case5.遡ること、三ヶ月前-1
人はどうして生きるのか?
そしてどうして、自分の死期を、死因を、悟れないのか?
何故自死が、マイナスの話として受け取られてしまうのか?
人間は自由に見えて、自由ではない。
生きるという事は、自由ではない。
自分の死さえも、自由に選べないのだ。
そんなのは嫌だ。
私は、最期まで——いや、最期くらいは、自由でありたい。
これは、この死は、私の最期の抵抗で、自由の象徴だ。
——不自由なとある少女は、その日から、自由になった。
これは、そんな物語だ。
紅に咲き誇る月と〜松の章〜
『自殺探偵』
case5.遡ること、三ヶ月前
ある何もない日の昼下がりの事だった。
その日は梅雨時だと言うのに、珍しく雲すらない晴天の日だった。
「今日は特に依頼もないし平和でいいな」
「俺はつまらんけどな。平和反対」
「何言ってんだよお前は…平和でいいだろ別に」
「刺激が足りねぇんだよ。なんかこう、いい感じに起きねぇかなぁ事件」
と、暇そうに二人が過ごしていた、その時だった。
バンッ!と勢いよく事務所の扉が開いたのだ。
「すみません!自殺探偵さんの探偵事務所って此処ですか?!」
そんな慌ただしい声が事務所内に反響する。
声の主は宇賀時高校の制服を着た、雪のように真っ白な髪を持つ少女だった。
「そ、そうだけど…どうしたの?君は?」
慌てて神在が立ち上がり、中に入るように促す。が、少女はふるふると首を横に振る。
そして、
「わ、私の事はいいんです!!多分友達だと思う子が自殺したらしいんです!!」
大きな声で、少女は用件を叫んだ。
その言葉に大庭と神在は顔を見合わせる。
「え、ええと…うん?」
「不確定要素が多いな…場所は?」
「おい大庭…受けるのかよ、依頼」
「そりゃあな。ところでその子は生きてるのか?自殺を測った日は?名前は?」
「えっ?!ええと…」
大庭の矢継ぎ早な問いに答えるべく、少女は腕をまじまじと見たかと思うと、次にすぐさまペロリとスカートをめくった。
その挙動に男二人は一瞬固まったが、すぐに神在が顔を真っ赤にしながら叫び散らす。
「ギャーーーーー!!待って健全な!!男性二人を!!前に!!そんな事!!」
この男、童貞である。
「えっ?!な、なにかおかしかったですか?!」
神在の叫び声に動揺し、少女はつまんでいたスカートの裾を離してしまった。
「おかしい所しかないから!人前でスカート捲らないで?!」
「だ、ダメなんですね…メモしておきます」
そう言って少女は油性ペンを取り出し、跪いて脹脛に今聞いた事—「スカートは人前でめくらない」という事を書き始めた。
「えっ、いや、メモるならもうちょい見やすいところの方がいいのでは…?」
「?そうなんですか?」
「え?いや…というかそもそもそれメモる事…?」
「だって『大切な事』なのでしょう?」
「そりゃあね、年頃のおんなの」
神在が「年頃の女の子なんだからしっかり自衛しなきゃ」と言いかけた時、有り得ない光景が目の前で起こった。
——バサッ。
「ほー確かに色々書いてあるな」
大庭が、有無を言わさずスカートをめくったのだ。
しかもおしりの方から。
この男、大胆である。
そんな意味不明な行動に、神在は顔を真っ赤にして瞬時に大庭のもとに行き、
「お・ま・え・は!!!!!バカか!!!!」
スパーンッと頭を思いっきり叩いた。
ちなみに、真城は内股にも書いてたりするので、おしりの方からでも色々書いてあるのが見えるのだ。
「は?なんで叩くんだよ」
「なんでもなにもねぇだろうが!!女子高生だぞ?!!!??相手からやり始めたとはいえ、通報でもされたら一発で終わりだからな???!!!!??」
