第1話【彼の日常だった物・変質事件】
以下条文は『改正日本国憲法』より抜粋。
第11条『国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。ただし、変質した者はこの限りではない。』
第13条『すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。ただし、変質した者はこの限りではない。』
【1】
月明かりと街灯に照らされた深夜の路上。
俺は、激しく暴れている全裸の中年男性を、全身の力を使って必死に押さえつけていた。
そんな俺たちの前に、喪服を想起させる黒一色のスーツを着た透銀色の髪の女性が立っている。
白髪というには生糸のような輝きがあり、銀髪というには雪解け水のような透明感がある不思議な髪色。
既存の色彩表現には当て嵌まらないその不思議な髪色は、やはり透銀色という表現でしか言い表せない。
彼女が口を開いた。
「記録開始。発現異能の違法行使を確認しました。第二段階、丙種級変質者と推定。異能の行使を即座に停止してください。警告に従わなければ、公共の安全と秩序を維持するために人権は制約されます。……異能停止確認できず。警告終了。八剱六華、即応法執行を開始します」
無機質な機械音声のように、八剱と名乗った彼女は一切の感情と淀みを言葉に含ませることはなく、極めて淡々と事務的に警告と略式法執行宣言を行った。
黒ずくめの彼女は、月光を反射し濃い銀色に煌めく日本刀を、黒くぴっちりとした手袋をしている右手で持っている。
彼女の首元には、これまた黒い何のデザイン性も持たない管理電子首輪が嵌められており、彼女は管理局に所属する『変質者』であることが分かった。
彼女が庇うようにしている背後には、制服を着たポニーテールの少女がしりもちをついている。
その少女は、全裸の露出狂と刀を持った黒ずくめで透銀色の髪の女性と比べると、外見上は何の特徴もない普通の少女だ。
強いて言うならば、小柄で快活な印象を受けるかわいらしい容姿をしているという特徴しかなかった。
……そんな少女は指先を動かせず瞬きすらも一切できず、目線と口元以外の自由は奪われていたが。
深夜の路上で暴れる露出狂と押さえつける男、その目の前に黒ずくめで日本刀を持った透銀色の髪の女性とピクリとも動けない少女。
はたから見たらこの状況の訳が分からないだろうし、当人である俺もすべてを理解しているわけではない。
だが、簡潔にまとめるとそれ以外に形容の仕方がないのだ。
俺は、露出狂で『変質者』であろう中年男性のじっとりとした汗と、興奮しているのか火傷しそうなぐらい熱い体温をできるだけ考えないようにするため、自分でも訳が分からない状況になってしまった今日のことを、現実逃避気味に回想し始めていた。
……この時の俺は未だ知る由もなかったが、俺の人生で最も濃くなる三日間の始まりに過ぎなかった今日のことを。
『今日が食堂のバイトの最終日だよね? お疲れ様!d( ̄  ̄)』
3月の最終金曜日で辞める予定──つまりは今日──のアルバイトの勤務後に、まかないを食べながらメッセージアプリを開く。
すると幼稚園から大学まで同じ幼馴染たちとの3人のグループチャットに、そんなメッセージが来ていた。
いつも通りの顔文字を付けたメッセージを送ってきた凛菜に、そういえばこのバイトを辞めることになったのを愚痴混じりに伝えていたことを思い出す。
生協が運営している大学の食堂のアルバイトは、出来るのならずっとここで働いていたいと思えるほどいい職場だった。
俺の通う大学から近いどころか敷地内であるし、昼勤後も夕勤後もまかないが出るし、お客さんも同じ大学の職員や学生なので変な客もいないしというかなり理想的な職場だったのだ。
時給は少し低いが、それも俺が学生で勤労学生控除を含めても130万の壁があることを考慮すると、その分シフトを入れてまかないが食べられるという利点すらある。
しかし、3年次からは2コマ目と3コマ目に必修の講義や実習が多く入るため、泣く泣く辞めることになってしまった。
1年次から約2年間も続けてきたアルバイトを辞めることになったという事実を改めて実感する。
喪失感かもしくはどことない寂寥感を覚えながら、俺もメッセージを送った。
『ありがとう。早く次のバイト見つけないとだから、少し憂鬱だけど』
そんな当たり障りのないメッセージを送り、ニュースか何かを見るために画面を変えようとした瞬間に既読が1つついて、すぐさま返信が送られてきた。
『働き者だね~٩(๑❛ᴗ❛๑)۶
今日ぐらいアルバイトのこととか忘れてもいいんじゃない(๑>◡<๑)』
『だからさ、今日の夜ひさびさにみんなでご飯食べようよ!٩( ᐛ )و』
そんな食事のお誘いに、そういえば俺たちはこの春休みに互いの帰省だとかバイトとかの予定が合わず、あんまり遊んでいなかったなと思い至る。
春休みも終わりの終わりだが、バイトばっかりの俺を気遣ってくれたのもあるだろうと了承の返事を送ろうとして、手を止める。
このメッセージを送ってきた凛菜が給料日前だったことを思い出したからだ。
『俺は別にいいけど、凛菜は確か給料日前じゃなかったか? 店いけるか?』
『う、確かにお店はちょっときついかも。こめん、家でもいい?m(_ _)m』
『了解、雄一の予定も聞かないとな』
『ちょうど釣りが終わったところだ。もう今日の予定はない。暖かかったからかタコも釣れたぞ。持っていく』
丁度よくもう一人の幼馴染である雄一が、いつも通り武骨な口調のメッセージを送ってきた。
