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そらの歌声  作者: 湯納
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『着いたぜ、お二人さん』


車がゆっくりと止まり、運転席の兄は後ろを振り向く事もなく早く行ってこいと追い出すような仕草で手を振った。


辺りは人工の灯りがひとつもない静まり返った暗闇の世界だ。

地図アプリで目的地を探し、ヘッドライトが照らす道のすぐ先である事を確認する。


『送ってくれてありがとうございます、お兄さん』


彼女は跳ねるような声で礼を言うと、ギターを抱え扉が開ききる前に外へと飛び出していった。


『僕からもお礼を言うよ、ありがとう兄さん。』


湿度が高いのか、中々点かないライターを手に兄は、ンンとくぐもった声で返事する。


昨日、つまりあの話があった翌日である金曜日。

夜遅くに車を出してくれと、僕は兄にお願いしたのだった。

父から借り受けたばかりのビデオカメラを抱える僕を一瞥し、事情を幾らか察した様子の兄は特に迷うことも無く了承した。


対価として、撮ったものを見せる事、と付け加えながら。


『雑誌でも読んで待ってるさ。急がなくていいから、気を付けろよ、あと木陰は虫に刺されるからやめとけ』


『何の話さ……。じゃ、ちょっと行ってくる』


ビデオカメラと、有り金はたいて購入した録音マイクを手に車を降りると、ひんやりとした空気が身体を包んだ。


『思ったより"南米"は涼しいわね』


先に降りた彼女は固まった体を解すようにストレッチしながらも、肌を摩っている。


『パーカー、持ってきといて良かったよ』


僕はカバンをあけ持ってきた2着のパーカーのうち、取り出したジーンズ生地の暗いものを一旦肩にかけ、赤色のラフな方を彼女に渡した。


『さっすがァ。気が利くじゃないの』


『馬鹿じゃないからね。』


軽口を叩きつつ、僕らは連れ立って歩き出した。

ふと振り返った時、車のウィンドウからだらりと垂れる細い腕と、その先から煙が立っているのが見えて、少し安堵というか笑ってしまった。帰る頃に車内がヤニ臭くなってないといいけど……。


スマホのフラッシュを明かりに、彼女の手を引きつつ引かれつつ、歩く事10分程。

目が慣れてくると、ライト無しでも暗闇の中でも木々の陰や道の先がある程度見えてくる事に気付き、途中からはライトも消していた。


『そこを抜けた先、かな』


目的地まで、あと少し。

僕らは、もちろん車でウユニ塩湖まで来た訳では無い。

海は越えていないし、都内から数時間かけて山梨県にまで来ただけである。

誰しもが知る霊峰、富士山北麓の山地に挟まれた大自然のその一画。


生い茂る木々を抜けると、目前が一気に開けた。


『ここだ……ね』


『わぁ、綺麗ね。とても素敵なライブステージだわ!』


彼女の少し上がった息が、興奮によるものだと分かる。

辺り一面には湖が雄大に広がり、遠くには連なる山々の陰が見える。

煌々と輝く半月に照らされた水面には、無数の星々が踊るように揺蕩っていた。


僕たちが目指したのは、昼間は観光地としても栄え世界文化遺産にも登録されている、らしい富士五湖。

ここがどれなのかは……忘れてしまったけれど。


目を閉じれば、小さな波が打つ音だけが響く静寂の世界。

息を吸えば涼しい空気が体内に行き渡り、宙と大地の無限に自分が溶けていきそうだ。


月明りだけで十分に明るい、優しい夜だった。


僕は荷物を置き、靴を脱いで湖に足を踏み入れる。

足の指を抜けていく冷たさが心地良い。一歩、また一歩。

ちゃぷちゃぷと音を立て、僕は5メートル程進んだ。


『ここら辺は遠浅だから、足首までの深さしかないんだ。あまり奥に行くと危険だから気を付けないといけないけど。』


彼女に説明しながら、最良のスポットを探す。

カメラの画すべてに湖が広がるのは、この辺りだろうか。


『ちょっとここに立ってみてくれる? いい感じに撮れるか見てみる』


それから、僕らは撮影の準備を始めた。

安全面には最も気を遣いながら、立ち位置を決め、セットを用意する。

簡単な撮影の流れなんかを確認して、準備運動も軽くして。


『私、ここ来て本当に良かった。ありがとう』


彼女はギターを軽く鳴らし、音の調整を済ませた後、僕に言った。


『どういたしまして。』


僕は最後の調整を済ませ、OKのサインを出す。


『……よし』


彼女はもう一度屈伸し、前屈後屈と繰り返した後。

両頬をパチンと叩き気合いを入れ、僕に向かって最高のキメ顔でこう言った。


『歌います! 君のために!』


……僕はもう、この時点でやられてしまったわけだ。

何度目かもわからないけど、また魅了されてしまう。

自然に調和する彼女の姿にも、その曲にも。全てに圧倒されながら、僕は思う。


「こちらこそ、ありがとう」と。

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