そうなったら探偵すらできなくなるんだぞ?!と息巻く神在に、少女がハッキリした声量で疑問を投げる。
「通報ってなんですか?」
「そこから?!!??!待って君何をどこまで知ってるの????」
少女の澄んだ瞳が、神在を混乱させる。もう既に大庭へのツッコミで体がヒートアップしてるが為に、声は大きいがその思考はほぼ止まっている。あと多分、漫画風に言えば眼がぐるぐるしてると思う。
そんな神在に、少女は困惑気味にこう答えた。
「何も知りません。私は、私の名前以外、何も分からないんです」
一瞬にして部屋の雰囲気が変わった。
そのハッキリとした声と困った顔を見て、二人(主に神在)は少し冷静になったのだ。つまり神在に思考能力が戻ってきた。
「…記憶喪失って奴か?」
「そう…だと思います。私が何者かすら分かりませんし…『昨日』や『過去』があったかも分からないんです。でも、腕を見たり、日記を読めば、『昨日の私』も『過去の私』も存在しているらしくて」
この子は、『自分』が曖昧で顔も困っているのに、ハッキリとした声量で物を言うのだな、と神在は感じた。
「だけど、それだけじゃ『私』については何も分からないんです。「へー、そんな人がいたんだ」とどこか人ごとで…」
「まあお前の事情は分かったよ。で?お前の名前は?」
「あっそういえば名乗ってませんでしたね!ええと、夜宵真城と言います、よろしくお願いします!」
真城と名乗った少女は、ぺこりと一礼する。
それに釣られて神在も「あ、俺は神在和夫って言います」と言いながら頭を下げた。
そして彼はスッと大庭を見た。
「これは大庭も自己紹介する流れでは?」という意味がこもった視線だった。
それと同時に、真城も彼のことを見た。好奇心でその視線は輝いている。
しかし大庭は2人の視線に気づかず、2人の横を通り事務所のドアへ向かっていった。
「とりあえず死んでいようが生きてようが発見されたら病院に緊急搬送されるはずだ。神在、お前はとりあえず警察に電話。それか消防」
「は、はぁ?!おま、自分でやれよ!!あと自己紹介は?!」
「はぁ?お前が大庭じゃないんなら俺が大庭って事になるだろ。わざわざ言う必要はねぇ。あと俺は病院に居る知り合いに電話」
「……あーもう。わーったよ、やるよ」
ため息を吐きながら、神在はスマホを取り出して警察に電話をし、それを見て大庭も電話をかけた。
その間、真城は何もできずにソワソワしていた。
いくらかの言葉が交わされた後、ピッという電子音とともに、2人の通話は終わった。
「ど、どうでしたか?」
心配そうに、しかし好奇心を隠さずに、真城は2人に問いかけた。
2人の通話が終わるのはほぼ同時だった。
初めに口を開いたのは神在だった。
「今朝方、海辺を歩いていた人が、海岸に少女が打ち上げられていたのを見つけたらしい。今は夕顔病院に運ばれてるって」
「おお、ならこっちとも一致するな。今朝海で見つかった少女、まだ意識は戻ってないが素早い処置のおかげで死んじゃいないようだ。で、今知り合いがその少女の主治医になってるらしいから、丁度良かったな」
そう言って、大庭はすぐに事務所の扉を開いて外に出て行ってしまった。
そんな彼を見て神在は慌てて身支度を始め、真城は大庭を追いかけその白衣を掴んだ。
「ま、待ってください!その人は本当に私の友達ですか?!」
「…名前を教えろって話だろうが、身分証も何も持ってなかったらしい。だから何も分からん」
「あー、警察も病院側の依頼を受けてその人の身元を探してるらしいからなー」