ついで、これまた丁度よくかなりの釣果を示す写真が送られてくる。
大きめのクーラーボックス一杯に、写真から見てとれるだけでもアジといった青魚やカサゴのような根魚、そしてかなりの大きさのチヌにタコまで詰まっていて、凄い大漁だ。
『天才! タコいいね! タコパしよ! タコパ!( ✌︎'ω')✌︎』
『今ホットプレートは俺の部屋じゃなくて雄一の寮にあるからできないぞ』
『前みたいに寮の野郎どもが乱入してきてめちゃくちゃになってもいいなら俺の部屋でもいいが』
『……ごめん、歩夢君の部屋でいい?』
前に雄一の部屋がある男子寮でご飯を食べ、女の子と純粋に食事に飢えて乱入してきた他の男子寮生によって、しっちゃかめっちゃかの大惨事になった時のことを思い出したのだろう。
顔文字をつける余裕がなくなったメッセージを送ってきた凛菜に、俺は内心でこういう流れになると予想していたので返信する。
『了解。米炊いとく』
『ありがとう!☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆』
『感謝する』
地元から結構離れたこの大学に通う俺たちは、凛菜は女子寮に、雄一は男子寮に、俺はアパートに下宿している。
俺も入学時には男子寮に応募したのだが、運悪く抽選ではじかれてしまった。
そのため誰かの部屋で飯を食う時は、男性立ち入り禁止の女子寮とたいていめちゃくちゃになる男子寮ではなく、俺の下宿先になることがほとんどだ。
部屋の掃除だとか、米を炊かなきゃなだとか。
そういったやるべきことを脳内でリストアップしながら、食べ終わった食器を乗せたお盆をもって回収口に向かう。
「ごちそうさまです。いままでありがとうございました」
「おお、白浜くん。お疲れ様。こちらこそありがとう。学校がんばってね」
食器回収口から厨房の方を覗くと、ちょうど見えたところに生協の職員さんがいたので軽く挨拶しあった。
2年間も一緒に働いていたが、辞める時はこんなものかという少しの寂しさと、まぁ学生アルバイトだしここの食堂はまだ利用するので、これぐらいの反応が普通だろうという考えが浮かぶ。
それらの言いようもない感傷を振り払うように、開けっぱなしの出口のドアをくぐった。
外に出た瞬間に降りかかってきた眩い太陽に思わずその日差しを掌で遮る。
中天を数時間ばかり過ぎたほどの春の日差しは、新たなバイトを探さないとと少し憂鬱になっていた心を優しく暖め、少しばかりだが前向きな心持ちにしてくれた。
【2】
「俺だ。ちょうど下で会ったからリナもいる」
「おう、今開ける」
洗った米を炊飯器にセットし、干していた洗濯物を取り込み、掃除機もかけて人を上げられる部屋にし終わったところで、ちょうどインターホンが鳴った。
すぐに玄関へ向かって二人を出迎える。
ドアを開けると、クーラーボックス持った大柄で日に焼けた肌と坊主が特徴的な海の男という表現が似合う男性──塩釜雄一と、色素の薄さを示す白い肌と対照的な黒い長髪の文学女性という表現が似合う女性──來宮凛菜が立っていた。
凛菜は幼稚園に入る前からの付き合いの、雄一は幼稚園からの付き合いがある幼馴染だ。
「よ、久しぶりだな」
「俺は実家に帰ってたし、お前はバイトばっかだったもんな」
「うん、……久しぶり」
「まぁ立ち話もなんだし、入れよ。あんまり豪勢なもてなしはできないけどな」
「はは、男の一人暮らしにそんなん求めねえよ。邪魔するぜ」
「お邪魔します」
何度もこの部屋に来ているので、二人とも勝手知ったる様子で靴を脱ぎ、俺が出しておいた来客用のスリッパをはいて部屋へと上がった。
学生の一人暮らしには少し大きすぎる、元は企業の単身者向け社宅だった1LDKの部屋のため存在する短い廊下を通って、大部屋へと俺を先頭に歩を進める。
「冷蔵庫に魚とか入れとくな」
「お、ありがとう」
「塩釜君、私も手伝うよ。何をつくれそうか見ておきたいしね」
「ああ、助かる」
俺の部屋で皆と飯を食う時は、食材や酒は全員で持ち寄るか釣りが趣味の雄一が獲ってきて、料理が趣味で上手な凛菜が調理し、俺が片付けるという役割が大体決まっている。
俺だけほぼなんにもしていなくて申し訳ないが、二人からは部屋を使わせてくれてるから気にしなくていいといわれ、それに甘えてしまっているのが現状だ。
俺がすることといえば、せいぜい今日みたいに米を炊いておくことぐらいか。
「……アジにカサゴにチヌに……おお、本当にタコだ。釣れるんだ、タコって」
「堤防に張り付いてるのが見えてな。新しい竿とリールを買ったからいろいろ試すがてらに釣りに行ったんだが、たまたま仕掛けを持って行ってて幸運だった。ほかの魚も血抜きはしてあるし、餓えた寮のやつらに食材を渡す代わりにタコの塩揉みや魚の内臓だとかの下処理は手伝わせて終わらせてある。ただ、河口に少し近いところで釣ったのと、完全に冷凍する時間はなかったから生は避けるのが無難だろう」
「うん、なら……アジは南蛮漬けにして、カサゴは唐揚げかな。サッパリさせるためにタコは……茹でて酢の物とカルパッチョにしよう。チヌは、カセットコンロと鍋でしゃぶしゃぶがいいかな。歩生くん、それでいい?」
雄一に食材をほとんど用意してもらい、凛菜に料理を全部任せてしまっている。
なので俺は、いくら部屋を貸しているとはいえ、酒とビーフジャーキーだとかのつまみぐらいは料理が終わる前までに買ってこようと準備をしていた。
そんな時、キッチンで食材を見分して何をつくろうか思案し終わったのだろう凛菜がひょこりと顔を出し、ダイニングにいた俺に話しかけてくる。
