うたかたのように消える
夜の深淵の中で波が行ったり来たりを繰り返している。
雲が空を覆ってしまったせいで、月明かり一つない浜辺では、波の切れ間も、空との境も見つけられない。ぼーっと、ただ広がる藍色の中で、自分の輪郭さえ見失いそうになる。
「ねえ。」
確かに君の声がして、僕はその出所を探す。足先が冷え切った波に触れ、ジンと寒さが体中に広がっていく。手を伸ばしても、名前を呼んでも、誰もいなかった。ただ深い藍色が、ずうっとそこにあるだけだった。
「ねえ。」
2度目の声がする。
前からか、それとも後ろからか、右か、左か、上か、下か。どこから聞こえるのか。
ただよく響く綺麗な声で、僕はもう一度名前を呼ぼうとして、それが思い出せないことに気が付いてしまう。確かに知っているはずなのに。
「ねえ。」
3度目の声がした。僕はもうすっかり何も思い出せないでいる。足先にあった波が、足首までの高さに変わり、ぬるりとくるぶしを撫でる。心なしか温かく、少し足を進める。
膝、太もも、気づけば腰の高さまで波が来ていた。海は、足先に初めて触れた時の冷たさは今はなく、ただ心地よく温かかった。
「ねえ、どうか幸せに。」
強い潮風の中に、美しい声がした。風に連れられて、雲の切れ間から月の光が射した。
僕の輪郭がはっきりとして、波の切れ間も、空との境も、自分がどこまで歩みを進めたのかもはっきりとする。その途端、温かかった波がシンと冷え切り、震え上がった僕は慌てて、浜辺へと引き返す。
振り返った街の明かりの中、あどけない、無垢な娘の顔が一瞬頭をよぎった。あの娘はどこかで幸せにしているだろうか。
波の音が繰り返す。その中に、もう一度風が吹いた。
小さいころ大好きだった人魚姫の、アフターストーリーとして書きました。
人魚姫も可哀そうだったけれど、知らないうちに愛していた人を失っている王子もまた可哀そうかな、と思います。泡になり、風に変わった人魚姫は、それでも自分を忘れている王子の幸せを祈るんじゃないかと思います。