりと、俺が生唾を飲み込んだのが分かった。
普段は意識しないように努めているが、凛菜はかなり魅力的な女性だ。
もし幼馴染でなければ、俺なんかが話しかけられるレベルではない。
街ですれ違ったらつい振り返ってしまい、でも話しかけるなんてことはできず「ああいう女の子はイケメンの彼氏がいるんだろうな」と一人で虚しくなってしまうような、それぐらいに整った容姿だ。
そんな彼女のあらゆる自由意志と行動と尊厳を、俺がすべて握っているこの状況。
俺が命令すれば、エッチなことすらなんでもできるだろう。
俺は、ある命令をするために口を開いた。
「凛菜、──」
【14.5/濡烏色】
「……ん、あれ、私、寝ちゃってた?」
私がふと気が付くと、そこは歩生君の下宿先の大部屋だった。昨日もみんなで食事をした机の上へ、突っ伏して寝てしまっていたようだ。
確か今日は、変質遺児収容施設のボランティアに行って、いったん寮に戻ってお化粧をし直して、洗濯していた上着を回収して、それを返すために下宿先に向かって、歩生君が大好きな星新一さんのサインが書かれた『人造美人』の本をみせてもらって……どうなったんだっけ。
そこから先の記憶がない。寝起き特有の蕩けた思考を回すが、どうにも思い出せない。
「お、ようやく起きたか」
「あ、歩生君!」
うんうんとうなっていると、私の背後から歩生君の声が聞こえた。まだ半分夢心地で突っ伏していた私だったが、びっくりして背筋が伸びてしまう。歩生君の部屋なんだから、彼がいるのも当たり前だ。
ぱさりと何か柔らかいものが床に落ちた音がする。床を見ると私の足元に毛布が落ちていた。きっと、寝てしまった私に歩生君がかけてくれていたのだろう。その心遣いに心まで温かくなった気がする。
……ね、寝顔とか見られてないよね?
「ご、ごめんね。寝ちゃってたみたいで」
「気にすんなって。今日は朝からボランティアだろ? 昨日は俺のせいで心配させて夜遅くまで起きてたんだし、疲れてるのも仕方ねえよ。凛菜は体力ないし。……ほら、ココア。飲むだろ?」
「うん、ありがとう」
歩生君は両手に持っていたマグカップの片方を私のほうへ置く。私のほうに置かれた黒い猫のイラストが描かれたマグカップには、湯気を立てるまだ熱いココアがなみなみと注がれていた。ふうふうと少し冷ましてから口に運ぶ。
「……うん。おいしい」
「お粗末様。ちゃんと凛菜が好きな牛乳多めにしといたからな」
「ふふ、ありがとう」
彼の言うとおり、このココアは私好みの牛乳多めで甘いココアだ。暖かく甘いココアが喉を通るにつれ眼が冴え、寝ていた時に変なことを言ってなかったか急に心配になってきた。
「わ、私が寝てた時、変なこととか言ってなかった?」
「……変な、こと?」
「寝言とか、何もなかったならいいんだけど……」
「……あー、……『にゃーにゃーバスは可愛いにゃー』っていってたかも」
「なっ! それは高校の時のやつじゃんか!」
「はは、ばれたか。また方言出てるぞ」
そう揶揄われ、頬が熱くなってしまうのを感じる。日に焼けても黒くなる代わりにヒリヒリと痛くなってしまう私の肌は、照れるとすぐに赤くなってしまう。自分でも分かってしまうほどに赤くなるのは酷く恥ずかしく、そして余計に赤くなるという負のスパイラルだ。
というか、高校時代のことを持ち出してくるのはずるい。私は猫が大好きなのに、お父さんが重度の猫アレルギーなせいで私の実家では絶対に飼えないから、歩生君の実家のバスぐらいしか身近に可愛がれる猫がいなかったのだ。つまりお父さんのせいだ。
……歩生君の家に行くため、バスに会いに行っていたわけでもない。
「あ、あの時は仕方なかったの! バス君が甘えてきたし、可愛かったから! 普段は絶対猫の鳴き真似なんてしないから!」
「はは、そうだよな。……猫の鳴き真似なんて、凛菜が人前でできる訳ないよな」
「も、もう! ココア飲んだし帰るね!」