別に気にしなくてもいいのにと思いながら、凛菜に言葉を返す。
「別に部屋を貸してるからって、俺の要望ばっかり取らなくていいぞ。雄一と凛菜が食べたいのでいい。俺は凛菜の料理はなんでも旨いし好きだから」
「っぴょ!」
「ちょ、どうした?!」
「……アユム。お前なぁ……はぁ」
俺の返答に対して凛菜は南国の鳥のような妙な鳴き声を発したと思ったら、茹でたタコのように真っ赤になった。
そして運動が苦手な彼女とは思えないほどの敏捷性で、俺から死角のキッチンのかげに隠れる。
超速度の反応に俺が訳も分からず驚いていると、雄一の俺に対して呆れかえったかのような言葉が耳に届く。
そのため息に似た呆れ声と、色素が薄いせいで赤くなるのが分かりやすい凛菜のあの尋常じゃない様子に、俺の発言をもう一度思い返した。
『別に部屋を貸してるからって、俺の要望ばっかり取らなくていいぞ。雄一と凛菜が食べたいのでいい。俺は凛菜の料理はなんでも旨いし好きだから』
……めちゃくちゃ馴れ馴れしいというか、彼氏気取りみたいな気色の悪い発言だったことにようやく気が付いた。
特に、後半部分。
自分でも顔から血の気が引き、やらかしたという事実に肝が冷える。
「す、すまん! 凛菜、変な意味はなくて、えっと、気色悪いこと言ってマジですまん!」
気が付いた瞬間に、すぐに俺はダイニングからキッチンに向かう。
凛菜は昔から大人しそうというか、物腰穏やかな雰囲気であり、いつも静かに本を読んでいるような子だった。
しかし、そんな凛菜が気に入らない一部の女子に虐められたり、男子に少し行き過ぎたいたずらされていた時期がある。
……あまり鋭いとは言えない俺は、いじめられていることを凛菜が不登校になってようやく知ったのだが。
ああ、……今思い出しても自分が許せない。
いろいろあってそれらは解決したのだが、それ以来凛菜は一部の友達以外には深くかかわらないし、特に俺ら幼馴染や父親以外の男性が苦手になってしまった。
凛菜の反応と雄一の呆れ声は、過去の傷を抉るような距離感を間違えた俺の言動に対するものだろう。
「まあ待て、アユム」
「いや、でも凛菜に謝らないと……」
「大丈夫だ。……リナはな」
キッチンに入ろうとしたところで雄一が仁王立ちしており、俺の行く手をふさいだ。
キッチンの中では凛菜がしゃがみ込んでいるのが分かるが、大柄な雄一の体でよく見えない。
雄一はなぜか俺に対し、同級生に向けるものとは思えない微笑ましいものを見るような目で俺の目を真っすぐに見ていた。
そのまま雄一は振り返らずに、俺を真っすぐに見つめたまま背後への凛菜へと言葉をかける。
「な、リナ。もう落ち着いただろ?」
「……うん、大丈夫。でも、ちょっと一人にしてほしいかな。……大丈夫だから、気にしないでね。歩生君」
「ほらな! 酒でも買いに行こうとしてたんだろ。ほら、さっさと行くぞ! リナも料理に必要なものと飲みたい酒を後で送ってくれ!」
「えっ、ちょ、雄一!」
雄一は、彼の漁師のおじいさん譲りな大きく力強い手で俺の腕をつかみ玄関へと向かう。
小さな時からサッカーやおじいさんの力仕事を手伝っており、いまでも大学の割とガチ目なサッカー部(同好会やサークルではない)に入っている雄一に、高校の陸上部を引退してからは大学のジムで筋トレしている程度の俺が抵抗できるわけもない。
凛菜の様子を伺うこともできずに、引きずられるようにしてそのまま家を出た。
【3】
「……はぁ、あー、やらかした」
「アユム。お前、まだ言っているのか」
近くのスーパーで酒類とつまみを物色しているのだが、ふとした瞬間にさっきのことを思い出しため息をついてしまう。
雄一はそんな俺の様子を見て、やはり呆れたような雰囲気を隠そうともしない。
「流石に付き合ってもない女の子にあの発言はやばいだろ。きしょ過ぎる」
「『お前の料理、毎日食いたいぜ』……か?」
「そんなこと言ってないし、そんなにキモくないだろ! ……キモくないよな?」
「はいはい。キモくないキモくない」
雄一の押しているカートのカゴに俺が飲む酒を入れる。
普段は飲んでも1本のストロング系の長缶を、3本も適当な味を選んで。
今日は無性に酔ってしまいたい気分だった。
ちなみに雄一が飲むのは、俺の家までバイクで来ているし注射の消毒もアルコールフリーな消毒液を使うぐらいにアルコールに弱いので、いつも通りノンアルとジュースだ。
図体はでかく、見た目はいかついくせに。
雄一がいつも飲んでいるやつを見つけたので、それもカゴに放り込む。
「ははは。お前が古臭い本ばっかり読んでるからか、クサイ事ばっかいっちまうのはリナも分かってるし、大丈夫だ。お前たちは20年近い付き合いだろ」
「……そうだけどさ、あいつを傷つけたかもしれないだろ。それが一番嫌なんだ」
雄一はそう言っているが、凛菜は中学生の時に不登校になってしまうほどのいじめを受け、不登校になってしまったのだ。
心の傷とは当人にしか分からず、根が深いもの。
それを俺が抉ってしまったのではないかと考えると、気が気でない。
……ただでさえ、あの時の俺は気付くのが遅れてしまい、凛菜のために動くのが遅れてしまったのだから。
「あー……ま、大丈夫だろ。お、ほら、メッセージも来てるし」
「……本当だ」
微妙な顔をした雄一は、何か話題を変えようとしてスマホをいじり、凛菜からのメッセージがグループに来ていることに気がついた。
俺もスマホを取り出してメッセージを確認する。
『ほんとうに大丈夫だから、歩生君心配させちゃってごめんね!( ✌︎'ω')✌︎
しゃぶしゃぶとカルパッチョに使うぽん酢がなかったから買ってきて!( ・∇・)