身支度を終えた神在が、後ろから真城の頭を優しく撫でた。
「…そう、なんですか」
真城はしゅん、とあからさまに落ち込んだ。
その様子に「名前を知れたら、自分の何かを思い出すかもしれないと期待していたのか」と大庭はぼんやりとそう思った。
「ほら早く行くぞ。刈眞にちゃんと話を聞かねぇと」
「刈眞?刈眞って、お前の大学時代の?」
「ああそうだ。アイツに会うのは久しぶりだが…多分変わってないだろうな…」
そう言った大庭の顔は相変わらずの無愛想だったが、真城の目には、「なんだか楽しそう」という風に映っていた。
しばらく歩いた後。
市立夕顔病院に、一行は辿り着いた。
市立病院だからかとても大きな病院で、真城は初めて見る建物に「おお…!」と感嘆の声を上げていた。
神在も「いつ見ても立派な建物だなー」と立ち止まり見上げて居たが、そんな2人にお構いなしに、大庭はツカツカと進んでいく。
それに釣られて、2人も慌ててついていった。
「よーっす」
自動ドアがウィンと開くと同時に、大庭から出たのはそんな腑抜けた声だった。
自動ドアの近くには、赤毛の青年が立っていた。
「やあやあむっちん久しぶり!でもここは大学じゃなくて普通の病院だから「よーっす」じゃなくてとりあえずまずは手続きしてねぇ〜!」
「すげぇ早口で聞こえねぇよ。その辺の事は神在に任せるからとりあえず情報を教えろ」
「も〜むっちんはセッカチなんだから〜!」
そう言って赤毛の男はぷくーっと頬を膨らませる。
そしてそのままくるりと踵を返して「此方だよ」と言いたげに廊下を進んでいった。
それに大庭は無言で付いていく。
「「………」」
そして置いていかれる神在と真城。
このやりとり、たった1〜2分の出来事である。
「えっ…と……」
「……アイツ…マジで覚えとけよ…」
困惑する真城と、頭を抱える神在。
そこに受付の看護師さんがやってきた。
「あの、すみません。面会ですか?」
「あ…すみません、さっきの連れです。今から面会ってアリなんです…?」
心の中で大庭にイラつきながらも、ちゃんと手続きを済ませる神在なのであった。
「さっきの赤い人が、かるまさん…なんですか?」
手続きを済ませ、大庭の後を追う神在と真城。
その途中での、質問だった。
「そうだね。吉茂刈眞。大庭の大学時代の友達で、なんか知らんが凄い奴だったらしい」
「へぇ…「らしい」って事は神在さんは吉茂さんと会ったことはないんですね?」
「まあね。学校、違ったから」
そう言って、神在は少しだけ寂しげな瞳をして笑った。
「俺は市内の夕顔大学に進学して、アイツは、大庭は、先輩を追って岳葉市にある医大に行っちゃったんだ」
「…元々は神在さんと同じところに行くつもりだったんですか?」
「いや。進路について気にし始めた頃…つまりは高二くらいの時な。その時から既にアイツは先輩に付いていく気だった。先輩が「医大に行く」と言ったのを聞いて、すぐに「俺もそこに行く」って言った時は目を丸くしたよ。それまでアイツ、進路にも医学にも興味を示さなかったのにさ」
二人の足音が、廊下に響く。
寂しげでどこか怒ってるようにも見えるその言葉に、真城は何かを感じて質問をしようと口を開いた。が、それが何という名前の感情なのかの言語化ができず、結局彼女は何も言えず口を閉じるだけだった。
真城は『嫉妬』という言葉を知らないのだ。
「俺は結局、頭がアイツらほど良くないから市内の普通の文系大学に行ったんだ。そこで俺は文学研究とかまあ色々してたんだが、そんな時に事件は起こった」
「…事件、ですか?」
「そ。アイツが追って行った先輩が——」
