3 遭遇(その2)
エルが毛布を手にしたまま立ち止まっている一方で、少女の方はいかにも興味ありげな様子でノイエとの間合いを詰めていく。ノイエはノイエで、どうしたらよいか分からずに、たじろいだまま数歩下がってしまうのだった。
「イゼルキュロスは、どこ?」
少女はそう口走ると、後ずさるノイエににじり寄ろうと、一足飛びに間合いを詰める。
本人は軽く接近したつもりだったのかも知れない。だが急に飛びかかられて、ノイエはびっくりして思わず尻餅をついてしまった。
少女の方も、ノイエに急に身を預けた格好になっていたため、つられて一緒に倒れてしまい、ノイエをまるで組み伏せるような形になってしまう。
お互い、事の成り行きに面食らった表情を見せたが……少女はすぐに表情を変えて、ノイエに向かって言うのだった。
「……イゼルキュロスの、においがする」
同じ名前が――名前だとして、その聞き慣れぬ語句がみたび少女の口から漏れた。たどたどしい言葉だったけれど、その場の二人には明瞭に聞き取れた。
「何なの、そのイゼ……何とかって?」
エルが呆然としつつ、呑気に首を傾げる一方で、ノイエは組み伏せられた姿勢からなんとか逃れようと後ずさった。そんなノイエを逃すまいと少女が手を伸ばして……思いのほか膂力は強かった。ノイエのシャツの裾を掴んだかと思うと、そのまま無造作に引き寄せて、びりびりと引き裂いてしまったのだ。
先ほど散々エルにしがみつかれて首まわりが伸びてしまっていたのもあったが、思いの外あっさりと布地が引き裂かれてしまって、ノイエもエルもびっくりしてしまった。だがその事実以上に、ノイエの表情は蒼白になっていた。
引きちぎれたシャツの破れ目から、肩口の辺りの素肌が露わになってしまっていた。そこに、金釘が貼り付いたかのような目立つ古傷の跡が見てとれたのだった。
ただ素肌が露出しただけなら二人ともそんなリアクションにはならなかっただろう。さすがに傍で見ていただけのエルも、それには表情を固くした。
一糸まとわぬ少女に素肌を見られたという、照れや気恥ずかしさとは明らかに別種の緊張の色が、ノイエの表情にはありありと浮かんでいた。縫合のあとがくっきりと浮かび上がるその傷跡に、少女も面食らったようで、それこそ恐る恐ると言った様子で、そっと指先を伸ばしてそこに触れて来ようとするのだった。
「……やめてくれ!」
ノイエはやけに鋭い口調で拒絶すると、少女の手を乱暴に振り払うのだった。
振り払うというよりは、はたき落とすという強い拒否の仕草だった。先ほどまでとは打って変わった態度に、少女は一瞬唖然としたかと思うと、慌てて後ずさった。警戒からではない。ノイエの拒絶に、少女は驚いて萎縮していたのだ。
申し訳なさそうに肩をすくめて、上目遣いにノイエの方を窺う。ノイエもばつが悪く思っているのか、傷跡を隠すようにしながら、ついと目をそらすのだった。
エルは何も言わなかった。長年家族同然に一緒にすごしてきたのだから、その傷の正体を彼女が知らないはずがなかった。だから、どちらの態度も責めたり諫めたりする気になれなかった。
だから彼女はただ、裸のまま悄然と立ち尽くす少女の背に、手にした毛布をそっと被せてやるだけだった。少女は少し驚いた顔を見せたが、拒みはしなかった。
エルはちらりとノイエを見やる。不意に声を荒げた事を恥じているのか、少し顔が赤くなっているのが分かった。
少女を警戒させないように、エルはわざとらしいまでににっこりと優しげな微笑みで笑いかけて、自分の名前を名乗った。
「私の名前はエル。……分かる?」
「……エル?」
「そう。それで、そっちのふてくされているのがノイエ。……あんたは? 名前はあるの? 口がきけるんなら、名前も言えるわよね?」
返事があるかどうかは分からなかった。言葉はしゃべる事が出来るにしても、こちらのいう事が聞こえているのか、そもそも本当に言語を理解して喋っているのかも分からない。それともただこのような形に変貌を遂げたのがたまたまこの場所だったというだけで、生命体としてここで厳密な意味で今ここで生を受けたわけではないのかも知れない。だとしたらイゼルキュロスとかいう名前を最初から知っている事にも説明はつくが、あくまでも推論の域を出なかった。
少女は名乗っていいものかどうかを考えこんでいるのか、しばし逡巡するような素振りを見せた。それとも単に、声を絞り出すのに意外に難儀していたのかも知れないが……ともあれやや間をおいてから、かすかに消え入るような声で音を紡ぎ出した。
「……メアリー、アン」
「メアリーアン? それが、あんたの名前なのね?」
念を押すエルに、少女は無言のままこくりと頷いた。
* * *
翌日、フランチェスカは朝から工場に遊びに来ていた。
ジョッシュは昨日の搬入で相応に疲れていたのか、朝になってもまだ布団から出てこなかった。エルに散々文句を言われただけではなく、その場で弁明はしなかったが発掘の現場でもひと悶着あったようで、決してのんびりした一日ではなかったのだ。
〈グラン・ファクトリー〉の正面の大扉はすでに開け放たれていたから、誰かがすでに起きているようではあった。作業場の機械油の匂いに紛れて、キッチンの方からトーストを焼くいい匂いが漂ってきていた。