あと、新玉ねぎがあったらもっとさっぱりできるよ!٩( 'ω' )و
オリーブオイルが今回の分はあるけど、全部使っちゃって大丈夫かな?m(_ _)m
お酒は甘いのがいいな!お金は後で払うからよろしくね!d( ̄  ̄)』
普段は物静かな雰囲気なのに、メッセージ上だと顔文字を多用するいつもの凛菜のメッセージ群は、彼女の今の大体の感情を俺に伝えてくれる。
しかし、こんなにもメッセージと普段の発言に差があるのは、俺たちとのやりとりしか知らないが一種のネット弁慶や内弁慶というやつなのだろうか。
ふと幼稚園ぐらいの頃を思い出す。
俺が早生まれでさらに未熟児だったので昔は小さかったから、6月生まれの凛菜は弟みたいに扱ってきていたなんて懐かしい記憶がよみがえってきた。
幼いころは凛菜もジャングルジムが好きだったりして、割と活発な女の子だったはずだ。
本を読み始めたのは小学校ぐらいのことだったか。
歳も同じで家が隣で、俺が生まれてすぐの赤ん坊の頃に今の両親に引き取られてからの付き合いだから……もう約20年の付き合いだ。
何を言わんとしているかは大体わかる。
俺のメッセージからも読み取られてるとすると、少し気恥ずかしさもあるが。
「……ああ、良かった。確かに怒ってもないし、傷ついてもなさそうだ。むしろ魚がいっぱいあって色々料理ができるからか、いつもより少し楽しそうだな。お前のおかげだ、雄一。ありがとう」
「感謝されるのはいいが……え、アユムお前、これでリナの精神状態が分かるのか?」
俺と雄一がスーパーに向かっていた時に送られていただろうメッセージを見て、俺は凛菜がいつも通りであることが分かり安堵する。
ただ、雄一はそんな俺に怪訝そうな表情を向けてきた。
『オリーブオイルは全部使っても構わない。いつもありがとう。凛菜の料理楽しみにしてる』と画面の奥の凛菜に返信しながら、その場にいる雄一に逆に問いかける。
「分かるのかって……雄一、お前逆に分からないのか?」
「いやまあ……顔文字がない時は焦ってる時か真面目な話の時、落ち込んでる時ぐらいは察せられるが……」
雄一の言っていることは合っている。
流石は俺たちと幼稚園からの付き合いなだけはあった。
ただ、少し付け足すとすれば恥ずかしがっている時や、本の感想の伝え合いをする時も顔文字は取れる傾向があるが。
「それも大体あってるけど、ピースのマークがある時は大体機嫌がいい時だろ。あと、左右対称の顔文字の時は精神的に安定してる証拠だ。グッジョブや突き上げてるのが右手の時は、ワクワクしてる時が多いよな。……お、返信来たな」
「えぇ……」
『了解!☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆』
「おお! この顔文字の時はかなり嬉しい時のやつだな。雄一のチヌがかなり大物だったから、捌き甲斐があるんだろう。それに凛菜はタコ大好きだからか。どちらにせよマジで助かったわ。いっぱい釣ってきてくれて本当にありがとう雄一。……雄一?」
「……」
ずっと俺の隣でカートを押して歩いていた雄一が足を止めたのが、視界の隅のカートが止まったことから分かった。
恐らく、凛菜の新たに来たメッセージに込められている意味を俺が読み取って口にした瞬間に。
俺も足を止め振り返り、なぜか止まった雄一に顔を向ける。
雄一はすごく微妙そうな顔で俺を見ていた。
「どうしたんだよ。急に立ち止まったりして」
「……幼馴染って凄まじいなというか、何でお前は文章読解能力だけ理系のくせしてあるんだよというか。……いや、すまん。やっぱりお前キモいわ」
「え、マジ?」
【4】
「うっま!」
「ああ、やっぱり美味いな」
「ふふ、……うん、ありがとう」
7時を少し過ぎたぐらいに、昆布から取っただしを沸かせた鍋とカセットコンロを中心としてさまざまな料理が並ぶ食卓を俺たちは囲んでいた。
4つの椅子がある長方形のテーブルの片側に俺と雄一の男組が座り、もう片方の俺の正面になる位置に凛菜が座っている。
「この南蛮漬け、めっちゃご飯に合うな!」
「それは……豆板醤だけじゃなくて、少し味噌を入れてるからかな? 味がまろやかになるし、コクがでて美味しくなるよ」
「カルパッチョも美味いぞ」
「2人が新玉ねぎを買ってきてくれてよかったよ。普通の玉ねぎだと、ちょっと酸味が強くなり過ぎちゃうかもしれないし。……ちょっと黒胡椒をかけると、アクセントが出て味変にいいかも」
「へぇ、……おお、ピリッとしてより味が引き締まる。アユムもやってみろよ」
「おお! 確かに、俺はこっちのが好きだな」
食卓に並ぶのは、豆板醤で甘辛く味付けされたいくらでもご飯が進むアジの南蛮漬けに、酒と合う淡白なカサゴの旨みがよくわかる唐揚げ。
そして、新玉ねぎの甘さとシャキッとした食感、レモンの酸味が生かされたタコのカルパッチョと酢の酸味がよく効いたタコときゅうりの酢の物は、見た目も色鮮やかであるし、なにより味が濃く脂っこい他の料理の合間に食べることで一切の飽きをこさせない。
メインであるチヌのしゃぶしゃぶも、しっかり血抜きされているからか身に臭みが全くなく、ポン酢や醤油、レモンといったさまざま味付けができて楽しい上に美味しい。
新玉ねぎと一緒にポン酢で食べるのが、さっぱりとしながらもチヌの脂の旨味を感じられて最高だった。
「しかし、このチヌも旨いな。ルアーか?」
「いや、ダンゴだ。餌がだいぶ嵩張ってきたから消費するためにな」
「やっぱり、しっかり血抜きされてると臭みも少なくて美味しいね」
