杖の音
家を出て五分。
歩道橋まで来たところで、鈴木さんは足を止めて階段をあおぎ見ました。
「ふうー」
ひとつ息を吐きます。
鈴木さんはご老人。子供であれば一気にかけ上がれる階段も、どこまでもどこまでも続いているように思えるのです。
コン、コン。
杖の先で階段をたたきます。
そんなことをしたって、階段はちっとも低くなってくれやしません。けれども鈴木さんは、登る前にいつだってこうやってたたきます。
コン、コン。
杖の音が妻の声に聞こえるのです。
『ほら、ほら、がんばって』
妻に励まされる気がします。
杖は妻が買ってくれたもの。鈴木さん、八十歳の誕生日プレゼントでした。
『年寄りがこけると、そのまま寝たきりになるそうですからね』
そのとき。
――杖なんぞ!
ヨホヨボのじいさんになったようで、鈴木さんは一度は首を横に振りました。すでに十分なご老人であるのにです。
「杖だと思わず、足がひとつ増えたと思ってはいかがすか? 転ばぬ先の杖なんですよ」
妻は笑って言ったものでした。
――心根の優しい女だったな。
妻を恋しく思います。
その妻には、二年前に先立たれてしまいました。ですから今、鈴木さんは独り暮らし、つまり独居老人なのです。
淋しいもんだと思います。
それでも……。
命の続く限り、毎日こうやって一人で生きていくしかありません。それで今日も商店街へと、夕食のおかずを買いに出かけているのでした。
商店街は歩道橋を渡ったすぐ先にあります。かなり昔からあるようで、鈴木さんは結婚して、この町で暮らし始めたときから利用していました。
――さて、さて。
左手で手すりをぐっとつかみ、鈴木さんは一段目に右足を踏み出しました。
段の中ほどに右足を乗せます。続いて同じ段に杖の先をしっかりついて、やはり同じ段に左足を引き上げます。
手すりをつかむ手がブルブルと震えます。
左足が思うように上がりません。
腰も少しふらつきます。
なにせ八十五才のご老体。手すりをつかみながら登るにしても、階段を登るという行為は、元気な人が思う以上に難儀なことなのです。
鈴木さん、次の段を杖でたたきます。
コン、コン。
この音を聞くことが、もうオマジナイのようになっています。
手すりと杖に助けてもらって登ります。
階段を数えながら登ります、
全部で十七段あります。
九段を登ったところに踊り場があり、そこからまた八段あります。
ハァー、ハァー。
息が切れます。
山登りみたいに疲れます。
コン、コン。
階段をたたいて登ります。
右足を段の中央に乗せ、左足を引き上げ、それを繰り返して登ります。
『ほら、ほら、がんばって』
妻の声に励まされて登ります。
一坪ほどの踊り場に立ちました。腰をたたいて伸ばし、ここでいつもひと休みします。
――さて、なにを食うかな?
今晩のおかずのことを考えます。
いつもは渡り終わるまでには決まります。今日も渡り切るまでに決めるつもりでした。
この頃はコロッケばかりです。
コロッケは妻の大好物で、いつも食卓に出るものですから、いつかしら鈴木さんも好んで食べるようになっていました。なので迷ったときは、たいていコロッケに落ち着きます。
――食い飽きたな。
今日はちがうものをと思いました。
――さて、なにを食うかな?
惣菜屋には、いろんなおかずがたくさん並べられています。それだけに決めることにも迷うのです。
カタ、カタ、カタ……。
小学生の男の子が、ランドセルを鳴らしてかけ上がってきました。
男の子は踊り場で立ち止まりました。それから鈴木さんの顔をうかがい見ます。
「これがあるからな」
鈴木さんはうなずいて、手にある杖を自慢げに見せました。
男の子がにっこりします。
タッ、タッ、タッ……。
元気な足音とともに、男の子は一気に階段をかけ登っていきました。
これまでも……。
こうしたことは一度や二度ではありません。踊り場にぼんやり立つ鈴木さんを見て、あの男の子も手を貸そうとしてくれたのです。
――やれ、やれ。
今日も鈴木さんは、自分がヨボヨボのじいさんであることを思い知らされました。
鈴木さんには子供がいません。
欲しかったのですが恵まれませんでした。妻も欲しがったのですが授からなかったのです。
鈴木さん、子供がいたらと思うことがあります。
これまでの人生は変わっていただろう。これからの人生もちがうのかもしれない、と……。
でも、子供はいないのです。
ですからその分。
とくに年老いてからは、夫婦二人で手をたずさえ合って生きてきました。
商店街の人ごみの中を歩くときなどは、
「恥ずかしがらないで。ほら、わたしの手を握っていいんですよ」
妻は手を差し伸べてくれ、ヨボヨボじいさんの四本目の足となってくれたものでした。
今は、その妻はいません。
自分一人です。
淋しいなと思います。
残るはあと八段です。
コン、コン。
妻の声を聞きながら登ります。
――アイツが生きとればなあ。
あの世にいる妻を恋しく思います。
妻は八十歳を前にして逝きました。癌であることを告知されてから、わずか三カ月後のことでした。
そのとき。
鈴木さんは思ったものです。
この世とあの世を隔てる塀は、案外と低いものなんだなあ、と……。そして最近は、その塀がますます低くなっているようだ、と……。
コン、コン。
妻の声を聞きながら登ります。
コン、コン。
残りの八段を登り切りました。ついに歩道橋の上までやってきたのです。
そこから商店街のアーケードが見えます。
妻が買い物と言えば、この通いなれた商店街でありました。食材の買い出しはもちろん、日用雑貨などの必需品も買い求めていたのです。
ふと……。
妻の言葉を思い出します。
「楽しいのよ、商店街をブラブラするの」
妻は商店街に行くことを、なによりの楽しみにしていました。
――そういえば、こいつも……。
コン、コン。
杖の先を鳴らします。
手にある杖も商店街で買ったものでした。
カタ、カタ、カタ……。
また一人、小学生が脇を走り抜けます。それからすぐに、向こう側の階段に姿を消しました。
――元気がいいな。
鈴木さんは感心します。
まるで馬力がちがうのです。新幹線と荷馬車といっていいほどのちがいなのです。
――アイツも……。
天国にいる妻のことを思い出します。
妻は根っからの明るい性分で、まさに元気と笑顔がとりえの女だったのです。
鈴木さんは歩道橋を渡り始めました。
――さて、なんにするかな?