「おう、コップは流しに置いといてくれ」
私の言い訳になってない言い訳に歩生君はまた笑った。それにより一層顔が赤くなったのを隠すため、何とか話を変える口実を見つけて立ち上がる。……なんだか、歩生君にちょっと違和感をいだいたが、気のせいだろう。
「また送っていこうか?」
「だ、大丈夫だから! 昨日ほど遅くないし!」
昨日、実は塩釜君にお願いして歩生君に送ってもらえるようにしたのに、最後の不意打ちでいろいろと台無しになってしまった。別れ際に急に胸元に引き寄せてきて、『動くな』なんて言われたら誰だってドキドキしちゃうし、そういうことを期待してしまうだろう。そんなことをしておきながら髪の毛についた桜の花弁を取るだけなんて、本当にずるい。一昔前の少女漫画か。
……そういう漫画みたいなシチュエーションを体験できて、ちょっと嬉しかったのは内緒だ。
「そうだな。あ、玄関でちょっと待ってろ、次の本貸すから」
「うん」
私が玄関でちょうど靴を履き終わったときに、彼は本を持ってきた。結構最近の本っぽくて、『人間たちの話』という題名が表紙で踊っている。珍しい。歩生君はお父さんの影響で古い本ばっかり読んでいるのに。
そんな私の不思議そうにしている様子を読み取ったのか、彼はちょっと笑いながら本を渡してきた。
「最近は古めな本ばっかり読んでもらってたからな。偶には新しめの本だ。この短編集の作家さんはウェブに投稿してて、そこで賞を取ってデビューした人なんだけど、凄い面白いから読んで欲しいんだ」
「へーすごいね。もともとは別のお仕事をしていたの?」
「ああ、確か……大学で生物学の研究をしてたんだったかな?」
「生物学……あ、もしかして、歩生君の好きな星新一さんが作家になる前は大学院でカビの研究とかしてたし、そういう似た経歴があったから惹かれたの?」
「おー! よく分かったな。そんな感じだ。前にアーサー・C・クラークへアドバイスしたり、自分でもSFを書いたロバート・L・フォワードっていう重力工学の研究者がいて、その人の『竜の卵』っていう小説も面白い経歴だなって読んだりしちゃったし、それと似たようなものだな」
「うん、分かるよ。宮廷に仕えていた紫式部の宮廷を舞台にした『源氏物語』とか、紀貫之の『土佐日記』もその人の経歴から読み解くと面白いしね」
「そうだよな! ……まぁ、『たのしい超監視社会』ってのがその短編集の中だと一番おすすめなんだが、生物学的要素はなかっ……いや、人間っていう生物が出てくるし、生物学的な要素はバリバリ出てるのか?」
「ふふ、楽しみに読んでみるね」
ああ、本当に歩生君と話すのは楽しい。本の話題でここまで盛り上がれるのは彼しかいない。塩釜君は漫画ぐらいしか読まないし、はなちゃんはばりばりの体育会系で本を読むより外で遊びたいって子だし。
しかも、私のお勧めする古文とかを、自分で日本語訳して読んでほしいなんて面倒くさいお願いを、彼は絶対に守ってくれるのだ。それが本当にうれしい。私はすぐにあがってしまうけど、本の話ならいつもよりいっぱい話せるし。
私は基本的に日本文学、彼はSFという全く違うジャンルだけど、お互いの好みを否定することはなく、むしろ自分が絶対に手を出さないだろう本に触れるきっかけになる。
彼という存在の一部となった本を自分も読んで取り込み、私という存在の一部になった本を彼が読んで彼の一部となるのが、なぜだか言い表せないほどの喜びなのだ。……自分でもちょっと気持ち悪いし、重いかなって思っちゃうから、歩生君には絶対言えないけど。
別れ際の会話も、めんどくさい女だって思われないためにそろそろ切り上げなくてはいけない。本当に名残惜しいけど。
そこでふと、この『人間たちの話』がブックカバーをしていないことに気が付く。彼はほとんどの本にブックカバーをしていない。それこそ、私が彼の誕生日にプレゼントしたブックカバーを付けたサイン本の『人造美人』ぐらいだ。最後にそれだけ聞いて帰ろうと、私は口を開いた。