「半島東部の人がいない場所で釣ってるのもあるな。生活排水だとかがない」
「東部って……大丈夫なのか?」
「ああ、南部には近づいていないし、管理局に目をつけられるようなことはしてない」
凛菜は酒が入ったからか、それともたくさん料理ができてテンションが上がっているのか、少しばかりその白い頬に赤みが差している。
そして、いつもより饒舌になっている凛菜の様子に、買い出し前のことは本当に引きずってなさそうだと安堵する。
雄一さまさまだ。
流石は漁師の孫、スーパーでも直接言ったが心の中で再び感謝する。
「……あ、忘れていた。リナ、今日の魚の余りがまだ寮にあるんだがいるだろ? ボランティアって、明日だよな」
「うん、いつもありがとう。みんな喜ぶよ」
「分かった。明日出かける前に連絡くれ。女子寮の前まであのクーラーボックスで持っていく」
「そこまでしてもらうのは悪いよ。私が男子寮に取りに行くって」
「いや、こんな旨い飯をいつもタダで食わせてもらってるからな。むしろ代金としては安い方だ。魚も腐らせて捨てられるより、子供たちに食べられる方が嬉しいだろう」
2人がそんな会話をしているのを、口腔に残る唐揚げの油をアルコールが溶けた冷たい強炭酸水で流しながら聞く。
凛菜は、孤児や変質災害遺児の収容保護施設のボランティアをしている。
自分の妹や俺の弟との付き合いのおかげか、凛菜は歳下の子たちには普通に接することができるし、小さい子の世話をするのが好きだ。
そのため、施設に雄一が釣って余った魚たちを持ち込んで、凛菜が得意な料理で子供たちに振る舞っているそうだ。
雄一も弱らせてしまった魚を海に逃したり、腐らせて捨てる心配をせずに釣れるからありがたいといつも言っている。
「……そうだ。アユム、お前バイト辞めたんだろ? リナのところで働いたらどうだ? ボランティアといっても有償だし、アルバイトみたいなもんだろ」
「ちょっ! 塩釜君!」
「変質災害遺児のためのボランティアか……」
「あ、歩生君! 無理しなくてもいいからね!」
俺に急に話が振られたので少し反応に遅れた。
確かに、今俺はちょうどアルバイトを辞めてしまったし、渡りに船かもしれない。
俺は院に行く予定なので就職はまだ先ではあるが、ボランティアの経験はガクチカとしてアピールできるだろうという打算的な考えもある。
だが、何よりも……
「……凛菜もいるし、いいかもな」
「ぴっ……で、でも歩生君は……」
何故かさっきよりも少し顔が赤くなっている凛菜は、俺の言葉に対してはっきりとしない、少し言いづらそうな様子を見せた。
その理由は鈍い俺でもわかる。
「……俺も遺児だからか?」
「……うん、気にしちゃうんじゃないかと思って。同じ境遇の子たちがいると」
「俺はここの災害の遺児じゃないし、そもそもそんなに気にしてねぇよ。……雄一のがキツいだろ。ここの出身だし」
「オレは偶に手伝いにいくが、むしろ力になれて嬉しいという気持ちのが強いな。引き摺っていないわけじゃないが、引き摺りすぎることに意味がないことぐらいは理解している」
俺たちが今いる場所は、約15年前までは千葉県という場所だった。
しかし、『変質者』や彼らが生み出した異常な存在である『変質物』による大規模な災害、変質災害によって千葉県ほぼ全域が汚染され、一時的に放棄されている。
たしか、『屍体偏愛』と『食人衝動』の最悪抗争なんて呼ばれているんだったか。
ここ旧千葉区域として復旧し新東京都に統合された区域は、放棄後すぐに奪還されたため復旧が早かった。
しかし、房総半島南部の旧安房区域が奪還され全域が解放されたのは、約5年前の話だ。
しかも、未だ房総半島の一部では変質による汚染がひどく、特別な処置や除染が必要でまだ人の住める環境ではないらしい。
雄一はこの変質災害の被害者で両親を亡くしている。
まだ幼稚園児だった雄一を逃すために、その命を賭して守ったそうだ。
雄一は祖父に引き取られたが、親を亡くした遺児たちで引き取る親族や人がいなかった子供は、どこかの収容保護施設に送られる。
凛菜がボランティアを行なっているのは、全国各地で発生している災害の遺児が集められたそんな収容保護施設だ。
俺は千葉県を襲ったこの変質災害による遺児ではないが、別の変質災害遺児であり、その中でも血が繋がった親戚でもない一家に引き取られたかなり珍しい例。
それでも俺が家族を失っていることは変わりない。
優しい凛菜は、俺が傷付いてしまうことを気にしてくれているのだろう。
「血のつながった家族のことなんて覚えてないどころか、未熟児で保育器に入ってた時に変質災害は起こったから、何が起きたかすらも分からない。だから、変質災害遺児である意識も薄いんだ。それに……」
「……それに?」
俺の今言っていることは本当だ。
未熟児で生まれ、誕生した瞬間から命の危機があったらしい俺は、生まれてすぐさまNICUの保育器にぶち込まれたらしい。
範囲内でもかなり端に近かったため、変質災害の影響は受けずとも保育器の中で死ぬ運命だった俺は、変質管理省管理局の組織した勇気ある先見救助隊に幸運にも救われたのだ。
だから、何も覚えているはずがない。
気にするなということが伝えたくて言葉を続けようとするが、少しばかりの恥ずかしさがその言葉を喉元で堰き止めてしまった。
喉元の恥ずかしさを強いアルコールの液体で溶かすため、2本目の缶に残った全てを飲み干し、堰き止められていたその言葉を口にする。
アルコールのせいという言い訳が欲しかったのかもしれないが。
「……変質災害のおかげっていうのもアレだが、今の家族に拾われてよかったと思うし、……お前らと会えて幼馴染になれたからな。本当に気にしてねぇよ」