神在が次の言葉を言おうとしたその瞬間、近くのドアから人が飛び出してきた。
それは、大庭だった。
彼はすぐさま神在の隣にいた真城の腕を掴んだ。
「おい!夜宵真城だったか?!ちょっと来てくれ!」
「えっ?!で、でもちょっ」
「いいから早く!」
「わ、分かりましたから引っ張らないでください!」
ぐいぐいと病室に真城が引っ張られていく。
それを見て最初神在はポカンとしていたが、すぐに正気を取り戻し後を追う。
「おい大庭!どうしたんだよ急に!あと流石に女の子の腕は引っ張んなよ!!折れたらどーすんだ!」
「んな簡単に折れねぇよ!緊急事態だ、一刻も早く真城を彼女に会わせなきゃなんねぇ!」
「は?!ど、どういう…」
そんな事を言っているうちに、彼らは窓から日の光が差し込む一人部屋を真っ直ぐ駆けて、彼女のベッドへと辿り着いた。
そこには、深く青い瞳に、黄緑と薄紫色に光る不思議な灰色の、長い髪を持つ少女が座っていた。
真城は少女の瞳に何処か虚空のような『何もなさ』を感じた。
光は失われていないように見えるのに、何処か物足りなさを感じるのだ。
それは今朝『自分の姿を映す板』で見た自分の瞳とそっくりで、真城は言葉を失った。
「その子が夜宵真城ちゃん、なんだね?むっちん」
「そうだ。真城、彼女に見覚えはあるか?」
刈眞と大庭にそう言われ、真城はベッドに座る少女を注意深くまじまじと見つめる。
しかし、自分と同じ眼をした——瞳に宿る『何もなさ』以外、何もわからない。
何度見直しても初対面だ。
『昨日』や『過去』には会ったことがあるのかもしれないが、『今日』は初めて会ったのだ。
私はこの人を知らない。
「………」
「どうした、やっぱり何もわからないか?」
「…そう、ですね。私は、彼女を知りません」
「そうか。なら、お前はどうだ?真城を見て何か思い出す事とか無いか?」
大庭は改めて少女に向き直った。
少女は気まずそうな顔をして、静かに顔を横に振った。
「…手がかり無し、か」
ふーっと大庭の口からため息が漏れる。
彼はこれじゃ推理のしようがないと言いたげな顔をする。…つまりは、お手上げ状態というわけだ。
そんな大庭を見て、刈眞が口を開いた。
「んじゃあ、ましろん。君の探す自殺者の少女の名前はなんてゆーの?とりあえず今口に出してみ?」
「え、ええっと…」
真城はそう言われて、記憶の中にある日記に手を伸ばしつつ、腕を捲った。
今朝読んだ日記の内容は寸分違わず思い出せるが、過去の自分の思考までは読み取れない為、腕や足に書かれた事こそが重要であると、そう判断した故の行動だった。つまりは確認だ。
記憶違いは怖いものだ。それが、過去の自分のものであるならば、尚更。『今日』が始まってからここまでの時間を寸分違わず全て思い出せるといっても、『昨日』の自分がそうだったかどうかは分からない。そのための確認なのだ。
しかし腕をくまなく見ても日記と同じ名前は見つからなかった。ので、真城はぺろりとスカートをめくった。神在の言葉を思い出す意識と余裕は、彼女には無かった。
——それは、まことに自然な流れであった。
目の前で真城の言葉を待っていた刈眞は、突然の出来事に笑顔のまま固まり、神在は「ちょっ!!」と童貞らしいうわずった声をあげ、ベッドの上の少女はあからさまに驚いた顔をし、大庭は特に何も思わなかった。
真城は日記の内容と一致した名前を内腿に発見し、内心ホッとした。この子はいつだって真剣なのである。
ぱさり、とスカートから手が離される。
それが合図だと言わんばかりに、固まった3人の時が動き出した。
「え、えーと。思い出せたカンジ…?」