「そういえばさ、歩生君はブックカバーを全然しないけどどうして?」
「あー、そういえばそうだな。……父さんの影響かも」
「あ、確かに、歩生君のお父さんもブックカバーしてないね」
歩生君のお父さんは私たち以上の読書家だ。私たちのように特定のジャンルではなく、ミステリー、ホラー、哲学、エッセイ、滑稽詩、冒険、歴史書、自伝、SF、純文学、といったほぼすべての分野を網羅している。変わったところだと、医学書や工学論文集なども読んでいる。後者の二つは、歩生君のお父さんが医療系機械の研究者だからかもしれないけど。
しかも、世界各地のそれらを原典のまま読む。あれはちょっと真似できない。何か国語を理解しているのだろうか。
蔵書量もとんでもなく、書斎ともう一つ本だけの専用の部屋があり、さらに近所に倉庫を借りているんだったか。家に入りきらなくった本のことで歩生君のお母さんに怒られ、しょぼんとしていたのを思い出した。たしかにあの人もブックカバーをしていなかった気がする。
「俺も父さんも、本は読むものって思ってるからな。急にあの本読みたい! ってなったときにブックカバーしてたら、どこにあるかわかんなくてイラつくだろ?」
「そうなんだ。……ブックカバー、誕生日に贈らないほうがよかったかな?」
歩生君がブックカバーをつけない理由を聞いて、私は彼の誕生日にブックカバーを贈ってしまったのは間違いだったと後悔してしまった。
それが思わず口に出てしまったようで、歩生君は酷く慌てた様子になる。
「あ! いや! そうじゃないって! あくまでブックカバー付けないのは読む用の本の話な! 『人造美人』は二冊目だし、サイン本を流石にそのままの外装にはできねえよ! だから凛菜に貰ったブックカバーがあって本当に良かった!」
「……本当?」
「ああ! 凛菜がくれたブックカバーをそれまで使わなかったのは、見合う価値の本を俺が持ってなかったからだ。あれ、めちゃくちゃちゃんとした既製品みたいな作りだけど、布の手作りだろ? 刺繍も凄いからさ、俺は本を読んだまま寝落ちしたりするから折り目が着いちゃったり、ポテチの油が着いちゃったりするのが怖くて使えなかったんだ。でも、星新一のサイン本なら、絶対そんなことはしないからな。読みたくなっても一冊目のぼろいほう読むし、二冊目は俺の人生の家宝にするつもりだから。それに凛菜からの大切な贈り物をつければ、俺は絶対粗末な扱いをしないって断言できるし……凛菜?」
「……ぁぅ」
自分の顔が熱くなっていくのが分かる。蚊の鳴くような、自分でもどう出したのか分からない声が喉の奥から漏れた。鏡を見なくても分かる。今の私の顔は耳まで真っ赤だ。
ずるい。本当に歩生君はずるい。
歩生君がどれだけ星新一を敬愛しているのかは、私が一番知っている。彼の人生の家宝とまで言ったその人のサイン本と、私の贈り物が同等の価値だなんて言われたら、嬉しすぎて死んでしまいそうになる。それが私なんかの手作りのブックカバーだとしたらなおさらだ。
心臓が早鐘を打つ。バクバクという音がうるさく、彼に聞こえているんじゃないかと心配になってしまう。まともに彼の顔を見ることができない。
「だ、大丈夫か? ……もしかしてまだ催み」
「大丈夫じゃんね!! 身体もえらくないし!! 『源氏物語』のいま読んでるところ最後まで読んでみりん!! でら面白いから!!」
「ちょ、また方言出て」
「じゃあね!」
歩生君が言っていることを最後まで聞かず、部屋から逃げるように飛び出した。極限まで照れてしまうと、両親の出身である愛知県の方言で話しながら逃げてしまうのは私の悪癖だ。階段で転びそうになってしまったけど、何とか敷地外まで走り切る。
彼に今日は送らなくていいといったから追ってはこなかった。だが、それは助かった。もし今の顔を見られてしまったら、きっと、恥ずかしすぎて死んでしまうだろうから。