でも、ノイエ達にしてみれば、やけに朝食が遅くはないだろうか? エルはともかく少年はいつもは朝も早いし、食事番でもあるので時間も規則正しいはずなのに。
フランチェスカは眉をひそめつつ、恐る恐る戸口をくぐってみる。我が物顔で事務所スペースを抜けて、その奥にあるキッチンに向かってみるが、そこに人影はなかった。
ノイエはもちろん、エルの姿もどこにもない。
階段を誰かが下りてくる足音がして、フランチェスカは作業場に戻った。
「あ……」
見上げると、自然に声が漏れた。
階段の上に立っていたのは、一人の少女だった。
フランチェスカにとってはまったく見知らぬ少女だった。勝手知ったる〈グラン・ファクトリー〉の作業場で、まさかそこに全くの第三者がいようとは、思いもしなかった。
彼女は息を呑んだ。
無理もない。この埃っぽいごみごみしたハイシティの片隅に暮らすフランチェスカにしてみれば、階段の上からこちらを見おろす少女は、まるで現実のものとは思えなかった。
〈王都〉の方からやってきた、どこか良いところのお嬢様か何かだろうか。いやそれよりも、本に描かれた物語か何かから抜け出してきた、お姫さまやら妖精やらのたぐいだっただろうか。
年の頃はフランチェスカより二、三ほど上か。見た目はノイエと同い年ぐらいに見えたが、笑みのない冷ややかな表情が、よりいっそう大人びて見えた。屋内の薄暗がりの中で、その白い肌は現実に人間らしい質感とは到底かけ離れて見えた。おとぎ話から抜け出してきたように見えるのはそのせいだ。
肩にかかる辺りで揺れているさらさらの髪はプラチナシルバーで、まるでその髪自体が、宝石をちりばめた宝飾品のようにきらきらと輝いている。まるで露店で売ってる綺麗なお人形さんみたいだ、と思ったけれど、その例えで言うなら値札のケタが二つも三つも違っていそうな極上品だろう。
そして、その瞳――。
淡い空色の瞳は、それこそまるで宝石をはめ込んだようにきれいに透き通った色をしていた。その目が、にこりとも笑わないままに、冷ややかにフランチェスカをじっと見おろしているのだ。
あまりの美しさにしばし見とれていたフランチェスカも、その目にまじまじと見入られて、思わず後ずさってしまった。
みれば、その彼女のあとに続いて階段を下りてきたのはエル・グランだった。彼女はフランチェスカを見るなりあからさまに、しまった、という表情を見せた。
「フランチェスカ?」
「おはよう、エル。この人は、一体誰?」
「ええと、それは……」
言い淀んだエルだったが、それと同時に少女がよろめきそうになった。階段のステップを踏みしめたその足元をみやって、裸足のままだということにそこで初めてフランチェスカは気づいた。
いかにも危なっかしい、たどたどしい足取りだったのは靴を履いてないせいだっただろうか。
「ほら、足元に気を付けるのよ?」
エルが普段は出さないような優しげな声でそう注意を促しつつ、少女の肩に手をそっと添え、一緒にゆっくりと階段を下りてくる。
呆然とその様子を見守っているフランチェスカの隣に、いつの間にかノイエ少年が立っていた。
「なんでこんな朝から遊びに来るのさ」
「別にいいじゃないの。それより、彼女、一体誰なの……?」
「……メアリーアン」
ノイエは手短に名前をひとつ吐いた。そして名前以外は黙して語らず、エル・グランをちらりと見てはただ肩をすくめて見せただけだった。
互いに目配せしあう両人の態度がいかにも何か隠し事をしているような雰囲気で、怪しげに見えてしまうのは仕方がなかったかも知れない。だがその疑惑を問いただすよりも前に、メアリーアンと呼ばれた少女がステップから足を踏み外す瞬間を目の当たりにして、フランチェスカはあっと声を上げた。
つられて、エルとノイエもあっと声を上げた。エルが付き従っていたとはいえ彼女はメアリーアンの後ろ、つまり一つ上の段にいたのだから、ぐらり、と前方に傾いたメアリーアンに向かって腕を伸ばしはしたものの、間に合わなかったのは仕方がなかったかも知れない。
倒れかかってくるメアリーアンの目の前にいたのは……階下に並んで立つ、ノイエとフランチェスカだった。
突然の事に、そわそわと目を背けている場合ではなかった。少年は咄嗟に両手を伸ばし、メアリーアンを支えようとする。だが一瞬間に合わず、結果的に飛び込んでくるメアリーアンに向かって、両腕を大きく開いて招き入れるような体勢になってしまった。
そのまま、倒れ込んでくるメアリーアンを、ノイエはっしと抱き留める。
人間一人がもたれかかってくるのだから、非力な少年がそれを支えるのは優しいことではないのかも知れなかったけど、幸いにもメアリーアンをしっかりと抱きかかえたまま、ふらついて数歩後ずさっただけで、後ろに転倒せずにどうにか踏みとどまる事が出来た。
そんなノイエの耳元で……少女は周囲の誰にも聞こえないかすかなささやき声で、こんな風に呟いて見せたのだった。
やっぱり、イゼルキュロスの匂いがする。
そう言って、かすかに笑った声を、ノイエは聞いたような気がした。
(次章につづく)