引きつった笑顔でおずおずと、刈眞は真城に声をかけた。
「あ、はい。大丈夫です!」
そんな彼とは裏腹に真城はめちゃくちゃ元気だ。穢れを知らない天使とはこの子を言うのではなかろうか。
だがそんな事より真城は気になることがあった。
「ところで、その子の名前を言ったら何か起こるのですか?」
それは不安からでる問いではなく、純粋な好奇心だった。「今口にしてみてよ」と言った刈眞の瞳の奥に、何かに対する“期待”があったからだ。
そんな好奇心に気づいた刈眞が、くすくすと意地悪に笑う。
「いやいや、それはやってみなきゃ分からない事さ!なんでもかんでもチャレンジする事が大事なんだ、人に簡単に答えを求めちゃいけないよ」
「は??お前がそれを言うか???学生時代めっちゃ俺に課題の答えとか色々聞いてきたお前が???」
ジトっとした目で大庭は刈眞を見つめる。
刈眞は耳を塞いで「あー聞こえなーい聞こえなーい」とわざとらしく騒いで大庭の言葉を遮り、大庭の言葉が止まるとすぐに真城に向き直った。
その笑顔には先程と同じ“期待”に溢れていた。早く言って欲しいのだろう。
その“期待”に応えるべく、真城は口を開いた。
「ええと、では…
私の探している子は、
『水仙納和椛』さんです!」
真城の言葉が、病院の一室に反響し、消えていく。
しんと静まり返る。
誰も何も声を上げず、ベッドの少女は首を傾げたまま。
その様子に、刈眞の期待に満ちていた顔がだんだんと曇っていく。
そんな刈眞を見て大庭は(こいつお約束を信じたな?)と今までに類を見ないくらい呆れた顔をした。
「………ええと」
沈黙に耐えきれず、真城が声を上げた。
「なにか、分かったのでしょうか…?」
「いや、うん…えっと…予想が外れたというか…ね…」
そっぽを向きながら刈眞は汗を滝のように流す。“期待”が外れたのが相当恥ずかしいらしい。
「予想、ですか?」
「あーー、コイツな、『記憶喪失者に名前や所縁のある物を見せたりすると、その時の記憶が蘇る』っていうお約束信じやがったんだよ。実際あるわきゃねぇだろうが、馬鹿か?」
こてんと首を傾げる真城に、そう答えたのは刈眞ではなく大庭だった。恥ずかしがって訳を話さないだろうなコイツと思った大庭の咄嗟の判断であった。
「はーーーーー???馬鹿じゃないしーー??馬鹿って言う方が馬鹿だしーーー??」
煽りに乗ってきた刈眞に大庭は「子供か」と呆れた眼でツッコみ、喧嘩が勃発しそうな空気になる。
「いやいや待て待て!いきなり喧嘩すな!!」
そんな2人を咄嗟に止めたのは、今まで口を挟めなかった神在だ。刈眞の「だあれコイツ、てかいたんだ?」というキョトン顔を横目に、神在は言葉を続ける。
「とりあえず情報の整理をしよう。な?そうすりゃ何か見えてくるかもしれねぇし、つうかお前らが持ってる情報根こそぎこっちに教えろや!!情報共有って大事よ?!?!」
ほぼ怒声の大声が病室内に響く。
刈眞が慌てて口に指を当てて「ここ病院内だから静かにネ!」と小声で言ったが、その時には何事かと看護師さんが駆けてきたので、もう色々と遅かった。
「吉茂医師何事ですか?!」
「あー…うん。なんでもないから持ち場に戻っていーよ、ユリ子ちゃん」
ユリ子と呼ばれたその看護師は「そ、そうなのですか?」と少し困惑した表情をしたが、すぐに笑顔になって「では」とその部屋から出て行った。
その後は、その看護師の話で何故か盛り上がった。
「…結構可愛い子だったな」
「わかるー天使みたいだろー?」
「そうか?俺にはどうもそうとは思えないんだが」
「なんだか不思議な笑顔でしたね!」
