序章 破藤豊作
夜の繁華街。
飲み屋が集中して建つ場所の歩道で、、スーツを身につけた金髪の若者が、うずくまる浮浪者を痛めつけていた。
「おい、どうしてくれんだよ?コラ、おれの、高っけえ高っけえスーツがよ、てめえが落とした安っぽいケーキのクリームでよ!コラ、汚れちまったじゃねえかよお!」
若者はひどく酔っぱらっていた。今日、女にこっぴどくふられたせいで、いらついているのだ。
靴のつま先で、うずくまる浮浪者の腹を、何度も蹴りつけていた。
「すみません、すみません 、すみません」
浮浪者は大声であやまりつづけていた。
五十歳くらいの、太った男だ。髪はぼさぼさで頭頂部がはげている。肌が黒い。色あせ、茶ばんだジャンパーとズボンを身につけている。
そのすぐ側で、同じく汚らしい服装をした、六歳くらいの少女が、男が蹴られる様子をだまって見つめていた。どうやら、男の娘のようだ。
少女の足元には、ケーキの箱が落ちていた。つぶれていた。若者に踏みつけられたのだ。中からクリーム、イチゴ、ロウソクなどが、ぐちゃぐちゃにはみだしていた。その中に、『ハッピーバースデー』と記されたチョコがまじっていた。男が、娘のために買ったケーキだ。それをあやまって若者にぶつけてしまい、因縁をつけられ、暴力をふるわれているのだ。
「あああああああっ!むかつくなあ!ちくしょう!」
若者は拳くらい大きさの石を拾うと、それを思いきり男の顔面に叩き付けた。
「あぎっ」
と悲鳴をあげて、男は顔をおさえた。その手の隙間から、鼻血がどくどくと流れだす。
それを見て、若者は少しすっきりとした。
「ったくよう、乞食が。汚ねえ娘連れて、街うろついてんじゃねえよ」
そう言い捨て、両手をポケットにつっこみ、立ち去ろうとした。
そのときだ。
「あんた、いま何て言った?」
野太い声がした。
若者はつんのめった。足をつかまれたのだ。
見下ろすと、浮浪者の男が、若者の足首をつかんでいた。男はくりかえした。
「あんた、いま何て言った?」
「なんだてめっ……っ!?」
と言いかけたとき、強烈な痛みを感じて、若者は絶句した。ぐちっと音がした。
「う、あ、あ、あ、あああああああ……」
足を見て、若者は弱々しい悲鳴をあげた。
足首が、潰れていた。
男が握り潰したのだ。血と、筋肉と、骨がとびだしている。
男は立ち上がった。
巨漢だった。二メートル以上は間違いなくある。
うずくまっている時は気付かなかった。
若者は尻餅をついた。
それを見下げながら、男は言った。
「兄ちゃんよ。おれはな、ひとつのルールを持ってるんだ」
若者は呆然としていて、何も言えなかった。
「おれはな、くだらねえ喧嘩を売られても、絶対に買わないことに決めてんだ。いくら男らしくなくても、格好悪いと思われても、絶対あやまるか逃げることにしている。ただな……」男は目を細めた。「家族を、娘を侮辱されたときだけは、殺すことにしてるんだ」
男は大きな掌を、若者の頭にそえた。そして、指に力をこめた。
べちゃっと、若者の頭は潰れた。トマトのように、あっさりと潰れた。
頭を失った若者の体は仰向けに倒れた。
男は手についた血をなめると、少女を見て、泣きそうな顔になった。
「ごめん……、ごめんなあ、ミチ。お父ちゃん、またやっちまったよ。せっかくのミチの誕生日なのに。ごめんなあ。ごめんなあ」
ミチと呼ばれた少女は、巨体を縮こまらせる父親を見上げて、にっこりと笑った。
「大丈夫だよ。お父ちゃんは正しいことをしてるんだから。ミチ、そんなお父ちゃんが大好きだよ。だから元気出して。ね?」
「ミチ……」
男はミチを抱きしめ、大声で泣き出した。ミチは男の頭をやさしくなでた。