「……!」
本心を伝えるのは、アルコールの力を借りてもなお恥ずかしい。
言い切った後に頬が熱くなっていくのが分かる。
視線を彼らに向けることが出来ず、手元の皿に視線を落とす。
目の前の皿に盛り付けられたカルパッチョ、その薄切りにされている茹でられたタコといい勝負だろう。
「ふふ、歩生君、顔真っ赤だね」
「はは、酔いすぎだろ。またクセェこと言ってるし」
「るせぇー、暗い空気になりそうだったから、道化になってやったんだよ」
「顔を赤くできるとは、なかなか器用な道化だな」
「もうこの話は終わりだ!テレビつけるぞ!」
思っていた以上に弄られてしまい、気恥ずかしくなってテレビをつける。
その急な話題の転換は、恥ずかしがっていることを隠すのには悪手だ。
むしろバラしているようなものだろう。
ただ、なんでもいいから会話と照れ臭い空気を変えたかった。
『……次のニュースです。東京を中心に起きていた連続女学生一家惨殺事件の同一犯と思われる変質者の犯行が、埼玉県東部でも確認されました。管理局の一等官が犯人と思われる変質者と遭遇しましたが、殺害され──』
「すまん、食事中に流すような内容じゃなかった」
「いや、気にするな。……しかし、物騒だな。埼玉県東部とは、なかなか近い場所だ」
適当につけたチャンネルの番組によって確かに空気は変わったが、それはあまりいい方ではなかった。
俺はすぐにテレビを消す。
なんというか、俺の間の悪さには自分でも呆れてしまう。
「ま、せっかくの凛菜の料理なんだし、暗い話ばっかりしてないで楽しもうぜ。ボランティアは行くとしたら三年前期の時間割が決まってからでもいいか?」
「うん! 施設の人にも聞いておくね」
「ありがとな。あ、そういえば雄一。はなちゃんは元気か?」
「おう、帰省した時に遊びに行ったりして──」
俺たちの春休み最後になるだろう食事会は、笑い声と共に進んでいく。
……この時の俺は、こんな日常がずっと続いていくんだと、そう思っていた。
【5】
「そうだ、アユム。リナを女子寮まで送ってくれ」
「別にいいけど……雄一がバイクで送ってくんじゃないのか? そっちのが早いだろ」
「悪いが、ヘルメットを俺の分しか持ってきてなくてな。それに後ろには彼女しか乗せないと決めている。……代わりに片付けはオレがやっておこう」
「彼女持ち自慢うぜー……凛菜、もう出れるか? 女子寮の門限って0時だったよな。早い方がいいだろ?」
「う、うん。私は大丈夫だよ」
「分かった。ちょっと待っててくれ、上着を羽織ってくる」
食事会が終わり、残ったつまみや酒を消費しながらダラダラ会話していると、すぐに23時を過ぎてしまった。
そろそろお開きだろうという時間で、雄一が俺にそう言ってくる。
凛菜をこれ以上ここにいさせるのも悪いだろうと、できるだけ早く寮に帰すべきだと判断して俺は彼女に問いかけた。
凛菜が肯定を返してきたのを確認して、半袖だった俺は自分の部屋に適当な上着を取りに行き、羽織ってから財布だけポケットに入れてリビングに戻る。
スマホは充電が少なくなっていたし、充電器を差してベットに放り投げた。
準備し終わっていた凛菜と共に玄関に向かい、俺が靴を履く直前に、彼女が猫のぬいぐるみがついた手提げカバンから本を取り出して渡してきた。
「歩生君、この本貸してくれてありがとうね。面白かった」
「ん、おお。ならよかった」
その本は俺が貸していた星新一の短編集『人造美人』だった。
俺と凛菜はともに読書が趣味であり、よく本を貸しあって感想会をする。
古本屋や本屋巡りも俺たちの同じ趣味なので、一緒に行ってその時におすすめの本を紹介しあったりもする。
ただ同じ読書といっても、俺の良く読む分野は世界各地古今東西のSFであり、凛菜は日本文学の特に古典といわれるような本だ。
そのため、普段自分が読まないような本に出合うことができるし、自分とは違う目線での感想を知ることができてとても面白い。
『人造美人』を玄関の靴箱の上において、部屋から出ながら話を続ける。
「どうだった?」
「やっぱり短いのにしっかりとしたオチをつけられるのは、アイデアの良さだけじゃなくて、不要な部分を全部削ぎ落としたからこその鋭さというか、それができる著者の力量の凄まじさが分かってすごいよね」
「だよな! 濃いコーヒーみたいな苦々しさや黒さもあるけど、寝起きにパッと目を冴えさせられる爽やかといってもいい感覚が癖になるんだよ」
「ふふ、やっぱり歩生君酔ってるでしょ。また詩人みたいなこと言ってる。でもわかるよ……グリム童話の原典みたいな怖さというか、ブラックジョーク、ブラックユーモアみたいな風味があるよね」
普段は物静かな凛菜だが、本の話をするときはいつもよりずっと饒舌になる。
そのことを知っているのは、俺たち幼馴染やその家族、後は凛菜の親友で雄一の彼女であるはなちゃんぐらいだろう。
そんな凛菜の一面を知っているのは、なぜだかとても得したような気分になる。
いつもより表情豊かに語る月光と街灯に照らされた彼女の横顔は、とてもいきいきとしていて魅力的だ。
「くちゅん」
「ん、大丈夫か?」
「ご、ごめん。思ったよりちょっと寒くて……」
「確かにもう三月の終わりとはいえ、こんな時間になるとさすがに寒いな。遅くまで引き留めて悪い。風も出てきたし、俺の上着でよければ羽織ってくれ」
俺たちの間を冷たい風が吹き抜け、それに凛菜がくしゃみをしてしまう。
四月が近づき日中は過ごしやすく夜も暖かくなってきたのだが、今日はかなり寒かった。