艶のある長い茶髪を後ろで束ね、顔は白く整っていて、目は大きく紅く、鼻も高く…と美人の条件をこれでもかと詰め込んだかのような女性だったために、その笑顔は4人の記憶に鮮明に残った。
如月ユリ子。そういう名前だと刈眞がのちに教えてくれた。
神在と刈眞は純粋に『綺麗な人』という印象を抱いたが、大庭と真城は『何か裏がありそうだ』『不思議な雰囲気だ』と感じたために、彼女に対する議論は熱を持った。
…だが、現在議題にすべき事はユリ子と呼ばれた看護師ではないのだ。
「あの…盛り上がってるところ悪いのですが…」
申し訳なさそうに、ベッドの少女が彼らに声をかけた。
全員がハッと我に帰り少女の方に向き直った。
「そ、そうだった…今はユリ子さんの事じゃなくて、この子の事の方が重要だった…」
「んだよ神在。お前忘れてたのかよ、酷いやつだな」
「は???お前も一緒にユリ子さんの事について語ってただろうが!!」
「はーいはい、喧嘩はよしなよ〜。とりあえず情報交換だったっけ?それしようよ」
僕も色々聞きたいことがあるからね、と真城を見ながら刈眞はそう言った。
それに大庭と神在の2人は賛同し、真城は何故刈眞がこちらを見たのか気になって首を傾げた。
少女はただ何も言わず、ベッドの上で4人をその虚空のような瞳で見守っていた。
「こちらの情報はこうだ」
大庭の口から、以下のような情報が伝えられた。
まず、少女は言葉やトイレ・食事などの一般常識以外、何もかも忘れているという事。
大庭が到着してから暫くしてから目が覚めたという事。
身元調査の為に手を尽くしているが、手が足りないらしく、歯形調査や指紋調査の結果は早くても明日までかかるという事。
警察も行方不明届が出ていないか探しているようだが、まだ連絡は無いという事。
この辺は神在もなんとなく察していたため、ほとんど聞き流していた。
だが、次に大庭が語ったのは“自殺探偵”故の見方から出た情報であるために、神在はメモを取り始めた。
「恐らく海に落ちた時間は深夜〜発見よりちょっと前だろう。でないと生きているわけがない」
「そーだねぇ。人間は水の中に2分居たら死ぬもん」
「えっなんでですか?!」
「んー?単純に息ができなくなるからかなー。意識があれば息をしようと嫌でも2分、いや1分も経つ前に浮き上がろうとするけど、無かったら無意識的に水中で息しちゃって肺に水が入って死ぬよ」
真城の好奇心で輝く瞳に応えようと、刈眞はニコニコと心からの笑顔でそう返したが、彼女は青ざめた顔で「ひえっ…」とだけ言って黙ってしまった。
だが、そんな彼女を見ても刈眞は「ましろんってば超好奇心旺盛でめっちゃ楽しいわ〜」と楽しそうである。
そして更に大庭も追い討ちをかける。
「つまりは窒息だ。水面に顔があっても気道に海水が入って、咽せかえったり咳き込んでいる間に、口から耳管へ水が入り三半規管をやられ、上下前後左右不覚になり、水がかえって気管に入り込んで喉が痙攣し、遂には息が詰まって意識を失い水中に沈む。その後は刈眞の言った通り、水中で息をするんだ。そうして人は簡単に海で死ぬ。たとえ泳ぎが上手くてもな」
「ひぇっ…じゃ、じゃあみんな死んじゃうんじゃないんですか?!」
「そうだな。致死率は80%くらいか?だが逆に考えれば生き残れる確率も20%だ。そう聞くとなんだか生き残れそうな気がしねぇか?」
確かにそう言われるとそうかもしれない…そう真城は、ベッドの少女が死んでいない事に納得した。
「あとは飛び込んだ場所だが、海面から10mより上ってーのは確実にねぇ。どっかこの辺に10mジャストかそれより下の崖かなんかあるか?」
「なんで10mなんですか?」