そのとき、女の声がした。
「破藤豊作さん」
男とミチは、声にふりかえった。
そこには、八乙女タツミが立っていた。
タツミは二人の前に歩み寄った。
「破藤豊作さん、ですね」
「あんた、誰だね?」
その男、豊作は、ミチを背中に隠しながら聞いた。
タツミな丁寧に頭をさげた。
「初めまして。私、八乙女研究所所長の八乙女タツミと申します」
「……。よくは知らんが、この状況を目の前にして、その落ち着きぶり。あんた、まともな人間じゃあないね。おれと同じ側のモンかい?」
さっき殺した若者の死体を足でつつきながら、豊作は言った。
「ご想像にお任せします」
「ふん、で、おれに何の用だい?」
「仕事を、頼みたいのです。暗殺専業会社破藤グループ元社長、破藤豊作さん」
豊作は、はげた頭をぼりぼりとかいた。大量のフケが宙に舞った。
「おれはもう引退している」
「存じております。しかし、この仕事には、あなたにしか務まらないのです」
「お父さん。駄目だよ」
ミチが声をあげた。
「ミチ……」
「この女のひと。すごく良くない感じがする。お父さん、その仕事、受けちゃだめっ」
ミチは豊作のズボンの裾を強くつかんだ。豊作は、そんなミチの頭にそっと手をのせ、やさしく笑った。
「そうだな。ミチの勘はよく当たるからな。姉ちゃんよ。そういうことだ。悪いけど、他を当たってくれや」
「それなりの報酬は用意してます」
「こう見えてもな。金には困ってないんだ。現役の頃に稼いだ金をあちこちに隠しててな。贅沢しなけりゃあ、一生食っていけるくらいの額はある」
「報酬はお金ではありません」タツミは眼鏡を直した。「豊作さん。あなた、いま追われてますよね?」
豊作の口から笑みが消えた。
「何のことだい?」
「あなたは、五年前、殺しの仕事でタブーを犯した。ある殺しの標的であった、ひとりの赤ん坊を救い、破藤グループの信頼を落としてしまった。破藤グループは、タブーを犯したあなたを処刑するため、多くの追手をさしむけた。あなたは追手から逃げるため、いまこうして浮浪者のふりをしてひっそりと暮らしている。そして、その助けた赤ん坊が、その女の子ですね」
「こいつは驚いたな」豊作は笑った。「八乙女研究所といったっけか?どういう組織かは知らんが、諜報の面で素晴らしい働きをしている」
「ありがとうございます」
「それで、そんなおれの状況を踏まえたうえでの、あんたの言う報酬というのは、一体どんなものなのかね?」
「破藤グループを潰してさしあげます」
豊作は、また笑うのをやめた。目つきが鋭くなった。
「簡単に言ってくれるじゃねえか。あんた、うちの会社をなめてんのかい?」豊作はタツミをにらんだ。「破藤グループは、おれが直々に鍛えあげた、骨のある男達だけで構成された組織だ。そう易々と潰せると思うな」
「そうでしょうね。でも、所詮、平和な日本の小さな暗殺組織です」タツミはにらみかえす。「八乙女研究所は、過去、ジュオームの実験データを守るために、世界中の軍事組織と戦ってきたのです。こちらこそなめてもらっては困ります」
「ほう?」
豊作は巨顔を近付けた。
タツミはまったく怯まずに、静かに豊作の視線を受け止めた。
そのまましばらくの間、二人は黙ってにらみあった。
豊作は汚い歯を見せて笑った。
「ちょいと、あんたに興味がわいてきた。いいぜ。引き受けよう」
「お父さん!」
ミチが大声をあげた。
「大丈夫だよ、ミチ。もし、この女がおれをはめようとしていると分かったら、すぐにぶち殺す。お父さんが怒ったらすごいことは、ミチもよく知ってるだろう?」