寒暖差で彼女が風邪をひいてしまっても申し訳ない。
俺は羽織っていた上着を脱いで凛菜に渡す。
「え、で、でも、悪いよ」
「いいっていいって、俺はちょっと飲みすぎて火照ってるし、これぐらいがちょうどいい。……それにもし凛菜に風邪をひかせちまったら、俺が凛菜の父さんにガチギレされるから」
「あ、……うん、ありがとう」
ちょっと飲みすぎて体が熱かったのは本当だし、無理やりにでも理由をつけて凛菜に押し付けると、一寸の逡巡の後に受け取って羽織ってくれた。
実際、凛菜の父さんは彼女とその妹を溺愛しているし、俺にも時々様子を聞くために電話してくるので風邪をひかせるとまずいというのも事実だ。
……割とそっちのほうが切実だったりする。
「あ、歩生君はどの短編が好きなの?」
上着を羽織って暖かくなったからか、少しばかり頬の赤みが強くなった凛菜は俺にそう聞いてきた。
「そうだな。『人造美人』に収録されている話だと……有名な奴で悪いが『おーい でてこーい』と『生活維持省』が好きだ」
「やっぱり! 好きそうだと思った。最後にぞくっとさせるお話と、管理社会もの……特にユートピアに見せかけたディストピアを舞台にしたお話が好きだもんね」
俺があげた話は二つともかなりSFっぽい短編だ。
SF御三家と呼ばれる星新一らしい、不思議な存在や極めて強い権力を持った組織がメインの掌編小説。
『おーい でてこーい』は、突如現れたどこに続いてるかもわからない底なしの穴にさまざま物を捨てていく短編。
『生活維持省』は、貧困も戦争の恐怖も生存競争もない平和な社会とそれを維持する組織に属する人々の短編だ。
俺の好みを把握している凛菜にはそれらが好きなのがバレバレなようで、やっぱりという反応を示してきた。
それが、どうしてか言いようのないむずかゆい気分にさせる。
「はは、そこまでバレてるのはちょっと恥ずいな。凛菜はどれが気に入った?」
「私は……ふふ、当ててみてよ」
「『月の光』。違うか?」
「え! な、なんで分かったの?」
凛菜が俺の好みを把握しているように、俺も凛菜の好みを大体把握している。
だからこその即答だ。
それはどうやら当たっていたようで、凛菜は驚いたような顔を俺に向けてきた。
その様子に、少しばかりの意趣返しが成功したと胸がすくような気持ちを覚える。
……間違えていたら、赤っ恥どころの話ではなかったが。
「正反対なようで似てると思ったからな。凛菜の好きな源氏物語の光源氏と紫の上の関係に、医者とペットの関係が」
「うん……正解」
星新一といえば、それこそSF御三家と呼ばれSFというイメージが強いが、世間のSFの定義から外れるような作品も書いている。
『科学的虚構』や『宇宙冒険活劇』、『すこしふしぎ』すらSFの定義の範疇であるが、『月の光』はそれらSF的要素が出てこない星新一の短編の一つだ。
親譲りの財産や屋敷を持ち、大きな病院に勤務する医者である彼は、信頼できるただ一人の召使以外には秘匿してペット──少女を飼っている。
彼は人に言葉は不要だと考えており、少女を赤子の頃から一切の言葉を使わずに、食事も全て彼が与えて彼なりの最大限の愛情を注いで育てていた。
しかし、酷く独善的で歪んだその愛は、最終的にペットを殺す。
この世に氾濫するあらゆる醜いものから愛するものを遠ざけたいと思うのは、尊いものを穢したくないと思うのは、大切なものを手元に置いておきたいと思うのは、誰もが持ってしまう欲望だろう。
その独善的な欲望や盲目的な偏愛を向けられる側からしたら、幸せなことなのかは分からないが。
それこそ、紫の上を──いや、10歳ぐらいであった当時は若紫というべきか。
療養のため訪れた山里で彼女と出逢ってしまい、心惹かれ、彼女を今で言う誘拐に近い形で連れ去り自分の御所で匿い育てた光源氏のように。
「可哀そうだけど、綺麗だなって思って。皆が言葉に縛られているのが。……あんなに短いのに、凄い悍ましさと退廃的な儚さが伝わってきて」
「少女は言葉を知らないから、医者の老人のことを本当はどう思っていたのか一切言語化されていないのも怖いよな」
「うん。それに余計な言葉が愛を薄めさせるっていう考えが、和歌にも通じてるんじゃないかなとも私は思った。だから『月の光』が好きなのかも」
「和歌に? ……ああ。たった31文字。基本的に五七五七七に、自分の感情や場に応じた意図、仏教的要素や教養を全て直接的にでも婉曲的にでも含めて、返歌なら相手の和歌にも対応させなくちゃいけない所とかか?」
「そう。全ての言葉を奪うのはやりすぎだと思うけど、余計な言葉は言葉の価値を下げてしまうのは私も同じ考えかな」
そんな話をしていると、もう凛菜の部屋がある女子寮が見えてきた。
桜花寮という名の通り、ちょうど見ごろを迎えた桜の木が所狭しと植えてある。
桜の木は手入れが面倒なのによくこんなにも植えたものだ。
それらの桜は月の光と街灯の光を浴びて美しく咲き誇っていた。
もう感想会が終わりを迎えていることを桜に教えられ、俺が凛菜に借りている本の感想も伝えようと口を開く。
「桜の花か……。今俺が訳してる箇所は紫の上が亡くなってしまった少し後の場面だ。ウグイスの和歌がよかった。……あれは梅の花を見て詠んだけどな」
「『植ゑて見し花の主もなき宿に知らず顔にて来居る鶯』だよね。うん、私も好き。しみじみとした寂寥感があっていいよね」
「悪いな。俺はまだ借りた分読み終わってなくて」
「ううん、気にしないで。まず自分で現代語訳して、物語と和歌を解釈してって私がお願いしたんだし」
「そういってもらえると助かる」
俺は凛菜から源氏物語を借りている。