そのまま、私は息を整えながら女子寮へと帰った。
【15】
「……また怒らせてしまった」
凛菜は俺が変なことを言って怒らせてしまうと、顔を真っ赤にして方言で走り去ってしまうのだ。
例えば、昨日のように。
本当は追いかけて謝るべきなのだろうが、昨日は女子寮の中へと入ってしまったし、今日は事前に送らなくてもいいといわれた上、『催眠漫画短編集』を一刻も早くどうにかしなくてはならない。
「……でも、良かった。記憶も残ってなかったし、悪影響も無さそうだ」
俺が猫から戻した凛菜にした命令は、『催眠術に関係する今日の全てを忘れて居間の机で眠れ、目を覚ました時には催眠術は解けていろ』だ。
それ以外の命令はしていないし、身体にも一切触れていない。
彼女を好きなようにしたいという欲望も確かにあった。
あったが、俺にはできなかった。
凛菜とは二十年もの家族ぐるみの付き合いをしてきた。
俺は彼女が好きだ。
好きだが、それが家族に向ける家族愛なのか、女性として好きなのかは正直分からない。
俺は、人を恋愛的に好きになった経験が欠落している。
小説において、恋や愛は昔からのテーマだ。
それこそ、約千年前である平安時代の『源氏物語』も光源氏を中心とした愛憎の物語といってもいい。
星新一だって、惚れ薬の話や婚約者の前の男について懊悩する憑霊師の話を書いている。
俺は、それらに出てくる人々の感情に面白いや感動の感想は得るも、同一視はどうにも昔からできなかった。
エンパシーはできるが、シンパシーはできないというべきか。
とにかく、俺のこの凛菜に対する気持ちが恋愛的な好きなのかは分からない。
だが、俺はこれを彼女に伝えることは決してない。
絶対にない。
凛菜へのいじめを彼女が不登校になるまで気が付かなかった俺には、そんな資格はない。
ましてや、自由意志を奪った彼女に下劣なことをして穢すなんて、人として絶対にしてはいけない一線を踏み越えている。
そんなことをしたら、孤児の俺を引き取ってくれた今の家族に顔向けできないし、二度と凛菜と話すことすらできなくなるだろう。
きっと、死にたくすらなる。
凛菜はきっと、格好良くて優しくて博学で、優しく寄り添って過去の傷を癒してくれるような、そんな素敵な人に見染められて幸せになるだろう。
幸せになるべきなんだ、その時隣にいるのが俺じゃなくていい。
間の悪く、今日も彼女からのプレゼントいらないものだと誤解させてしまった気も遣えない俺では、彼女を幸せにできない。
自分でも好きだと断言できないこんな気持ちを抱えた俺がすべきなのは、幼馴染である彼女の幸せを願うことだけだ。
もしかしたら、もう好きな人がいるかもしれないし、再来年には彼女は就職して社会に出る。
そこでいい人と出会うだろう。
……そういえば、彼女の好きなタイプすら知らないな。
まあ『源氏物語』の光源氏のような、あらゆる才覚を持ち、家柄も顔もいい男だろう。
ほら、俺とは全く違うじゃないか。
そんな奴に好意を向けられてもキショいだけだろう。
「さて、例の本はとっとと通報しよう」
気持ちを切り替え、自分の部屋へと戻る。
ベットの下に隠すように放り投げた本たちを取り出す。
一冊、二冊、三冊、……十冊?
おかしい、ベットの下にあるだろうと思っていた『催眠漫画短編集』がない。
あるのはそれ以外の、凛菜が居間で寝ている間に急いで放り投げた本だけだ。
再びベットの下を覗き込むが、そこには少しのほこりと頭痛に襲われた時に落としたスマホしかない。
「まさかッ!」
凛菜が紙袋で俺の上着を持ってきたことを思い出した。
一気に血の気が引く。
彼女は俺の上着だけを置いて紙袋を持ち帰ったが、もし、あの紙袋の中に『催眠漫画短編集』が入り込んでいたら!
「や、やばすぎるだろ!」
上着をわざわざ洗濯して持ってきてくれた女の子へ、エロ漫画本をお土産に持たせるなんてどんな最低男だ。
しかも、持っているだけで捕まる違法表現物ならなおさらだ!