真城の質問に即座に答えたのは刈眞だった。
「ましろんって“時速”って分かる?」
「分からないです!」
「時速50km…って言っても分かんないか。まあ今回は落下運動だし、落ちる速度って事かな。10mより上だと落ちる速度が速くって、海面とぶつかった時「パーン!」って弾けちゃうんだ!ガラスみたいに!まあ10mでも打ち所が悪ければ死ぬと思うけど!!」
またも超ニッコニコの笑顔で子供のように残酷に話す刈眞に、真城はゾッとした。
すぐに「でもまあ75mまでは命が助かるとは言われてるみたいだけど」と付け足したおかげで、彼女は一瞬ホッとしたようだが、『命が助かるだけで大怪我をしないとは言っていない』事に気づいて、彼女は結局ゾッとした。
「流石にガラスみたいにはいかねぇ。そもそも素材形状性質全て別モンだ。比べる対象として適さねぇよ、刈眞」
「えー、そーかなぁ、分かりやすいと思ったんだけどー」
「まあそれはどーでもいい。真城に分かりやすく説明すると、10mってのは、大体三階建ての建物から落ちる事と同義だ。地面へ落ちる場合は大事故になるが、水中に落ちる場合ならまだ安全だ」
その言葉を聞いて、真城は先程の刈眞の言葉に疑問を覚えた。それに応じるように、大庭は続けて説明する。
「だが、刈眞の言ってる「打ち所が悪ければ死ぬ」はガチだ。腹から落ちれば内臓破裂で死ぬし、頭から落ちれば首の骨が折れて死ぬ。だから腕を上げて手から落ちるか、足から落ちるかが飛び込みで死なないための最適解だ」
「…では、彼女は足から落ちたんですか?」
真城の質問に、大庭は首を横に振る。
「あー、それなんだけど。多分落ちたのは背中からだね。大きなアザが背中にあった」
その疑問に答えたのは刈眞だった。大庭は確認するように刈眞に向き直った。
「ふむ、なるほど。それで、脊髄は?」
「奇跡的に無事。上半身を起き上がらせても痛みを訴えないし。いや、確率は極低だけど、もしかしたら記憶喪失の原因に一役買っている可能性もある」
「脊髄じゃ逆行性健忘は起きねぇだろ…」
などと医学トークを繰り広げる二人。
その会話を頭にはてなを浮かべながら聞く真城は、まだ話を聞いているのでいい方なのだが、「なんか今変な事言わなかったか??」と目を細め頬を少しばかり赤らめ首を傾げる童貞神在は、完全に話を聞いていない。話が右耳から左耳へとすり抜けている。メモを取る手も止まっている。メモにはただ一言、『カルマはあのこのはだかをみた』とだけ、ミミズののたくったような字で書かれていた。
「あと他に教えるべき点はあるか?」
大庭のその声に、神在の頭はハッとする。そして慌ててメモをめくるが、刈眞のサラッと言った言葉以降の詳しい話は全くもってメモられていなかった。
神在は会話の内容をなるべく思い出そうと頑張るが、刈眞がベッド上の少女を優しく介抱する妄想(意味深)しか脳裏に浮かんでこなかった。
「あーそうそう、言い忘れてた事があったわ」
「言い忘れてた事?俺にもか?」
「うん、むっちんにも言ってないね。というか、彼女に近づいてもらえれば分かるのだけど…」
現在の位置関係は、少女から見て右側に窓があり、左側に刈眞が立ち、彼の周りを大庭たち三人が囲んでいるような状態だ。
つまりは三人は少女から一歩、二歩くらい遠い。彼らは少女の一部しか見えてないという事になる。
それを失念していた彼らは、彼女の全体が見える位置——つまりは、少女から見て正面——に移動した。
「……おい、刈眞。これはどういう事だ?」
少女の全体を見て初めて、大庭は本気で怪訝な顔を刈眞に向けた。
少女には、右腕が無かったのだ。