ミチは反論の言葉を吐こうとして口を開きかけたが、豊作の輝く目を見て、すぐにあきらめた。
こうなった父はもう止められない。
「ありがとうございます」
「しかし、破藤グループを潰すって報酬は無しだ。あれはおれのモンだ。潰す時はおれが自分で潰す」
「……では、報酬はどうしましょうか?……お金、ですか?」
「金には困ってねえって言ったろ。んー、そうだな……。そうだ。ミチに綺麗な服でも買ってやってくれ。誕生日だしな。おれは男だからよ。女の子の喜ぶものってのがよくわかんねえんだ。あんた女だから、そういうのくわしいだろ?」
「……それだけ、ですか?」
タツミは目を丸くした。
「おう」
「もう、わかってると思いますが、命がけの仕事ですよ。その報酬が、娘さんの服、ですか?」
「仕方ねえだろ。他に欲しいものがねえんだから」
「…………」
タツミは迷っていた。
彼女はラザガのパイロットを選ぶ際、三つの条件を課していた。
一つは強靭な肉体と精神を持っていること。
二つめは狂っていること。つまり常識に縛られない価値観を持っていること。
三つめは、死んでも誰も悲しまない人間であること。
ラザガに乗って、戦えば、死ぬ。
まず間違いなく死ぬ。
あの兵器は、まともな人間には乗りこなせない。
九島策郎と、牙倉雄介は、この三つの条件を満たしていた。どちらも、最凶最悪の殺人犯だ。
しかし、この破藤豊作という男はどうなのか?
確かにこの男も、いかれた殺人犯だが、娘を愛する心がある。娘も豊作を愛している。
そのような人間をラザガの戦いという地獄に突き落とすことに、タツミはわずかなためらいを覚えたのだ。
タツミは豊作にたずねた。
「ひとつ聞いてもいいですか?」
「なんだい?」
「ミチちゃん、でしたっけ?過去、依頼があれば、女子供でも、病人でも殺害してきたあなたが、なぜ依頼に背いてまで、この少女を救ったのですか?」
答えによっては、豊作をパイロット候補から外さなければならない。
しかし、豊作の答えはタツミの予想を越えていた。
「性欲だよ」
「は?」
タツミは一瞬、その言葉を理解できなかった。
「まだ赤ん坊だったミチを初めて見たとき、思ったんだ。こいつは大人になったら、いい女になりそうだってな。そんで、大人になったミチとやりてえ、と思った。だから赤ん坊の両親を殺して、ミチをおれのものにした」
タツミは何も言えなかった。豊作はにやつきながら続けた。
「依頼に背いて、破藤グループに追われることになっちまったが、まあ、ムラムラしちまったんだからしょうがねえよ。そういうわけで、おれはミチを大事に育てることにした。そしてあと二十年くらいたったら、ミチとやりまくるんだ。なあ?ミチ?」
ミチは豊作の足にしがみついたまま笑って言った。
「うん!わたし、大きくなったら、すごくきれいな女のひとになるの!それでお父さんに抱かれるの!」
無邪気な笑みだった。幸せそうな笑みだった。自分が話していることの異様さを知らない。そういうふうに育てられたのだ。
「不細工に育ったらすぐに殺すつもりなんだけどな。いまんところ可愛らしく育ってくれている将来が楽しみだ」
豊作はいやらしく笑った。
タツミはしばらく呆然としていたが、やがて、声を殺して笑い始めた。
よかった。これで破藤豊作にも、三つめの条件が満たされた。
吐気をこらえながら、タツミは豊作に事務的に話しかけた。
「では、お二人を八乙女研究所へ案内します。ついてきてください」
豊作とミチに背を向け、歩きだすと、タツミは嫌悪の表情を露にした。豊作の考えは、女として許せなかった。
胸の中で、タツミは最後のあの言葉をつぶやく。
三人目、地獄へようこそ。