チグリジアは二度咲かない
「大事にされてないことなんか分かってましたよ」
通話口で彼女は思いの外静かな口調で告げた。8月某日、日中の晴れ模様をそのままに外は暗闇で満ちている。
いつものようにトークアプリを起動して彼女と通話を繋いで、30分ほどたったときのことだった。
「ねえ、あのさ」と。いつもと変わらぬ調子でかけられた声にゲームをしながら返事をして。
「そろそろ別れましょうか」
彼女から発された言葉に我が耳を疑い、コントローラーを取り落とした。
ガチャン、という音に彼女はコントローラー壊れちゃうよ、と言う。それどころではない俺の気持ちに気づいていないかのような、いつも通りの声。
「なん、なんで」
「だってあなた、私のこと大事じゃないでしょう」
問うた俺に、至極当然のことを答えるように彼女は言う。歌うように滑らかに紡がれた言葉に反論しようとしたのにうまく考えは言葉にならなかった。
大事じゃないでしょう、と言われてどきりとしたのだ。これで何も思わなければ彼女の誤解だと言うこともできたが、俺には心当たりが多すぎた。
「黙っちゃった。心当たりはあるんですね」
彼女が通話越しに笑う。俺の好きな、しかたないなあっていう笑い方。俺より3つも歳下なのに俺よりしっかりしてる彼女がそうやって母親みたいに笑うのが、俺は心地よかった。
心地よかったし、楽だった。
俺は彼女の前なら、年上の男にも年下の男にもなれたのだから。
「本当は、言わないでおこうかな、とも思ったんです。でもごめんなさい、やっぱり無理でした」
「………」
「ね、覚えてるかどうかだけ教えてくれますか?」
ねえ、私の誕生日でも付き合った日でもなんでもいいです。2人でお祝いできる日、どこか一日でも分かりますか?
彼女の声が泣いているとわかる湿りを帯びている。細かく震える声が俺の耳朶を懸命に叩いている。少し茶色がかった瞳に涙をいっぱい溜めて話しているのだろう。そんなことは分かるのに。
何月何日と、そんな簡単な日付が出てこない。
言葉が出てこない。ついでに呼吸も出てこない。
「そうですよね、大丈夫、分かってるから大丈夫ですよ。意地悪なこと聞いてごめんなさい」
彼女が涙を拭ったのだろう、布が擦れる音が聞こえる。
大丈夫、ごめんねという言葉は驚くほど俺の耳になじんだ。いや、なじんでいた。おそらく、俺が彼女と付き合っているうちに最も多く聞いた単語のツートップだからだ。
彼女との約束をすっぽかして別の女友達と遊んだ時も彼女は「大丈夫」と笑った。
彼女との通話を仕事やゲームの片手間にすることになっても彼女は「ごめんね」と謝った。
機嫌が悪くて無愛想な態度を取っても、金がないから貸してとせがんでも、反論や抵抗をすることはあっても最終的には彼女が折れた。
「私は大丈夫、ごめんね」
彼女はどんな思いでその言葉を口にしていたのだろうと、この局面で俺は初めてその思考に思い当たった。
「意地悪じゃ……」
ない、という言葉の前に耳元から「へへ」と笑い声が聞こえる。気の抜けたような柔らかな声。
「ごめんなさい、もうあなたのことをこれっぽっちも信用できないの」
その柔らかな声で、俺の心臓を射抜く。
「約束を破った回数覚えてますか? 埋め合わせするからって言って、その埋め合わせをすっぽかした回数は? 雑に、面倒臭そうに通話繋がれるのはずっと申し訳なさと寂しさでいっぱいだったし、お金を渡すだけの人みたいだなーって、ずっと思ってたんです」
柔らかな声は水気を帯びている。
泣いているとすぐに分かる。
泣いているのを悟られないように時折口をひき結んでいるのだろう様子も簡単に想像できる。
けれど、それだけだった。
想像ができるだけのことになんの価値もないのだ、この場面においては。
その想像はもっともっと早い段階で、彼女の心に向けられるべきものだった。
察してくれと言うだけの人ではなかった。
俺が察するのを待ち、察しないから態度に表し、態度が伝わらないから言語で表し、それでも待ち続け、そうして諦めたのだ。
彼女にも非があると喚きたいのに、なかなかそうは思えなかった。
「だから、もうこんな不毛なのはおしまい」
この通話が終わったら連絡先も消すし、多分二度と会うことはないから安心してね。
彼女はこの後に及んでそんなことを言う。
あるいはこれが彼女のささやかな仕返しなのだろう。
「あなたのことが好きでした」
あっ、と思った。
いつも通りの声色で、しかたないなあって笑うような声で、俺が好きだったと過去形で告げる。
俺がその言葉を受け流し続けてきたと知っているのに、最後の一言にそれを選ぶ。
「あの、ちが、おれは、」
「今日の電話の用件はそれだけなんです。それじゃあ、電話続けてせっかくの決心をだめにしたくないので」
さようなら。
硬い音に変わった声が別れを告げる。
ぽろろん、と通話が終わった音がして、俺は慌ててスマホにかじりついた。
コールバックをかける。切れる。かける。切れる。
3度目は繋がらなかった。切ってもらうことさえできなかった。
せっかくの決心をダメにしたくないと言った彼女の声を思い出す。
揺らぎそうな思いを押さえつけてきたのだ、彼女は。自惚れを多分に含むが、彼女の俺に対しての思いは相当なものだった。それを全て押し込めて、彼女はこの関係を終わらせた。
ーーーチグリジアって花があるんです。可愛いお花なんですけど、花言葉がちょっと暗そうなんですよね。
いつか本を読むのが好きな彼女が話していた内容が急にフラッシュバックする。いつのことだったか全く思い出せないのに、それを話していた彼女の声色だけは思い出せた。
そうだ、彼女はあのときも今日と同じような声をしていた。
ーーー「私を助けて」って。救いを求めるお花なんですよ。
へえ、と生返事を返した俺に、彼女はなんと言ったのだったか。
今となっては、知る由もない。