夕食のことを考えます。
――さて、さて……。
鈴木さんは迷います。
商店街の惣菜屋には、肉、魚、野菜、それこそいろんなできあいのおかずが売られています。
けれども……。
こうも年を取ると、なんでもというわけにはいきません。食べる物が限られるのです。
入れ歯なので固いものはダメ。ゴマなんかが混じっていれば、歯茎を刺してチクチクと痛い。それに油っこいものもダメで、胃袋が素直に受けつけてくれません。
なら自分で料理をと思うのですが、最近はそれもつらくなってきました。長いこと台所に立っていると、だんだん足がふらついてくるのでした。
料理には火を使います。
今年の初め、危うくガスの火が、パジャマの袖に燃え移りそうになりました。鈴木さんのようなご老人にとっては、料理の火はなにかと危ないのです。
それからの鈴木さん。
今日のようになるべく、できあいの惣菜ですませるようにしてきました。
――なにがいいかな?
迷っていますうち、降りる側の階段が目の前になりました。
ここで鈴木さん、またひとつ大きく息を吐きます。
階段は十七段。
その見おろす先が深い谷底のように思えます。
目がくらむようなのです。
歩道橋を降りるのは、登ることよりずっと難儀なのです。足を踏みはずしたりして、転落する危険性が高いのです。
杖で階段をたたきます。
コン、コン。
妻の励ましの声が聞こえます。
『だいじょうぶ、だいじょうぶ』
鈴木さんは左手で手すりを強くつかみ、ゆっくり慎重に一歩目を空間に踏み出しました。
右足が段に着く感触があります。
続いて杖を同じ段につきます。それから左足を、やはり同じ段におろしました。
鈴木さん、無事に一段目をクリアーしました。
中間点の踊り場まであと七段です。
あとは同じことを繰り返すだけです。
一段、また一段と、鈴木さんは慎重に階段を踏み出していきました。
ところがです。
踊り場に右足を着いたとたん、この日はふらふらとよろけてしまいました。
左足が体についてきません。右手にある杖も、バランスを失った体を立て直してはくれません。
鈴木さんは踊り場の床に手をついて、そのまま横たわるように転がってしまいました。
カラカラカラ……。
杖もいっしょに転がります。
薄れてゆく意識の片隅で、
――あっけないもんだ。あの世との境の塀は、やっぱり低いんだなあ。
鈴木さんはそんなことを考えていました。
――あっちに行くのもいいな。
そうも考えます。
あの世には妻がいるのです。よく来たね、そう言ってくれるはずです。
――すまんな、せっかくもらったのに。
妻がプレゼントしてくれた杖も、今回ばかりは役に立ちませんでした。
と、そのとき。
妻の姿がぼんやり見えました。
自分のいる所は、すでに妻のいるあの世なのかもしれません。
――オレも来たぞ!
鈴木さんは声をかけました。
ですが、妻は知らんぷりです。それどころか、妻の姿は徐々に薄らいでゆきます。そして、ついには光の中に消えてしまいました。
――うん?
なぜか踊り場に横たわっています。
――そうか、こけたんだったな。
鈴木さんは正気を取りもどしました。
体を起こして座ります。
「ふむ」
手の平が少し痛みます。けれども、それ以外はたいして痛くありません。
鈴木さんは杖を拾うと、手すりにつかまりながら立ち上がりました。杖を手すりに立てかけ、何度か深呼吸をします。
――さっきは、もうちょっとで会えたのに。
妻の顔が思い浮かびます。
――死ねば会えるのになあ。
あの世に行けば妻に会えます。もう一度、妻といっしょに暮らせるのです。
ですが同時に、
『年寄りがこけると、そのまま寝たきりになるそうですからね』
妻の言葉も思い出しました。
そうなのです。
こけたからといって、コロッと逝くとは限りません。寝込むことになるのは御免です。
鈴木さんは思い直したように、立てかけてあった杖に手を伸ばしました。
カラカラカラ……。
杖が音を立て転がりました。
鈴木さんはまだ手に触れていません。
風も吹いていません。
なぜだか、杖は倒れて転がったのです。
――もしや?
鈴木さんは思いました。
カラカラカラ……。
そう、杖の音は妻の声なのです。
『ほら、ほら、がんばってくださいな』
妻に励まされたのです。
鈴木さんは杖を拾いました。
コン、コン。
杖の先を鳴らしてみます。
『楽しいのよ、商店街をブラブラするの』
妻の笑顔が思い出されます。
――やっぱりコロッケにしよう。
今晩のおかずは、妻の大好物だったコロッケにすることにしました。
あと九段。
コン、コン。
杖の音がします。
コン、コン。
妻の声がします。
鈴木さんは妻の手――杖をしっかり握って、商店街に向かって一歩を踏み出しました。