急いで彼女に連絡するため、手を伸ばしてスマホを取ろうとするが、だいぶ遠くにあり身体がベットと床の間につっかえ微妙に届かない。
「くそ! ……は?」
伸ばしている手とは反対側の手でベットを少し浮かし、なんとかスマホを取ろうとした瞬間、ベットが消えた。
違う。
俺が片手で掴んで持ち上げているのだ。
シングルベッドとはいえ、マットや布団が乗っている折り畳み式で金属製のベットを片手で。
なのに、全く重さを感じない。
いや、大判の本を持った時ぐらいの重さは感じるが、それだけだ。
あまりに現実感のない感覚。
『……者…………肉……あ……な……力を…………る』
……ああ、そうか。全部夢だったんだ。星新一のサイン本なんてものが五千円で手に入るなんておかしいし、福袋から催眠術の本だけが十冊ぐらい出てくるのはおかしいし、凛菜が猫になりきったのもおかしいし、そもそも催眠術が存在したことがおかしい。
だから夢なんだ。
なんでそんなことに気が付かなかったんだ。
いや、得てして夢とはそういうもの。
見ている間は夢だと気が付かないし、夢だと気が付くと覚めるものだ。
『……者は強……肉……あ……な……力を……ている』
夢だと気が付くと、いろいろともったいないなと思えてきた。
サイン本ももったいないし、猫になりきっていた凛菜を撫でるぐらいはしてよかったかもしれない。
それ以上のことは、ちょっと夢の中とはいえ申し訳ないからできないけど。
いやー、まさか自分にこんな夢を見るような欲求があったとは。
少し恥ずかしくなる。
だがそろそろ醒める頃だろう。
夢だと気が付いたのだから。
『……者は強……肉体とありえな……力を……ている』
だが、いつまで経っても目が覚めない。
寝ころんだまま頬を抓ってみたが、普通に痛い。
洗面台に行って顔を洗ってみたが、普通に冷たい。
桶に水を張って顔を沈めてみたが、普通に苦しい。
「……はは、随分と、リアルな夢だな」
『……者は強靭な肉体とありえな……力を持っている』
……ああ、違うだろ。やめてくれ。夢であってくれ。くだらない悪夢であると、そう安心させてくれよ。
薄々気が付き始めていた。
これが夢でないことを、俺が夢だと思いたいだけであると、ただ、現実逃避しているだけだと。
催眠術が存在するかの是非は分からない。
だが、存在していたとしても、本を読んだだけでできるようになる術ではないはずだ。
記憶を消したり、猫になりきらせたり、その人の呼吸すら封じて窒息死させるのは相当広い分野で利用できる。
いい方向にも……最悪な方向にも。
そんな簡単で便利な術があるならば、正式な医療分野の一部門になっているだろう。
もう一度、自分の部屋のベットの前に立つ。
ベットのふちを片手だけで掴んだ。
「……はは、マジでか。……俺が、『変質者』」
『変質者は強靭な肉体とありえない能力を持っている』
僅かな抵抗と重さだけを感じ、ベットは俺の頭の上へと持ち上がった。
少しばかりのほこりが舞う。
俺の変質は名付けるならば、『催眠偏愛』か。
いや、俺は催眠というものに今でも興味はない。
嫌悪感すら抱いている。
そんな名を付けることすら嫌だ!
だが、『変質者』になったということは隠された欲求があったということか。
……分からない。
自分自身の欲求、嗜好の全てを把握しているわけではない。
実は俺の深層心理のリピドーやイドは催眠姦を欲していて、それを超自我や自我といった倫理的な思考から忌避しているのかもしれない。
仮称『催眠欲求』としよう。
……名前など、今はどうでもいいか。
なぜか自分でも驚くほどに頭は冴えていた。
きっと、少しでも思考してこの受け入れがたい現実を理解しようとする、心理的な防衛本能だろう。
露出狂の『変質者』を思い出す。
変質は『露出欲求』。
奴は『性的欲求系変質者』。
つまりピンクだ。
忌み嫌われる『変質者』の中でも、一際忌避される性的欲求によって変質した者。
彼と俺の何が違う?
……身体の自由だけを奪う彼と、あらゆる自由と尊厳すら奪う俺。
どっちのほうが忌避される存在だ?
そんな答えが分かりきった自問自答に、俺は答えを出すことができなかった。
福袋って全然いらないものも入ってるよねってお話です。
あと、催眠ものみたいな能力持っても現実だと使えないよねってお話です。
凛菜ちゃんは『催眠術の本を好きな人の部屋で見つけ、催眠術にかかったふりをして気持ちを伝えるシチュエーションができる! ちょっとエッチな少女漫画で見たやつ!』って思って覚悟を決めていたら、ガチで催眠術にかけられて記憶を消されました。
かわいそうですね。