世界最古の小説といわれるそれは、彼女の最も好きな本だ。
俺も割と古いSFを読むが、そもそもSFというジャンルは小説全体でみるとかなり新しいもの。
源氏物語とは比べ物にならない。
凛菜はその小説を、俺にまずは自力で読んでほしいとお願いしてきている。
古語に手こずることも多いが、解読し理解できた時の快感や、凛菜の解説やネットだとかの解説で新たな気付きを得ることができるのが、なかなかどうして面白い。
高校ぐらいからちょくちょくやっているので、理系なのに共通テストの古文が46点だったというちょっとした自慢もある。
文学部文学科日本文学専攻を目指していた凛菜は、当然のように満点であったが。
「ここまでだな。流石に女子寮に入るわけにはいかないし、これ以上連れまわすと凛菜の父さんに怒られる」
「うん……送ってくれてありがとう。今日も楽しかった」
女子寮の敷地内に入るわけにはいかないので、門の所まで送っていき、敷地内の凛菜と敷地外の俺は向き合って別れの挨拶を済ませた。
俺たちの間を分断するように、細い溝が通っている。
女子寮の重厚感ある金属門を開閉するためのレールの溝が、俺と凛菜の間にある超えてはならない一線を暗示しているようだと思った。
その瞬間、一際強く冷たい風が吹き荒れ、門の両脇に埋められている桜の木々を大きく揺らす。
薄い桃色の花弁が風にさらわれ、舞い上がり、白みが強い月明かりと街灯に照らされて大粒の雪のようにも見えた。
その光景に、俺も凛菜も目を奪われる。
まさしく桜吹雪というべき、その光景に。
「──この調子だと、新入生が入る前に全部花が落ちちまうかもな」
「うん。こんなに綺麗なのに、勿体ないね。……どうすれば散らさずにいられるかな」
「帳面でも立てようか」
「ふふふ、うん、名案だね。中の桜が見えなくなっちゃうけど。……じゃあ、ばいばい」
多分、凛菜の言葉は匂宮のかわいらしい発言を踏まえたものだろう。
それに対する俺の返答は彼女の望むものだったらしい。
俺の言葉に凛菜は優しく微笑んだ。
そして右手を胸のあたりまで小さく上げて、遠慮がちに手を振ってくる。
「ああ、ばいば──っ!」
「ふぇ?」
俺もそれに答えようとして──彼女の振っている手を掴み引き寄せた。
凛菜は何が起こったのか分からない様子で引き寄せられて、一息に近づいた俺の顔を見上げてくる。
「へ、まっ、わた、はみ、はみがきも」
「動くな。凛菜」
「ひゃ、ひゃい!……ん」
なぜか片言になっている凛菜にそう言うと、噛んだのか返事にもなってない返事をして黙り込んだ。
そして顔に手を近づけると、彼女は俺を見上げていた眼を閉じる。
さっきの酷く冷たく強い風のせいか、頬は真っ赤になって耳すら同じ色に染まっていた。
俺は──動くなとは言ったが、なぜ目を閉じる必要があるんだろうと思いながら、彼女の髪についていた桜の花弁を取った。
「よし。取れたぞ」
「……へ?」
「ほら、この桜の花が凛菜の髪についていたからな。そのまま寮に入るとみんなに笑われちゃうだろ?」
「さ、桜の、花」
「しかし、こんなに上手いこと髪に花が付いちゃう事、あるんだなぁ」
凛菜の髪にくっついていた桜の花弁を見せながら、俺はそう口にした。
凛菜もそんな古文の一場面のような事があるのかと驚いているのだろう。
真っ赤な顔はそのままに、少しばかり茫然とした様子だ。
「どの話か忘れたけど、古文の登場人物が、野や庭で遊ぶ童たちの髪や袖に花弁が付いているのをとてもかわいらしいって言ってた気持ちが分かったよ。……いや、当世風に言うならば、いみじうらうたしとかいとうつくしっていうのが正し……凛菜?」
「で、でら、……」
ふと、昔読んだ古文にもこんな感じの話があったなと、しみじみとした気持ちで振り返る。
今とは全く違う考え方にびっくりしたり、数百年前から変わらない感性に共感するのも、古文の楽しみ方の一つだ。
例えば、夢に出てきた相手は自分のことが好きなんだみたいな現代とは反対の考え方や、桜のような綺麗なものに人生の美しさと儚さを感じる今と同じ感性に対して。
酔った頭で、今日もそんな体験ができたぞとうれしくなっていると、凛菜は真っ赤だった顔を下に向けてプルプルと震えていることに気づく。
どうしたんだ、寒いのか、引き留めて悪かったと言おうとして──凛菜が俺とは反対方向の寮のほうへ振り向くほうが速かった。
「でら!! 近すぎるだら!!!!」
「ちょ、なんで名古屋弁と三河弁……」
なぜか彼女の両親の故郷である愛知県の方言が混ざった口調で、普段では絶対に出さないほどの大声を発し、そのまま凛菜は全力疾走で──運動が苦手な上、運動不足なのであんまり速くなかったが──寮の中へと消えていく。
俺はそれを、桜の花弁を片手に呆然と見送ることしかできなかった。
再び冷たく強い風が吹き、持っていた桜の花弁を嘲笑うようにさらっていく。
「……あの、俺の上着は……」
そんな半袖の俺の情けない声が、もうすぐ0時になろうかという寒い夜に虚しく寂しく響いた。
『植ゑて見し花の主もなき宿に知らず顔にて来居る鶯』……紫式部(不明/現代語訳版:1971年),『源氏物語42まぼろし』,翻訳者:与謝野晶子,角川書店
作者より頭いい設定の人たちの会話書くのむっずい。てか無理。
そういう人たちの会話感をちょっとでも出せてたら幸いです。
宝くじが当たった就活生のコピペで爆笑してしまう私には、しっとりとした雰囲気は書けないですね。
星新一さんの短編は、SCPとか落語とかブラックジョークが好きな人はハマると思います。
一編5分ぐらいあれば読めるので、ぜひ読んでみてください。